天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【25】 秋編

三条通の80形

季節はもう師走ですが、まだ秋編、続けます。当時、京津線の車両は、準急用の600・700形、各停用の80形に統一されていました。今回は80形について触れてみます。
実は、私も京津線ユーザーだった時期があり、6年間、京阪山科~三条~北浜と通勤に利用していました。80形はラッシュ時には準急にも使用され、ほぼ毎日、お世話になってきました。明るい車内、滑るように走る80形は、準急用の350形、500形より、ウンと快適でした。なお、80形については、鉄道ピクトリアル822号「京阪電鉄」臨増号に、当会のシナイセンのヤマモトさんが詳述されて、80形への尽きない愛情が活き活きと著されています。
緩くSカーブした三条通を走って、東山三条に到着する。ここから見ると、都ホテルが、かなりの高さで正面に迫ってくる。

80形は、昭和36年に京津線各停用として近畿車輛で製造された。丸みを帯びた車体に前照灯2個の優美なスタイルの“京津線版スーパーカー”で、吊掛駆動ながら、高加速、高減速を誇った。増備も含めて81~96の16両が登場した。女子高生の多い東山三条、男子高生の多い蹴上と、対照的な二つの駅だった。濃緑・淡緑と80形独自の配色は、山々の緑に溶け込むよう、近畿車輛から提案されたと言う。九条山付近で、最大勾配66.7‰を上っていく。昭和46年8月の改正によって、80形は大きく変わる。京阪線・大津線が15分ヘッド化となり、京津線は全列車2連化、普通は早朝・深夜以外は三条~四宮に、準急が新設(急行はラッシュ時のみ)された。80形は、ポールからパンタになり、2両固定編成化された。
80形撮影のついでに、バスも撮っておく。京津線の廃止で、京都市バスは山科地域から撤退し、京阪バスに路線を移譲した。三条通を行く「東」系統も見納め。

九条山を越えて、日ノ岡に到着、パンタ化によって、ポールを操作する必要がなくなり、正面窓がHゴムによる固定窓となった。いちばんポイントの箇所だけに、惜しいことだった。
日ノ岡~御陵の併用軌道区間を行く。その後、冷房改造も行なわれ、時代に合わせて、姿を変えながら、平成9年の三条~御陵の廃止まで走り続けた。まさに“早すぎたLRT”だった。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【25】 秋編」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    怒涛のようなコメントの嵐に驚きました。
    この年は小生も何度か撮影に出かけましたが、10月に入ると人出が目立って増えましたね。最後の日曜日は特に多く、近くの高校で文化祭があったのでしょうか、高校生の姿も目立ちました。もちろん、カメラを持った鉄道ファンも多く、蹴上では京阪の職員の方が何人も出て、多数の乗客の誘導に当たっておられました。
    あれから22年ですか…、三条通も随分変わってしまいました。

  2. 紫の1863さま
    まずは、本日の市電展にお越しいただき、ありがとうございました。皆さん、熱心に見ていただき、ほんと感激しました。1863さんも、前からご紹介したいと思っていたM高校の先輩とも面談を果たすことができて、良かったです。さらに聞くと、それ以外にも、只ならぬ?関係をお聞きし、因縁を感じています。
    おっと、京津線の写真もありがとうございました。当時の混雑ぶりが分かります。蹴上の近くでイベントがあったりすると、もう乗れなかったです。遅れが常態化していましたね。

  3. 80型の思い出
    ①路面区間駅では乗降が大変だった:運転席のリモコンでステップがバタンと出てきた。混雑時には女性や老人に車内から手を差し伸べて乗車を助けた。
    ②抵抗器の排熱が怖かった:駅で対向車があると開け放した窓から熱風が車内に吹き込み「火災になるのではないか」乗客どうしが心配そうにささやき合っていた。

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