2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part10  大地縦断5,010キロ 鸡西から昆明へ

第11日目~第14日目  2月29日~3月4日

① 鶏西21:03(K7076次)→5:58ハルピン   549キロ  8時間55分
② ハルピン8:50(D28次)→17:53北京   1249キロ
9時間03分
③ 北京西19:31(K471次 )→16:21昆明  3212キロ 44時間50分

今晩から鶏西を出発して、3本の列車に乗り継ぎ、冬の東北から南国昆明に向かいます。乗車距離5.010キロ、乗車時間は62時間48分(3泊4日)にも及びます。今までの中国鉄路乗車では、乗車距離と乗車時間とも最長になります。勿論、もっと長い乗車もできますが、今回は、乗り鉄だけでなく撮り鉄も目的の一つです。昆明ではメータゲージ、重慶では600㎜ゲージが待っています。

▲ 青線が昨日までに乗車した路線、赤線が今回乗車する路線です。

▲ 切符がオンライン化(?)されて、今迄できなかった乗継乗車も簡単にできるようになりました。ただ、日本のように遅れても次の列車は待ってはくれませんので、リスク覚悟が必要です。

【 K7076次乗車 】 鶏西→北京 549キロ 8時間55分

▲ ホテルは駅前正面ですので、発車近くまで部屋をキープしてゆっくりしました。田舎と言っては失礼ですが、軟座待合室は、大都市ハルピンより広くて綺麗です。発車45分前の光景ですが、30分前になるとどっと乗車客が入って満席に立ち席状態となりました。

▲ 乗車後に切符と交換された寝台券。受け取ってびっくり、だいたいは広告なしですが、悩ましげな広告が付いています。お堅いはずの中国鉄路局です。よく許可したものだと、在職中は鉄道広告に携わった者として意外感がありました。日本では、絶対に無理です。デザイン審査許可が通りません。

コンパートメントの同室者から日本語で声をかけられ、こんな所でとびっくりしました。聞きますと、自分は48歳、郷里は鶏西ですが、今は家族一緒で、広島の福山に住んでいます。昨年夏に脳溢血で倒れました。今回、郷里の親戚から中医治療を受けなさいと言われ出てきました。ハルピンに到着後、飛行機で上海へ行き、広島までまた搭乗して当日に帰ります。近くなりましたと言われました。障害も残っているそうです。48歳の働き盛りに大変だなと思いました。

【D28次動車に乗車】 1249キロ 9時間03分
定刻にハルピンに到着しました。乗換まで3時間近くありますが、日本のようにちょっとその辺を散歩など広い中国では考えられません。おとなしく駅前食堂で朝食をとってから、動車(和諧号)待合室で待ちました。軟座待合室より広くてゆったりしていましたが、発車30分前はいつもと一緒の状態でした。

▲ 少し残雪が残る満州の荒野を150~190キロで快走します。以前はもう少し速かったのですが、温州での事故以来、スピードダウン化がなされました。車窓には、ウルムチ同様に風力発電の風車が乱立しています。火力発電に頼る中国ですが、自然利用も結構多く見られました。

【 K471次乗車 】 3212キロ 44時間50分
北京駅には定刻着でしたが、乗り継ぐ列車は北京西駅発です。地下鉄はまだ開通していません。Taxiに乗れば楽なのですが、雨で丁度ラッシュとなりますと、車は動いていません。乗っても昼間の20分程度では到着しないのは明らかです。1時間半以内で確実に着く方法は、近くの地下鉄駅まで行って、後は徒歩しかありません。

▲ 左は北京駅、右は北京西駅。西駅の地铁開通は、今年中だそうです。

北京駅から2号環状線で復興門駅まで行き、1号線に乗り換え軍事博物館館駅で降りれば、1キロ先に西駅が見えます。自転車Taxiがあれば便利なのですが、Taxi同様に空車はありません。時計を見ながら、とぼとぼと雨降る夕闇の街を歩きました。北京西駅が開業して16年以上、首都でもあるのに、どうしてまだ地下鉄が開通しないのか、高速鉄路の目覚ましい開業ぶりと比べると、あまりの差に分らない国の実態が見えてきます。


▲ 北京駅到着後、地下出口通路で新しい2012年3月号時刻表を見つけました。 訪中以来、新しい時刻表を探していましたが、どの駅でも置いてありません。1月号が出ていると思っていましたが、この時刻表は、今迄発行されたことのない3月号です。鄭州鉄道日記さんから電話がかかってきたので知らせますと、自分も1月号を求めたがなかった。それに3月号が1日に出るとは意外です。通常は末日近くに発刊されることが多いと言っておられました。早速、今から乗るK471次の時刻を見ますと、19:23と間違っています。しかし、10月号では合っています。運用の関係で、2~3日は改定前の時刻で運転するのでしょうか? この時間帯は、各地方鉄路局受け持ちの夜行列車の発車がラッシュになりますので、調整が大変でしょうね。

【長距離夜行列車の楽しみは、車窓と食事】
K7076次は夜行でも深夜発早朝着ですので、食堂車の連結はありません。D28次は、動車のためレンジでチンの高くてまずい弁当しかありません。一方K471次は2泊3日も走りますので、勿論あります。受け持ちは、初めての昆明鉄路局です。隣の成都鉄路局は中国一ですので期待したいところです。

▲ 左上から1日の夕食;食堂車に行こうとしましたら、出来立てアツアツの弁当の車内販売がきました。これで20元(約260円)、安くて美味しそうでしたので買いました。ご飯がぱさぱさでなく中々の味でした。右上は、2日の朝食10元です。左下は2日の昼食(20元) 昨日と同じようですが、おかずが変わっていました。右下は食堂車での注文した夕食(64元=約800円)です。選べるおかずは約30種類と豊富です。味もしっかりしていましたが、ご飯がパサパサに変わってしまって上手くありませんでした。

▲ 3日朝の米で作った米麺(10元)。昆明局名物です。昼間は、この列車に乗るのがギリギリでしたので、食堂車が空いていなかったらと駅で買い求めていたインスタントラーメンです。

また食事のオンパレードになりました。車窓を紹介したいのですが、北京を出て以来雨でかすんでいます。窓ガラスは、例によって汚れてスリガラスに近い状態です。

この列車の寝台券です。これが普通ですが、昆明らしく少数民族のお姉さんの写真でもあったら素敵と思います。

3日目に入ると車窓も変わってきました。山水とはいいがたくとも、山の形が違ってきています。

▲  この列車、北京から昆明まで乗りとおす乗客はわずかです。殆どは、途中乗車下車客で、大きな駅では、乗客がすべてすり替わってしまうほどです。終点近くなった紅果駅では約30分の停車時間があって、食堂車のコックさんたちもホームに降りてゆっくりとしていました。雨も上がり、日差しが入っていました。
私のコンパートメントですが、2回ほど乗客が変わりました。そして途中からは個室状態で昆明に到着しました。

ホテルは、ネットで予約済みです。駅前で近いので歩いて行こうと思っていましたら、突然の雷雨です。500mぐらいだったのですが、たまらずバイクTaxi(10元)に乗りました。
  Part11  へ続く

東京地下鉄 山陽路を東へ

本日 下松の日立笠戸工場から綾瀬へ向けて 東京メトロ千代田線の16000系10両が甲種輸送されてゆきました。9日12:54下松発 8862レで東上。11日深夜2:15綾瀬着の長旅です。撮影は三原ー本郷間で16:18頃です。車番が読み取れなかったのですが、かろうじて最後尾のTCが16014と読めましたので、全部で16編成投入されるなかの14編成目のようです。
EF66に牽かれて東上する東京メト��16000系

EF66に牽かれて東上する東京メトロ16000系

 

最後尾は16014。一生に一度の長旅。

最後尾は16014。一生に一度の長旅。

当地で見られる甲種鉄道車両輸送は 日立笠戸工場を出場して東上するものが殆どです。

去る2月21日には 半田市の衣浦臨海鉄道のKE653(DE10)が広島ターミナル発8866レとして甲種輸送されてゆきました。JR貨物の広島工場でATSの改造を施されたあと衣浦に戻っていったようです。
衣浦臨海鉄道KE653

衣浦臨海鉄道KE653

 

うしろのコ��は手ブレー��代用車。

うしろのコキは手ブレーキ代用車。

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part9  鶏西鉱業集団鉄路 その3

第11日目 2月29日

今晩は、夜行列車で遠く昆明まで移動しますので、鶏西での撮影は最終日です。1カットぐらいは、納得できるのを撮りたいと、早朝にヤードに行きましたが、霧です。今まで、快晴ばかりが続いていましたので、霧が出るとは想定外でした。
ズリ山や付近の小高い丘からの俯瞰撮影を考えていましたが、 どうしようもありません。霧が晴れるのを待ちました。

▲ ヤードには、凸型ELが2台、DLが2台と蒸気機関車が4台、昼夜交代のために待機中でした。蒸気機関車は、1340・1369・1437・1544号機です。
運転手と話してみますと、富陽炭鉱と正陽炭鉱に向けて出発すると言われますので、ボケボケ写真になるだろうが、見てみることを主眼に置いて向かいました。


▲ 上左が正陽炭鉱行き、上右が富陽炭鉱行きです。煙は出ているのですが、霧にかき消されました。下左は、杏花炭鉱からプッシュでズリ捨てに上がってくる列車です。霧の中から雪が落ちてきました。零下の中、粉雪ですのですぐに積もりましたが、積雪量はわずかでした。下右は、昨日同様のズリ捨てです。

これは、大きくカーブして富陽炭鉱へと向かう列車です。
かなりの急勾配を爆炎で上って行きますが、雪でかき消されました。

残念ながら、今回はいい写真は撮れませんでしたが、電化・DL化で消えてしまったと言われていた鶏西には、まだ蒸気機関車が活躍しているのが確認できました。電化については、架線を張ればすぐにでもできそうですが、何か進ませない理由があるように聞きます。

と言って、まだまだこの状態が続くとも考えられません。行かれる方は、お早めにとお勧めします

初めての場所でした。列車時刻が分らないので、これが1番障害となりました。それでも踏切番のおじさんにしつこく付いて、過去の通過記録を見せてもらって、何とか撮れました。
いいポイントはいくつかありますが、1日1~2本ですので、覚悟して凍え死なないような準備をして待つしかないと思います。   Part 10 へ続く

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part8  鶏西鉱業集団鉄路 その2

第10日目 2月28日

昨日、部屋に戻ってからネット接続に再挑戦しましたが、やはり駄目です。早め寝ておこうとベットに入ってから、ふと書いてあるIPアドレスは本当なのだろうかとの疑問に気づきました。起きて、部屋に置いてあるデスクトップを立ち上げて、ネット接続のアドレスを調べてみると、全く違っています。これでは、いくら頑張ってもできるわけありません。
もう1度、LANケーブルを入れなおして、持込みPCにデスクトップと同じアドレスを入れると、 すんなりと接続OKになりました。多分、接続機器類を取り換えた時に、部屋のPCはアドレス変更したが、表示してあるアドレスは前のままで放置していたのでしょうね。中国では、疑ってみることから始めないと真実は見えてきません。改めて勉強しました。接続できましたので、深夜までPCにかじりついて日本のニュースやらを見ていました。

と、言うわけで今日は5時には起きて、ヤードで終結する姿を撮ろうと思っていましたが、昨夜の疲れか、ぼんやりとして9時過ぎの出発になってしまいました。目的地は昨日のロケハンで電化されていないことが確認できたズリ捨て線です。
まずは本線から分岐して富陽炭鉱へと向かう所までTaxiを走らせました。ラッキーなことに着いてすぐに汽笛が聞こえ正陽炭鉱行きの列車がやってきました。

10:21、逆向きの1340号機がやってきました。複線に見えますが、左は正陽炭鉱、右が富陽炭鉱への単線です。ここで右側線はカーブして直角に山に向かいます。

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朗報! 現役・鉄道同好会が地域貢献賞を受賞

たった今、現役の鉄道同好会から嬉しいニュースが入りました。
大学学生支援課より連絡があって、鉄道同好会が同志社大学2011年度地域貢献賞の表彰を受けることが決まったとのことです。この賞は、サークル活動などで顕著な功績のあったサークルを部門別に表彰する制度で、寒梅館夏まつりでの地域の子どもとの交流、同志社EVEでの展示活動などが評価されたとのことです。何かと内に内に籠る時代、積極的に地域・社会との交流を図ってきた、現役の皆さんの活動に敬意を表するとともに、今後の更なる活動の深耕を期待するものです。
なお、表彰式は下記のように行われます。
2012年3月16日(金)14:00~ 
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part7  鶏西鉱業集団鉄路 その1

第9日日目 2月27日

ロシアとの国境に近い 黒竜江省鶏西市、近辺には大小たくさんの炭鉱があり、専用線を蒸気機関車が走行していましたが、近年は電化・DL化が進み、残っている可能性があるのは、城子河地区のみだろうとの推測のもとに空振り覚悟でやってきました。

鶏西站のホームに降り立って分りましたが、思っていたよりも暖かい。マイナスには違いありませんが、零下20度はあるだろう、煙も期待できると期待していた冷たさはありません。昨年2月、12月と行ったウルムチの三道嶺の方がまだ冷たさを感じました。

站を出て、まずはホテル探しです。目の前に鉄ちゃんがよく利用する鶏西賓館があります。入って空室はあるか、いくらなのか、部屋を見たいと告げると案内してくれました。通されたのは、3階でPCも置いてあり、そこそこの部屋の広さもあって、朝食付きで128元(約1,600円)とくれば、大歓迎です。
即決で部屋で持込みのPCにLANケーブルをさし込んでみましたら、うまくネット接続ができません。どうしてかと聞くと、壁に貼ってあるIPアドレスを見てセッティングしてもらわないと、接続できないと申されます。
一昔前にはこんなケースが殆どでしたので、手慣れていましたが、OSがどんどん変わってしまったので、さてどこにあったのかと探すのに一苦労です。
ようやく探し当てて、指定された接続コードを全て入力しましたが、撥ねられます。何度やっても状態は解決できずで、担当者を呼びましたが同じでした。

仕方ないと諦めて出かける準備をしていたら、昼夜の交代でヤードに機関車が終結する8時をとうに過ぎていました。 はまり込みやすい性格は損をします。急いでTaxiを捕まえて城子河站の踏切に向かいました。
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阪急900型

900型に乗った覚えがある・・・と思ったら神戸線用だったらしい。と言うことは子供の頃乗ったのは?

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part6  哈尔滨(ハルピン)から鸡西(ジーシー)へ

第8日目 2月26日

① 黒河20:40(K7036次)→ 7:08ハルピン
② ハルピン22:09(K7075次)→6:51鸡西

早朝定刻にハルピンに到着しました。駅に荷物を預けて街を散策したいのだが、還暦を過ぎた老体はまずは体を休みたいと申します。こんな時に中国のホテルでは、早朝からでも部屋での休憩ができます。夜行列車で到着した者にとって大変ありがたいものです。駅前の龍運賓館(200元=約2,500円)にチェックインをしました。風呂に入って、ゆっくりしてPCでネットを見ながら、考え付くのは、美味しいものです。
ハルピンは3回目の訪問です。中国では一番美味しい水餃子を食べられるのはハルピンと思っておりますので、昼夕食と、散歩も兼ねて石畳の道がある中央大街に行ってみました。この日の気温はマイナス2℃で暖かく感じられました。
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小田急デハ1600形/廃車後の行方

デハ1600形は、関 三平様が解説されておられる通り、昭和17年に10両新製されているが、相棒のクハ1650形の経歴は少々複雑であるのでごく簡単に説明する。
最初に作られたクハ1651~1653は、昭和16年から19年にかけて鉄道省払下げの木製客車の台枠を使用して車体を新製した。スタイルはデハ1600形とは扉位置が異なり、HB車(皆さん言われているブサイクな車両)の制御車として使用され、後に制御器をABF車用に変更された。
昭和27年に戦災国電の復旧名義でクハ1654と1655が作られたが、台車のみ流用してデハ1600形と同形の車体を新製した。
昭和28年にクハ1656~1660の5両を新車として新製したが、台車は中古のTR11を使用した。この時点でMc、Tcともに10両ずつとなり、下2桁同一番号車で固定編成を組み、連結する側の運転台が撤去された。昭和33年から車体更新が実施され、正面窓のHゴム化、客室窓のアルミサッシ化、車内のアコモ改善等が行われたが、最初に作られたクハ1651~1653は、旧車体を廃棄してデハ1600形と同一車体を新製した。
廃棄された旧車体のうち2両分は上田丸子電鉄に売却され、元信濃鉄道買収車のモハ5362、モハ5363の鋼体化に使用された。
戦後の一時期、新宿~小田原間の特急にも使用されたが、晩年はローカル用で、昭和43年から45年にかけて廃車となり、主電動機等の一部電装品は4扉の大型車デハ4000形に流用された。車体は更新されており状態が良かったため振子式の試験車となったクハ1658と幼稚園の図書室に利用されたデハ1601以外は、関東鉄道、岳南鉄道等で再起した。

(1)関東鉄道
クハ1650形が7両入線し、キクハ1~4、キサハ65~67となった。
キクハ1~4
昭和44年に自社工場でキクハに改造した。旧車号は順に1655、1651、1652、1653である。2個エンジンの元小田急御殿場線直通準急用のキハ751~754と編成を組むことが多かった。片運で運転台はキクハ1と3は取手向きに、2と4は下館向きに設置されている。

 キクハ1/クハ1655の改造車。1655は、昭和27年に木製省電サハ19023の戦災復旧車名義で台車を流用して車体を新製した。デハとの連結面は広幅貫通路であったため改造時に両側の窓はそのままで通常サイズの貫通扉を設置した。(45-3-15、下45-9-14 水海道)

キクハ2/クハ1651からの改造車。昭和17年、鉄道省の雑形木製客車の台枠を利用して小田急クハ602として誕生。東急と合併時の改番でクハ1652となった。昭和33年にデハ1600形と同一スタイルの車体を新製して乗せ換えた。同時期にデハが新宿向きを奇数編成に、小田原向きを偶数編成に揃えるため、1601+1651と1602+1652の車号を振り替えたため、クハ1652はクハ1651に改番された。(50-1-3、下58-5-7 水海道)


キクハ3/クハ1652の改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ601→東急クハ1651→小田急クハ1651→車号振替による改番クハ1602→関東鉄道キクハ3。元小田急のキハ752と753の中間車として使用中。(50-1-3 水海道)

キクハ4/クハ1653からの改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ603→東急クハ1653→小田急クハ1653→関東鉄道キクハ4。(54-9-14 水海道)

 キサハ65~67
旧車号は順に1654、1656、1660である。キサハ65と67は、書類上は昭和48年西武所沢工場製となっている。
キサハ65/クハ1654の改造車。昭和27年に戦災国電の復旧名義で台車を流用して車体を新製した。乗務員室扉は埋め込まれて小窓化された。 (50-1-3 水海道)

キサハ66/クハ1656の改造車で昭和28年の新製車。台車は中古のTR11であった。乗務員室扉が残されている。(58-5-7 水海道)


 キサハ67/クハ1660の改造車で、昭和28年の新製車である。写真は無いが形態はキサハ65と同じである。 (50-1-3 水海道)

 岳南鉄道
昭和44年から47年にかけてデハ1600形4両(1604、1606~1608)、クハ1650形1両(1659)の5両が譲渡された。
モハ1108・クハ2106
昭和44年、西武所沢工場で更新の上入線した。モハ1108の旧車号はデハ1607、クハ2106はクハ1659である。2両固定編成でモハのパンタは連結面に移設された。


モハ1108/
(49-2-17 岳南江尾)

クハ2106/
(45-3-11 岳南江尾)
 
 モハ1601、1602、クハ2601
昭和46年にモハ1601、クハ2601、47年にモハ1602が入線した。旧車号は順にデハ1606、1604、1608である。モハ1601とクハ2601が固定編成、モハ1602は増結用の単独車である。

モハ1601+クハ1601+モハ1602/
(50-9-14 岳南江尾)

モハ1601/
(49-2-17 吉原)

クハ2601+モハ1601/
(49-2-17 吉原)

近江鉄道
昭和45年に元東急のモハ201、202、サハ101の車体更新のため、デハ1609、1603、1610の車体を購入、更にモハ201と202をMT編成にするため、西武所沢工場の新製車名義のクハ1201(旧クハ1657)、クハ1201(旧デハ1601)を購入した。サハ101は両運の電動車化してモハ203となった。
その後、三岐鉄道から元小田急デハ1605改造のモハ140を譲受け、モハ205となった。

クハ1201+モハ201
(47-5-28 貴生川)

デハ1600形と相棒のクハ1650形は、車体は比較的新しく更新修繕により車内のアコモも改善されていたが、沿線人口の急増により車体の大型化に迫られ、やむなく電動機を流用して大型のセミ新車を製作した。旧車体は状態が良く、ローカル私鉄には手頃なサイズであったため、関東鉄道、岳南鉄道、三岐鉄道、近江鉄道で再起した。
キクハについては、米手作市様のリクエストにより、写真と共にやや細かく書いたつもりである。その割には地元の近江が1枚しかないやんけと言われそうであるが、ネガが見つからず見切り発車したためである。

引続きHB車(皆さんが言われているブサイクな車両)についても小田急廃車後の行方について書いてみたい。

浜大津貨物線の思い出

先日の藤本様の投稿「昭和40年ころの浜大津界隈(3)」の最後のほうに、浜大津貨物線の86の写真があり、懐かしくなって、古いネガを探してみました。浜大津貨物線はご存知の通り、江若鉄道廃止と同時に廃止されましたが、最後まで8620が貨車を引っ張って膳所と浜大津の間を走っていました。湖岸側が3線区間となっており、もともと国鉄の線路に当時の大津電車軌道が第三レールを引いて営業したものですから、貨物が通るときはこの区間が閉塞区間となって浜大津から石山寺方面の電車はしばらく間隔があきました。この写真はいずれも196811月、丁度廃止の1年前に撮った物で、湖岸道路側から撮った写真にはこの年開催したびわこ博の看板が出ており、現在西武百貨店やマンションが立ち並ぶにおの浜一帯はこの時に埋め立てられたものです。また、このあたりの湖岸道路は確かまだ片側1車線で、湖岸通りより北側には1966年に開業した京阪レークセンターがありました。

私の自宅は大津駅の裏、山手のほうですが、夜になるといつも梅小路へ帰って行く汽笛の音が聞こえてきました。当時、ラジオのベストヒット番組が始まった頃で「9500万人のポピュラーリクエスト」(この当時人口が9500万人だったのでしょうか)を聞いていたときに汽笛が鳴ったような記憶があったので調べてみると、番組は20002100の放送でした。私のハンドルネーム「大津の86」というのは恥ずかしながら、ラジオ番組にリクエスト出していたときの名前で、40数年ぶりまたこの名前を使うこととなりました。

浜大津貨物線の写真は2,3度は撮りに行った記憶がありますし、一度は父の8mmを借りて島の関付近を撮ったように思うのですが、残念ながらここに載せたもの以外はどうも見当たりません。ネガの状態も悪くお見せできるような代物ではないのですが、つい懐かしくなって出させていただきました。

「きたぐに」「日本海」を送る (5)

「日本海」 -1-

いっぽうの「日本海」、その源流は戦前まで遡る。日本海縦貫線が全通したのが大正13年のこと、2年後には早くも神戸~青森間に寝台車、和食堂車を連結した急行列車が運転される。戦局の悪化に伴い、昭和18年に廃止されるが、戦後の昭和22年に、大阪~青森間の急行として復活を果たした。
その後、特急だけでなく、急行列車にも愛称を付けることになり、昭和25年10月ダイヤ改正から、この列車には「日本海」の愛称が与えられた。このダイヤ改正では、東海道・山陽本線を中心とした急行12本に「明星」「彗星」などの愛称が付けられた。当初の「日本海」は座席車のみだったが、のちに特2、2等寝台、食堂車が連結され、長距離急行らしい編成とはなるが、日本海縦貫線はまだ電化には程遠い状況で、青森までは23時間近くを要していた。
転機となったのが昭和36年10月改正で、日本海縦貫線では初の特急となる「白鳥」が誕生、有効時間帯の調整のため、「日本海」は時刻が大幅に変更され、さらに新津・新発田経由を改め、新潟にも立ち寄るようになり、大阪~新潟間のアクセスが向上した。その後も、電化の進展により、到達時間も次第に短縮されるようになるが、なにせ長距離を走り抜く客車列車、”遅くて汚い列車”のイメージが付きまとった。
  ▲新幹線開業直前の山科でとらえた、急行時代の「日本海」(昭和39年)
そして、昭和43年10月改正、日本海縦貫線に待望の寝台特急が新設される。列車名は「日本海」がスライドして使用され、従来の急行「日本海」は「きたぐに」に変更された。
車両は20系オール寝台の9両編成、翌年からは13両に増強される。牽引機は、大阪~米原EF65、米原~田村DE10、田村~金沢EF70、金沢~新津EF81、新津~秋田DD51、秋田~青森DD51だった。
  ▲特急となった初日の「日本海」を、福井国体のお召し撮影の途上、米原で写すことができた。交直接続はDE10が牽引、DE10としては初の特急牽引となった(昭和43年)▲▲田村以降の牽引はEF70だった
  ▲DD51に牽かれて奥羽本線を行く特急「日本海」。新設から1年間は20系の9両編成だった(白沢付近、昭和44年)  ▲雪煙を上げて羽越本線を疾走する(象潟付近、昭和46年)
昭和47年10月改正で、羽越本線の電化が完成、これで米原~田村間を除いてEL牽引になるとともに、大阪~米原間はEF58牽引に変更される。
昭和50年3月改正で米原経由から湖西線経由となり、客車も14系寝台車となった。季節臨の特急「日本海」1往復が14系座席車で増発され、昭和53年10月改正からは定期列車に格上げされた。この結果、「日本海1・4号」「日本海3・2号」の2往復体制となり、客車はそれぞれ24系25形、24系寝台車となっていた。
その後も改正のたびに、客車編成の移管、共通運用の変更、両数の増減などが行われる。JR化後の昭和63年3月、青函トンネルを含む津軽海峡線開業により、「日本海1・4号」は函館まで延長された。
  ▲米原~大阪間の直流区間は、当初EF65牽引だったが、途中で他のブルトレとともにEF58に変更された。(山崎付近、昭和50年)
  ▲「日本海」のEF58牽引は2年半続いた。大阪へ到着後、向日町運転所へ回送されるため、山崎では往復が撮影できた(山崎付近、昭和50年)  ▲京都駅を発車した「日本海」の後部ナハネフ20、20系の活躍は7年間続いた(昭和50年)

空飛ぶ電車をご存知ですか

幼い頃、親父からドイツには“空飛ぶ電車が走っている”と聞かされた。電車は上に電線があってポールかパンタグラフで電気を摂り、下に線路があって車輪が回っているのに、どうして飛ぶのかと思っていた。小学校入学の頃、ドイツの飛行機に被れていた兄に“空飛ぶ電車”について聞いたら、「親父の言っているあれか、ヴッパータルの懸垂電車のことだろう。」と笑いながら言ったが、何処だとはとは教えてくれなかった。雰囲気からどうも「ど」田舎ではないかと思い、親父に「地図に載ってないが、どうやって行くのや。」と聞いてみた。「そうか、化学工業都市で有名な町やが、戦争で壊滅したかな?デュッセルドルフから汽車で1時間ぐらい、どっちの方向やったかな……。」20年前の事となると仕事に関係ある事は覚えていても、それ以外は忘却の彼方となるようだ。それでも印象深いものがあったようで、「川の上を走っていた。」と言ってくれた。

1980年、始めてドイツに行くことが出来た。フランクフルトの本屋で「ドイツの地図が欲しい」と言ったら道路地図が出てきた。西ドイツ圏だけだが、ヴッパータルはデュッセルドルフの東に記されていた。こうなると行って見たい。どんな電車が走っているのか、上野動物園の懸垂電車を一回り大きくしたものだと言うことは文献で知ったが、どんな地形でどんな川の上に線路があるのか、電車の内部はどうなっているのか、知りたいことで一杯であった。

2003年、鹿島さんに連れられ、吉川さんを誘ってのドイツ一周路面電車巡りで、やっと「空飛ぶ電車」を訪ねることが実現した。ところがトーマスクックの時刻表では、細い線がデュッセルドルフから東方向にあることはあるが、駅名も発車時刻の記載もないのである。やはり「ど」田舎らしいと心配になり、鹿島さんに「列車本数の少ない不便なところですか?」と尋ねてみた。「ヴッパータルはドルトムントからケルンへの本線筋にあり、ICではハーゲンの次の停車駅になる、ヴッパー川沿いに細長い町です。ちなみにタル(tal)とは谷又は谷底のことですな。沖中さんの見つけたコース、デュッセルドルフから行くようにしましょう。」と、老人の願いに応えてくださった。

その日は2003620日、朝815分頃デュッセルドルフを客車編成で出発。農村風景の中を走ること約45分、鹿島さんは「1駅手前で降りて西端の終点から乗ってヴッパータル市内に入りましょう……。」とおっしゃった。1駅手前(駅名不明)で降りて駅前広場の正面を左折、十字路に出ると「空飛ぶ電車」のレールが空中左右に横たわっていた。暫くすると右(西)から左に2車体1組の懸垂電車が軽い音と共に横切った。次いでカメラを構えていると左から右へ、有難いことに地上の交差点ではバスが渡ってくれた。西端フォルヴィンケル駅へは街路からエレベーターで上がる。終端の奥は車庫を兼ね、本線は手前でループになっていた。以下、写真をご覧下さい。

空飛ぶ電車Hbfで下車、DBHbfへは徒歩で約3分。IC3のビュッフェで、生中を乾杯!ケルン経由でボンに向かったのでありました。

 

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

西の終点駅の乗り場は右側
西の終点駅の乗り場は右側
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保蝌・?
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保存車
車内:右側は扉、通路、立蟶・?左側に1箱2人掛け12脚の座蟶・?
車内:右側は扉、通路、立席。左側に1箱2人掛け12脚の座席。
街路の上を走る
街路の上を走る
川の荳・?乗り場にはエレベーターで上る
川の中の乗り場にはエレベーターで上る
ソンボルネル通りから東は川の上
ソンボルネル通りから東は川の上
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレー繧・?電制と油圧
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレーキは電制と油圧
路線の荳・?あたりのDB・Hbf至近駅で下車
路線の中央あたりのDB・Hbf至近駅で下車

本日の185系(157系色)

犬伏です。

157系色の185系は昨日2月29日には「あかぎ1号、12号」の運用に入っていたようで、本日31日は上野1012着の「あかぎ6号」14連の前7両、上野1200発「草津5号」14連の後ろ7両の運用に入っていました。その折り返しの「草津6号」14連の前7両で上野に19:18到着し、上野2000発の「あかぎ3号」の後ろ7両の運用なりました。

上野駅の鴬谷寄りにある引上げ線で初めて見た姿はクモハ157の再現かと思うような姿でした。

手前OM05編成と157系色のOM08編成です。あかぎ6号と草津5号の合間に留置線で休み一旦引上げ線に入り折り返し上野駅16番線へ。

 

上野12:00発の草津5号、OM05+OM08編成の14連です。左は同時発車のスーパーひたちです。

鴬谷にて上に写真の後追いです。

草津6号です。OM08+OM05の14連です。鴬谷にて

違う色の連結部です。

3月3日は上州踊り子号に運用されますので、明日はどの運用になるか楽しみです。

雪景色の中央東線

関東にも大雪です。そこで鳥沢~猿橋間の鉄橋へ出向きました。

ここを走る115系も、近々置き換わるだろうと思ったからです。

八王子駅でのポイント故障で、ダイヤは大幅に乱れました。

先ずは、426M。

次に、536M。

雪を舞い上げダイヤ回復に努める、58M/あずさ8号。

ほぼ定時通過の80レ、EH200-22。

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part5  国境の町、黑河(ヘイフー)のあじあ号展望車

第7日目 2月25

黒河20:40(K7036次)→ 7:08ハルピン

黑河へ来た目的は、国境の町の終着駅を見たかった以外に、是非とも会って見たい車両があったからです。ただ、情報は古く既に解体されているかとの不安がありましたが、行って確認する事にしました。

朝食後、ホテルに荷物を預けて駅に向かいました。まずは、10日後の切符購入です。昆明から成都までの切符は今日、駅での販売が開始されます。シーズンでは、団体客におさえられて中々入手困難ですが、この時期は大丈夫です。ネット残席情報でも大半が残っています。難なくゲットできました。

▲ ローカル駅だけあって、窓口は1ケ所だけですが、直ぐに買えました。
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「日本海」「きたぐに」を送る (4)

「きたぐに」 -4-
  ▲定期列車としては残りわずかとなった「きたぐに」(保内付近)
2年前、「きたぐに」の乗車ルポを書くようにとの依頼が出版社から入り、大阪から自由席に乗って新潟まで行ったことがある。一年を通じて流動の少ない冬のこと、車内はガラガラだったが、仔細に観察するとさまざまな発見があった。
  ▲大阪駅で発車を待つ。駅改良工事のため10番線からの発車
旅客の流れにも、単に関西と新潟を結ぶ夜行と結論づけられないものがある。定期券でも乗れるため、彦根・米原・長浜などへの最終電車的な役割がひとつ、北陸本線内では一番電車的な役割があり、例えば、直江津で北越急行乗り換えで上越新幹線で首都圏へ向かえば、8時44分に東京着が可能だ。また上りで見ると、「はるか」に乗り換えて早朝の関空便搭乗という手もある。料金においては、夜行列車は夜行バスに勝ち目はないが、大阪~新潟間で見ると、バス9450円(通常期)、きたぐに自由席9675円(往復割引適用)と、唯一拮抗している例であり、バスに比べて格別に車内が広い「きたぐに」に軍配が上がるはずだ。
  ▲金沢では、留置中の485系と顔を合わした

  ▲信濃川が見えてきた
末端区間の新津~新潟間では、下りが昭和63年3月から快速となっている。新潟着が8時29分で、多くの通勤客の乗車がある。その観察も今回の出版社からの要請であった。確かに、自由席車4両を目掛けて、各駅からの乗車がある。ただ、不可解だったのは、夜が明けて、長岡、見附、東三条あたりからも、一見して通勤客と判る乗車がある。しかし、ここはまだ急行区間だ、果たして急行料金の収受が正しく行われているのか疑問に思わざるを得ない。と言うのも、西日本区間では、乗車のある都度、過剰なくらいに車内改札を行っていた専務車掌が、東日本区間に入った途端、ぱったり車内改札を止めてしまった。もともと東日本では、無人駅区間でも、車内改札が全くないどころか、車内巡回すらないのは、前から気になっていた。まるで東日本に遠慮したかのように弱気になってしまったのが今でも気に掛かる。
新潟駅に到着して、続々と降車する客を見ていると、「きたぐに」は当分安泰で、北陸新幹線の開業時までは現状維持かと推測して、そのルポを締めたものの、フタを開けてみると、定期列車の廃止という、意外な終幕が巡ってきた。

 

 

 

 

快速区間の新津以降の自由席車内
  新潟に到着、ホームは下車客で賑わう

本日の草津1号

3月17日改正で上野駅朝7時20分発の草津1号が無くなるようです。(10時発が草津1号となります)
通常は朝7時過ぎに上野に着きますので、毎日「あけぼの」と「草津1号」を見に行くのが日課になっていましたので残念です。
「7時20分発の特急草津1号は16番線より発車します。ご乗車の方は16番線でお待ちください」という案内放送も聞こえなくなります。
昨年12月から本日2月27日までの写真をご覧ください。

本日は曇っていましたので ふつうの写真です。鴬谷にて


1月24日です。前日雪が降りましたが当日は朝から良い天気で雪景色の草津1号となりました。
この冬は寒い日が多いです。


1月13日は後ろ7両が湘南色の編成(OM03)でした。上野駅16番線です。


その後鴬谷を通過する 湘南色の編成です。

1月6日 今年の初撮影です。冬のこのころだけいい位置に太陽が昇りますので太陽を入れた写真が撮れます。


昨年12月12日の湘南色の編成を前にした14連です。(あまり後ろは写っていませんが)後ろの7連は定期特急だった水上1号のなごりです。特急草津は今後すべて7連になるようですのでさびしくなります。3月3日の上州踊り子号と3日4日のあまぎ号は157系を模したあまぎ色の185系(OM08)が登場するそうです。今後185系は上野口 東京口ともに置き換えが予定されています。中途半端な特急車と言われた車両ですが国鉄の電車が無くなっていくのはさびしいものです。
犬伏

小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。

「日本海」「きたぐに」を送る (3)

  

583系電車になった「きたぐに」(山崎、平成4年)

「きたぐに」 -3-
14系客車の「きたぐに」は、昭和60年3月改正からは、向日町運転所の583系電車12両編成に置き換えられる。583系は、夜行特急の廃止、他形式への置き換えにより、主な働き場所であった山陽・九州地区からは、昭和59年2月改正で撤退しており、大量の余剰を抱えていた。一方の14系客車は、まだ車齢が若く、ほかへの転用が可能だった。「きたぐに」から捻出された14系客車は、20系の急行「銀河」を置き換えた。
「きたぐに」にはA寝台の固定的な需要があることから、ロネを連結することになり、3段寝台のサハネ581を2段式A寝台に改造したサロネ581が誕生した。特急形電車では、初の”格上げ車”である。また形式はそのままで、寝台機構をロックした座席専用車も誕生した。
ところで「きたぐに」のネーミングだが、昼行急行の愛称は、旧国名、観光地などの地名が原則であることと照らすと、「きたぐに」という抽象的な名詞は、その範疇からは外れるように思われた。ところが、本で由来を見ると、京から新潟へ向かう古道の北国街道が由来で、これを訓読みしたのが「きたぐに」だと言う。どうも眉唾ものだが、これなら固有名詞だから理にかなっているとは言える。しかし、それなら正しく「ほっこく」とすべきだろう。
 

当初は583系12両編成だった(山崎、昭和61年)。昭和61年11月改正から10両に減車された。
 

平成4年度からシュプール&リゾート色へ変更され、翌年には全車の変更が完了した(山崎、平成6年)
 

さらに平成9年度からはJR西日本の特急の標準色である、現在の塗色に改められた(山崎、平成20年)

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part4     国境の町、黑河(ヘイフー)へ 

第6日目 2月24日

チチハル 5:51(4083次)→16:50 黑河

▲ 新旧並んでいるチチハル駅です。古い方は満鉄時代ですが、中国でも一般的には、古い方を壊してから新しい駅舎を建てているので、何か意図的なものを感じます。古い方は重厚ですが、新しい方は、大きいだけで安ぶしんとの私の印象です、

【中盤の切符購入】
昨夜は、中国鉄路乗り鉄に精通している鄭州鉄道日記さんと連絡を取り、蒸気機関車の隠れ里探究の旅から乗り鉄への変更を伝え、切符購入の最新情報を教えていただきました。既に北京までは購入済みですが、北京以降の切符購入を自らしなければなりません。

目的地は、今回のクローバー会写真展に佐竹先輩が展示されておられる成都と昆明を結ぶ成昆鉄路です。以前から中国鉄路随一の車窓を誇るこの鉄路を乗車してみたいと思っていました。問題は、どの時間帯の列車に乗れば、一番良いのかということですが、何度も乗車しておら鄭州鉄道日記さんは、雲南寄りがお奨めです。朝に昆明を出るK114次に乗られたらいいでしょうと教えていただきました。

インターネットで残席情報を検索して残席を確認後、チチハル駅に行って、まずは北京から昆明までの切符を買い求めに参りました。
切符の発売方法が最近変ってきています。12日前にネットと電話予約受付、10日前に全国の駅で購入可能になりました。ただこれは基本で、実際は発売日や時間が必ずしも統一されていません。各駅の都合でマチマチです。購買時も寝台列車の下段が空いていても上段しか売ってくれなかったり、調べもしないで没有と返事をしたりで、オンライン化ができてもサービスの徹底はなされていませんので、厄介です。

チチハル駅ではいかがなものかと試してみましたら、北京から昆明までの切符が普通に買えました。
”おお~、これは便利になった”と感激です。いつも切符の購入では、大変苦労しているのです。これで切符は、10日前には確保でき、予定を確定できる事が確認でlきました。以降は、まだ発売前なので、黑河に着いてからです。 続きを読む