例によって米手作市が投稿のお手伝いをさせて頂きます、が、その前に言い訳をさせてください。
この原稿は5月に頂いておりましたが、わらくろや事故、琵琶湖のヒマ人こと吉田耕司先輩の急逝、そして乙訓の老人(長老)こと沖中忠順先輩の一周忌(6月8日)と続き、更には米手作市の高校の同窓会が昨10日にあり(米手が事務局長!)大多忙の日々で、今日まで遅延させてしまいました。
宮崎繁幹さんには大変な失礼をしてしまい、申し訳がありません。ただ今から回復運転に努めますのでお許しください。(以上、言い訳終わり)
今回は私鉄電車特集です。出所は恐らく昭和20年代に各地で色々と刊行された同好会誌に在ったものと思われます。これ等の会誌は、殆どが孔版(ガリ版)印刷でした。デジでない大昔の「青信号」もそうだったのでは、ないでしょうか? これ等の会誌にも写真掲載の試みは為されていました。それが写真の貼り込みです。小部数の出版物では、コスト的に網点で写真原版を作成することなど望むべくもなかったでしょう。しかし引伸ばし印画ならまだしも、密着版が多い。セミ判までなら見られますが、35mmの密着、所謂ベタ焼きでは、切手くらいの大きさであり、虫眼鏡が欲しいです。
さて、この方法は他にも問題がありました。誌面上に最初から貼ってあった訳でなく、読者が添付されてきたベタ焼きを、自分で貼り込むやり方が多かったのです。直ぐやるマメな趣味人なら良いのだが、後でやろう組や、意図的に写真だけ纏めて編集しようと云う人も多かったようで、今に残された貼り込み用写真は、バラのままのものも多いようです。今回お送りするのは、大半がその手のものと思われます。
①⇧ これはヒントがいっぱいある。初心者向きか、第一問にはピッタリの御題でしょう。
②⇧ 社紋が鍵と思うのだが・・・
③⇧ これが京都市電の北野線なことは、さすがに私でも判る。しかし場所が判らない。どうぞ御教示下さい。
④⇧ これも京都市電。背景は京都駅でしょうか?地元の皆様、どうか宜しく。
⑤⇧ まさか、この会社には2輌しか電車がなかった、と云う訳では無いと思うが・・・。
⑥⇧ ひとつ前の「1・2号電車」と一緒に入手した写真なので、これが3号かもしれません。
⑦⇧ また出た、1号! しかし隣に2号?も写っているぞ。「1」から始める正直なのが地方鉄道の好いところ。
⑧⇧ この会社も、相当車輌数は少ないらしいが、少なくとも3輌はあったものか!
⑨⇧ これは電車じゃなさそうだ。架線も張ってないようだし。
⑩⇧ 行先札は、「大阪・矢田」と読めます。しかし、関西一の大都市、大阪行が単行とは!
⑪⇧ この電車も、「大阪・矢田」の行先札。何時頃だか判らんが、この当時は大阪も小都市だった?!
⑫⇧ 番号が近いので、同じ会社の同系列の車だろうか?しかしこちらは、荷物室付きのようだ。
⑬⇧ こっちは、大私鉄だな。5000輌以上もあったとは!モチ、誇大表示だろう。昔からあったんだなこの手は。しかし今では、大手私鉄は平気で、5桁番号を付番している。インフレ進行ですな。
⑭⇧ 広々とした駅構内と云うだけ。あとは全く判りません(キッパリ!)。誠に『ここ何処?』に相応しい御題かと存ずる次第です。
さあ、久しぶりの宮崎さんからの挑戦ですが皆様方、受けて立てるでしょうか?
宮崎さんは6月17日のキャンパスプラザでのDRFC研修会に早稲田大学鉄研を代表してご出席頂きます。交流を楽しみにしております。
米手作市様
ご多忙のところありがとうございます。
ではさっそく、「初心者向き」の①から始めましょう。
電車の背後、右上の看板?は裏向けですが、「和歌山電車のりば」と読めます。また左端の建物には「阪和射撃場」の文字が読み取れますので、阪和電鉄の東和歌山駅入口でしょう。電車(204号)は新造後まだ間もない頃でしょうか。のち扉が2枚折戸に改造され、戦後は白と水色の塗分け、パンタ化など経て、南海和歌山軌道線として廃止されるまで使われていました。なお方向幕は「市驛前」でしょうか。
撮影時期としては、「阪和射撃場」オープン後から南海合併前までの期間ということで、絞り込みできると考えます。
ちなみに、この和歌山軌道線は経営母体が何度か変わったことでも有名でしたが、当時は「和歌山電車」と通称されていたのでしょうか。
ほか、⑩~⑫の3枚は大鉄(大阪鉄道、現在の近鉄南大阪線)の電車で、⑬は旧吉野鉄道の木造車(番号が5423号ですので、関西急行鉄道または近鉄時代、名古屋線転属後)です。⑧も吉野鉄道(または大軌吉野線時代)の車のようですね。⑦は信貴生駒電鉄(現:近鉄生駒線)のように見えますが。
とりあえず、私の拙い知識レベルでは、この程度のところまでです。
まほろばの鉄趣味住人 様
早速のご回答、ありがとうございます。
不意打ち投稿ですので、今しばらく皆様の反応を伺います。
早速のコメント有難う存じました。⑩~⑫の3枚は大鉄(大阪鉄道、現在の近鉄南大阪線)でしたか。行先札に「大阪」とあるのは、「大阪阿部野橋」のことだったのですね。当時は略すときに、「阿部野橋」とせず、「大阪」としたのでしょう。矢田駅の位置も確認しましたが、阿倍野起点5.1kmしかなく、随分短い区間の運行をしたものだと感じました。少し勉強をしました!
⑦の写真は信貴生駒電鉄の信貴山下にあった車庫です。電車はデハ1です。後ろに写っているのは信貴山に登るケーブルの駅です。今は車庫の所は図書館になっています。車庫があった頃のことはよく覚えています。写真を見てすぐにわかりました。
だいたいいつ頃でしょうか?
信貴電を調べているときに中之島の大阪府立図書館で鉄道史料第98号のコピーした資料を見るとデハ1型が山下車庫(信貴山下車庫のこと)に留置されてる写真がありました。白黒写真ですが同じようにツートンカラーに塗装されています。写真の説明には昭和30年頃とありますから、⑦の写真も同じ時期ではないかと思われます。
ありがとうございます。
さすがに地元の方には、直ぐ判るのですね。私はもっと小さな鉄道の電車かと思っていました。でもよく見れば、結構大きな電車です。信貴電と教えて頂いたので、少し調べましたら、この電車は近鉄への併合時には引継がれなかった由。二君に仕えなかった、潔い電車でした。
京都市電の写真、③ ④いずれも塩小路通りから南、京都駅の駅舎を向いて撮った写真です。③のN電の左後方には3線ターミナルの詰所が見えますから、昭和27年9月以降に撮られたものです。右後方の瓦屋根は3線ターミナル以前のループ線当時の建物です。ターミナル完成後もしばらく残っていました。北野線の車番は昭和30年4月に整理され、1~28に改番されましたので、それ以前の写真とわかります。
④は東乗り場です。三代目京都駅は昭和27年5月に全面開業しました。一方市電の系統板は昭和27年12月の改正で縦長四角から円形に変更されましたので、その期間内に撮影されたものだと推測できます。それにしても5系統の単車と言い、乗客の少なさと言い、早朝に写されたのでしょうか?
詳しく教えて頂き、有難うございます。見る人が見れば、小さな写真にも色々な情報が、隠されているのですね。それにより撮影時期が、かなり狭い範囲に絞り込まれたのに、感心致しました。
トップの和歌山電車204は、同一車両がないため、1番違いの205です。
昭和40年1月17日、東和歌山駅前です。
2番目の223は、引戸の前後扉、扉間11枚窓で検索したところ、王子電軌216~223がヒットしました。撮影場所は、大塚駅前と思われます。
王子電軌216~223は、戦時買収で東京市電となり、171~178に改番、写真の223は178に改番され、更に176に改番されました。
こちらも176の写真がないため、昭和41年3月10日、王子駅前の171です。
藤本様には、解明頂き有難うございます。それも、場所まで。正面が写っていないので、これじゃ判らんと投げていた写真でした。側面窓配置から、検索できる仕組みをお持ちとはビックリです。判ってみればお椀ベンチレーターが2個しかない屋根上などが特徴あるとも言える電車でした。8年ほど前に宮松金次郎氏の東京市電・都電の写真集を編集したとき、王子電車も取り上げたのですが、思い出せませんでした。1番違いの222号を載せていますので、お目にかけます。
7番目の信貴生駒電鉄1形は4両在籍して、旅客車としては、近鉄に引き継がれませんでしたが、3のみ機器扱いで玉川工場の入換車になりました。玉川工場閉鎖後は、五位堂工場に移動して結構長く使用されました。
昭和50年1月15日、玉川工場です。
⑨は大和鉄道のハフボ102です。大正6年に梅鉢で製造され、戦後の昭和24年に廃車されました。
大和鉄道は昭和19年に田原本―桜井間が休止されましたので、それ以前の撮影でしょうか。場所は全く分かりません。
ネットで拾った情報で、「トレイン」誌に右斜めから撮影された同車の写真があるとのことですが、現物を見ておりませんので詳細は不明です。ちなみに撮影場所は桜井とのことです。
⓾のデイ12は、近鉄合併後の改番でモ5613になりました。
下記リンク先も参照してください。
https://drfc-ob.com/wp/archives/29597
⑪のデハ531は、近鉄合併後の改番で、モ6631、⑫のデニ554は、モ6654に改番されました。
詳細は、下記リンク先を参照してください。
https://drfc-ob.com/wp/archives/26340
藤本さん、ありがとうございます。
それにしても⑤は誰もわからないのでしょうか?
写真⑤は正面の車番表記に「デ」が付いているのが、珍しいのでは? 側面の表記なら珍しくはないですが。隣の2号はカタカナ無しなので、付随車には番号だけだったものか。こんなとこから、割とスンナリ判明するかと思ったが、難しいものです。
⓼は、吉野鉄道テハ(デハではありません)形(1~6)のテハ3です。近鉄合併後の改番で、モ5151~5156になりました。
撮影場所は、吉野口駅と思われます。
古市工場のテハ1→モ5151の廃車体です。
⑬のク5423は、元吉野鉄道ホハ11形(11~16)のホハ16です。
6両新製されましたが、11と15は合併前に一畑電鉄に、13は定山渓鉄道に譲渡され、12、14、16がク5421~5423になりました。
定山渓鉄道の元ホハ13→クハ二501です。
⑤は法勝寺の1と2では。元愛電の1型だった。
広瀬鉄道かと思ったのですが広瀬はヘソライトでなくおでこライトだったという記事を見つけたので。当てずっぽうですよ。
でも⑥が鋼製車で3号とすると法勝寺ではない気がしてきて北陸かなあと考えたり。
笑い話ですが最近、野草や樹木を判定するスマホアプリがあって屋外で翳しただけで答えが出るそうです。”電車アプリ”があればこれは庄内交通とかすぐに答えが(笑)
K.H.生さま、回答有難うございました。法勝寺は有力候補です。参考書として手近かなのは、RMライブラリNo.209「米子を走った電車」で、p.29に湯口さんの付随車改造後の1号の写真が載っており、よく似ています。これで正解としたいのですが、著者の白土貞夫さんに拠れば、車体への標記は番号のみで、他の記号は皆無、と云う点。それと2号は、電動車のまま廃車となったようで、付随車化された記録がないので、断定に躊躇するところです。しかしこの鉄道のあった米子は京阪神地区からでも遠く、ポール集電時代の記録写真は創業時代の絵葉書くらいで、鉄道ファンの遺したものは見た記憶がありません。若し写真⑤が法勝寺であるとすれば、撮影時期は自連化の昭和16年から、2号が廃車となった昭和25年の間のどこかと言えましょう。写真⑥も難問で、車庫は米子市駅構内にあった車庫の形態とよく似ており、背景も一致するようです。しかしこの電車シングルルーフの単車で、これに該当するものがありません。これは、やっぱり”電車アプリの出現に期待するしかないかな!?”