昭和44(1969)年3月28日 DRFC合宿を前に一人で足慣らし
前記のように、ポールが建ち始めた呉線で丸一日撮った後は、九州各地へ転戦しました。DRFCメンバーとも要所で顔合わせしながら、17日間に渡って各地で蒸機を撮影。最終日は筑豊でたっぷり写したあと、夜行で広島へ向かいました。DRFCの春の合宿が開かれる前日であり、まずは一人で呉線撮影となりました。▲折尾から夜行の座席急行「桜島」に乗って、広島に4時30分に到着、呉線の一番列車622レが発車する7番ホームへ行く。外はまだ暗いが、ホームは明るく照らし出され、C62が堂々と待機していた。ほんの数年前、まだ山陽本線の蒸機が華やかな時代、次つぎに夜行列車が発着していた広島駅の昔日を思い起こさせるような雰囲気だった。C62 41[糸]
▲6番ホームから向かいの622レ、C6241を見る。
▲始発の622レに乗って、まず安芸阿賀まで行くことにした。途中の呉では、C59 161[糸]の牽く京都発広島行き「音戸2号」と交換。▲安芸阿賀で下車、少し東へ歩いて、広~安芸阿賀の広西大川の鉄橋へ。道路橋と並行していて、朝の通勤列車を撮る名所、水鏡状態のなか、広発広島行き925レ、C6217[糸]
▲広発広島行き927レ、C62 16[糸]の牽引、西岸から身をかがめて下からあおって撮影する。架線柱の建植はまだで以前と同じ光景。▲つぎの糸崎発広島行き621レは、道路橋から真横で撮影。これらの列車は、隣の始発となる広では、C59、C62の3本並びの発車として有名。▲つぎは上り列車となり、川の東側から順光で撮れる。C59 164[糸]の牽く徳山発糸崎行き624レ
▲つぎに安芸阿賀から小屋浦へDC列車で移動。例によって、小屋浦からトンネルひとつ越えた坂寄りで撮影、まずD51 761[糸]の671レを撮影。
▲そしてヘッドマークを付けた下り急行「安芸」が通過、晴れて来ると、下りはほぼ逆光とになり、撮りにくい。▲つぎに広島発糸崎行き626レを。C59 161[糸]の牽引、並行する国道31号もまだ閑散としている。背後の山は草木の無い禿山状態だが、いまは草木が繁茂している。
▲小屋浦に戻って、構内で上りの荷物列車42レを撮る。背後の山も、きれいに収まる。2018年の西日本豪雨でこの付近は大きな被害のあったところで、その原因ともなったのが、崩れやすい花崗岩の露頭が見える。
▲続いて「安芸」が通過して行く。まだ15時過ぎだが、今日はここまで、小屋浦16時発の列車で広島まで戻った。実は前日、筑豊本線で撮影中に、ドブのような池にはまってしまい下半身がズブ濡れになり、身体が冷えてちょっと風邪気味、大事を取って、早めに広島ユースに投宿した。
▲呉線で収集した入場券
総本家青信号特派員さま
撮影された当時の小屋浦はまだなんとか撮れる状況ですね。小生は呉線にはなぜか縁がなく、合宿にも参加できませんでした。大型機に目覚めていなかったようで、半年後の夏に総本家さまに案内してもらった上目名で62の虜になりました。しかし総本家さまやプルプルさん、また参加された会員の皆さんのC59・C62の写真を見せてもらい、そのうちに行こうと思ったことでした。
呉線には2011年に113系湘南色の撮影で行きましたが、昔鉄道ファン誌に小屋浦駅長が紹介されていた風景を覚えていて勇躍小屋浦に降り立ったものの、当たり前といえば当たり前ですが、並走する国道は拡幅されていて交通量が多くまた騒音も大きく、さらに駅付近まで宅地開発が進んでいてとても紹介された風景ではなくてガッカリしたものでした。いっぽうでかるが浜のように南国ムード満点のレジャー施設が出来ていて、遠景にはなるものの、園内からヤシの林立する向こうを走る原色113が撮れました。ムービーはこの点少々の障害物があっても撮れるのでありがたいですね。
1900生様
小屋浦の思い出、ありがとうございます。小屋浦を有名にしたのは、駅長をされていた庄田 秀さんという方で、「鉄道ファン」に撮影地ガイドも書かれていました。小屋浦付近は、車窓からの景色は海が見えて良いのですが、いざ下車して写そうとすると、並行する道路や建ち並んだ商店や家がどう隠しても入ってしまいます。当時は、われわれの用語で撮影に適さない場所を“クサイ”と揶揄していましたが、小屋浦は“クサイ”撮影地の代表でした。電化後は、架線でさらに撮影に適さなくなったことと思いますが、書かれていますように、沿線に新しい施設ができたりして、新しい撮影ポイントになったこともあると思います。
総本家青信号特派員様
私も当時の入場券を収集していました。呉線の全停車場と主な列車の起点、終点となった山陽本線の糸崎と広島です。
快速つくばね様
横入り失礼します。
これはお見事ですね。撮影の合間に入場券を手にするのは大変なことだと思います。入場券を買うタイミングもあると思いますが、駅員さんも常時いて対応してくれたのでしょうか。のんびりした時代とはいえ普通列車の停車中に購入することは簡単にできたのでしょうか。
準特急様
基本的には入場券はそれぞれの駅で出場または入場する時に購入していました。優等列車の退避や対向列車との交換の時は、当時は3分あれば跨線橋があっても購入する自信がありましたが、今は10分でも無理だと思います。たまに夜行列車で日替わり駅の近くになると、当日の乗車券簿が締められていて、券簿の訂正が大変なので新しい入場券を発売してもらえず、回収された使用済みのものを無料で渡されることがありました。
1967年3月30日の雨の日の広西大川鉄橋を渡る朝の通勤列車です。
快速つくばね様
呉線コンプリートですね。日付を見ると、私が行った前後もあるようです。交換待ちの間にも購入されたとのことですが、結構綱渡りですね。安登だけスタンプなのも、私と同じです。入場券が切れて、20円区間の乗車券に駅名スタンプを押印して代用していたものは何枚か持っていますが、駅名だけスタンプの入場券は珍しいと思います。
快速つくばね様 呉線の入場券コレクションのご披露、ありがとうございます。当時はすべてが有人駅だった証しですが、今、これらの駅でJR直営駅は広と呉だけです。忠海、竹原、安芸津、坂、矢野は業務委託駅になっています。須波、安芸幸崎、大乗、吉名、風早、安浦、安登、安芸川尻、仁方、吉浦、天応、小屋浦は無人駅です。自動券売機があっても、入場券は無いような気がします。当時なかった駅も出来ています。安芸長浜、新広、川原石、かるが浜、呉ポートピア、水尻です。須波駅は駅舎も取り壊され、殺風景な駅になってしまいました。ホームの桜並木も過去のものになりました。
西村雅幸様
呉線の各駅の近況と須波駅の現在の写真ありがとうございます。
今回、往時の各駅の入場券を一覧にして初めてわかったのですが、呉線には(安芸)「幸崎」など旧国名の安芸を冠する駅が4駅あります。旧国名は一般的に本体の駅名より活字のポイントが小さい文字で印字されていますが、「安芸津」のみ例外で同じポイントとなっています。不思議に思って調べましたらこの駅は旧国名ではなく固有名詞の安芸津町から命名されました。
呉線の前身の三呉線の駅として開業した時は村名から「安芸三津」だったようですが、戦前、合併により安芸津町となり、1943年に駅名も三が取れて「安芸津」に改称したようです。今は東広島市なのですね。