デンバーを訪れた一番の目的はビッグボーイのあるフォーニー博物館に行くことだったのですが、数年前に博物館が改築されて、ビッグボーイは室内展示になり、写真が撮りにくくなったということを聞いていました。ただ、デンバーにはトラムも走り、郊外にはグースが走るコロラド博物館などの見所があります。2泊して駆け足でしたがこれらを回りました。
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万葉線紀行 連節車と除雪車
万葉線 いつの間にか加越能鉄道から第三セクタ-の万葉線株式会社になっていました。5月12日土曜日 久しぶりに降りたった高岡駅前は新幹線工事で何がなんやらわからない状況で 万葉線の停留所に行き着くのに一苦労しました。七夕で有名な駅前の通りも普段の土曜日でひっそりとしていました。高岡駅前の電停は昔のままの風情で7070形は似合っていましたが、MLRV1000形「アイトラム」は26年3月にJRの駅前広場に電停が移転すれば似合うと思われます。

デ7070形 7076号です。
デ7070形は1967年製で デ7071(冷房車)、デ7072(初代アニマル電車・・・籍なし)、デ7073(アニマル電車 冷房車)、デ7074(非冷房車)、デ7075(非冷房車)、デ7076(非冷房車)の5両が在籍しています。

MLRV1000形「アイトラム」1006号です。
2004年から2009年にかけて作られた、1001号から1006号の6編成が在籍しています。
ボンバルディア社の技術提供により、新潟トランシスで製造された2車体連節の100%低床車です。
後方が工事中のJR高岡駅です。
この電車に乗り 市内線の併用軌道の単線区間を通り米島口の車庫へ向かいます。車内放送は立川志の輔さんの声で車内アナウンスがされていました。

事務所で撮影の許可を頂き 車庫での撮影となりました。
車庫では数人の社員さんが電車の入れ替え中で、もうすぐバスツア-の電車の撮影会が有るので 写しやすいように並べているとのことでした。左から 7072,7073,1001,5022です。

庫内でお休み中の車両達 左から 1003,6000,7074です。
初めて見た6000がいったい何者か この時はわかりませんでした。

1001号です。2003年12月導入2004年8月から営業運転開始です。
当初はフランジの問題での脱線事故やブレ-キ故障など大変だったようです。
右に少し顔をだしているのが1002号です。

1002号です。2004年1月導入1001号と同じ2004年8月から営業運転開始です。

その1002号の右は元デ5010形5022号です。1950年元富山地鉄デ5022、車籍は無く除雪に活躍していましたが 後任の6000が出来たため引退とのことでした。保存の予定とのことですが 最後の5010形ですのできちんと保存をお願いしたいところです。

デ7072号(初代アニマル電車・・・車籍なし)です。どちらかというとネコ電車として有名です。

デ7073号 二代目のアニマル電車(ネコ電車) 冷房車です。
デ7070形は5両の在籍です。1000形は乗り心地やバリアフリ-の点ではすぐれていますが、ハイテク車で安全装置がたくさんあり運転しずらいとのことで、乗務員としては7070形の方が思うように走り 運転しやすいとのことでした。特に雪の日や、架線が凍った時は困るそうです。

新しい除雪車 6000が庫内から出てきました。軽いエンジン音、畳んだままのパンタグラフ 異様な感じです。

右のボンネット内にエンジンがあり単純な下回りは模型のようです。メンテナンスを簡単にするためだそうです。
平成24年 新潟トランシス製で 後で知ったのですが車籍を有する鉄道車両とのことです。主に米島口から越ノ潟方面の専用軌道で使用されるとのことでした。パンタグラフはトロリ-コンタクタ-用です。

元デ5022号も少し前に移動です。若い係員(運転手さん)が屋根に上りパンタグラフの鍵を外し(下からベテランさんが 架線に気をつけろよ- と言っていました)自走して 移動です。車内は機材がいろいろ置かれていました。

5両がきれいに並びました。左の3名の社員さんで移動を行っていました。もう一名女性の運転手さんがいましたが途中で乗務に向かいました。(後でその運転手さんの運転する電車に乗りましたが 思いっきりのいい みごとな運転でした)

ようやく少し晴れ間も出て、きれいな5両の並びとなりました。
左から 7072,7073,1001,6000,5022です。貴重だ体験でした。
その後 越ノ潟方面に移動しました。

米島口での1006号です。(2009年4月営業開始)
この角度 きれいです。いい電車です。

反対側から海をバックに 7076号です。夕日の時がきれいだそうです。

1004号です。(2008年3月営業開始)
庄川口から越ノ潟まで乗車しました。

越ノ潟終点です。1966年富山新港の工事で線路が途切れてしまいました。今は無料の県営フェリーでつながっています。後ろの橋ができればまた状況が変わりそうです。
フェリーボート 「こしのかた」 自転車も乗れます。5分ほどで対岸に着きます。
船の中から見た工事中のつり橋 さわやかな船旅でした。
対岸の堀岡発着場に着きました。

ここからバスで 富山ライトレールの岩瀬浜へ向かいます。土日の限定連絡バスです。以前は射水線廃止後の代行バスが有ったようですが今はありません。

乗客は 私一名でした。せっかくの射水市企画のバスですが 観光客の少ない季節でもありさびしい限りです。右のサイクリングロードは射水線の線路跡のようでした。

20分ほどで岩瀬浜の駅前に着きました。
ちょうど富山ライトレールの電車が到着です。
車庫で遊び過ぎ後の時間が迫ってきましたので、この折り返し電車に乗り富山に向かいました。
高岡の万葉線 車庫でいろいろな話を伺ったり きれいな電車を見たり乗ったり写したり 楽しい時間でしたが、経営は厳しい状況が続いているようです。JR高岡駅内に延長されると利便性はかなり良くなると思います。車庫でお世話になった皆様ありがとうございました。みなさま頑張って乗りに行きましょう。
犬伏 孝司
アメリカ鉄道の旅(その1)
6月5日から19日までの2週間アメリカの中西部に行ってきました。
この旅行の主な目的は3つ、アムトラックに乗って大陸横断鉄道の雰囲気を味わってみたい、SL保存鉄道を訪問したい。世界最大といわれるBIG BOYを見たい。これに加えていくつかの博物館を訪問したいと言うことでした。ところがアメリカの場合、公共交通の面で制限があります。アメリカはご存知の通り車社会で移動はフライ&ドライブという、空港でレンタカー借りて旅行するのが一般的です。アメリカの都市部をレンタカーで走る自信はありませんので、レンタカーでの移動は田舎に限り、それ以外は公共の交通機関が使えるところと言うことで計画を立てました。その結果BIG BOYを見るのに比較的アクセスしやすいデンバーを選び、サンフランシスコからアムトラックのカリフォルニアゼファーでデンバーまで移動、そこから飛行機でデュランゴに飛び、デュランゴでレンタカー借りて、デュランゴシルバートン鉄道を訪問。また折角アメリカにいくのなら一度見てみたかったグランドキャニオンを入れ、この移動にフラッグスタッフからロサンゼルスまでサウスウエストチーフを使い、ロスアンゼルスからサンフランシスコに戻るのにコーストスターライトを入れると言う盛りだくさんな計画となりました。
塩江温泉鉄道跡を訪ねて
佐渡の鉄道
島の鉄道と言えばまず淡路島、戦前の沖縄県営、屋久島の林鉄、サトウキビの南大東島を思い浮かべるのですが、佐渡島にも鉄道があったのです。佐渡と言えば金山で有名ですが、この金鉱山の鉱山鉄道です。実は鉄分抜きのつもりで佐渡旅行をしてきたのですが、思いの外 多くの車両や遺構に接することができました。佐渡の鉱山鉄道についてはJTBキャンブックス 岡本憲之著「全国鉱山鉄道」に1ページだけ紹介されていますが、もう少し詳しくご紹介しましょう。
佐渡金山は約400年前に開山され、江戸幕府の財政の基盤となったのですが、明治維新後は官営鉱山となり、明治29年からは三菱に払い下げられ、三菱金属、三菱マテリアルと名を変えながら平成元年3月末に閉山しています。現在は「金山資料館ゴールデン佐渡」として多くの観光客を集める史跡となっています。残念ながら鉄道車両は静態保存ですが、まずまずの保存状態でした。
開山当時は露天掘りから始まるのですが、後ろの山の真ん中にV字型の切れ込みが見えます。現在は木が生い茂っていますが、金脈を掘り下げて行った大きな切れ込みで「道遊の割戸」と呼ばれる佐渡金山の象徴です。この金脈に向かって入ってゆく坑道と線路が道遊坑です。
この鉱山鉄道の軌間は508mm(1フィート8インチ)と三菱鉱山規格の500mmが混在していたらしいのですが、その区別は不明です。機関車は日本輸送機(ニチユ)製です。ニチユ製の小型蓄電池機関車にはいくつかのタイプがあって、この2Ton車はF型と呼ばれた量産機です。ともあれ佐渡でニチユにお目にかかるとは思いませんでした。ニチユと言えば神足、神足と言えば乙訓のご老人をはじめぶんしゅう殿、特派員殿の地元ということで不思議な縁を感じました。
昭和13年に三菱電機製の5Ton電気機関車が4両導入される以前には輸入電機が働いていたようですが、詳細はわかりません。蓄電池車ではなく架線式の電機だったと思われます。坑外には2Tonガソリン機関車もいたようですが 、これも詳細不明です。須磨の御大のお出ましを乞う次第。
蓄電池機関車は仕事を終えると充電のため車庫に戻ります。今は機械工場ということで工作機械などが展示されていますが、レールの上に旋盤などが置いてあるところを見ると この建物は本来の機械工場ではなく 機関庫だったと思われます。小さなターンテーブルがいくつかあって、充電エリアと整備エリアになっていたようでした。
ここで使われているレールは主要坑道が15Kgレール、一般坑道が12Kgレールということで錆びた古レールが棚に並べられていました。棚にバラ積みされたレールというのも珍しい光景でした。
坑道から2Ton車に牽かれて出てきた鉱車は、坑外は牽引力の大きい4Ton機関車に牽かれて破砕場のホッパーへ運ばれたようです。その4Ton機関車も別棟に保存されていました。
機関車がニチユ、電池や整流器がGS日本電池、充電制御継電器がオムロン立石電機製と なんとすべて京都で生まれたものというのも京都人としてはうれしい限り。今は亡きSさんが御室にお住まいだったり お父様が確かGSにお勤めだったことも思い出され ここでも不思議なつながりを感じてしまいました(考え過ぎ、こじつけのようですが・・・・)。ところで佐渡島は北前船の寄港地で越後とのつながりよりも関西との文化的なつながりが深い島です。佐渡おけさも もとは北九州地方のハンヤ節が関西、北陸と伝わったものだったり、今も村毎に立派な能舞台が数多く残されて能の伝統があり、料理も関西風のうす味だったりで興味が尽きない島でした。その佐渡金山に京都生まれの機関車たちが働いていたのも おもしろい縁だと思った次第です。
この金山には江戸時代の様子を再現した宗太夫坑と明治時代の様子を再現した道遊坑の2つの観光用坑道があり、両方を見ると1時間半程度を要します。観光バスで乗りつける団体客は時間に追われるため宗太夫坑とお土産店だけで次の名所へ行ってしまうようで、ご紹介した道遊坑の鉱山鉄道跡まで足を延ばす人は少数です。従ってゆっくりと見学できました。この2つの坑道のほか選鉱場跡、製錬所跡などの古い産業遺産も含め、また金とともに金の量の30倍を産出した銀とあわせた金銀鉱山として世界遺産登録を目指して活動しているようでした。今は静態保存の鉱山鉄道ですが、その一部でも動態保存化できれば 集客力も増えるのではと思いました。特にニチユは盛業中であり、比較的良い状態で保存されている機関車ゆえ 復元は楽なように感じます。
現在国内で稼働中の鉱山鉄道がいくつあるのか不勉強ですが、稼働中の鉱山鉄道があっても 普段は見学や撮影は難しいでしょうから 閉山しているとはいえ その様子がよく判り 楽しいひと時を過ごすことができました。わざわざ金山だけのために佐渡に渡ることはないと思いますが、花の島、トキの住む島、古い文化の残る島と様々な顔を見せてくれる島に興味のある方は是非訪れてみられてはいかがですか。
2012年 春の中国鉄路の旅 総集編
44日間の人生最長の旅は、ビザ滞在期限の問題から帰国せざるをえず、帰国後は急を要する用事を済ませて直ぐに、大地へと戻りました。気持ち的には延長のようなものでしたが、堪能するには余りに大地は広く、寧ろもっと行きたい撮りたい所は増えるばかりとなってしまいました。


▲ 前回の乗車距離は12,000キロオーバーでしたが、今回は10,000キロ届かずでした。満州地区での移動が多かったのと、南への移動がなかったせいと思います。特筆は京滬高速鉄道の運賃です。グランシート車に乗車しましたので、1,750元と他の列車を圧倒します。しかし、乗り心地も抜群でクセになりそうです。
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2012年春の中国鉄路の旅 Part25 长春(満州国首都 新京)から一路、上海へ 京滬高速鉄道、開業1年後の乗車レポート
29日間に及んだ春の中国鉄路の旅も、帰国への途を迎えました。今日は、夜の列車に乗って北京へ、そして北京南駅に移動して昨年6月30日に開業した京滬高速鉄道のグランシートで上海へと向かいます。移動距離は、一気の2,321キロです。
第28・29日目 5月16・17日 長春→北京→上海→帰国
① 長春 22:00(Z62次)→6:00 北京 1,003キロ 8時間
② 北京南 8:00(G11次)→12:55 上海虹橋 1,318キロ 4時間55分
③ 上海浦東空港 18:10(JL898)→21:25 関西空港→なんば→梅田・大阪→長岡京
▲ チェックアウトタイムまで粘ってから、長春駅前のホテルへ行き、午後4時から休憩チェックインするので荷物を預かって欲しいと言った後で昨日ロケハンしておいた撮影地へと向かいました。カラフルな車体色の軽軌車両です。
▲ 上下線が分かれている芙蓉橋の道路高架橋に行って見ましたが、なぜか右側通行ではなく逆です。予定していた列車が撮れず後から来た貨物になりました。再度移動して機務段への連絡橋で電気機関車たちを撮りましたが、 続きを読む
2012年春の中国鉄路の旅 Part24 长春(満州国首都 新京)その2 長春の軽軌と路面電車
第27日目 5月15日 長春の軽軌と路面電車
いつものように元気に目覚めましたが、無理をせずに午前中はPC作業に没頭して、外へはお昼からにしました。目指すは、久しぶりの長春の路面電車です。
人民広場近くに泊まっていましたので、路面電車54路が走る所までは遠いです。まずはホテルを出発して、2011年6月30日に試運転(客扱い有り)を開始した軽軌4号線の初乗車兼ねて向かう事にしました。、

▲ ホテル前からバスに乗って軽軌の东大桥站(東大橋駅)に着きました。ガラス張り円形のすばらしい駅です。4号線の総延長は、16.33キロ(地下軌道3.3キロ含む)で、16駅(内、地下3駅)が設置されています。駅に入りICカードを購入しようとしましたが、まだ売っていません。改札口はICカード対応になっていますが、どうしてかなと思いましたが、乗車してみると分かりました。まだ工事中で未完成な駅が2駅ありましたので、暫定開業扱いなのです。4号線の使用車両は、2000系と3000系の2種類です。

▲ 仕方なく切符を買う事にしましたが、下車駅が分かりません。メモ用紙に54路の路面電車に乗りたいと書いて渡すと、起点の长春北站まで行って降りて、3号線に乗り換えるのが早いと申されます。いや、私は遠回りになっても良いので3号線との接続駅で乗換えて行きたいと言うのですが、理解してもらえません。またいつもの挨拶です。その頃には、駅員が全部集まってきてしまいました。駅員を見ると全員20代前半のの若いお嬢さんばかりです。新しい路線ですので、全て若い女性に絞って採用したようです。一人が手書きで乗換駅(卫星路站)と下車駅(卫星路站)を書いていただきました。老人にはやさしい娘さんばかりです。

▲ 早速乗車しました。軽軌と言っても4号線を走る車両は鉄道車両ではなく、路面電車です。こんな立派な高架軌道を走れるとは、この路面電車は幸せですね。 他の都市では軽軌のホームに駅員がいて、撮影しようとすると撮影禁止とか危ないと言って、静止させられることが多いですが、ここでは誰もいませんので気にすることなく撮れました。3000系は70%低床式C型軌道電車で、連接6両編成です。車両長62m、車高3,600mm、車幅2,650mm、最大定員能力500人、座席定員132人、走行音は65デシベルに押さえられています。最高速度は70km/hですが、現在40km/hに抑えられてのノロノロ走行です。
▲ 3号線への乗換の卫星路站(衛星路駅)に着きました。この駅も設備は路面電車が走っているとは思えないほど立派です。
▲ 3号線を走る路面電車です。こちらにも3000系は走っていますが、主力は開業時に導入された連接3両編成の2000系です。
3号線は、2002年10月30日に长春站~卫光街が開業、2006年12月26日に长影世纪城まで延伸され、全線34.4キロとなりました。33駅が設置されています。最高速度は、開業当初は40km/hでしたが、今は70km/hで運転されています。乗客は多く3両編成では、日中でも満員で走っていました。富山のライトレール同様に市民に定着した感があります。
最初に敷設された区間は、国鉄線と平行した地上線を走行しますので、道路が線路上を跨いでオーバークロスしていますが、離れてからは道路とのの平面交差があります。軌道優先とはなっていなく、停車しての信号待ちとなります。
運賃は、4号線と同じ乗車キロ制で、14.5キロまで2元(約26円)、14.5~24.5キロは3元(約39円)、24.5キロ以上は4元(約52円)となっています。
今後、軽軌を市内交通の中心として新規開業されます。1、2号線、5~7号線と、2050年には総延長距離179キロとなる計画です。1、2号線は市内中心部を走行しますので、全線地下化されます。ただし、同じ車両が走るかは現在、発表されていません。

▲ 軽軌3号線、4号線と有轨电车(路面電車)が走る54路の路線図です。
▲ 卫星路站で降りて、54路路面電車に乗換えて、終点の西安大路へと向かうことにしました。
長春路面電車は、1999年8月に長男と一緒に東北旅行で初めて訪れて以来、4度目の訪問です。



▲ 春の日差しを受けて緑一杯の専用軌道を走ります。13年前と比べると、緑も増えて綺麗になりました。
【長春の路面電車の歴史】
1932年3月1日、日本は中国東北部に満州国建国宣言をしました。首都は長春に定められ、名前も新京と改められました。建国後、大規模な都市計画が実施され、上下水道・ガスが完備された近代的な人造都市が誕生しました。街路は、60m幅の舗装された大路となり両側には街路樹が植えられ、美観を損ねる電線は土中に埋められました。
都市交通は、都市美観を守るためにバス・Taxiによって運行されていました。1939年には瀋陽と同様に当時最も進んでいた大阪市交通局の指導のもとに地下鉄計画が立案されました。1940年より工事着手となっていましたが、戦争による資材不足のため断念され、1941年1月から路面電車の敷設工事が始まりました。路線は都市美観を守るためにメインストリートは避けて、翌年にはさらなる新線も建設され、総延長距離は37.3キロに達しました。
使用される車両は、日本車両名古屋工場で新造された車両の他、玉川電気鉄道の2軸ボギー車5号、武蔵電気鉄道の車両や、四国仏生山からの塩見温泉鉄道の気動車が電装化されて送られ走行したそうです。

▲ 2005年に訪問した時に長春号の車内に展示してあった写真です。これが本土から送られた車両ではないかと思いますが、どうでしょうか?
敗戦による満州国崩壊後は、トロリーバスに転換されたりして、全長7.64キロの54路を残すのみとなりました。最初に訪れた1999年当時は、まだ道路共用軌道もありましたが、2000年6月から突然線路撤去工事が始まり、一時廃線かと案じましたが、約1年間の間にPCコンクリート枕木化、架線柱のセンターポール化、屋根付きホーム整備、道路共用軌道から専用軌道への配線替えが行われ、近代化した都市交通へと変貌を遂げ、国産新車(800型)も投入されました。最後まで残った満州時代の日車製200型も車体更新して生き残りましたが、その後に廃車となり現在は走っていません。



▲ 上の写真は、1999年、2005年と2012年の西安大路駅での比較光景です。1999年では泥だらけの道路と道床でしたが、迴に植林された木々も育ち、徐々に整備されてきました。戦前の200型は、床の木材が磨り減って所々は下が見えているような状態でしたので、この国では補修が出来ていないのだと思いました。

▲ 54路を全線乗車・撮影後、明日北京圣由にて上海へと乗車するリニューアルなった長春駅を視察に参りました。夕食はいつものように麺です。 Part25 へ続く
2012年 春の中国鉄路の旅 Part23 长春(満州国首都 新京)その1
第26日目 5月14日
図们22:02(2168次)→7:18长春 528キロ 9時間16分
新緑拡がる車窓を見ながらのすがすがしい朝を迎えました。列車は、満州の大地を长春に向かっています。
7:18 长春駅に着きましたが、臨時ホームです。現在、哈尔滨~大連の哈大旅客専用線の建設工事が行われていますので、濱州線ホームは手前に変更されていました。

▲ 臨時駅ホームは広く階段もなくそのまま出口に出られました。本駅は彼方に改築中です。
駅前は狭く、Taxiはメーターを倒しては行ってくれません。こんな時は、そんなぼったくりTaxiを相手にしてはいけません。ここで降りる客を乗せたTaxiを待って、強引に乗り込みました。
2012年 春の中国鉄路の旅 Part22 北朝鮮国境の町 图们(도문=図们)から长春へ
前回に引き続いての長い旅も終盤になりました。後4日間と思うと、無性に我が家が恋しくなり始めました。今日は、夜行列車で长春まで戻ります。1歩我が家に近づく思いで、朝を迎えました。
約67年前になりますが、満蒙開拓団の皆さん方が苦労を重ねて荒野を開墾して、ようやく豊かになってきたかと思ったら敗戦によって大地を追われて、帰国しなければならなくなった無念さは計り知れません。望郷への思いは、この数百倍、いや数万倍以上だったろうと、満州をまわり、この地にいますと感じずにおられません。
第25日目 5月13日 図们2日目
図们22:02(2168次)→7:18长春 528キロ 9時間16分
今日の朝は、昨日とうって変わって雨がふっています。昨日ロケハンを怠りましたが、地図上で撮ってみたい撮影地がありました。小雨に変るのを待ってから、出かける事にしました。雨を避けてTaxi(5元=約80円)で向かいました。

▲ 7;24、途中で寄った道口から何気なく撮った图们の機務段ですが、帰国後に見ると、1番左の車両に興味がわきました。
線路に枕木が置かれているので、普段は使用されないのだろうと推測しますが、正面の顔が面白すぎます。運転席窓ガラス位置に目の玉のようなライトを装着しています。アニメのキャラのようにも見えます。その時にもっと早くに気づいて近くから撮っていれば、もっと詳細に分かったでしょうが、まか不思議な車両です。
2012年 春の中国鉄路の旅 Part21 北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们))
第24日目 5月12日 図们
2007年に韓国側の北朝鮮国境駅である都羅山駅に行きました。厳戒態勢の中、特別な雰囲気を感じましたが、ここ図们は中国鉄路ではどこにでもあるような、ごく普通の駅でした。まあ丹東のように国境を越える、国際客車列車があるわけでないので当然かもしれませんが、緊張感を求めてホテルのチェックインが終ってから町に出てみました。
かつて国境から見た北朝鮮の鉄道を追いかけた鉄ちゃんのプログを日本で見ましたら、警戒は厳しくカメラを向けているのが見つかると公安から質問され、引っ張られて撮影したフイルムを没収されたりする事があったとの記事がありました。最近はどうかなと、王さんに電話をしますと、「全然大丈夫ですよ。でも時々状況は一転しますからホテルのフロントで確認だけはしておいてください。」 と、申されましたので出かける前に聞いてみました。すると、「あんたダメだよ、そんな大きなカメラをぶら下げていたら、途中でマークされるよ。北朝鮮を撮ったら公安が来て、外国人で日本人と分かったら直ぐに逮捕されるよ。」 と、物騒な事を申されます。
仰せに従い一眼レフはリックにしまって、撮影用にはコンデジ2台をショルダーバックと衣服のポケットに分け入れて出かけました。
▲ 国境の町「図们」の地図を求めましたら、独自はない、延吉市内図にくっ付いてあると言われました。左の地図です。
向かいたいのは、国境の鉄道橋です。徒歩でどのくらいかかるのかとききましたら、「真っ直ぐに行くと、20分くらいかね。」です。そんなに近いのかと、見学がてらに歩いて向かいました。
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2012年春の中国鉄路の旅 Part20 哈尔滨から、北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们)へ
第23日目 5月11日 ハルピン→吉林→図们
① ハルピン1 6:40(D114次)→19:30 吉林 357キロ 2時間50分
② 吉林 22:58(K7323次)→8:17 図们 529キロ 11時間8分
ハルピンから乗車したD114次は、京濱線を150km/h前後で快走し长春駅に到着しました。殆どの乗客は降りましたが、また同じくらいの乗客が乗ってきます。定刻にスイッチバックで発車しました。2010年12月に正式開業した长吉高速鉄路を200km/h弱で駆け抜けます。本来は、250km/h走行可能ですが、痛ましい温州での事故によりスピードダウンされています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part19 满洲里(満州里)から哈尔滨(ハルピン)へ
第22日目 5月10日 满洲里4日目
① 满洲里 19:09(2626次)→9:3 2ハルピン 919キロ 14時間23分
② ハルピン 16:40(D114次)→吉林 22:58(K7323次)→図们
今日は、夕方遅くの列車で「ハルピン」に向かい、翌日夕方は吉林圣由で、翌々日北朝鮮国境の町「図们」に着く予定です。車中泊は連泊となります。
朝からHP投稿作業にまい進していると 、ドアがトントンされます。朝からマッサージお姉さんの到来かと思ったら、お茶目な支配人が立っていました。今日は何時の列車に乗るのか聞いてきます。19時と言うと、「チェックアウトの延長が必要でしょう。18時にホテルを出れば間に合います。延長料金は80元(約1,100円)で良いですよ。それまで部屋でゆっくりしてください。」 と、最後は中々気のきいた格安サービスでした。

▲ 毎日食べても飽きないジューシーなスープ入りの水餃子。ビールを入れても、わずか9元(約120円)の駅前食堂で食べて、25分前には待合室に参りました。
2012年 春の中国鉄路の旅 Part18 ロシア国境の町、满洲里(満州里)その4
第21日目 5月9日 满洲里3日目
昨夕、運転手君から明日はどうしますか?との問いかけがありましたが、蒸気機関車が走っているのを撮らなければ满洲里に来た目的の一つが果たせないので、明日も再度ジャライノールへと言おうとして止めました。满洲里に来た目的の3番目は、休息です。ホテルでゆっくりと休んで、画像編集やHPへの投稿原稿作成したりで、くつろぎの時間を持ちたかったからです。
しかし、宿泊しています 秀山国際商務休閑会館 は、客室160室もあるというのにひと気がありません。毎日朝食を食べに行くのですが、ショボイもので、ゆで卵の数は宿泊者と多分同じ数しかありません。1日目は6個、2日目は4個、そして今日は2個です。それだけしか泊まってはいないのは、町の繁華街から離れているからでしょう。飛び込みの客は全く期待できないロケーションです。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part17 ロシア国境の町、满洲里(満州里)その3と、扎赉诺尔(ジャライノール)
第20日目 5月8日 满洲里2日目 ジャライノール(扎赉诺尔)へ
2009年9月に露天掘り炭鉱が閉鎖されて1904年からの歴史を閉じたジャライノール露天掘り炭鉱には、数10両もの蒸気機関車が活躍しました。樺南林鉄訪問後に满洲里に向かうとO氏に言いますと、まだ 地上部分には走っているはずですと、詳しい地図を描いてくださいました。今日はこれを持って、蒸気機関車を追いかけるつもりです。


▲ 8:30、運転手君ホテルのロビーでお待ちでした。满洲里から ジャライノールまでは約30キロです。街中を通過、一直線に向かいます。
9:07、 ジャライノール西駅に到着、始めて見ましたがローカルにしては大きな駅です。售票処は2つの窓口が開いていましたが、営業時間は決まっているようです。丁度、海拉尔行きの4188次の改札が始まりました。
2012年 春の中国鉄路の旅 Part16 ロシア国境の町、满洲里(満州里) その2
第19日目 5月7日 国境へ
Taxiに乗って、ホテル前の道を西へ約8キロ進みますと国境が見えてきました。

▲ 一直線に伸びる道を走ります。①はバスターミナル、②は、内蒙古大学满洲里学院、③は体育館です。ロシア風の建築が多く、否応にもロシアに近いと感じさせてくれます。


▲ 解放型JF1861号機(元満鉄のミカイ形)が展示されています。これだけが撮りたくてやってきましたが、折角来たので、周りを散歩しました。
▲ 中国とロシアとの国境には緩衝地帯があり、これを挟んで双方の国境門が設置されています。ここには、鉄道を跨いでの門がありました。どう見ても中国の方が数倍も大きくて立派です。是非とも行きたいのですが、外国人は入場禁止です。上手く通れる方法はないかと思案していましたら、切符販売窓口に運転手君は自分の身分証を出してしまいました。そうなると私も出さなければなりません。これでアウトです。黙って、お金だけ出して2枚といえばいいものを・・・。
左下は、北国第一門です。
2012年 春の中国鉄路の旅 Part15 ロシア国境の町、满洲里(満州里) その1
第18日目 5月6日 K7091次に乗って满洲里へ
ハルピン東20:15(K7091次)→10:00满洲里 954キロ 13時間45分
小竹先生はじめNSさん、MIさん、STさんは早朝にハルピン空港に向かわれました。朝食をご一緒に出来たのは、明日の瀋陽から帰国されるO氏と、大連でゆっくりしてから帰国されるTHさんの二人でした。
今日からいつもの一人旅がまた始まります。最初に向かうは、ロシア国境の町「满洲里」です。前回の44日間の旅では、あじあ号の展望車を求めて「黒河」に参りました。同じ国境の町ですが、黒河では鉄路が切れていましたが、满洲里では中国側1,435mmに対して、ロシア側は1,524mmとゲージ幅が違っていますが、国際列車では台車交換をすることで車両は相互乗入をしていますので、一応つながってはいます。
乗車は、夜で十分な時間があります。樺南ではホテルの部屋にインターネット接続がありませんでしたので、投稿及びハルピンに戻って以降の行程が決められませんでした。(出来ていても、連日飲み続けていましたので、部屋入り即爆睡でしたので無理でした。)
朝から部屋で、鉄路の残席情報を見ながら、今からでも購入できる切符を探します。出来れば、满洲里と反対東側の国境へ行ってみたいです。绥芬河と図们をノミネートしましたが、両方を行くとなると接続が難しく、日程オーバーとなりましたので諦め、北朝鮮国境の図们にしました。O氏とTHさんを見送った後一人部屋で、滞っているHP投稿のための画像処理に専念していますと、コンコンとドアをノックする音が聞こえます。開けますと、王さんが空港までの見送りを終えて戻ってこられていました。
ハルピン駅外の售票処(切符売場) を確認させていただきました。帰路にはお住いのある長春に立ち寄りますと申しますと、発電所に蒸気機関車が走っているので案内できます。是非名物の犬鍋もご馳走したいと嬉しいお話もいただきました。チェックアウト時間も午後2時までに延長してくださいました。
今日は小雨がぱらつくあいにくの天気です。ハルピン駅発着を撮りたかったのですが、諦めて投稿準備に専念しましたが、ノートPCでは処理作業が遅く午後2時近くになっても進みません。
仕方ありません、際丰假日酒店をチェックアウトして、教えてもらった售票処のある駅前の天竹賓館に行きました。切符を買って昼食後には、4時間の休憩チュックインをして続けました。中国のホテルでは、昼間の部屋利用が一泊の半額程度で可能ですので便利です。
▲ 切符は、ハルピンから吉林、乗り継いで図们へ、帰路は長春までの3枚購入です。どうして乗り継ぐのかといいますと、パルピンから図们へ直通の2636次の切符が売切れだったからです。1本しかないので、繁忙期でなくとも難しいようです。
切符を買った天竹賓館の1階には餃子専門店が入っています。ハルピンの餃子は、上海の小籠包のようにジュウシーなスープが入っていますので、大好きです。 続きを読む
2012年 春の中国鉄路の旅 Part14 小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その3
今日は、まだ樺南林鉄撮影の3日目ですが、最終日です。昼前には、ハルピンに向けての帰路となります。小竹先生から、そしてO氏からも、まだこれからの旅の予定を決めておられないようであれば、我々の代表として残って、樺南林鉄の最後を見届けることも、選択肢の1つに加えて欲しいとのお話がありました。今回は、前回の44日間とは違って東北地区に絞って、国境沿いを回る乗り鉄旅をゆっくり楽しもうと思っていました。既に6日の满洲里行き、11日帰路のハルピン着までの切符は購入済ですので、11日以降に樺南林鉄への再訪問は、可能です。
多くの訪れる鉄ちゃん達を魅了した樺南林業鉄路です。ウヤが日常的でまた長期間に及び、中々運行に巡り合えなかった林鉄でしたが、今回は撤去完了日までの運行は確実です。どうしようかなと思案が続いていました。そろそろ結論を出さねばなりません。迷った挙句は、撤去最終日に何らかのイベントが実施されるようであれば再訪問、なければ皆さんと一緒に撤去途中ではありますが、見送った思い出を大切にしようと思いました。
王さんに林業局の偉いさんか、現地で運行に携わられた方々参加のイベントがあるかどうかの問い合わせをお願いしました。この返答次第で、今後を決めることにしました。
第17日目 5月5日 樺南林業鉄道撮影 3日目
今日も朝6時にロビー集合です。今日は昼までということで、 陀腰子までの区間で撮影で、バイクに乗っての山入りはありません。真っ直ぐに、樺南駅機務段に向かいました。
6:15、今日の1番列車の牽引は、3日間連続の168号機です。
ここで、柏崎からお越しのTHさん、町を歩いて郵便局や国鉄樺南駅に行ってみたいと、皆さんと別れて行かれました。THさんは、中国語を全く話せません。ちょっと心配な小竹先生は、携帯電話を渡されていました。でも鉄ちゃんは、このくらいの好奇心がなければいけませんね。私も中国語は少ししか話せませんが、いつもこんな調子でぶらりと大地の町々を歩いています。 続きを読む
2012年 春の中国鉄路の旅 Part13 小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その2
16日、最後の訪問地長春から、夜行寝台列車Z62次で北京へ、翌17日朝、北京からは昨年開通した京滬高速鉄道の商務車(グランクラス)に優雅に初乗車して、上海まで南下しました。上海から直ぐにJAL便に搭乗し、一昨日深夜の0時前に無事帰還いたしました。珍しく寝ずに待っていた家内の第一声は、「お帰りなさい。あらまあ、随分と引き締まった身体になったねえ! ぶよぶよ老人だったのに、お尻も上がって、足の筋肉はバリバリに硬くなってるよ! 凄いね。でもお腹は、元のままだねぇ。」 でした。毎日欠かさず、水代わりに何本も飲んでいたビールのせいですね。前回の44日間に続いて、今回も29日間に及ぶ長い旅でした。当分は、撮影写真の整理と投稿を続けながら、身体を休めます。
第16日目 5月4日 樺南林業鉄道撮影 2日目
今日は、ロビーに6時集合して、直ぐに樺南林鉄の起点の樺南駅へと向かいます。

▲ 今日の6:30の始発作業列車は、昨日同様に168号機が務めますが、機務段(機関区)から044号機も出てきて、デルタ線での方向転換に向かいました。両方とも動くようです。
▲ 6:38、市内の道路併用軌道には、作業員の乗る停車場がありました。ここで作業員数人を拾って、離合が出来る大金缸駅で途中停車してから、12.5キロ先の下樺駅へと向かって行きます。私達も後を追って、追い抜き、適当な場所での撮影ですが、今日は朝から厚い雲が覆っていて、芳ししカットは撮れません。
2012年春の中国鉄路の旅 Part12 小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その1
第15日目 5月3日 樺南林業鉄道撮影 1日目
ようやく今回の旅も半ばとなりました。昨夕合流した今回のツアー参加者は、7名です。リーダーの小竹直人先生の他に、通訳兼案内人の中国人の王国軍さん、紅1点のアシスタントの王森玲さんを入れると10名になります。
参加者の方々は、 新潟の柏崎市からお越しのTYさんを除いては、中国鉄ちゃん歴が長い方ばかりで、大先輩です。TYさんも訪中は何回かされておられますが、中々鉄道撮影の機会がなかったと話されていました。
教えてもらう事が多い旅となりますが、昨日早速に愛用NIKON300Sの具合が良くない。明るい所でもピントが合わず、シャッターが切れないので困っていると相談しましたら、同じNIKONを使っておられる小竹先生はじめ、STさん、NHさん等から、「今どんなセッティングをされていますか? ふむ、ふむ・・、それなら、このようにした方が良いです。・・・どうですか?」 と、懇切丁寧に教えていただきました。教えてもらったセッティングに変えますと、あら不思議!、今迄が嘘のように快調にシャッターが切れるようになりました。ツアーに参加しますと、今迄知らなかった事( と、いうより不勉強 ) を、教えていただく機会にもなります。参加の大きなメリットの1番目でした。
フイルムカメラ時代は、使用するフイルムの選択、シャッタースピード、絞りのマッティングと、レンズやフィルターの差し替え等が、テクニックでしたが、デジタルカメラとなってからは、誰でもオートで、それなりの写真が撮れるようになりました。もっと描写を必要と望む人には、数々のセッティングを選択することが出来ます。しかしそれには、カメラの持つ様々の機能を熟知する必要があります。残念ながら、ボケが入ってきた老人には、教えてもらって、また勉強しても直ぐに忘れていきます。困った事ですが、乗り越えないと、狙ったカットは撮れないのでしょうね。、
昨夜の睡眠時間は、わずか約4時間弱でしたが、みなさん元気に朝7時半には1階ロビーに集合して、チャーターバスに乗車しました。
▲ 7:38、樺南林鉄の始発駅に到着しました。作業列車は、6時半頃に出ていましたが、機務段(機関区)には、C2-044号機が息づいているのが見えました。

▲ 先に出た列車を追いかける事になりました。8:25、樺南ファンには有名な、陀腰子の肉屋自宅に到着、ここで持てない不要な物は預けて、バイクに跨ります。私は、台湾と芭石鉄道での経験はありますが、怖くて不安です。8時30分過ぎには出発しました。
▲ ここからは、線路沿いの狭い犬走りを山に向かって一直線に走ります。橋があると、降りて渡れば、また乗ります。犬走りも左から右へ、また左へと走路を替えますので、その度に降りて、乗るの繰り返しです。
▲ 山に入ると急坂ですので、降りて上がり、また乗ってカーブが続く犬走りを快走します。走行スピードは、30~50km/hと、スリル感は満点です。怖い私は、必至でしがみ付いての乗車でした。
樺南はご覧のとおり、新緑にはほど遠く、雪解けが終わったばかりです。所々に残雪がありました。泥濘道も多くなってきました。時々、後輪がながれるので、ヒヤヒヤです。降ろしてもらって歩きます。
9:25、ようやく待ってもらっていた作業列車が見えました。峠の立新駅に到着です。
▲ 今は勿論使われていない 立新駅舎です。1974年の表示がありました。右は、休憩所です。かつて撮影華やかだった頃には、雑貨屋があって、奥の部屋は、泊まれる民宿になっていたそうです。最初は、2食付で50元(約650円)だった宿も、鉄ちゃんが押し寄せるようになってからは、100元、150元と値上げしていき、最後の頃には300元(約3,900円)にもなったと、小竹先生は言われていました。ここに何泊もされているO氏は、ひどい時はギシギシで詰め込まれて、身体を横にしないと寝れなかった。みんなは、ここを立新貧館と呼ぶと、分りやすい説明を入れてくださいました。
▲ 作業列車は、C2 +カブース+レールバス+貨車3両で編成されていました。このレールバスは、個人経営で線路を借りて、客を乗せて運行していたそうです。片運転台で、シートは木張りのクロスシートです。
▲ 9:30、給水を終えたC2-168号機は、ゆっくりと撤去作業現場へと推進運転で下りて行きました。

▲ 作業列車を見送った後は、樺南方向から、もう1台の044号機も上がって来ます。王さん、下山してカマに乗り込み、煙演出をお願いします。11:57、王さんを乗せた044号機が上ってきました。煙のサービスです。この後2回も、フォットランをしました。

▲ 手前に引きつけてのカットを望みましたが、止まってしまい、先ほどまで我々の傍から離れなかったおじさんを乗せて立新駅に上がっていきました。どうしたのと聞きましたら、樺南名物の「おねだり」です。自分には何も行き渡らなかったので、こちらに来たわけです。タバコを渡して、一件落着ですが、ここまでくると、もう駄目ですね。おねだり癖が染みついています。
▲ 12:55、再び立新駅まで上がりますと、機回しを終えた044号機は、給水です。しかし、良く給水設備を残してありましたね。石炭は、貨車に積んでも運べますが、水は大量に必要ですから、なければ走れません。
▲ 14:07、044号機は、道床から剥ぎ取った枕木を積んだ貨車を牽引して、山から降ろします。O氏お奨めの場所に行って、全員で撮りました。
15:40、今度は、立新から先の撤去現場最前線に行く事になりました。初めて私が先頭になって、下ります。10台もバイクが犬走りを走るのは、壮観です。
しかし、途中でレール切り作業を終えたおじさん、おばさん4人が、ボンベを犬走りに置いて待っていますので、通れません。
もうじき引き揚げ列車が来るので、もっと手前で撮りなさいと言われました。
私には、どこが良いのか分りませんが、この地での撮影経験者ばかりです。誰かが、「じゃあ、あそこにしましょう。」と言えば、すぐに「そうだな、あそこがいいなあ。」 と、直ぐに相槌が返ってきます。最後尾のバイクが、反対方向に向きを変えて、もと来た道を上がっていきました。

▲ 16:10、作業を終えた工事人達と、剥がしたレール、枕木を積んで列車がやってきました。春が来たとはいえ、まだ冬枯れの山に白樺の白さが引き立ちます。これが、樺南だったのですね。ただ、これで白煙でも良いので、出てくれば最高ですが・・・。
▲ これで引き揚げかと思いましたが、まだまだ追っかけがありました。立新駅での給水作業中に追い抜きました。撮影場所は、みなさん好みでバラバラになりましたが、私は小高い山に登って、立新駅をバックに入れたカットにしました。斜光には、逆光でしたが、山里の駅を出て走る雰囲気は出ました。煙があると、もっと良いのですが・・・。
▲ 陀腰子のこの村には、悲しい物語があります。開拓団のみなさんが、遠く故郷を思い浮かべながら、家の門は鳥居形にしました。今も残り、鉄製の新しい門までできていました。O氏からもお話を聞きましたが、投稿しています中国では、こういったプログや歴史については、アクセスが出来ないようになっていますので、また改めて調べて掲載します。
▲ 今日は、素晴らしい夕焼けが見られると期待して、追っかけを続けていただきましたが、追い抜けたのは、樺南市内に入ってからで、断念しました。

▲ 19:15、一旦ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕食です。今夜は、羊肉しゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。王さんにタレのブレンドを各自頼んで、肉を鍋に入れますと、瞬く間になくなってしまいます。男9人ですから、食べるのは早い早い、ゆっくりビールも飲ませてもらえませんでしたが、追加、追加でたっぷり食べ、白酒もたっぷりといただきました。鍋の閉めは、鄭州で見たフィ麺ではありませんか。
明日は、早いので早くに部屋に戻って、即睡眠でした。 Part13 へ続く


























