お久しぶりです。
子パンダの保護者こと88年度生の山本晃司です。
しばらくご無沙汰しておりました。
緊急事態宣言も3回目となり、なかなか遠出ができませんので近場ネタで…。
早起きは三文の得といいますが、早朝には昼間見られない列車が走っていて楽しいことがあります。その一つが京阪のF0500Z列車でしょうか。
お久しぶりです。
子パンダの保護者こと88年度生の山本晃司です。
しばらくご無沙汰しておりました。
緊急事態宣言も3回目となり、なかなか遠出ができませんので近場ネタで…。
早起きは三文の得といいますが、早朝には昼間見られない列車が走っていて楽しいことがあります。その一つが京阪のF0500Z列車でしょうか。
固定クロスシートといえば、113系や115系、キハ40系の直角シートが思い浮かぶだろう。その源流を辿れば戦前からのオハ35などの客車があり、今日、それらの客車は保存車や観光用に運行されているものだけになってしまったが、固定クロスシート車は今日なお、通勤電車から第3セクター鉄道のディーゼルカーまで多士済々、さまざまな種類のものが活躍している。その全てに乗ったわけではないし、紹介することは不可能であるが、現在運行されているもののうち、いくつかを車内に拘って紹介してみたい。(写真は大井川鉄道に残るオハ3522) 続きを読む
wakuhiroさんがよく鯉のぼりと近鉄電車の写真を投稿されていましたが、大和川の鉄橋のところに隣町の王寺町が鯉のぼりをあげましたので、私も撮ってみました。
EF66 弁当箱もヒサシも無い原型機
現有の電機のなかで、個体別で見た絶対的な人気は、何と言ってもニーナことEF66 27のようですね。唯一の国鉄色EF66です。本欄でも鉄鈍爺さんから、今春改正後のEF66貨物について書かれています。仕業数が34から31に減り、昼間に京都付近で見ることができるのは、定期1本、臨1本という寂しさ、勢い“闇鉄”に傾注せざるを得ないようです。EF66 27はまだまだ元気で、ときどき昼間の運用に入ることがあります。最近も走るというニュースを聞き込み、近所へ行きましたが、平日でも撮影地は過密状態でした。
なんで弁当箱を載せたスタイルに惹かれるのか、やはり国鉄色なのでしょうか。ニーナにぞっこんのサイトを見ると、そのエネルギーをほかに使った方がいいよと、つい年寄りのたわごとを言って見たくもなります。私にとってのEF66は、弁当箱もヒサシもない、また特急牽引のような華やかさもない、デビュー当時の、素のままの一次車EF66にやっぱり思いが残ります。
▲昭和41年、それまでEF65重連で牽引していた1000tクラスの高速貨物を、単機で牽引できるF級電機が計画され、デビューしたのが試作のEF90 1だった。それまでの電機の標準であったMT52主電動機の1.5倍のMT56を6個搭載した定格出力3900kwの日本最大のパワー機関車となった。EF90 1による各種性能試験の結果、昭和43年から量産車EF66が製造を開始する。試作車EF90 1は量産車並みに改造されてEF66 901となった。写真は、雪の伊吹をバックに上り貨物を牽く、試作のEF66 901 柏原~近江長岡(昭和55年1月)
EF61 特急電車の補機も務めたスタイリッシュ機
電気機関車に関して、「鉄道ファン」創刊号(昭和36年7月号)で読んだ記事が忘れられません。「近く登場する新しい電気機関車」として久保敏さんが紹介していますが、ED72、EF30、EF70にまじって紹介されていたのがEF61でした。実際、これらの4形式は、この1、2年に登場していて、客貨ともに爆発的に輸送量が増大している時期でした。「側面の感じは、ぐっとモダーンに、フランスばりのスタイル」と記事は結ばれていて、側面図も添えられいました。機械室の窓と通風窓が一体となった、今までにないスタイルに、期待感を抱いたものでした。
EF61製造の経緯は、山陽本線の電化が進展し、客車列車用として蒸気発生装置を積んだ電機が必要になってきたことです。すでにEF58は製造を止めていたため、貨物用のEF60一次形をベースに製造されたのがEF61でした。EF60と異なる点は、歯車比の小さくして高性能性を確保し、蒸気発生装置を積んたこと、また将来の旅客列車の電車化に備えて小改造を施すことにより、貨物用として転用できるように考慮されていました。
▲初めてEF61を撮影したのは、やはり山科だった。東海道新幹線が開業する直前、東京発大阪行き145レを牽いてやって来たのはEF61 13だった。夜行鈍行とは言え、さすがは天下の東海道本線、ロザを2両も連結している(昭和39年9月)。
蒸機からちょっと離れて別のテーマを‥‥。
朝のルーティーンは、デジ青など“お気に入り”のチェックから始まります。そのなかに「貨物ちゃんねる」があって、東海道本線を昼間走るEF65PF牽引の5087レの牽引機を確認したりします。天気が良くて、国鉄色が牽引となると、散歩も兼ねて午後から出動となります(実は、今日も近くへ出動していました)。
蒸機も好きでしたが、電機も好きでした。客車十数両を牽いて全速で走る旅客機、長い貨車の規則正しい轍を奏でる、重量感あふれる貨物電機、かつての華々し活躍が瞼に浮かびます。人気のある電機といえば、少し前ならEF58、今ならEF65PFでしょうが、私は、ちょっとマイナーな電機や、地方で静かに余生を送っているED電機などが好きでした。そこで、今回は「私の好きな」と限定して、かつて写した電機の思い出を綴っていきます。
▲注目の5087レ、東海道線を日中走る、唯一のEF65PFの牽引。このところ、天気が良くて、毎日のように歩いて近所へ通っている。連日、赤プレートの国鉄色ばかり、しかも最近、とみに整備が良くなっていて、惚れ惚れするような美しさだ。この日は車端までフルコンテナの完璧な編成だった。
“ヤマ線”のD51 倶知安・長万部区 (2)
倶知安・長万部のD51の活躍、まだ続けます。変わり映えのしない、地味な写真ばかり続きますが、ご辛抱ください。50年前の渡道は、ほぼ完全にC62重連目的でした。その後も、これらD51などは、ほとんど顧みることもなく50年が過ぎて、今回、初めてネガスキャンをして、「こんなん撮ってたんか」と、自分でも驚いた次第です。
▲ともにD51 367〔万〕 (上)41レから比羅夫に下車したスキー客が交換列車の発車を待っているところ。こんなローカル駅に蒸機列車に乗ってスキーに来る。今では到底考えられないようなシーンだ(昭和47年3月)。 (右)前回と同じく、仁山~大沼で右側通行していく127レ。当時の時刻表を見ると、下り普通客車列車6本のうち、4本が左側の本線の仁山経由、2本が右側の藤城線経由、普通DC5本はすべて仁山経由だった(昭和43年9月)。
今日の昼下がり、山科にある「無印良品」のカフェテラスで『無印不良品』さんとボケ防止の茶話会を開きました。
話題は最近の鉄道車両になりましたが、口から出てくるのは「C62はなぁ」とか「京阪の1900が・・」とかばかりで、気がつくと最新の車両は全く出てきません。『無印不良品』先輩曰く、「電車にEがつくヤツは全く分からん」「なんでも四国の車両はクハとかモハとかもつかないらしい」「新幹線も300系以降の型式は分からん」という始末!
言われて気がついたが戦後生まれの“若い”私・米手作市もハイブリッドの車両(気動車か電車かも分からない!)が走っているとか風の便りで聞いた程度です。
と言って今さら本を買ってきて読む気は起こらず、他人に聞くのもプライド(?)が許しません。
そこでDRFCクローバー会の若い後輩の皆さんに教えを乞おうではないか、と言うことに決しました。
同じ教えて貰うなら、優しく噛んで含めるように丁寧に教えて欲しいのです。あまり細かいことは記憶力が減退しているので不要です。九州、四国、西日本、東海、東日本、北海道とJRが分かれていますのでそれぞれに得意な方が解説して頂きたいと思います。
二ケタの型式番号しか分からない、ステンレス車は全て同じに見える、老い先身近い我々を哀れと思し召して(湯口節)お助けください。
会長様事務局長様、趣旨をご理解頂き、どなたかをご指名頂き連載して頂ければ幸いです。
一昨年より滋賀県立公文書館の史料を閲覧してまとめていました京阪石坂線の前身である大津電車軌道の話を、本日発売の「レイル」誌118号に掲載して頂きました。以前一部デジ青に投稿した内容ですが、総本家青信号特派員様から紹介いただいた多くの方からお借りした貴重な写真、資料を加えてまとめ直したものです。また編集にあたっても総本家青信号特派員様には大変お世話になりました。
自分の書いたものが活字になる経験があまりなく、つたない文章ですが、書店で見かけられましたら手に取ってご覧いただければと思います。
この場をお借りしまして、総本家青信号特派員様はじめ、写真を提供いただきました山科の人間国宝様、須磨の老人様、乙訓の老人様、準特急様、今出川浄福寺様に厚く御礼申し上げます。 続きを読む
“ヤマ線”のD51 倶知安・長万部区 (1)
先の小樽築港区のD51の主要な活躍の舞台は、“ヤマ線”と言われる函館本線の小樽築港~長万部が中心でした。この“ヤマ線”には、倶知安、長万部のD51も混じって、客貨を牽いて活躍していました。長万部区のD51は、さらに足を伸ばして函館まで顔を見せ、また室蘭本線でも活躍していました。今回は、両区のD51を見ていきます。▲ともにD51 146〔万〕〈上〉41レを牽いて比羅夫に到着 41レは函館発札幌行きの荷物列車で、森から座席車を連結して、普通列車として運転されるため、荷物車のほうが多い編成になっている(昭和46年3月)。〈左〉小沼畔を行く 右側通行の函館発岩見沢行き229レ 左の線が仁山経由の本来の函館本線、右が昭和41年開通の七飯~大沼の勾配緩和の新ルート別線で、通称「藤城線」と呼ばれていた。下りの優等列車・貨物列車は、緩勾配の藤城線を通っていたが、普通列車は、集落のある渡島大野、仁山を経由するため、このように一見して右側通行しているように見える。この先で両線はトンネル内で立体交差して位置が入れ替わって七飯に向かっている。(昭和43年9月)。なお、このD51 146は、廃車後、静岡県に保存展示されていたが、2015年に真岡鐵道SLキューロク館に切り詰めデフのまま保存され、コンプレッサーの圧縮空気で構内を走ると言う。
『かえだま』については諸賢からご投稿を頂いております。
河 昭一郎さんよりプレゼント!
再度、『かえだま』に関する考証を
50年前の撮影地を歩く
157系「こだま」号
各地で活躍するD51(1) 小樽築港区
また通常ペースに戻って、北海道の機関区別の蒸機を紹介していきます。D51と言えば、9600とともに、北海道ではどこでも見られた蒸機でした。ほとんどの機関区で、D51、9600が一緒に配置されていて、D51は幹線の客貨牽引、9600はローカル線の貨物、入換えと棲み分けされていました。
昭和43(1968)年4月の配置表で見ると、北海道全体で9600の153両に対して、D51は実に240両も配置され、形式別ではダントツの一位でした。
C55、C57の旅客機に比べると、華やかさもなく地味な存在でしたが、日本の蒸機の代表、D51の活躍例を挙げてみました。
今回の写真展のご来場者は、芳名録に記載が110名、洩れも相当あるので、総数約160名と言ったところ、一日当たりにすると、ほかのイベントと併催した前回より少なめでしたが、多からず、少なからずの人数で、来場者とはゆっくり話をすることができました。数人が帰ると、また次の数人と言った具合にうまく回転したこと、また初対面同士が意気投合して、延々と話を続け、一時間あまり経って“楽しかったわぁ”と笑顔で帰って行かれるのも、いつもどおりの風景でした。
人と会って、話をする、こんな当たり前のことが難しい時代です。写真・資料を前に、好きな電車の話ができる、こんなことだけでも、今回の写真展の成果と言えるでしょう。
▲昼と夜、二階から見た高瀬川、窓際には勘秀峰さん作成の古地図、乗車券コレクションが並ぶ。部屋は畳敷きで、机、座布団を置いて、ゆっくり、蔵書、ファイル、写真を見ていただくようにした。
例によって藤本哲男さんからのレポートにリンクします。
国鉄阪和線クハ6210に寄せて
ここへ乙訓の長老様がコメントを入れてくれています。
私と勘秀峰さんの二人で行いました写真展「春、そして夏へ~四季をめぐる京都市電」が終了して、一週間が経ちました。ご来場いただいたデジ青読者の皆さまには、改めて御礼を申し上げます。少し時間が経ちましたが、まとめ報告を行って、今後の参考にしたいと思います。
▲写真展の設営をしていた頃、高瀬川の桜は、左のようにまだ咲いていた。それが、5日経った最終日、すっかり桜は散って、上のように、まばゆい新緑になっていた。季節の移ろいを窓外に感じながら写真展ができたのも得がたい体験となった。
巷ではフィルムで写真を撮るのがはやっているそうな。ということで以前に整備したコニカC35とペンタックスSPでいつものところで撮ってみたものの・・・
勝原駅のハナモモの満開を3日間待ちましたが、中々100%満開には至りません。天竜浜名湖鉄道の原谷~原田の鉄橋近くに咲くしだれ桜と同じく待つと開花状況はストップしてしまっています。それでは長良川鉄道の大矢駅のしだれ桜の取材時期を遅らせばと行動しましたら逆ににかなり散ってきていました。今年は自然の流れに上手く合わせることができません。桜満開前線は既に山形まで北上しています。会津鉄道にも行きたかったのですが、今年は勉強不足だった、来年はリベンジを誓って、今日を最終日にすることにしました。
4:20 今日は遅れまいと昨夜は早めに就寝しましたので目覚ましよりも早くに起きました。車内の温度はちょっと寒い 6.9℃ です。5時を過ぎるとようやく周囲が見えるようになってきました。
▲ 5:24 朝一番の越前大野からの回送列車が上がってきました。停車はせずにそのまま通過です。昨日は5:28にここへ来ましたのでタッチの差で間に合わなかったようでした。