博多
鉄道雑誌を読み始めた昭和30年代の後半の話題のひとつが、博多駅の移転だった。旧来の駅を廃棄して、新線上に高架の新駅を造るという工事だった。地方ならまだしも、福岡のような都会で、よくぞ大胆なことをすると子供心に思ったものだ。そして、新駅でもしばらく見られた、ブルトレを牽くC59が、ヘッドマークを掲げて頭を揃えるシーンは、強く印象に残った。
昭和38年、周囲にほとんど何もないところに新しい博多駅は開業したが、50年が経過した今は、天神エリアと並んで、福岡の二大中心街を形成するまでになった。平成19年には新々駅ビル、JR博多シティができて、さらに駅周辺は賑やかさを増した。
▲初めて博多駅を訪れたのは、小雨の降る夕刻だった。17時12分、ホームに大勢の乗客や見送り客が並ぶなか、ゆっくりとED75303の牽く東京行きの「はやぶさ」が入線して来た(上)。博多で7両が増結され、堂々の15両編成となり、牽引機もED7319に替わった(下)。博多駅では、この前後にも「あさかぜ」「みずほ」「さくら」が東京へ向けて発車して行く。一晩寝ると、翌朝には1000キロ離れた東京に着ける。ブルトレ華やかなりし頃の博多駅風景だった。(昭和42年)
▲時代が下って、新幹線開通後の博多駅の花形は、80系DCとこだま型電車だろう。80系DC特急「おおよど」(上)は、昭和49年に新設された、肥薩・吉都線経由、博多~宮崎間の特急である。急行「えびの」を格上げしたもので、肥薩・吉都線では初の特急となった。しかし、昭和55年には廃止されてしまう。(昭和51年)
こだま型電車は、さすがに151・181系を撮れる年代ではなかったが、代わりに481系先頭車を見ることができた。「にちりん35号」。クハ481-601(下)。こだま型のクハ481は、さまざまな来歴があるが、クハ481形600番代601~603は余剰となった仙台地区のクロ481-3~5を格下げ改造したもの。(平成2年)▲博多駅のもうひとつの魅力は、駅前に路面電車が発着していたことだ。しかし、その西鉄福岡市内線も順次廃止され、昭和54年に全廃されることになり、博多駅前へ何回か撮りに行った。
福岡市内線を特徴付けていた連接車1201形が、駅前でひときわ目立つ、磯崎新設計の福岡相互銀行本店(現・西日本シティ銀行)をバックに行く。連接車は福岡市内線では、4形式あったが、製造所の違いだけで大きな差異はない。当時でも、連接車の使用はラッシュ時に限られ、日中に見ることはほとんどなかった。(上・昭和50年)
昭和38年開業の博多ステーションビル前を行く。その後、博多駅は、平成19年にJR博多シティとして、さらに巨大な駅ビルとなった。(昭和51年)▲博多駅筑紫口周辺には多くのビジネスホテルが集積している。そのひとつに、たまたま泊まると、きれいに駅構内が見渡せた。ちょうど、0系新幹線が到着してきた。駅周辺は、福岡空港が近いため、高層ビルが建てられず、中低層ビルが広がる。圧迫感がなく、写しやすいトレインビューホテルだった。(平成2年)
このところ圧倒的な蒸機の話題に電車屋は口を出せず、ひたすらに空を切る三振の山を築くのみであった。博多駅が取り上げられ思い出すことがある。1952年9月初旬、博多でステーションホテルを志し19時ごろに駅前の屋台で1杯やって待合室に行ったところ超満員である。これはたまらんと駅前で客(宿)引きしている老婆に連れられ、駅裏の宿に向かった。1泊朝食のみで550円だったと記憶している。翌年再び九州めぐりをしているが、この時は門司港で快適な一夜を送ることができた。「鉄電」復活後、1989年GW前夜に門司港に行ってみたが、ガランとしており、とてもステホできる雰囲気ではなかったので、夜行急行「かいもん」で南下した。回転式ロマンスカーであったが、蛍光灯は終夜点灯、小倉、博多、久留米からも続々と深夜急行に乗車客ありで、通路は寝る客で歩行もままならぬ状態。後で知ったのだが悪名高い「釣り夜行」であった。
乙訓の老人さま
久々のコメント、ありがとうございます。
博多駅裏で泊まられたのは、まだ旧駅の時代だったのですね。“客引き老婆に連れられて駅裏の宿へ”とは、ただならぬ妄想が巡りますが、当時の主要駅の駅前は、どこもこのような状況だったのでしょう。
超満員の「かいもん」は、私も同じ経験があります。まだ「はやと」と名乗っていた時代ですが、九州内の夜行なので高をくくっていたところ、乗ってくる乗ってくる…。深夜午前1時過ぎの博多駅からも、多くの乗車があり、2人掛けのところに幼児も入れて4人で座り、しかも、前に立ち客がいて、直立不動のまま、一睡もできずに鹿児島に着いたことがありました。
特派員殿
「駅を旅する」シリーズ 楽しく拝見しています。初の九州訪問が昭和42年ということは特派員殿高校3年生のときですね。多分ひとり旅だったのでしょう。同じ年 私は別の友人と東北を巡っています。しかし特派員殿のようなしっかりした写真は殆どと言ってよいほどありません。さて九州内の夜行列車の混み具合はすごかったのですね。2人掛けに4人とか前に立ち客とか、トイレに立つことはおろか身動きできずに夜明けを待つつらさは想像できません。東北の夜行でここまで混んだ列車に乗った覚えがありません。ところで余談ながら福岡駅前の1201形連接車ですが、広電で今も元気に活躍しているのはうれしいことです。西鉄1101形、1201形、1301形計12両24車体が 広電に来て3車体8両になっています。24車体中8車体が中間車に改造されたわけです。改造に伴う番号の変化は複雑ですが、もし写真が1201A,Bだとすると現在の広電3004Aと3006Aということになります。是非再会を果たして下さい。本シリーズの続編を楽しみにしています。
西村さま
コメント、ありがとうございます。はい、初の九州は、高校2年から3年の時の春休み、均一周遊券を握り締めた、二週間の一人旅でした。私も大した写真は残せていないのですが、永い鉄道趣味活動の中でもターニングポイントとなった旅行でした。
夜行「はやと」ほどの混雑は、私も以後多くの夜行に乗りましたが、これ一回だけでした。250~300%の混雑だったと思います。
西鉄の連接車は、広電、筑豊、熊本へ行って、今でも活躍を続けているのは嬉しいことです。初期の1001形は、広電へ行った京都市電1900形よりも古いのですね。それほど活躍は長くないかもしれません。写真を拡大しますと、博多駅前で撮ったものは1208とありました。
先ほどのコメント、1952年は1957年の間違いでした。この年、熊本でも21時過ぎに大分から到着、風呂屋が駅周辺で見付からず、客引きばあさんと交渉し、朝食付きで350円で泊まっています。これと比べると博多は高いと思いましたが、眠たくてたまらなかったのです。駅周辺には商人宿が大都市ではあり、ややこしいものではなかったのです。部屋は押しなべて4.5畳でした。大阪営業所転勤となり、中四国地区担当時代は出張宿泊費が2000円であり、6畳間に泊まり2食付でお釣りが出ました。車中泊も2000円、日当1000円、恵まれた出張費でしたが、その分、駆け巡ったのは時刻表片手に動く事が出来たからであると思います。今の営業マン、車の運転しながら握り飯をほうばり走り回っている姿、可哀そうだなぁーと思っています。
乙訓の老人さま
何度もコメント、ありがとうございます。
“ややこしい”宿ではなく、胸をなでおろしました。
当時の宿泊出張費で、泊まり2食付きでお釣りが出た、ということは、現在に換算すると、1万円以上なのでしょうか。古き良き時代だったのですね。
たまたま、ある鉄道趣味団体の支部要職にあった方が亡くなられていたことが、つい先ほど、知人からの連絡で分かりました。その方も、出張にはカメラらを携行して、行き帰りには必ず写していたと話されていたことを思い出しました。
特派員さま
1208Aは3001Bに 1208Bは運転台を切り取られて 中間車の3008Cに生まれ変わっています。昔は当たり前だった床の高さですが、超低床車が続々登場すると、旧型車によっこらしょと乗り降りする高齢者を見るにつけ 旧型車はもう永くはないナと思ってしまいます。
乙訓ご老人が1952年9月博多の駅前の屋台で一献したとのコメントには、一瞬たじろいだ。1952年といえば須磨老人が高1、乙訓老人は中3のはず。この酒飲み老人奴は、何と中3から屋台で酒を喰らっていた???
1957年と訂正があって納得。それでも未成年でなないのか。怪しからん。順法精神が欠如しとる。須磨老人の親父も酒好きで、晩酌の際、必ず猪口で1杯は幼き老人に飲ませたものであったが。まあ我々の年代では、高校生でもコンパとなれば極安酒を飲むぐらい、社会も黙認していた。現在でも時折ある、新入生に無理やり飲ませて急性アルコール中毒死事件などは聞いたことがない。周囲の大人から、の味方の手ほどきがなされていたと思っている。
お叱りを頂き、ご心配を頂き、恐縮しております。父母の生家は共に片田舎の造り酒屋でございました。父の方は大正の始めに破産、母の方は終戦直後に統制で廃業となりましたが、ありがたい事に親父はとある伏見の酒蔵と戦中より親交があり一升瓶が、母の従姉妹が造り酒屋として生き残っており酒粕が入手できました。そんな事で酒が飲めない9歳上の兄に代わり小学生時代からアルコールに触れておりました。中学校時代には文化祭の準備で遅くなり震え上がり、金を集めてサントリーレッドポケット瓶を買いに走り、飲みまわしした事ありです。以上、告白いたしますが、なにとぞ時効としてお見逃しお願いします。