小学校1年の時から阪急今津線を通学利用していたので私なりに車両や若干の風景を発表したい。神戸線に比べて今津線は車両が小さくスピードがなく面白みに欠けていて趣味的に記録することはなかった。もっともカメラも持っていなかった。今津線は神戸線(梅田-神戸上筒井間)開通の翌1921(大正10)年9月に西宮北口ー宝塚間が西宝線として開通、有名なダイヤモンドクロシングは1926(大正15)年12月にでき、線名も今津線と改称されている。1型、40型、51型などが様々な姿で走っていたであろうが私が確実に覚えているのは500+300+500の3連あたりからである。その後、車両編成増に伴い今津寄りに320や380を連結した4~5連の時代が長く続いたように思う。
384を今津寄りにつけた宝塚行きの後部。380は320に続いて作られた両運車で丁度神戸線の900を小型にしたような感じで320にはリベットがあったが380は溶接技術の進歩によりリベットも少なくややすっきり見えた。385はアメリカ博塗装になったことがあるのは最近のデジ青で宮崎さんが発表されたとおりである。連合軍専用車になった車両もあるが私には知るすべもない。阪急最晩年は今津寄りに連結されていた。
1965.03.19 仁川-小林間 宝塚行き最後部384▼
500形は神戸線920形を一回り小さくした宝塚線用の全鋼製車両で整った外観の車両であるが、51形→500形→610形と台車や電気品等のたらいまわしが行われ全鋼製車ながら木造車の音や性能で気の毒な車両と思った。500形の戦前の写真を見ると奇数車もパンタを付けていた。付随車は300、310が使われ照明は白熱のシャンデリアであったが、床下にはトラス棒をつけて木造車を思わせた。写真のように今津寄りには500形2連付きの5両編成が多かった。
1966.12.05 仁川 西宮北口行き514▼
610形は宝塚線の体質改善で前記の51→500→610のたらいまわしの結果であるが、そのころデビューした1010系等カルダン車に近い内装でこのシリーズから阪急で初めての中間電動車630が生まれたりした。15m小型車ながら神戸線並みの車体幅があり、好ましいスタイルに人気があった。この610形は私にとっては宝塚線の専用車両のイメージで今津線や甲陽園線に来たのは晩年の頃のような気がする。
1965.03.19 小林-仁川 西宮北口行き612▼
なお、610、660は京都線211、261や神戸線805、806、855、856と同じ正面非貫通である。1969.03.04 仁川 宝塚行き660▼
準特急様
懐かしく貴重な写真を有り難うございます。
仁川駅の西側、弁天池横からの2葉は熊野神社の杜や長尾山系が望まれ、建物以外の風景は不変ですね。それにしても路盤がボロボロですね。
仁川駅は阪神競馬場の最寄り駅ですから、昭和45年入社後の休日は所謂「けつ押し」に駆り出されていました。丁度宝塚南口駅付近高架化工事中で、宝塚行きと仁川止めの交互運転だったかなと記憶しています。その頃は大型車4連でしたね。混みますよね!
南口駅高架後に6連化されましたが・・・
縁あって昭和49年仁川に住みましたので本当に懐かしいですね。それからも今津線がmy路線です。映画「阪急電車」は今津線が舞台だったので驚きと喜びが・・
先般、弁天池の変遷を拝見しましたが、弁天池にボートが浮かんでいたとは! 先輩と井原さんに感謝です。
マルーン様
多忙な中いつもコメント有難うございます。大私鉄ではありますが、一支線をテーマにしており、さらに当時は宝塚歌劇や西宮球場以外は中間にはギャンブルの地阪神競馬場とハイキングコース仁川ピクニックセンターくらいしかなく特に素晴らしい撮影地があった訳ではありませんが今津線には神宝線のいろいろな車両が走ったので表題のとおり車両中心としました。ところで私はマルーンさんの娘さんと同じ小学校の第1回卒業生のため校長先生とPTA会長と生徒代表の私で出来立ての校旗を持って熊野神社に行ったことを覚えています。老いぼれの私が最も輝いていた時代のことです。
準特急 様
仁川近辺の画像ありがとうございます。1枚目3枚目の撮影をされた弁天池の横の歩道は今も毎朝通勤で歩いています。これほど古い画像は見たことがありません。私は1989年から今に至るまで住んでいますが通勤路線のためかあまり撮影していません。だめですね。いいものを見せて頂きました、ありがとうございます。
893-2様
いつも素晴らしい巻頭写真を拝見させていただいております。有難うございます。毎日新型コロナウイルスの話で参っています。私は後期高齢者で基礎疾患持ちですから、買い物以外は家にこもっています。どこでどんなタイミングで感染するかよくわかりませんので、あまりおすすめできませんが、たまには気分転換で弁天池のほとりで撮るのも悪いことではないと思います。罵声が飛ぶようなことはありませんし、何より歩くことは健康的です。893-2さんのおられた大阪南の出身で蒸機と飛行機の大家は時々沿線であった南海も撮っておくべきだったと言われたことがあります。