総本家青信号特派員殿より「はしだてビーチ」の紹介がありました。そのなかで昭和44年7月の合宿が宮津線・加悦鉄道で行われたとありましたが、私は参加していません。ただ当時のチラシ類が残っていないかと探してみますと 次のようなものが見つかりました。
非常に見づらくてスミマセン。この年昭和44年の夏頃から全学封鎖だった時期で、クラブ活動は非常にやりにくい時期だったと記憶します。そんな中で熱心な旅行班長T君はいろいろな企画を考え、このようなガリ刷りのチラシでみんなに呼びかけを行っていました。
総本家青信号特派員殿より「はしだてビーチ」の紹介がありました。そのなかで昭和44年7月の合宿が宮津線・加悦鉄道で行われたとありましたが、私は参加していません。ただ当時のチラシ類が残っていないかと探してみますと 次のようなものが見つかりました。
非常に見づらくてスミマセン。この年昭和44年の夏頃から全学封鎖だった時期で、クラブ活動は非常にやりにくい時期だったと記憶します。そんな中で熱心な旅行班長T君はいろいろな企画を考え、このようなガリ刷りのチラシでみんなに呼びかけを行っていました。
8:40 ワンボックスに毛の生えたような小さなバスに乗って豊原バスターミナルから真岡へと向かいます。かつての豊真線沿いを行くのかと思っていましたが南方向に迂回したA-392号線を行きます。真岡の手前でようやく豊真線の橋梁が見えたのが最初の遭遇した。
【 豊真線 】
開業は1925年(大正14年)10月1日、樺太東線と樺太西線を結ぶために豊原~鈴谷が開業、1928年(昭和3年)9月3日に小沼~手井の76.2㌔が全線開業しました。
1943年(昭和18年)度における線別キロ当り1日平均貨物トン数では、勾配区間でもあるにもかかわらず豊真線が964㌧で、川上線の877㌧、樺太東線の869㌧、樺太西線357㌧より多く、貨物輸送に貢献していました。これは大泊港が冬季に凍結することが多く、夏季は潜水艦からの攻撃を避けるために安全な西海岸からの物資輸送に切り替えられたことが大きな理由です。内地へと送る石炭や木材の輸送が多かったようです。
かつての日本統治下時代は豊真線の豊原~北真岡に上下3本の列車が運行していましたが、1995年頃に途中のループ線(宝台 ~池ノ端)にあるトンネルが崩壊したため運行はなくなってしまいました。
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前掲の江若鉄道で行く湖水浴は、京都から近いものの、琵琶湖の水は、汚れ放題のうえ、ナマ温かく、砂浜も狭くて、とても快適な水泳場とは言えませんでした。やはり、海の魅力には勝てません。“水のきれいな日本海へ”の国鉄キャッチフレーズに誘われて、丹後・若狭の海へ行く客が増加していたのも、この頃で、大阪・京都からは、多数の臨時列車が運転されました。 そんな中で、昭和42年から、京都から宮津線天橋立へ向けて、寝台車を利用した冷房付きの臨時急行「はしだてビーチ」が走り始めました。本欄でも断片的には紹介しましたが、改めて「はしだてビーチ」の歴史をたどってみました。▲昭和42年7月21日から走り始めた「はしだてビーチ」、京都駅2番ホームから発車した。向日町からEF58に牽かれて駅東の引き上げ線で転線し、2番ホームに据え付け、福知山区のC57が連結された。
▲ ユジノサハリンスク駅前広場に静態保存されていますD51-22号機です。D51形蒸気機関車は1949年、日本車両7両・川崎車両7両・日立製作所6両・汽車製造5両・三菱重工業5両の計30両が当時のソビエト連邦に客車たちと一緒に輸出されました。なぜか形式番号と車両番号の間にハイフンが入っているのが特徴で、運転席も厳冬対策に密閉構造になっていました。でかい前照灯が印象的なD51形です。
現在このD51-22号機とユジノサハリンスク構内にD51-4号機が静態保存されているのが確認できます。
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サンタクロース急行でヘルシンキに到着したその足で港へと向かいました。バルト三国の一つエストニアに向かうためです。首都タリンはフィンランド湾をはさんでヘルシンキの真向かいにあり、フェリーで2時間の旅、ヘルシンキに荷物を置いて日帰りでタリンへ行きました。
↑ 今年就航したばかりの49000トンの新造船
往復の料金は早割で€40と安く、フェリーは国際航路なので船内には免税店があるため、免税品の買い物目当てに乗る人も多いようです。特に北欧ではアルコール類は高いので船賃払っても十分に元が取れます。ちなみに船内の免税店ではハイネケンの330mlX24缶1ケースが€14.9と日本の発泡酒以下でした。また、エストニアはユーロ圏ですが、国内の物価は安く、他の国と比べると食費などは半額位の感覚です。シェンゲン協定の国ですのでフェリーを降りると入国審査もなく、フェリーふ頭から10分ほど歩くとトラムの走る広い道路に出ました。
まずは梅小路のD51200が山口へ出稼ぎに来ているようです。
「デスティネーションキャンペーン」と言われても「それ何?」という感じですが、9月1日から12月31日まで JR西などが企画している「幕末維新やまぐち デスティネーションキャンペーン」のことのようです。結局 オジサンには「デスティネーション」が解りませんが どうやら「目的地」の意味だそうです。とすると「幕末維新やまぐち目的地宣伝活動」と言うことになりますネ。どうも長州人は物事を判りにくく 回りくどく説明するのが得意なようです。D51200がいつのまにか山陽路を回送されて行ったようですが、これぐらいの長距離を回送する際には無火状態にして回送するのでしょうか?あるいは一旦火を落とすと大変なので有火状態で機関士も添乗して回送されるのでしょうか?どなたか教えて下さい。
第3日目 7月11日 その2
【 ユジノサハリンスク(豊原)でロシアのSIMカードを買う 】
フロントでパスポートを返してもらってNETさんとヤスベイさんにご同行頂きSIMカードの購入です。皆さんスマホをお持ちですので出かける時は私のiPadにロシアのSIMカードが入っていればルーターとして使えますので、全てのスマホでパスワードを入れればどこでもネットが出来ます。
フロントのお嬢さんから何とか売っている店を聞いて街に出て探しますが、見つかりません。どうも反対方向と間違えて説明を受けたようで教えてもらったところは街中の売店でした。おばちゃまに説明しようにもさっぱり通じません。またSIMカードを買えても回線開通には今からこのSIMを使用開始しますとの連絡を入れなければなりませんのでスマホを売っているような店でないとやってもらえません。これは世界共通のことで、各国で経験済みです。
▲ これではだめだとホテルに引き返して、「教えてもらったところは反対だった。もう一度教えてください。」と言うと、ドアマンを呼んで一緒に行くようにとの返事です。100mもないホテルの直ぐ横のビルにある携帯電話を売る店に案内してくれました。始めからこうしてくれれば徒労はなかったのですが、これがロシアの洗礼かと納得することにしました。値段は350ルーブル(約700円)。これでどこでもネットが出来ます。Google地図で現在位置が分かりますので、いつものように迷わず動けます。
しかし、ホテルに戻ると皆さんおられません。フロントに「ユジノサハリンスク(豊原)駅を発車する列車があるので撮りに行きます。」とメッセージが残されていました。
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今日は、稚内から船に乗ってサハリンのコルサコフへ向かいます。この航路は戦前の1923年(大正12年)5月1日に稚内と樺太の大泊の167㌔を結ぶ鉄道連絡船として開業しました。Google地図をご覧のように宗谷岬からクリリオン岬までは約43㌔と近く晴れた日なら宗谷岬から見えています。砕氷船が運用にあたり所要時間は夏季8時間、冬季は9時間を要したそうです。しかし、敗戦により1945年(昭和20年)8月24日に航路は消滅しました。22年間余りの営業でした。
もう航路でつながることはないと思われていましたが1999年5月1日、東日本海フェリーが稚内~コルサコフに定期航路を開設しました。(但し、冬季は流氷のため運休)戦後初の稚泊航路には、総トン数2,267㌧、航海速力17.1ノット、旅客定員304名、乗用車なら48台を運べるフェリー船アインス宗谷号が運行に当たりましたが運航当初より赤字が続いていました。そのため稚内市の補助金・助成を受けての運航でしたが乗客は増えず、貨物取扱量は減少するばかりで、2015年9月18日をもって運航を終了、船体もフィリピンへ売却されてしまいました。
先日、武蔵野線の東所沢から小田急線の百合ヶ丘へと引っ越しました。日々目まぐるしく変わる貨物列車や9月からのE231系運用開始を控えたなかで、やや後ろ髪を引かれる思いはありましたが、都心からのアクセスの悪さに辟易していたこと、高校時代の友人がアパート探しに協力してくれたことで県をまたいだ引っ越しに踏み切りました。
百合ヶ丘駅は普通電車と朝晩のみ走る準急しか止まらなず、速達列車の恩恵を受けにくい場所であるのは残念ですが、今のところはそれ以外に大きな不満もなく過ごしています。西京極や水無瀬に住んでいる感覚でしょうか。
静岡の実家へ帰省してきた際、図らずも県内の中小私鉄訪問と深夜の駅訪問が出来ましたのでまとめてご紹介します。
今日はメンバー5名でレンタカーを借りて札幌から稚内まで宗谷本線を撮りながら向かいます。運転手はいつも安全運転のクモハ7310東ウラさんですが、今日は特急宗谷がノースレインボーエクスプレス183系へと運用が替わったのを朝ネットで見られました。特急宗谷の札幌発は7:30で、我々と一緒の出発です。札幌市内・市街地までは一般道を走りますので追いつくことは無理ですが高速道路に入れば、途中駅で停車する特急宗谷を無停車の我々が追い越せるかも・・。これを撮りたいと高速道路を目一杯の安全速度で走って、特急宗谷と競争です。
前掲の朗読劇へ行くため湖西線の電車に乗ると、目は自然と窓外の江若の跡地を見ていました。廃止されて48年目の夏、思い出すのは水泳列車を撮りに行った時のことに行き着きます。撮影地は、決まって京阪石坂線南滋賀駅から湖岸へ5分ほど歩いた、江若の滋賀駅の南側でした。日影の全くない、カンカン照りのなか、田んぼのど真ん中で数時間、通過する水泳列車を写したものでした。自宅から1時間少々で行けるところで、水泳列車は、この場所以外では撮ったことがなく、私にとっては定番の撮影地でした。またまたの江若ネタですが、今まで発表したことも無い写真も含めて、昭和43・44年に滋賀駅付近で撮った水泳列車を総ざらえします。
▲滋賀駅の南、田んぼの中を行くDD1351+1900系客車4両の水泳列車。1900系客車は以前快速列車にも使用されていたが、快速はDCに置き換えられたため、活躍の場は年に数日の水泳列車のみだった(昭和43年8月4日)
5月下旬、今回のお誘いも台湾と同様にクモハ73106東ウラさんからでした。台湾、中国に続いての稚内での現地集合、7月11日~16日の5泊6日のツアーで、先はまだ行ったことのないロシアの樺太(サハリン)です。
数10回も行っています中国では北朝鮮、ロシア国境を見ながら一度は行ってみたいと思っていました。
台湾・中国から続いて3連発の海外渡航にはなりますが、失った気力を取り戻すには多少の無理はやっていこうと決断しました。今回のツアーは稚内港から船に乗ってのサハリン上陸です。12月の稚内訪問ではドームの稚内港駅を見ながら稚泊航路はどうだったのだろうか、乗船してみたかったなあと思っていたのも決断を後押ししました。
参加者は、クローバー会の準会員になられたクモハ73106東ウラさん、千住のヤスベエさんの2名と、不銹鋼號さん、NETさんを合わせて5名です。
参加を表明して直ぐに稚内へのANAの航空券は早い方が安く購入できますので押さえておきましたが、後日皆さん方の予定は8日または9日に空路で千歳空港へ、レンタカーを借りて撮影しながら札幌、そして10日に稚内へと向かわれることになりましたので私も遅れまいと、9日のJAL便で千歳に向かうことに切り替えました。
九州地方の豪雨災害や各地でのゲリラ豪雨など自然の猛威による鉄道の被害も報じられています。三江線も何度も自然災害に見舞われてきた線区で、その都度何とか立ち直ってきましたが、その命脈もあと半年ほどです。今回は自然災害のせいではなく、地方交通の置かれた厳しい環境の為せる結果です。いつものように新聞記事頼みの横着記事ですが悪しからず。
国府津
50年前、御殿場線にはD52の牽く列車が走っていました。その始発駅が国府津であり、D52の基地である国府津機関区も駅の裏手にありました。D52と言えば幹線の貨物用であり、旅客列車も牽引していたのは、ここ国府津区のみでした。国府津は、東京から僅か80キロほどのところ、こんな近郊にD52が働いていたとは、その時代を知っている人間からしても、今から見るとにわかに信じられないことです。50年前の高校3年生の夏休み、関東方面に向かいました。一番の目的は、C62「ゆうづる」を撮ることにありましたが、夜行列車に乗って、真っ先に訪れたのが国府津でした。御殿場線の電化も翌年に迫っており、最後のD52の撮影をしました。
▲国府津駅5番ホームに停車するD52236の牽く御殿場線の旅客列車、右側のホームに放置されているのは、当時私が使っていた青色のリュックサック。
▲同地点の50年後、基本的な駅構造には変化はないから、車両が代わっただけで、当時の面影がまだ感じられる。古レールを使った支柱も健在。
しばらくぶりに投稿いたします。と、言いましてもまとまったものではありません。京都駅周辺や向日町での写真ばかりで、車両ファンには申し訳ありませんが「昔はこうだったのか」「こんな車両が走っていたのか」程度のものです。ご笑覧下さい。例によって記録はありません。
今回は「電化前の青大将」ではありませんが、初期のブルトレ用機関車などをカラーで撮っていました。東映映画の名作「大いなる驀進」の『特急さくら』はこの色でした。
向日町運転所も電化が完成して、電車や電気機関車が留置され、客車はそろそろ時代が去ろうとしている時期です。しかし、電気機関車はまだEF58が幅をきかし、EF61や65が顔を見せ始めていました。EF58も特急塗装の青色がありましたが、茶色がまだまだ主流です。
同じく向日町で、新製時から前面を警戒塗色にしているEF65も撮りました。
青大将のEF58の写真もあるのですが白黒です。昭和40年頃からカラーフィルムを使い始めたようで、チラホラとアルバムに混じっています。しかし褪色が激しいものも有り、今回も一切の補正はしておりません。この当時の客車もおもしろいものを撮っていますが、機会があればお目に掛けます。
すっかり「デジ青」からご無沙汰の毎日ですが、外部の愛読者からは「最近、投稿が無いのは、身体でも悪いのか」と心配の連絡がありました。いえいえ元気にしていますよ、ご安心ください。“生きている証し”のためにも、せっせと投稿を続けます。
さて京都は祇園祭の時期を迎えました。DRFC時代なら、前期の試験も終わって“さぁ夏休み”の期間で、京都の学窓を巣立った人間にとっては、祇園祭は何とも言えない解放感・期待感が入り混じった、特別な祭りだったと思います。そんな祇園祭も、齢を重ねると、すっかり観光化した祭りに反発もあって関心が薄れ、この10年以上は行ったことがありませんでした。ちょうど埼玉県から京都へ戻った会員のSさんも、自身のブログで30数年ぶりに祇園祭へ行ったと述懐されています。
今年は、宵山の昨16日、趣味会合の帰りにホント久しぶりに、山鉾の立ち並ぶ烏丸通、四条通を歩き、しばし宵山の雰囲気に浸ることができました。若い世代が圧倒的に増えたこと、そして露店の数の多さにはびっくりしました。
ロバニエミに2日間滞在した後ヘルシンキへの帰りは寝台列車を使うことにしました。今回の旅は乗ることを中心にし、その中でも一番の目的はこの寝台列車に乗ることでした。時刻表には特にサンタクロース急行という名前は出ていませんが、北極圏の入り口で、近くにサンタクロース村のあるロバニエミとヘルシンキを結ぶIC273 、IC266、ロバニエミのさらに先、ケミアルビーとヘルシンキを結ぶIC265、IC274 をサンタクロース急行と呼んでいるようです。
↑ 郊外のサンタクロース村を北極圏の北緯66度33分線が通っている。
私の乗ったのはケミアルビーからやってくるIC274でした。ロバニエミはカートレインの積み込み場所となっていますので、30分停車しその間に車の積み込み作業をします。 続きを読む