昨年9月以降4回にわたってJFEスチール福山製鉄所の専用線についてレポートしました。本日は水島臨海鉄道訪問のついでに立ち寄りましたので変わり映えしませんが、ご覧下さい。撮影場所が非常に限られたこの専用線ですが 今回は工場の出口で待ち受けることにしました。昨年10月3日 63884で山の上から見下ろした様子をご紹介しましたが、今回は同じ場所の線路ぎわです。
月別アーカイブ: 2016年2月
乙訓の長老様へ
名鉄3780系
備後路の117系
都落ちした117系が山陽路で115系に交じって活躍しています。私はあまり電車を撮らないのですが、何かのついでに撮っていた数コマをご紹介します。
福山駅の上りホームに停車中の福山発岡山行き快速サンライナー3726Mです。うしろの福山城は桜の名所で お花見用の提灯が見えます。
国鉄117系
この記事は1月21日に掲載されていましたが、関先生からお手紙が来たという連絡を受けたので投稿を控えていたものです。
先生からお許しが出ましたので投稿いたします。
さてこの117系にはいささか思い出があります。記事によると昭和54年の登場とか。ちょうどこの頃から大阪へ行くのは京阪を使うことが多くなり国鉄に乗る機会は無くなりました。でも見ることは多く、113系の通勤電車タイプとは異なる新快速専用のクロスシート車に憧れていました。この電車に乗ったのは遙か後の、DRFCクローバー会で名鉄に乗りに行った帰りでした。木目調の落ち着いた車内になぜか納得したのを覚えています。最近では緑坊主となって湖西線か草津線を走っているようです。
この絵は遠くに阪急の特急らしきものが描かれているので大山崎近辺と思われるが、いかがでしょうか?
今冬の撮影
夢を追った人にあやかる
関さんがデジタル元祖青信号に登場したのは2010年11月8日だそうだ。それも京阪1900型を背負っての登場であった。どうやらデジ青には京阪電車に関心を寄せているマニヤが大勢いるようだと思って配慮されてのことなら嬉しい。ところが新聞登場は11月8日より以前の事らしい。でも藤本君と老人が名指しされたのは「あたり!」である。DRFCでは京阪と阪急を巡ってはクラブ創設当時から両電鉄を対象に口角泡を飛ばして論争と言えばおこがましいが、ののしり合いがあったのは事実である。その根源は、戦争中の統制で京阪が阪急に合併させられたが、戦後の分離にあたり阪急側が手前味噌を並べて新京阪線を併合したことに端を発している。分離後の京阪電鉄中堅社員からも愚痴を聞かされた結果、阪急は「こすい」となったのであろう。このようなことが拡大してクラブを2分しての罵り合いがあったのは紛れもない事実である。
関さんは限られた鉄道のデッサンだけではなく、広く日本全国の電車を取り上げていらっしゃるのは、それだけ津々浦々を歴訪されたのではないかと推察している。老人はそれにあやからせて頂いているのである。中には雑誌で見ただけのものもあるが、その時はあんな電車が走っているのかとなり、夢の中身は一段とさえるのであります。
話変わって老人は関さんより2学年先輩となりますが、貴兄の母校である京都工芸繊維大学の事を今も覚えています。生家が下鴨であった、洛北高校卒業生と言ったことだけではなく、老人の兄は工繊の建築科1953年入学です。同級生に寺内信(まこと)さんがいらっしゃり、大変な鉄道ファンでした。兄は4年で卒業しましたが、寺内さんは新設の大学院に残られ、後には大阪工大の教授になった方です。老人の中学時代に鉄道車両のイロハを教えてくれた方でした。貴兄が工芸繊維大学在学中、寺内さんは院生だったと思いますがご存知ありませんか?大阪人でとても気さくな方です。意匠科と建築科は製図室が隣り合わせであったと記憶しています。両学科はとても仲良しで、寺内さんや兄を探しに行ったときは両実習室を覗きに行きました。
ところで貴兄の電車の作品集が出版されているようですね。昨2日に丸善じゅんくで探そうと思い尋ねましたら定休日の札があり、すごすごと帰宅しました。正確な書籍名を教えて下さいませんか、ブックファースト桂で申し込みます。
老人は京阪馬鹿と名乗り関西鉄道研究会で1987年、てっちゃんに復帰しました。関東人に馬鹿とはなんだ、ふざけるな、と言われて馬鹿をひっこめました。幼いころから「アホ馬鹿、すっぽん、まぬけ」と言い習わしてきた関西語です。この言葉には凝性(こりしょう)という意味も含まれているようです。京阪凝性よりバカの方が語呂よしと思ったのですが・・・。ところで老人は現在「新京阪沿線の住人です」。住家を向日町に決めた時、「裏切り者!」という怒声が当然飛んでまいりました。
ところでクローバー会役員さん、関さんの席を用意して下さるようにお願いします。デジ青の愛読者です。コメント会員として自由にあやからせていただきましょう。
50年前の撮影地を歩く -10-
初の雪中撮影で米原へ <その2>
50年前の米原、初の雪中撮影記を続けます。午前中は、一面の鉛色の空だったものの、午後からは晴れ間も見えてきました。雪の反射を受けて、列車の下回りもきれいに出て、雪の撮影の良さを満喫します。今では人家も建って見通しが利きませんが、当時は、分岐して行く東海道線の上り線がよく見えて、両方を掛け持ちも出来ました。
▲交直接続の米原~田村が電化し、田村駅南に交直のデッドセクションが設けられたのが昭和37年で、その時に、浜松工場でEF553の機器を流用して交直両用の電気機関車ED301が製作された。短区間の米原~田村の折返用に特化した凸型のセンターキャブを採用、屋根が狭いため当時では珍しい下枠交差形パンタを載せた。それまで、蒸機で間接接続しかできなかった直流・交流区間を跨ぐ列車牽引を、初めて電機が担った。交直両用の471系と同じローズピンクの塗色が、雪のなかによく映えていた。