かつてJR 北海道が開発投資をして実現しなかったDMV(Dual Mode Vehicle)、現代の軌陸車が12月25日から営業運転に就いたそうです。中国新聞の記事を転載します。
昭和の電車 改訂版(240)ー知多鉄道デハ910号ー
二条駅 のすたるじあ
先日の投稿コメントにご感想を頂きましたので、平成元年(1989)の山陰本線二条駅の駅をじっくり観察した時の写真を出してみます。
今や梅小路蒸気機関車館も京都鉄道博物館の一部になり、その中のジオラマみたいな旧二条駅舎ですが、この頃は山陰本線の前身、京都鉄道のターミナルの風情や、広い構内に臨して青果市場があった名残りなども感じられました。
明治30年(1897)に開業し90年以上、この地に君臨した旧二条駅も撮影の翌年から高架工事が始まり、曵き家されて、1996年には梅小路に移築されました。
諸先輩の皆様の方がずっと思い出も多いと思いますが、現役最後の時代の風景をご覧になられてください。
撮影は北野の天神さんの帰りなので6月25日の夕刻です。
五十年前に見た 当たり前の風景 -7-
今年の行事先の50年前(2) 名松線今昔
クローバー会の行事先の今昔、続けます。12月12日には、名松線の乗り歩き会に参加して来ました。“歩き”はほとんどなく“乗り”が目的で、列車に乗って終点まで行き、すぐ折り返して来るだけですが、みんなでクロスシートに座って、松阪駅名物の駅弁を食べながら、景色を眺めたり、ダベったりと、ただ乗っているだけが、この時期、こんなにも楽しいことかと思いました。
50年前の昭和46年にも、一人で名松線を訪れたことがあります。この時は、南紀均一周遊券で回った時でした。九州・北海道の均一周遊券は何度か使用したことはあるものの、南紀均一周遊券はこの時だけでした。紀勢本線に夜行の鈍行が走っていて、参宮線・紀勢線東部で写したあと、夜行に乗って次の日は紀勢線西部・和歌山線に行くなど、狭い範囲でも有効な使い方ができたのでした。終点、伊勢奥津、交換駅の家城での、ほぼほぼ定点対比です。▲50年前の名松線の終点、伊勢奥津駅、松阪14:47発429Dに乗って、伊勢奥津に16:06に着いた。島式ホームに、使われていない貨物ホームもあった。C11の時代に使われていた給水塔が印象的だった(昭和46年7月)。▲10日前の伊勢奥津駅、構内は棒線駅になるなど単純化されたが、給水塔がそのまま残っていた。 続きを読む
久しぶりの模型運転会
先週の名松線イベントに続き、19日には京都三光堂において模型運転会が行われました。前回の運転会は2019年8月でしたので2年ぶりの開催です。前回は暑い中、二階HOの運転場は冷房もなく、汗だくでの運転でしたが、今回は一階のNゲージともども快適に運転を楽しむことができました。運転者はHO3名、N4名(内1名はHO,Nの両方)そのほか4名の見学者がありました。三光堂はコロナ感染が拡大していた折はレイアウトの運転場は閉鎖していましたが、再開後は利用者も増えて結構予約が詰まっています。3時間の貸切で運転を楽しんだ後、近くの居酒屋で打ち上げと忘年会を開催、8名の方が参加しました。忘年会も2年ぶりの開催となりました。今年はコロナ禍ながら感染が落ち着き始めた10月以降を中心に4件のイベントを開催することができました。今年のイベントにお手伝い頂いた皆様、参加された皆様ありがとうございました。来る年が皆様にとって良い年となることを願っております。
昭和の電車 改訂版(239)ー愛知電鉄デハ3080ー
準特急さんの貴重なレポートをご覧下さい。
愛知電鉄デハ3080の成れの果て
大和川橋梁
山科の大写真展を拝見した後は紅葉の叡電や久しぶりの大和川散策を試みた。以前、レイル誌で武庫川、多摩川をめぐる鉄道を掲載させていただいたが、鉄道密度の濃い大和川周辺も興味は尽きない。11月15日朝、まずJR阪和線から海の方に向かった。最近はどこも家やマンション等が立ち並び防護柵等もあって撮り難く、その点、鉄橋は無難である。但し、編成中心の単調な写真になることは否めない。
JR阪和線杉本町-浅香
JR阪和線の大和川橋梁は浅香駅ホーム先端が格好の撮影場所であったが私鉄時代のホームなのか狭くて危ない。それに昨今の評判の悪い撮り鉄に見られないように即河原に出た。10年くらい前は103系や205系も見られたが、今はステンレスばかりで味気ない。
狭いホームから撮った2012.12.27の天王寺行き103系の後追い。▼
五十年前に見た 当たり前の風景 -6-
▲伊賀上野で、国鉄「柳生号」のキハ35系と並ぶ、当時の近鉄伊賀線のモニ5182 (旧)伊賀鉄道が電化して伊賀電鉄となった大正15年に、デハ1~6として製造された荷物室付きの半鋼製。デハニ1~6と改番され、関西急行鉄道(関急)発足時にモニ5181形5181~5186に改番、近鉄に引き継がれた。(旧)伊賀鉄道の出自で、長らく伊賀線の主として住みついたが、昭和52年に廃車となった(以下、昭和46年5月)。
今年の行事先の50年前(1)
今年もあと10日ほどになり、クローバー会の活動の振り返りとして、最近実施された行事先の50年前を見ていきます。中止されたホームカミングデーの代替行事として、ことしは11月7日に伊賀鉄道で貸切列車を運転しました。現役生も参加して、久しぶりの大人数の行事となりました。東急のオリジナル塗装車を充当していただき、途中駅での停車時間も長く、たっぷり撮影を楽しむことができました。
近鉄時代の伊賀線には、さまざまな出自の個性的な車両がいて、数年ごとに、あらたな転入車両と入れ替わっていて、撮影年代も推察できたものです。ちょうど50年前にも、国鉄と接続する伊賀上野周辺で撮っていました。と言っても、主目的は、伊賀線ではなく、その年に放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」の舞台となった柳生への観光客の輸送、また折からの“SLブーム”に乗じて運転された「SL柳生号」(当時の愛称は「汽車ポッポ柳生号」)を撮影するためでした。
五十年前に見た 当たり前の風景 -5-
昭和の電車 改訂版(238)ー福井鉄道51号ー
静岡鉄道近況(2021年末)
ご無沙汰しております。先日のクローバー会撮影会では大変お世話になりました。久しぶりに多くの方々とお話ができ楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。
今年の秋から、転職で再び関東に引っ越しました。気が付けば静岡→京都→埼玉→神奈川→静岡→東京と転属(?)を繰り返しておりましたが、そろそろ落ち着きそうです。
静岡では3年半ほど暮らしていました。陸送撮影に引退車両の追っかけと撮り鉄としてはイベントが盛りだくさんでした。
そして家から最も近かった静岡鉄道は新車導入ラッシュ。昨今の情勢と相まって、3年ほどで姿が大きく変わりました。
私自身の備忘録も兼ねて簡単にまとめさせていただきました。
五十年前に見た 当たり前の風景 -4-
二条駅を偲ぶ(1)▲二条駅の北にある旧二条通の踏切から、駅構内に入って、発車する下り列車を撮ることができた。列車は、日曜日の夕方17時10分発の1827レ、日曜日に運休する列車の牽引機を、翌日月曜日に使用のため、次位に回送として連結して、重連で二条を発車するところ、先頭は、梅小路C57のなかで、絶対的な人気のC57 5、次位は煙で隠れてしまった。右手に広い貨物ヤードが広がっていて、ガスタンクも見えていた。左手にも引込線があり、ここは自動車の貨車輸送の積み卸し場で、「ク」が停車している(昭和46年1月)。
山陰本線ほど変貌を遂げた線区も珍しいと思います。50年前は非電化単線、一時間に一本程度、旧型客車やDCが侘しく走っていたものが、今や、複線電化、15分ヘッドで電車が走る、都市近郊路線になりました。前回の馬堀付近も新線、駅移転とすっかり変わりましたが、今回の二条駅周辺も、高架化、付近も再開発されて、劇的に変わったところです。馬堀へ行くにも、市内に住んでいた当時は、二条駅で乗り降りしたもので馴染み深い駅でした。時には、学校を終えて(サボって)、1系統の市電に乗って二条駅まで行ったこともありました。明治37年建築、和風の駅舎も風情がありましたが、ここでは、手軽な撮影地としての二条駅を見てみました。 続きを読む
五十年前に見た 当たり前の風景 -3-
当時走っていた山陰本線のもうひとつのDL、DF50に参ります。当会にも、DF50信奉者がおられ、当欄でも拝見しています。私もDLのなかでは、いちばん好きというか、もっとも親近感を感じたDLでした。50年の前のもっと前、海水浴行きなどで山陰本線を利用すると、先頭が蒸機でなく、DF50だと、快適な旅が約束されて、ホッとしたものです。当時はまだ茶色の旧色の時代、ドドドッというエンジン音を聞きながら、紫煙の匂いを嗅ぎながら、五感で鉄道が近代化へ向かって行くのを感じたものでした。▲嵯峨野の竹林を抜けて1826レ DF50 559 (昭和46年4月)
嵐山で ひととき鉄気分
割り込み失礼します。冬の京都の誘客策として、各地域で行われた夜間のライトアップ事業ですが、一定の効果があったとして、今年限りでの終了がアナウンスされています。このなかで、17年の歴史を持つ「京都嵐山花灯路」も幕を下ろすことになり、去る12月10日から行われています。観光客相手のイベントには、ほとんど関心が無かったのですが、“今年で終わり”の声には勝てず、とうとう見届けに行ってきました。それを後押ししたのは、京都市民になって手に入れた待望の敬老乗車証、コレを使うと、乗り換えなしの一系統で現地まで到着できる、スグレモノです。ほんとに便利になったものです。さて、点灯開始の頃に着くと、渡月橋付近は多くの人で賑わっています。背後の山までライトアップされて、これはこれで、なかなかのモンです。しかし、ここでも“鉄”の血が騒ぎます。ここから、ちょっと横道に入ってみますと‥。
▲嵐電嵐山駅は、常設の電照ポール「光の林」があって、ここも見物客でにぎわっている。東側の踏切前から発車前の嵐電を。
▲▲山陰本線の野々宮踏切へ行くと、ラッシュ時の複線に、上下の特急、普通が来て、4本待ちとなった。見物客の列がたちまちできる。開くまでの間、名残の紅葉を入れて‥。
五十年前に見た 当たり前の風景 -2-
山陰本線のDL(1)
▲ギラリのDD54 2が862レを牽いて馬堀の築堤を行く。DD54一次車特有の特徴あるフォルムが浮かび上がる。50年前の山陰本線のDLは、あのDD51は、まだ一両も入線しておらず、DD54、DF50という、今も関心の高い両機が、旅客、貨物の牽引を担っていた(写真は昭和46年1~4月撮影)。
今から50年前の昭和46年には、京都周辺の鉄道で、二つの大きな出来事がありました。ひとつは、北丹鉄道(福知山~河守)の休止(のちに廃止)であり、もうひとつは山陰本線京都~園部を走っていた、梅小路区のC57の廃止、DL置き換えです。いずれも、DRFCでは、行事を行って見送りをしています。当時の山陰本線の客車列車・貨物列車は、蒸機牽引のC57より、DD54・DF50のDLが多かったものの、どしても眼はC57に向いていました。DLは撮っていたものの、顧みることはほとんどありませんでした。そこで、当時の山陰本線の“当たり前”だった、DLの牽くシーンをまず見てもらいます。
昭和の電車 改訂版(237)ー西鉄200系ー
スモールイベント「名松線乗り鉄」の報告
12月12日(日)の「名松線乗り鉄」には、12名の参加をいただき、ありがとうございました。当日はお天気も良く、途中「家城駅」での列車交換・通票交換の撮影、終点「伊勢奥津駅」では給水塔等の撮影も、順調に出来たことと思います。また機会あれば「乗り鉄」の計画を立てたいと思いますので、ご参加のほどお願いいたします。
五十年前に見た 当たり前の風景 -1-
日常を記録する
しばらく途絶えていましたが、また自身の記録に戻ります。京都市伏見区の深草が、旧深草町誕生百年を記念して、伏見区役所深草支所、龍谷大学、地域の文化団体が中心になって、多くの記念事業を展開しています。私は、深草には何の縁もない、一介の市民に過ぎませんが、できる範囲の協力をしてきました。テーマは「未来へ紡ぐ深草の記憶」。地域の暮らし・文化は、身近であるがゆえに、みんなで語り継ぎ、継承しなければ、その良さや重要性に気づくことなく失われてしまいます。地域の文化・歴史を共有して、未来を創造することが大事であるとの考えのもと、地域の暮らし・文化にまつわる写真・資料を収集、デジタル化して、地域で共有する取り組みです。文化庁の地域総合活用推進事業にも認定され、私もその趣旨に賛同して昨年から協力してきました。
▲深草の地域を東西に横断していたのが市電稲荷線で、50年前、昭和45年に廃止された。現在の同一地点から見ると、左の稲荷山は、マンションに囲まれて、頂上付近しか見えず、中央でひときわ目立っていた伏見稲荷の儀式殿(結婚式場)は、現在でもあるものの、老朽化して、すっかり色褪せして、地味~な存在になっていることを、ワークショップに来場していただいた市民の皆さんに見ていただいた。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅶ-
貨物を牽いたD52・D62
▲大カーブを終えて、直線で山科駅に向かうところに、三条通(当時、国道1号)を越すガーダー橋があり、アクセントとなっていた。眼前をゆっくりとD52 203の牽く貨物が通り過ぎる。戦後の荒廃も癒えて、貨物機と言えど、美しく整備されていた。よく見ると、同機にも集煙装置が取り付けられていることが分かる。
佐竹さんに好きな蒸機は? と聞くと、意外にも「D52です」と返事があったことは、準特急さんからの投稿からも伺えます。今回の写真展で、その気持ちが理解できたような気がします。昭和30年代の山科の主役は、C62・C59でもなく、貨物を牽いていたD52・D62であったこと、その当時に撮影した人間でしか分からない実感だったと思います。なにせ、戦後、高度成長の端緒に付いた時代、鉄道の貨物量は、現在とは比較もできないぐらい膨大なものでした。資料を見ますと、昭和31年の鉄道の貨物輸送量は約18,000万トン、現在では4,000~4,500万トンですから、ざっと4倍の貨物量があったわけで、とくに、天下の東海道本線には貨物が集中していたのでしょう。
昭和の電車 改訂版(236)ー東濃鉄道モハ100型ー
前回公開時に頂いた西村雅幸さんのコメント
たった一度の東濃駄知線