ここはどこ?わたしはだれ?ー多摩湖鉄道所蔵作品より(8)

宮崎繁幹さんから続きの原稿が遅れていたので心配していたら、少し体調を崩されていたとのことでもっと心配することになりましたが、この度快癒されて待ちかねていた「ここどこ?わたダレ?(8)」原稿が到着致しました。

私が「京阪ネタではすぐにバレるのでアクセス数が伸びない。もっとややこしいのを」と要求していたので、ほとんど場所も時期も分からないメチャクチャな難題が送られてきました。ご本人も答えをご存じないそうなので、ここで分からなければ永遠の謎となりかねません。

⇩コワーい写真
まずは下記の写真。コメントには「蒸機にもあったさらし首の刑」とあります。中央の機関車(7号機と書いている)ではなく右のダルマの事らしいです。

さらし首 中央の機関車は7号機

 

⇩ C51255と仮駅
コメントは「どう見ても不通の駅には見えないので“仮駅”としました。災害復旧時の記録のようにも見えるが・・」

 EF53
これのみ撮影日が分かっています。昭和9年8月24日
パンタが1個しかなく、車体も未塗装のように見えます。

⇩ 梅小路付近のロケ①
表題はプリントの裏に記してあったもので、映画のロケを記録したもののようです。
しかし梅小路付近で撮影できるようなカットではありませんので推察願います。

D50123

 

⇩ 梅小路付近のロケ②
たしかにロケ中のように見えます。機関車はD50123で真新しく見えます。

 

⇩ 梅小路付近のロケ③
これは梅小路付近ではなく秋田ロケと書かれています。
機関車は9600に変わっていますがD50123のプレートをつけていますので同じ映画と思われます。

秋田のロケ

「番号を合わせたと云うことは、この列車が別の場所で再び事故を起こしたと云う設定なのだろうか? それにしても、わざわざ梅小路から、秋田へと遠征して、また事故現場作りをするのが、解せません。謎です!」と宮崎さんは書かれています。

 

今回は、なかなか難しく皆様にも楽しんでいただけるのではないでしょうか?(宮崎繁幹さん)

では皆様、ご期待に応えて頑張っていきましょう!

ここはどこ?わたしはだれ?ー多摩湖鉄道所蔵作品より(8)」への10件のフィードバック

  1. はじめまして。美大生と申します。
    1枚目の写真についてですが鷹取工場ではないでしょうか?
    手前に写っている機関車は恐らく元阿波鉄道のア7です。ア7はのちに鷹取工場内にて若鷹号という実習用の機関車に改造され現在も嵯峨野トロッコ列車の駅に保存されているものです。
    そして奥に写っているのが晒し首のボイラーと考えると明らかに鉄道工場のため鷹取工場が妥当かと思います。

    若者の推察ですが読んでくださると嬉しいです。

  2. C51 255は昭和37年まで亀山にいましたので、残された写真を目にすることができます。。しかし、前照灯は側面に番号が入った昭和初期のタイプで、給水温め器も見当たりません。とある資料に昭和11~2年ごろ、本省型温め器が装備されたと書かれていました。人物の服装も戦前のようで、昭和10年前後のようです。
    C51 255は昭和6年以降、浜田区に貸し出された時期もありましたが廃車まで亀山に所属してました。昭和10年前後は亀山区にいて、関西本線や草津線で使用されていたと思います。
    さて、この頃の災害と言えば、「室戸台風」があります。京都で多くの学校が倒壊し、数多の児童が犠牲になりました。滋賀県でも草津の小学校が倒壊し、東海道本線瀬田川橋梁上で列車が横倒しになりました。撮影されたのは草津線かもしれません。室戸台風は昭和9年9月21日ですので、10月の撮影でしょうか。場所を特定する要素はありませんが、なんとなく三雲駅の西側の様な感じがします。
    今回は難問です。美大生様が早速コメントを寄せてくださいましたが、鷹取工場の可能性は高いと思います。さらし首のボイラーについたナンバープレートと、奥にいる蒸機も国鉄形のように見えます。

  3. 「阿波鉄道のア7」と称するのはちょっと不正確です。コッペル1921年9月、製造番号9752として生まれた阿波電気軌道(1926年に阿波鉄道に改称)4形(No.7)で、国有化後は阿波鉄道を表す「ア」を付して「ア4形」とし、実際の番号は元のまま「7」となっていました。
    「ア7形」は(コッペルの製造番号5295)が別に存在しました。「信濃鉄道 No.3」であったものが「阿波電気軌道 No.6」となり、国有化後 鉄道省 「ア7形 No.6」になったものです。
    「ア4形No.7」はおっしゃるとおり、1939年に鷹取で技能者養成所の実習機として転用され、改造されています。ボイラ、シリンダ、動輪はそのまま活用されましたが、台枠の延長、キャブやサイドタンクを新製していますのでオリジナルのコッペルの面影は残っていません。

  4. ありがとうございます。そういうことだったのですね。腑に落ちました。個人的にはボイラ周りは結構コッペルの特徴を残しているという印象があります。いつか作ってみたい題材です。

  5. 1枚目は美大生さんのお見立て通り、元阿波鉄道の7号機でしょう。乙訓の老人の甥様のコメント通り、昭和8年の国有化後はア4形7号機となり、正確な時期は不明ながら、岡山機関区の6検(6ケ月点検)の入換え用機として使われ、昭和11年5月に廃車後、昭和12年春に鷹取工場に移されています。機関車が足りなくなった戦時中には安治川口にあった国鉄用品庫の入換え機として使われたようですが、昭和23年には鷹取に戻っています。その後「若鷹号」に姿を変えて、現在まで生き延びています。1921年ドイツコッペル社生まれですから、今は大改造されて面影はありませんが、102歳のご老体です。写真ではメインロッド、コンロッドが外されています。阿波鉄道は国鉄線から独立していて、乗り入れ貨車が無かったために、全国一斉の自連化の対象から外れ、連結器はバッファーリンクのままでした。写真では、前の連結器は自連になっていますが、後ろはバッファーが見えています。徳島から宇高連絡船経由で岡山まで回送される際に前は自連に交換されたのでしょう。エンドビームにはバッファを取り外した穴が残っています。開放テコはしっかりと取り付けられています。岡山機関区での6検用入換え機であれば、片側がバッファーでも問題なかったでしょうが、安治川口での入換えでは、さすがに片側バッファーでは役に立たないでしょう。従って、撮影時期は昭和8年以降で、ロッドが外されていることから、昭和12年に鷹取に来た頃ではないかと思われます。戦時中の安治川での撮影は無理でしょう。撮影場所は、周囲がゆったりした空間のように思えますので、岡山機関区とは考えにくく、やはり鷹取工場内なのでしょう。臼井茂信氏によれば、ホイールベース1600ミリのコッペルBタンクの動輪径はもっと小さいのが普通で、軽便用の仕様を無理やり変更してΦ800の動輪を履かせ、「幼児が大人の下駄を履いているようだ」とコメントされています。右側のさらし首や後ろに見えるタンク機の車番が判らないのが残念です。

  6. 3枚目のEF53ですが、撮影が昭和9年8月24日で、まだ未塗装で完成前だとすると、EF5316号機だと思われます。EF53は昭和7年に1~11号機が、昭和8年には12号機が1両だけ、昭和9年に13~19号機が完成しています。メーカーは日立、汽車+東芝、三菱、川崎と各社に分散しています。そこで写真を見ると、車体中央部の矩形の銘板の下に丸い銘板が2枚並んでいます。これが手掛かりです。丸い銘板2枚が付くのは、汽車会社と東芝合作のみです。汽車+東芝の合作機は昭和7年4月の2号機、同年5月の3号機、同年12月の9号機、そして昭和9年8月の16号機の4両です。従って昭和9年に未塗装で試運転をしているとなれば、16号機だと思われます。実は2号機は碓氷鉄道村に保存されていて、平成11年8月1日に撮影していましたので写真で丸い銘板2枚を確認できました。更に汽車会社発行の「汽車会社蒸気機関車製造史」には、まさにEF5316号機の写真がありました。この16号機は特に出来栄えが優れていたため、昭和9年末の丹那トンネル開通式の処女列車牽引機に選ばれ、昭和10年春にはお召専用機に指定された由緒ある機関車だそうです。問題は撮影場所です。昭和9年の汽車会社となれば、大阪本社工場かと思われますが、確証がありません。背景に石油タンクらしきものがあるので、安治川口近辺かと?また2灯式信号機があるのもヒントになるかと思いますが、土地勘が全く無いのでお手上げです。汽車会社のKAWANAKA様助けて下さい。なお、うしろのパンタが見えないのは、たたむとこんな具合に隠れてしまうようです。

    • 皆様に教えを乞うだけでは申し訳なく、小生も少し調べてみました。東芝は当初電気品を製造し、それを相手の機械メーカーで、艤装して完成品とし納入したようです。しかし1926(大15・昭元)年に満鉄向け73トン電機を初めて艤装・組立したと云うことなので、このEF53も艤装・最終組立は東芝がやったのではないかとも、思えます。その頃は未だ府中工場(昭15開設)は出来て居らず、鶴見工場の時代です。東芝の交通事業は社史的な出版物を2回出していますが、『東芝交通事業88年のあゆみ』に、昭和63年12月の「東芝レビュー」(同社の社内技術報)に掲載された「半世紀の誇り、東芝の電気車輌」と云う座談会記事が再掲されています。そこではEF53は先台車の心向棒とハートリンクの形状不良で復元力に異常が見られ、工場内試運転では露見しなかったが、東海道本線での試運転では8番分岐器で脱線。これが丹那トンネル開通3週間前のことで、日立、川崎、三菱などの他社製造機も東芝鶴見工場へ持込み、徹夜で修繕して、間に合わせたと云う興味深い記述があります。してみると件の写真は、東芝鶴見工場かとも思うのだが、確信はありませぬ。

  7. 鷹取工場で「若鷹号」を、チョットだけ撮っていました。
    ED384、B6?と繋がって留置されていました。

  8. これって、晒し首でなく、4−4−0をタンク式に改造した際、上下を切り離してボイラだけにして下回り改造中のシーンじゃないのですか。阿波鉄の買収と自連普及の時期から想像しただけですが。

  9. どなたからも反応のない、撮影現場の写真三枚のお話です。

    京都は映画の都、友人に映画関係の社長がいるので資料を集めている組織はないかと探して貰ったところ、この映画ではないかとの返答が来ました。そこは小さな映画ミュージアム「おもちゃ映画ミュージアム」です。
    https://toyfilm-museum.jp/
    早速伺いましたらDVDを用意して待っていてくださいました。門司鉄道局、鉄道省後援、昭和3年製作の無声映画のメロドラマです。梅小路機関区や京都周辺でロケをしたなど条件はぴったり。早速拝見しました。題名は「特急300哩(マイル)」
    最初に京都駅東側の高倉陸橋辺りから京都駅を俯瞰するシーンに、蒸機牽引列車が4本一斉に出入りするのが写ります。機関車はC53、C51、9600、などです。つぎに梅小路機関区で大臣が職員を視察するシーンですがこれが圧巻。転車台に乗るC51、扇状庫から頭を出すC53など圧倒されました。山科の築堤を客車列車が京都へ向かうと、無人の暴走機関車(ボールドウィン型)がそれを追う。山科駅に停車中の下り貨物の機関車を外して追いかけさせて機関助手がテンダーに飛び乗りブレーキを掛けて事故を防ぐ、というツッコミどころ満載の映画でした。因みに表題の300哩は、小倉から東京への特急列車が災難に遭うという所からつけられた題名だそうで、上り列車の設定になっていますが梅小路機関区が舞台ですから京都近辺で撮影されています。
    見終わっての結論ですが、D50123は出てこず、この映画ではありませんでした。このあとは京都文化博物館に映画担当部署があるそうなので行ってみようと思っています。
    余談ですが、この「特急300哩」という映画の発見は、映画界でも奇跡に近いことらしく、当時は鉄道雑誌や新聞でも報道されたということです。リンクを張りますので解説をお読みください。
    「おもちゃ映画ミュージアム」で事前にお願いすれば見せて頂けるそうです。入館料500円と存続のためのカンパをお願いされますが気持ちよく応じてあげてください。(維持管理が大変らしいです)

    「復元報告」特急三百哩 よみがえった幻の鉄道映画
    http://filmpres.org/preservation/tokkyu

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