2015年夏 福井見聞録 Part4 朝の福井鉄道市内線

7月29日 第2日目 その1

DSCN0493_100▲ 6:09 ようやく夜が明けました。宿泊している東横インの部屋から見た福井駅前広場です。朝食前に朝の散歩がてらに福井鉄道市内線の撮影に向かう事にしました。
今日は、朝食後はえちぜん鉄道の福井~福井口の撮影、お昼には福井鉄道に乗車して福井を離れ越前武生へ、ここからは北陸線に乗換えて長浜を目指します。長浜では現存する日本最古の長浜旧駅舎(長浜鉄道スクエア)を見学しての帰途としました。
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2015年夏 福井見聞録 Part3 えちぜん鉄道と福井鉄道乗り入れの田原町駅を見る

7月28日 第1日目 その3

01_田原町駅完成パース16:45 福井口から田原町に向かいます。撮るチャンスを逃しましたが車庫内には確かに黄色の低床式トラム(フクラム)が入庫していました。いつから走行するのでしょうか。ML521形(521号・522号)も除雪設備を付けたまま留置されていました。上は田原町駅完成予想図です。(※福井市公式HPより転載)

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撮影地今昔-関西本線・加太

お盆休みの2015年8月14日、昨年に続き青春18切符で、半世紀前の撮影地のひとつ、関西本線加太を訪ねました。旧湊町・現JR難波駅から大和路快速電車で出発。加茂まで54.2kmを53分。現代はこの距離でこの時分なら当たり前か、むしろ遅い感じがしても当然でしょう。でも昭和40~45年代の関西線に比べると相当速く感じます。

当時、筆者の勤務先工場は大阪布施と大和小泉にありました。技術部所属の筆者は奈良工場へ再三出かけ、近鉄布施-鶴橋-天王寺へ。天王寺からは準急・かすが、王寺でキハ35に乗り替え二つ目、法隆寺の隣駅大和小泉へ。小泉からは社バスかなければタクシー。軽く半日は掛かりました。

8月14日は、加茂から二両編成のDC、キハ120。このワンマンDCは運転席横の窓から見通しが良い。播但線、加古川線、山陰線のワンマンDCは運転席と料金箱がやたらと最前部を独り占めしてファンに非開放的です。で加茂から1時間、難波から2時間30分で加太に到着しました。
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2015年夏 福井見聞録 Part2 えちぜん鉄道は新幹線高架軌道を走る 

7月28日 第1日目 その2
DSCN0360104DSCN0361_100▲ 16:23 えちぜん鉄道の福井駅です。えちぜん鉄道は福井市内から勝山・永平寺と、あわら温泉・三国港を結びます。芦原温泉は1884年(明治17年)6月に開湯されて、今年は130周年になりました。向かう電車は全車共ヘッドマークをつけての走行です。

発車前に運転手に福井鉄道と相互乗り入れに伴う低床車はいつ頃入るのかとお聞きしますと、「既に車庫に来ている。試運転は知らないがその内に走行するだろう。」との返事です。そして「ここより福井口までの区間は、9月末には新幹線の高架上に設置された軌道を走る事が決まった。福井口~田原町には新駅も出来る。」と申されます。
勉強不足でした。田原町駅のリニューアルばかりに気を取られていましたが、えちぜん鉄道の福井~福井口は北陸新幹線延伸時には同じく高架軌道となるのです。海外ばかりに目も足も向いていたので国内の事は全く音痴でした。
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2015年夏 福井見聞録 Part1 再開発整備が進む福井駅前広場

DSC_0610_100この夏は近場の乗り鉄を楽しもうと青春18きっぷを買いました。丹後、舞鶴の次にノミネートしたのは福井です。様々な車両が走り、道路併用軌道がある福井鉄道は大のお気に入りです。もう1つのえちぜん鉄道には親切なアテンダントさんが乗り込んで、切符販売・車内改札のみならず、お年寄には丁重なご挨拶や看護、初めての乗客には観光案内等のコミュニケーションを持ってくださいますので、乗車していて楽しくなる鉄道です。ただ2つの鉄道を乗り鉄するには年金生活者には嬉しい共通1日フリーきっぷ(1,200円)がお得で便利なのですが、土・日・祝のみの発売で今日は利用できません。平日も設定して欲しいところです。出来れば高くになっても24時間切符が望ましいところです。
今回は久しぶりに越美北線の夏に気に入る撮影ポイントはないかとロケハンを中心に、後は福井鉄道・えちぜん鉄道が乗り入れる田原町駅の様子を見る事にしました。
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第2弾 ブラソロリ乙訓 おとぎ電車ツアー

 「ブラタモリ」に対抗するのか、それとも“まねしん” したのか第2弾「ブラソロリ乙訓」。それはどんな事をしていたのだろうか。ところで“まねしん”とは大阪ことば辞典を参考にして解説するとこんなことだろうか。

webおとぎ電車のカット(青信号26号)

青信号26号「おとぎ電車の話」のガリ版刷りカット 筆耕はK氏か

漢字で書くと“真似衆”とかく“まねし”という言葉(よく真似をする人の意味)に格助詞の“の”が変化して“ん”になったものを付けた言葉ではと思う。そうすると冒頭の文章は“ブラタモリに対抗するのか、それとも真似をしたのか第2弾「ブラソロリ乙訓」”というところか。子どものころ、よく“まねしんや~、まねしんや~”と囃し立てていたのを思い出す。今はこの言葉が使われているかどうか知らないが。しかも、我々のやっていることであるので仕事でなく勝手気ままにやっているし、なんせ足回りが次第に老朽化している為に狂言師のすり足のようにソロリソロリと参るしかない。それにブラタモリのように高級な内容ではない。その辺がちょっと違うのである。第1弾は酷暑のなか「京津電車道を歩く」であったが、今回は「おとぎ電車ツアー」である。

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 窓から写した駅・列車 -13-

道東-釧網本線・根室本線の窓から

窓から・北海道 (6)釧網本線川湯駅で交換する釧路発網走行き626レ、C58197〔釧〕+オハ6243+オハ6244+スユニ60301+貨車。列車以外にもいろいろな要素が写り込んでいる。まず駅舎は、昭和5年の駅開業のあと、同11年に完成したと言う。正面に白樺を使った三角形のファサードを持つログハウス風だ。近くに広大な御料地もあり、貴賓室も設けられた。いまは駅名が川湯温泉と改称されたが駅舎は健在で、数年前に訪れた時は、事務所はレストランとなり、足湯もあった。右手に見える山は、標高512mの硫黄山、駅から約3キロに位置して、硫黄の匂いが流れて来ることもある。現在も噴気活動をしている活火山が駅のこんな近くにあるのも驚きだ。そして右手にチラリと見えるのはスヤ393〔釧クシ〕、工事車のスヤ39は、マハネ29などの3軸ボギー客車を種車として、1~5、11、21、31の8両あり、この時代は5両が健在だった。宿泊可能な工事車で、工事があると、さまざまな駅に留め置かれていた(昭和43年9月)。

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 窓から写した駅・列車 -12-

北海道の旅から

しばらく休んでいた「窓から」シリーズ、再び続けます。座ったままで一歩も歩かず写した超安易な撮影ですが、車両だけでなく、何気ない周囲の光景が、雄弁に時代を語っています。夏にちなんで、涼しい北海道での一幕を。
窓から・北海道 (2)いま北海道の鉄道情報のひとつは、留萌線の廃止だろう。さらに苦しい状況に陥ったJR北海道が、留萌本線留萌~増毛間の鉄道事業廃止を発表した。同区間は大正10年に開業し、これにより留萌本線深川~増毛間が全通した。当時は留萌港からの石炭、木材、海産物の積み出しが盛んで、それらの物資の輸送で栄えたという。だが、石炭産業の衰退、沿線過疎化により鉄道需要が落ち込み、貨物輸送、急行列車も廃止となった。今回の留萌~増毛間はとくに利用が少ないと言う。さて、この写真は留萌線秩父別駅、今回は廃止を免れた深川-留萌にあり、列車は幌延発札幌行き急行「はぼろ」、キハ2716先頭の4連、当時、運転体系は深川-留萌-幌延と、留萌線、羽幌線が一体となっていた。時刻表も同様で、廃止される留萌~増毛は盲腸線扱いだった。まだ石狩沼田からは札沼線が、恵比島からは留萌鉄道が出ていた時代だ。「留萌」は、線名・駅名の表記は「留萠」だったが、平成9年から市名などに合わせて「留萌」に変更している(昭和43年9月)。

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港鐵城際直通車

香港から広州へ向かうZ804次

香港から広州へ向かうZ804次

8月5日、15年ぶりに香港-広州を結ぶ港鐵城際直通車に乗りました。前回は、当時中国最速の最高運転速度200キロの新時速にこの区間で乗りました。香港内ではノロノロ運転だったのが、深センを過ぎると新幹線に迫る高速運転になった記憶があります。
今や中国には、日本を凌駕する高速鉄道網があり、和諧号が深セン-広州102キロを52分で頻繁に運行されていますが、新幹線ならいつでも乗れると思いましたので、中国伝統の客車列車で香港から広州をめざします。 続きを読む

 50年前の撮影地を歩く -7-

丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (2)
「丹那トンネル」の名の響きは、それだけで少年時代に引き戻してくれる気がする。少年時代、鉄道図鑑でいつも見ていた鉄道トンネルの長さは、1位清水トンネル、2位丹那トンネルだった。そして、必ず添えられるのが、多くの犠牲者を出した丹那トンネルの難工事だった。「長さ7804m、大正7年に着工したものの、軟弱な地質や、大量の湧水によって工事は難航、67名の犠牲者も出して、昭和9年にようやく完成した」と書かれている。時代が過ぎると、まず北陸トンネルが開通して順位をひとつ下げ、そして新幹線が開業するや、次つぎ長大トンネルが開通して、順位を落とし、今ではいったい何位なのか分からないほどに陥落してしまった。そんな丹那トンネルの変転を感じながら、いつも熱海を通るたびに気になっていた場所へ50年ぶりに訪れた。丹那 トンネル (2)丹那 トンネル (1)50年前は、翌日も早起きして、丹那トンネルの真ん前で写した。丹那トンネルを出る宇野発東京行き急行「さぬき」、坑門の上部、扁額の両側には、2578、2594と数字が書かれている。これは、着工年と開通年を皇紀で示したもの。扁額とは別に、「丹那隧道」と書かれた木製の表示も、当時は掲げられていた。 続きを読む

50年前の撮影地を歩く -6-

今でも時折、東海道線を在来線で上下する身にとって、心ときめかせる車窓風景も多くあります。富士山はその代表ですが、晴れた冠雪のシーズンに限られ、何時でも見られるとは限りません。その点、長い丹那トンネルを抜けた瞬間、熱海の街がパッと眼下に広がる瞬間は、何にも代え難い、心をときめかせる車窓風景に映ります。とくに西から長い時間を掛けて来ると、箱根の山も越え、いよいよ東国に入ってきた思いが募り、見える景色も車内で交わされる言葉も違って、ちょっとした緊張感と、あと2時間足らずで上がりとなる安堵感にも包まれる瞬間です。
丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (1)
そんな、熱海へ50年前の昭和40年8月、家族旅行で行ったことがある。宿泊先が丹那トンネルに入る直前、伊東線来宮駅の左手の高台にあった円形のホテル、西熱海ホテルだった。元祖、トレインビューホテルのようなところで、部屋のベランダからは、前年に開業した新幹線を始め、東海道線、伊東線が収められた。ホテルは2006年に廃業し、その後も残骸が列車の窓から見えていたが、いまは建て替えられて、東急のリゾートマンション、ヴィラ熱海青翠になっている。
丹那トンネル (8)暮れるまでの間、さっそくカメラを携えて、線路端へ向かった。真下が来宮駅の構内で、まだ伊東線全線が単線の時代、列車の交換が見られた。構内の通行は線形の関係で、右側通行になっているのが特徴で、右は伊豆急下田発東京行き準急「おくいず」、まだ準急が幅を利かせている時代だった。左は熱海発伊豆急下田行き629M、伊豆急156号ほか7連。

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50年前の撮影地を歩く -5-余話

50年前の山科大築堤に対して、西村さんから「貨物列車も」とのリクエストをいただきました。なるほど、載せた写真は旅客列車ばかりで貨物列車は一枚もありません。ところが、撮影に行っても旅客列車だけで腹いっぱいになり、貨物列車はほとんど撮っていません。いまでこそ、貨物列車はすごい人気ですが、当時はほとんど顧られなかったような気がします。わずかな写真のなかから、50年前の貨物列車を偲んでみました。
山科50年前3この年に新形式のEF65が吹田第二機関区からデビューしている。EF60の三次車をベースに、歯車比の変更、新設計の制御器を積み、高速走行と牽引力の向上をはかった。その後、ブルトレ牽引のP型などの派生番台を生み、合計308両と言う電機の最大両数となるのだが、デビュー当時は、それまでのEF60と変わらない外観に、それほどの話題に上がらなかった。

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50年前の撮影地を歩く -5-

暑い毎日が続いています。私自身は、いままで関わってきた発表・イベントも一段落し、本ホームページへの投稿には絶好の機会となりましたが、構想だけはアタマを駆け巡るものの、この暑さではキーボードを打つ手が前へ進みません。でも、ここで一念発起、溜まった夏休みの宿題を一夜で片付けるべく投稿を続けます。

東海道新幹線開業後の山科大築堤
前回の「50年前-4-」では、東海道新幹線開業の前日、山科大築堤の様子をお伝えしたが、今回はその一年後、山科大築堤で定番の撮影ポイントに陣取った東海道新幹線開業後の記録を(いずれも昭和40年8月1日撮影、撮影順)。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業し、在来線も大きな節目を迎える。しかし、東京-大阪の電車特急こそ全廃されたものの、電車急行は多くが存置された。九州を結ぶ寝台特急・急行にも変動はなく、現在のような、新幹線開業によるドラスティックな変更は見られなかった。この時期、臨時列車も数多く運転されていて、まだ東海道線には、長距離列車が華やかに走っていた。        50年前9朝の光線を受けて山科を行く、東京発大阪行き急行「明星」、東京-大阪間の夜行急行(客車・電車)は、ほかにも「銀河」「金星」「月光」「いこま」があり、九州方面への夜行急行も加えると、10本が運転されて、夜行列車の全盛時代が続いていた。

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JAPAN RAIL PASS 東舞鶴へ乗り鉄旅の出来事

7月26日、昨夜の綾部の花火大会に魅せられました。今日は舞鶴の”みなと舞鶴 ちゃったまつり”でも花火大会が開催されますので行く事にしました。約5,000発の花火が舞鶴湾に上がります。

そして、その帰路に東舞鶴から乗車した最終列車で、娘さんとご両親の3人連れと席が一緒になりました。何か落ち着かれない様子でしたので「何かお困りですか」とお聞きしますと、「これから大阪まで帰るのですが、この列車で大丈夫ですか?」です。
そして、首からかけられたビニールケースには、何と「JAPAN RAIL PASS」を入れておられました。日本語が流暢なので日本人と思った3人連れは遥かブラジルから来られていた日系2世のご両親と、3世の娘さんでした。
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生まれ変わった京都丹後鉄道に乗る、見る

昨年5月にクローバー会ツアーを実施しました北近畿タンゴ鉄道は、KTRからWILLER TRAINSへと運行事業が引き継がれて、今年4月1日に「京都丹後鉄道」と改称されました。約4ヶ月が経過してそろそろ落ち着いたと思われますので、どう変わってきたのか見に行くことにしました。

当初はぶんしゅう7号に乗って、7月18日に全線開業したばかりの京都縦貫道を走ろうかと考えていましたが祇園祭が終わってからは連日35℃が続きます。京都の猛暑に車の運転は老体には過酷に思えてきました。現地での車中泊で朝の列車も撮りたいが雑草が生い茂る沿線状況はよく分かっているので撮影希望地のロケハンが必要です。青春18きっぷも発売されましたのでロケハンをしてからの撮り鉄旅にしようと、まずは鉄道に切り替えて丹後を目指しました。
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大連弾丸紀行 その4

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中山広場より望む大連賓館(旧満鉄経営ヤマトホテル)

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大連弾丸紀行 その2

大連駅を後に、やっと来た旧型車に乗り東へ向かい、「世紀街」で降車し、旧満鉄本社、中山広場等を巡りました。 IMGP3692 (2)

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大連弾丸紀行 その1

大連の旧満州国時代の街並みや旧型の市内電車にはかねてより興味があったものの、訪問は困難と諦めておりましたところ、先般、機会を得て2泊3日という行程ながら行ってまいりました。

今回の訪問に際しては、ぶんしゅう様より事前に懇切なご指南を賜り、おかげさまで短い時間内での見学を有効に行うことができました。どうもありがとうございました。遅くなりましたが、見聞録を投稿いたしますのでご笑覧ください。

市内観光の前にまずは、大連駅へ。かつての「あじあ号」の始発駅で、駅舎は上野駅をモデルとしたと言われています。IMGP3636

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絶景の台湾鉄路 2015年夏の旅 Part12 帰国

DSCN9868009▲ 帰路のJAL便も快適な180度の寝心地が楽しめるビジネスクラスのシェルシートが待っていました。これなら長時間フライトの欧州線でも快適です。1度は乗ってみなければと思いました。大津の86さんもすぐ後ろの同じシートです。
短い旅でしたが、いい気分で旅が締めくくれました。お世話になりました団長のクモハ73106東ウラさん、不銹鋼號さん、大津の86さんありがとうございました。
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絶景の台湾鉄路 2015年夏の旅 Part11 北回帰線標誌紀念公園、蒜頭糖廠の訪問

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今回の旅の最後の訪問地は昨年1月に大津の86さんとご一緒した蒜頭糖廠です。平日で暑い日だけあって訪問者は少なく閑散としてしていました。
蒜頭糖廠
は、明治39(1906)年に建設された製糖工場で日本統治時代は台湾3番目の規模を誇りましたが平成12(2000)年の台風で被害を受け閉鎖され、以降はテーマパークとして運営されています。
※ 詳細については昨年1月に訪問しました記事をご覧ください。こちらです。

丁度、平日は1日1回(15:00発)の観光列車が走る時間が近づいています。皆さんと乗車する事にしました。

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