2014年 遥かなる東欧の旅 Part3 戦火の癒えた町、サラエボへ その3 サラエボのトラム、サラエボ駅、サラエのグルメ

第2日目 2月16日 その3
① イリジャ12:03(トラム)→12:29分岐電停(徒歩)→12:43国鉄サラエボ駅
② 国鉄サラエボ駅(徒歩)→分岐駅の次の駅(トラム)→14:30パシュチャルシア

乗車するトラムの系統を間違えて終点のイリジャまで行ってしまいました地球の〇〇方をみていただいたO氏のご内儀より、「3系統はサラエボ見学には丁度良い」と書いてあるとご指摘を受けました。3系統は、本線全線を走るのにサラエボ駅に行くと逆に読み違えたようです。最近は老いたせいもあって思い込みが激しくなってきました。いけません。

3712:03 折返しのトラムが発車しました。上の写真の左側の掴み棒に設置されています緑のボックスが車内改札機です。車両のドア付近にありました。
右側に立っておられるのは、サラエボのお嬢さんです。彫の深い目鼻立ちがしっかりとした色白のアラブ系で何といってもスタイルが抜群です。皆さんウットリと見とれました。でもこの地の女性は、歳をいくとなぜか
ボッテリさんになっておられます。

片運転台のトラムの後部は、まさに鉄ちゃん向きです。これで窓ガラスが綺麗でしたら言う事はないのですが・・・。車内にも落書きが多いのもいただけません。
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2014年 遥かなる東欧の旅 Part2 戦火の癒えた町、サラエボへ その2

第2日目 2月16日 その2
① サラエボ空港 8:54(Taxi)→9:07 Motel Bejturan

② 名前の記載のないミャツカ川沿い11:14(トラム)→11:54イリジャ

8:30 サラエボ国際空港に到着しましたが、フライトはそれほど多くはないようで、ローカル空港のようです。

11入国審査後にバゲインクレーム内のATMで、クレジットカードを使用してのキャッシングをします。ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨は、コンベルティビルナ・マルカ(KM)。
今回のツアーでは昼食・夕食・飲料代が含まれていません。また降り立った6名は先発隊で、ドイツ人グループと日本人3名は明後日の到着で2日分の宿泊費が必要です。それぞれの推定する額での引き出しでした。
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「窓から移した駅と列車」に倣って

総本家青信号特派員さんに便乗して、私も数枚を。
同志社に入学の年、54年前の話です。夏休みに神戸三越のお中元アルバイトを約1ヶ月。それでカメラを買いました。それまでは父親のツァイスイコンを使っていましたが、戦前のカメラは使い難くい代物でした。買ったのはヤシカミニスター、簡易露出計付でして、今もこの露出計は作動していますが、果たして撮影できるかどうか。
さて念願のカメラを手にして出かけたのがこの姫新線。野山で蒸機曳く列車を撮るなど思いもよらず、もっぱら乗り鉄で、窓から、あるいは停車中のホームから撮るくらいでした。00202

▲ 姫新線815レ 姫路駅 機C58258【津】 1960.08.28  00202
8月も末の28日、姫新線-因美線-山陰線-福知山線経由の乗り鉄1日、815レで出発。00203    続きを読む

窓から写した駅・列車 -1-

まだ車両の窓が開く時代、クロスシート車に乗ると、私は決まって、進行右側窓側の席を確保しました。交換列車を写すためです。皆さんも同じような経験があると思います。単線の交換駅に着くと、交換する列車や、通過する列車を今か今かと待ったものです。窓から首を出して撮った写真も、長い間にずいぶんのカット数になりました。

車内から一歩も歩くことなく、窓から首を出すだけの、究極のズボラ撮影ですが、列車だけでなく、ホームや駅舎の様子、乗客の様子が、時代、社会を鋭敏に映し出しています。今年のシリーズは、列車交換時の写真を集めてみました。

IMG列車の窓からの撮影に魅かれた契機となった、今から50年前の山陰本線の鎧駅での交換シーン、家族旅行で、京都からずっと普通列車に乗り続けて、玉造温泉へ行く途中だった。真夏の太陽がガンガン照りつける。窓からは、ムッとした熱気のなかに、潮の香も混じってくる海辺の駅で、急行「白兎」の交換待ちだった。連続するトンネルのため、ライトを点灯したまま、タイフォン一声、通過する上り「白兎」をオリンパスPEN EESで写した。

「白兎」は、昭和31年、山陰本線京都口に初めて設定された準急で、C57の牽く松江行き客車列車だった。昭和36年10月改正で、キハ58系の急行になり、大阪始終着の編成も併結した。C57時代からヘッドマークに描かれた白うさぎが描かれた小粋なヘッドマークは、キハ58になってからもヘッドマークに引き継がれた。この時代、京都口の「丹後」「きのさき」などはまだ準急で、キハ58で統一された「白兎」は、際立った存在だった。(昭和39年)