JR, 自治体、住民との間で少しづつ協議が進んでいるようです。
吉野川の夏 その後で
総本家青信号特派員さまのコメントにもありましたように、以前は川遊びと列車が撮れたと思います。しかし私の記憶は数十年前のことで川の流れも変わり、中洲の様子も変わっていました。今はもう少し上流側で川遊び出来る場所があるようです。この時16000の新塗装車を見かけたのですが、なにか「違和感」がありました。近くで確認しようと再度出掛けました。写真は橿原神宮前での16000系(16109)とその増備車16010系(16111)です。特に16109は「おでこ」の前照灯の飛び出しが気になりました。22000系等のライトが外に出ていないものとはイメージが異なります。新塗装が進んでいますが「顔」の印象は違ったものに仕上がっています。
カラーで振り返る昭和の気動車-4-に寄せて
総本家青信号特派員殿がなつかしいキハ55系の活躍ぶりを紹介されました。そのなかで南海のキハ55が登場しましたが、ここでは島原鉄道のキハ55をご紹介します。ネガの色調をうまく調整できず 空が黄色くなっているのはご勘弁を。
こんなモンもありまっせ!
投稿面が賑わっていたので静かにしていたところ、特派員さんが竜華の写真を掲載されました。この地は私の出生地で、子供の頃から何度か訪れていたので懐かしく拝見しました。当然写真を撮っていますが家族写真が多く、鉄道写真は数えるほどしかありません。それでも昭和37年(1962年)12月の八尾はこんなところだったと特派員さんが撮られた現況と比較してみて下さい。
カラーで振り返る 昭和の気動車 -4-
キハ55系
キハ55系は、昭和31年から造られた、当時の準急用気動車です。同年10月から上野~日光の座席指定の準急「日光」でデビューしました。それまでのキハ17(当時キハ45000)と比べると、幅・高さとも大きくなり、客車と同じ車内設備の第一号DCとなり、翌年からは量産車が登場します。なお当時はキハ44800形で、昭和32年4月に形式称号の改正で、機関2台、車体幅2.8mの区分によりキハ55となりました。基幹形式のキハ55のほか、キロ25、キロハ25、キハ26、キハ60、キロ60を加えた6形式からなるグループで、最終的に、キハ55系は昭和36年までに総勢489両が製造されました。
全国の非電化区間の準急として活躍したキハ55系ですが、その後に、急行型キハ58系が誕生すると、優等列車の主力の座を追われ、冷房化改造も見送られたため、昭和40年代は、むしろローカル線の普通列車で、一般型気動車とともに混成された形式と言う印象の強いキハ55です。
▲舞鶴線真倉付近を行く、すべてキハ55系で編成された普通列車。
北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part11 ユジノサハリンスクの子供鉄道に乗る撮る、サハリン州立郷土史博物館視察
第6日目 7月14日 その2▲ 9:55ユジノサハリンスク駅北側の踏切での撮影を終えてからはもう列車の運行も夕刻までないので市内にある子供鉄道を見に行こうとなりました。
【 子供鉄道 】
旧共産圏諸国の多くの主要都市では、子供の社会教育を目的とした「子供鉄道」が運営されていました。将来の職業選択の際役立つように子供たちの社会学習の一環として行われており、現在も続いているものが多いそうです。以前にハンガリーのブタペストに行った時に訪問しましたが、全長は11.6㌔もあって本格的なものでびっくりしました。ここでも山裾のガガーリン公園の池の周りをループする2.5㌔の子供鉄道があります。
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JR西日本221系
50年前の撮影地を歩く -19-
最後のC62特急を撮りに四ツ倉へ
本シリーズの前々記事、御殿場線の訪問のあと、私は横浜港の氷川丸のなかにあるユースホステルに泊ったあと、翌日は神田の鉄道博物館などを見学し、上野22時23分発の常磐線経由の青森行き227列車に乗り込みました。当時の蒸機ファンの最大のターゲットだったC62特急「ゆうづる」撮影の御用達列車で、案の定、1両目の客車に乗ると、大半はカメラを持った人間ですが、それでもその数は十数人程度、大型三脚も脚立もなく、みんなカメラ一台だけ、ごく平和で、のんびりした車内光景でした。
▲上野駅の隣のホームでは下り「ゆうづる」が発車待ち。翌朝にC62の牽く上りを撮ることを思うと、それだけでワクワクしてきた。関西では見られなかった、ブルトレの座席車、2枚窓のナハフ2052から洩れる車内灯にも心ときめいた。
北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part10 再び夜行寝台列車に乗って樺太東線を南下、ユジノサハリンスクへ戻る
第5日目 7月13日 その2
ノグリキ駅に戻って、公安に見つからないように撮影ポイントを探します。駅の南側の木々が切れた辺りはホームからは見つからず、良いだろうと決まりました。一旦駅に引き上げて直前まで現場に行かず、カメラはバックに入れた状態で待機しました。▲ 16:45 定刻にノグリキを発車したТГ16-081号機牽引の11両編成の№604列車、こちらは13時間51分をかけてユジノサハリンスクに向かいます。表定速度は44.22km/hとゆっくりです。
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50年前の撮影地を歩く -18-
竜華操車場・竜華機関区・久宝寺駅
少し前の本稿で、東京の近くを走っていた50年前の御殿場線D52を紹介しましたが、その時期に残っていたD52のなかで、なんと大阪市内を走るD52もいました。それは、吹田第一区にいた2両のD52で、城東貨物線の吹田(操)~放出~竜華(操)の貨物列車を牽いており、同線の一部は大阪市内にも掛かっていたのです。50年前、あの超弩級のD52が、東京近辺や大阪市内を走っていたとは…。
さて城東貨物線の終点の竜華、今は八尾市の行政地名として残るのみですが、かつては竜華操車場、竜華機関区があって、国鉄の重要な拠点でした。その竜華操車場を挟むように、上下線別に離れて久宝寺駅もありました。日中は、普通列車も通過するほど、みすぼらしい無人駅でした。いま、全く姿を変えた久宝寺駅付近の変貌ぶりを見る時、改めて50年という年月の隔たりを感じます。
▲ED60と並んで竜華操車場の発車線に並ぶD5228の牽く城東貨物線の列車、左手に見えるのが、久宝寺駅の上り方ホーム、2、3両分しかない木造のホームだった。背後の高い煙突は帝国製糸のもので、河内地方で盛んだった木綿の生産拠点の名残り。
北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part9 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上、ノグリキに着く
ユジノサハリンスク(豊原)を定刻の22:42に出発した№1列車は、戦前の北緯50度の日ソ国境線を越えて。612.2㌔先のノグリキに向けてゆっくりと北上していきます。発車後はしばらく皆さんと一緒の部屋にいましたが睡魔もやってきて部屋に戻って爆睡です。
ノグリキから最北端のオハまでは実線で引いていますが、この路線は、1953年に全通したオハ─ノグリキ狭軌鉄道線(総延長233㌔、軌間750mm)ですが、主力の貨物がトラック輸送にシフトしたために2007年に廃止されています。
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しなの鉄道をチラ見する 〈下〉
しなの鉄道をチラ見する 〈上〉
スカ色復刻の115系
しなの鉄道では、所有する115系電車を国鉄時代の車体色へ復刻化を進めています。開催中の「信州デスティネーションキャンペーン」の一環で、4月には「初代長野色」(白地に緑・赤)、5月に「湘南色」に塗り替え、このたび、3本目となる「横須賀色」(スカ色)の編成が登場しました。同社の115系S16編成3両編成を青15号、クリーム2号の横須賀色に戻したものです。初日の7月29日は、戸倉で出発式が行われたあと、戸倉~軽井沢で1往復が臨時電車として運転され、折り返し時間を利用して、軽井沢駅で撮影会を開催しました。中央東線のスカ色115系は姿を消しており、唯一となったスカ色115系を撮りに、初日、トンボ帰りで軽井沢へ行ってきました。
北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part8 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上する
第4日目 7月12日 その4
17:00 真岡南駅で下車してからは再びバスターミナルに戻って同じく516系統のバスに乗って豊原(ユジノサハリンスク)へと戻ります。
▲ 戦前は東西を結ぶ貨物輸送で貢献した豊真線の宝台ループ線(宝台~池ノ端)、「Чёртов мост」(悪魔の橋)と呼ばれ名所になっています。1994年にトンネル内の落盤があって以降は運行されていません。ループを抜けて橋梁の上から見た車窓はどうだったのでしょうか、乗って見たかった路線の1つです。
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吉野川の夏
ドクターイエロー(DY)を捕る
この一ヶ月程、祇園祭にかまけていました。すると小学校以来の旧友から「DY走るよ」との情報が寄せられ、リハビリのつもりで出かけました。
祇園祭と市電の架線
少し旧聞になりましたがお許し下さい。
青信号特派員氏から、巡行時は信号機を90度廻して道路と並行にした旨のお話がありました。
私事ですが当時は四条寺町と三条河原町に店を開いておりましたので、毎年宵山と巡行日には店頭に出ていましたが見物は出来ず手伝いに没頭しておりました。そのため話題の信号作業は見ていたような、見ていないような有様です。ただ気になったのは架線をつるしたブームのことです。昭和30年代中頃までは架線柱を上下線の真ん中に天秤型のものを設置して鉾の巡行を助けていましたが、阪急の地下延長で南側の歩道上にあった電柱に片持ち式のブームを付けて“それを90度廻して鉾は四条通中央を巡行した”と思っておりました。
しかし、どうも自信がないので交通局のある方に伺いましたところ、ご丁寧な検証報告を頂きましたので皆様にご報告いたします。
なお、転載などのご了解も頂いております。画像処理は私の責任で行っております。
まずは当時の写真ですが印刷物のコピーですので見にくい点はお許し下さい。
(右)四条河原町の写真ですが、左側に高島屋があり電柱からブームが延びています。四条通の東行車線を鉾が巡行しています。鉾の影になっていますが信号機は回転しています。
余談ですが、撮影者の伊藤とのひろさん(故人)は同志社の先輩で、お客様でもありました。北海道の方でしたが終生京都を愛して京都のスナップを多く残して居られます。
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広電と三江線ネタ
いつも代わり映えのしない内容で失礼します。まずは広電関係から。
新しい構想として3時間、7時間、1日広電バスを含めて乗り放題という時間制運賃を検討中とのこと。外来者にとって広電バスも含めたフリーパスのメリットはあまり感じられませんが、広島市郊外の住民にはお得感はあるのでしょう。いろんなアイデアで少しでも乗客を増やそうという意欲にはエールを送りたいと思います。
北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part7 樺太西線に乗る、撮る。北真岡駅、野田駅、
保津峡駅の午後の思い出ほか
総本家青信号特派員殿より「はしだてビーチ」の紹介がありました。そのなかで昭和44年7月の合宿が宮津線・加悦鉄道で行われたとありましたが、私は参加していません。ただ当時のチラシ類が残っていないかと探してみますと 次のようなものが見つかりました。
非常に見づらくてスミマセン。この年昭和44年の夏頃から全学封鎖だった時期で、クラブ活動は非常にやりにくい時期だったと記憶します。そんな中で熱心な旅行班長T君はいろいろな企画を考え、このようなガリ刷りのチラシでみんなに呼びかけを行っていました。