▲標茶に到着したC58 127の牽く釧路発網走行き630レ、標茶からは標津線が分岐し、中標津を経て根室標津までの69.4キロと、中標津から根室本線の厚床まで47.5キロ、計100キロ余りが標津線だった。写真のように多くの乗り換え客で賑わっていた(1969年9月)。
標茶 (しべちゃ)
昭和2年の開設、昭和の時代は根室標津方面への標津線が分岐していたが、平成元年に廃止された。駅前には「道東鉄道発祥の地」の碑があると言う。これは、釧網本線の開業より、もっと早く、明治20年に釧路鉄道が、硫黄の積み出しで釧路川の河港の標茶まで開通している。また標茶町営簡易軌道が各方面に延びていたが、昭和46年に廃止されている。
▲標茶を発車、630レ C58 127[釧]の牽引、二面三線の駅で、標茶機関支区もあった中枢駅。▲標茶を発車した標津線の貨物列車、DE10 29+C11 129の重連、標津線は旅客はキハ22、貨物はC11の牽引だったが、この年から釧路区にDE10が配置されて、釧網本線とともに、貨物のスジを置き換えて行った。過渡期で、蒸機との重連も見られた。右手は標茶支区。
▲標茶駅を背景に発車した網走発釧路行き627レ、C58 413[釧]の牽引(以上、1969年9月)。▲▲標茶郵便局の風景印。記念消印の締め切り日に1日遅れたため、記念印は押してもらえず、風景印だけが送り返されてきた。
塘路 (とうろ)
五十石、茅沼に停車して、塘路に至る。昭和2年の開設、釧路湿原の真っただ中の駅で、タンチョウの飛来地としも名高く、平成に入ると、釧路湿原への観光駅として、賑わいを見せるようになる。ここでも、周辺に簡易軌道が伸びていたが、軟弱地盤のため動力化が行われず、昭和40年の廃止まで馬力が使われていたと言う。▲塘路~細岡で、DE10 27の牽く網走発釧路行き630レ、客車3両の後部に無蓋車を連結している。道からそれて草原に入ると、湿地帯に足を取られそうになって驚いた。▲塘路で交換するC58 127の牽く630レ、向こうは「大雪1号」「しれとこ3号」、オールキハ22の6連(以上、1969年9月)。▲以下は、2010年の塘路駅、キハ54単行の網走行きが到着。▲春から秋にかけて釧路~塘路で運転されている「くしろ湿原ノロッコ」、50系客車を改造した編成で、塘路で折り返して、釧路へ戻る際は、DE10の推進運転となる。
▲「くしろ湿原ノロッコ」の後部、推進運転のため、簡易運転台がある。
▲塘路郵便局の記念消印、上掲の後部写真と全く同位置。▲▲ログハウス風の塘路駅、1989年に改装され、なかには案内所や売店がある。
▲1969年訪問時の入場券と駅記念スタンプ。
総本家青信号特派員様
2013年7月の標茶駅です。2番3番ホームの網走方に、「標津線起点」と表記されたモニュメントがありました。検索すると「SLの形をしたオブジェ」と説明が出てきますが、どう考えても北海道の木彫り彫刻のニポポに似ていると思います。
1970年9月に標津線厚床支線の春別から国鉄バス尾岱沼線の終点尾岱沼まで乗車した時、若い車掌さんに「北海道周遊券」を提示しました。フリーきっぷの場合券番報告をする必要があったのか券番を転記するとともに、「この切符初めて見ます。勉強のためよく見せてください。」といわれ、裏面の(ご案内)文章まで確認されたことを思い出します。
快速つくばね様
標茶の様子、ご報告、ありがとうございます。私が書きました「道東鉄道発祥の碑」は、ご覧になりましたでしょうか。私は受け売りで、釧路、網走よりも早くに標茶に鉄道が敷設されていたこと、初めて知りました。
尾岱沼は、均周ユーザーには懐かしい観光地ですね。フリーで乗れる国鉄バスのなかで、観光地へ向かっていたのが、尾岱沼方面で、撮影の闘士も、息抜きに尾岱沼へ行ったことを聞きます。