「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)


我々の到着直後で「はとマーク」に蓋がされ、パンタが降りている状態。

昭和46年6月6日の京阪3000見学会の記念写真を見て非常に懐かしく思った。OBは、私、
KAWANAKA氏、KOBOYASHI氏の他にもSIKATAISODAKURODAの各氏のお姿も見える。模型をされていた方は前日の運転会で今日のことを知らされたのだろう。私は恐らく特派員氏から連絡をいただいたものと思われるが、噂の京阪特急の新車が営業運転の前に見学できるとあれば、皆さん万難を排して参加されたのであろう。
当日のネガには3000系の他、元京津線の72改造の構内入換車が写っており、こちらも見学、撮影できたことはラッキーであった。

来春、3000系の引退が報じられているが、私も来年3月末で雇用契約期間が満了する。引継ぎの関係で5月頃まではパートタイマーで不定期運行をするかも知れないが、「JR、メトロ、ゆりかもめ」通勤もカウントダウンになってきた。

中間車3102/方向幕は「普通・天満橋」を表示

 元京津線72の構内入換車/ポールがパンタに取替えられ連結器が取り付けられた位で、車体は72時代と変わらない。

2306/工場ならではの写真。

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見学会は午前中で終了し、午後はINUBUSE氏と近鉄南大阪線に行き、河内松原、道明寺、古市で撮影した。当時としてはごく普通の車両ばかりであるが、今見ると結構貴重と思われるので参考までに掲載した。

ク6682他5連の御所発あべの行準急/河内松原~恵我ノ荘

 荷電代用のモ5612+モ5613/道明寺

モ5656+モ5655の道明寺線ローカル/道明寺

ク6521他4連の吉野行急行/道明寺


 モ6017他4連の吉野行急行/道明寺~古市

 モ6852他4連の吉野行急行/道明寺~古市

「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)」への5件のフィードバック

  1. 藤本先輩 近鉄南大阪線の写真を見て懐かしく思いました。母の里へ行くのに阿部野橋から古市行の普通で道明寺のひとつ手前の土師ノ里までよく乗っていました。母の実家は駅から少し離れた天皇陵の近くです。河内長野まで準急で行き、乗り換えれば早いのですが、荷物を持って、小さい子供を連れて行くのは大変でしたのでほとんど乗り換えなしの66の普通でした。母の実家で泊まっていると、夜は静かなため、道明寺線の電車の走る音が聞こえました。祖父はよく「カナン、カナンと走っているやろ」と言っていました。道明寺線は最初は河陽鉄道でしたが河南鉄道に譲渡されたので近鉄より河南鉄道の方がなじみ深かったのでしょう。祖母も近鉄と言わずに「大鉄」と言っていました。荷物電車の写真にサントリーのワイン工場が写っているのがまた懐かしいです。道明寺駅からはもうなくなりましたが、玉手山遊園地があり、時々ここに遊びに行きました。あまりにも身近すぎて写真を撮っていないのが残念です。これらの写真を見る事ができてうれしく思います。掲載していただいてありがとうございます。ところで、この掲示板は「室町BOX」のように感じます。掲示板の通称を「仮想室町BOX」にしたらいかがでしょうか。

  2. よく遊んだことのある玉手山遊園地について追加いたします。ここは1908年(明治41年)に河南鉄道によって開設された遊園地で西日本で最古の遊園地ということです。現在は柏原市立玉手山公園ふれあいパークとなっています。詳しいことはホームページがありますので、こちらを参考してください。また、道明寺駅から玉手山へ行くのに玉手橋という吊橋を渡りますが、これは吊橋としてはじめて登録有形文化財となったものだそうです。電車は新しくなりましたが、雰囲気はまだローカル線の感じを残していますので道明寺駅周辺で写真を撮りたいと思っています。

  3. どですかでん様、コメント有難うございます。南大阪線の話題でお楽しみ頂けたようで良かったです。
    南大阪線は、大阪線の2200形のようなスターが存在せず、華やかさに欠けるため注目度は低かったと思います。注目されたのは6800形ラビットカーが登場した時くらいで、同様のスタイルの車両が各線に登場し、オレンジ色から標準色に塗り替えられてしまうと注目度が低下してしまいました。多分現在でも同様かと思います。
    6600形は、元々スタイルの良い電車ではなく、3扉化されて原形を崩していましたが、日本初の20m級電車として注目されても良かったのではないかと思っています。あの写真撮影当時は大部分の車両が健在で、急行や準急にも使用され、主力の座を保っていましたが、その後急速に廃車が進み、4年後の昭和50年にはひっそり姿を消しました。

  4. 藤本先輩
    南大阪線の写真 同じものが当方にもありますので同行間違いないと思います。S42年3月からS50年9月まで河内松原の自宅から南大阪線の電車を見、ほぼ毎日のように乗っていましたのでなつかしく見させていただきました。当初はオレンジ色のラビットカー(6800、6850、6000、6100)や大鉄大型車(6601、6651、6661、6671)、小型車(5612、5621、5651、5800)、吉野の電車(5201、5211、6511、5700)、戦後の車(6411、6521)、かもしか5820、特急車(16000、16100)と多彩でしたが、徐々に一般車は6000系の標準色の車に統一されいった 今思えば、ちょうど過渡期だったようです。多くの車両に出会えた8年間でした。加速の素晴らしい うさぎさん、重々しく走る大型車、軽快な小型車、シートの立派な吉野車、快適な かもしか、いろいろと思い出があります。犬伏

  5. 当時の南大阪線は結構バラエティーに富み楽しかったですね。旧形の主力6600形も改造により1両ずつ細部が異なり、鋼体化の5800形も両数は少ないながら普通屋根、流線形、張上げ屋根と3タイプあり、その前は正面2枚窓がありました。モ6411形の座席もよかったですね。

    吉野には東京に転勤するまで年に数回行っていました。目的は「吉野大峰ケーブル自動車」で、日本最古のロープウェイと昭和31年製(トヨタ)と32年製(いすゞ)のキャブオーバーが各1両おりました。常時使用されていた訳ではなく、桜のシーズン、夏の林間学校輸送、紅葉シーズン等の繁忙期だけでしたが、国宝級のバスでした。それぞれ専属の運転手の方がおられ、その方が退職後は他に運転できる人がいないということで廃車になりました。
    先代の社長は、奈良県で初めてバスを走らせたのは自分だと言っておられました。今は当時専務をされていた息子さんが社長で頑張っておられます。一度挨拶に行きたいと思っているのですが、吉野山は東京からは遠くて。

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