長崎
長崎本線の終点、長崎である。
最初に訪れたとき、三角屋根に時計台を備えていた駅舎は三代目で、原爆被災から4年後の昭和24年にできたと言う。現在では、完全な終端式の駅となっているが、当初は、通過式の配線だった。その先に長崎港駅があり、もっと以前は旅客営業も行っていたが、訪れた当時は、貨物のみ扱っていた。
駅に隣接して長崎機関区、客貨車区があったが、当時は配置機関車がなく、鳥栖、早岐の機関車が出入りしていた。ターンテーブルの周りに扇形庫はなく、たいへん広々した機関区だった。
長崎港への貨物線は、昭和62年、国鉄民営化時に廃止され、平成12年には、現在の四代目駅舎が建設され、終端式の構造に改められた。
以前は、長崎始発の東京・大阪方面の優等列車が運転され、駅の格を高めていたが、平成20年に特急「あかつき」が廃止以後、すべて九州内のみの運転となっている。
また2022年開業予定の九州新幹線の長崎乗り入れに向けて、駅の立体化工事と周辺の整理事業が進行中で、もと長崎機関区・客貨車区、現在の長崎運輸センターの移転が焦点だったが、早岐駅と構内への移転が決定したと言う。
▲鳥栖のところでも触れたように、昭和42年の訪問時、長崎本線の優等列車はDD51化されていたが、臨時列車はまだ鳥栖区のC60が牽いていた。長崎駅でも、C6026[鳥]の牽く大阪行き急行「第二玄海」の発車をとらえた。これを、鉄道ピクトリアルのトピックフォトに投稿したところ、初採用となった。高校2年生だった。嬉しくなって、学校へ持って行って、みんなに見せた。この号だけがボロボロになって、いまもその時の感動を伝えている。(昭和42年)▲長崎駅前の風景。路面電車はバスに隠れてしまったが、その分、自動車が時代を語っている。その後に、付近にペディストリアンデッキが設置され、見通しが悪くなった。(昭和42年)
▲扇形庫などの建造物がほとんどない長崎区はたいへん撮りやすい区だった。午後からは順光になり、蒸機の下回りにも光線が回った。上から、ロッドの下りた原型D51280[鳥]、扇形線に並ぶC6031[鳥]、D51280[鳥]、いかにも長崎らしい街並みをバックにしたキハ282[門サキ]。(昭和42年)▲C57、ブルトレを牽く? 実は長崎駅での入換中のひと駒だった。入換機を持たない長崎区では、客車の据え付けなどには、休んでいる本線蒸機が使われていた。C57154[早]。(昭和42年)▲最近訪れた長崎駅。平成12年に駅舎は新しくなり、ドーム状の屋根が設置された。(平成19年)▲かつて貨物線が伸びていて、島式ホームで跨線橋で本屋と連絡していた3・4番ホーム(左)も終端スタイルに改められ、車止めが設けられた。階段のない、平面移動ができる駅となった。九州を代表する各種車輌が並ぶ。(平成19年)
また、私の話で恐縮です。そして、また、修学旅行の話ですが、神戸から関西汽船で別府に向かい別府⇒杖立温泉⇒阿蘇⇒熊本⇒雲仙⇒長崎をまわって最後は長崎から修学旅行団体専用列車で戻りました。連日旅館で騒ぎ、最終日寝不足とバス酔いでダウン。このため最終日の長崎は浦上天主堂やグラバー邸等主な長崎の観光地は見学はしておりませんし、今日まで見たことがありません。ところがどういう訳か夕刻汽車に乗る時間が近づくにつれ元気が出てきました。長崎は日本の西端のため10月末の18時過ぎでも駅舎のシンボル三角屋根の時計は綺麗に写っています。この時は友人とホームの端でC57195[早岐]とともにD51814、88650を撮っており、区名入れには「長」の字が入っています。長崎機関区に配置されていた機関車です。時間的余裕のない団体行動の僅かな自由時間の撮影であったため撮った写真はそれだけで機関区がどこにあったのかさっぱりわかりませんでした。長崎は私の撮影の1年4か月後機関車配置がゼロとなっております。先日「しまかぜ」乗車で皆さんとご一緒させていただき、大宴会後に乗車した伊勢市にあった伊勢機関区も長崎機関区と同じ様な道を歩んだものと思いますが如何でしょうか。それにしても今日の総本家さんの写真的ルーツが長崎にあったのですね。
準特急さま
長崎駅の思い出、ありがとうございました。高校時代の修学旅行は、鉄道趣味の揺籃期にあって、ターニングポイントとなったことは、須磨の人間国宝も書かれていますね。私の出た高校は、入学直前に修学旅行が廃止されてしまい、残念ながら思い出はありませんが、その分、一人で九州へ向かわせたのかも知れません。
機関車配置ゼロの機関区は、その当時、何ヵ所かありましたね。一昨日、“しまかぜ”に乗って、一瞥した伊勢機関区(現・伊勢車両区)も当時は配置はなく、亀山の機関車が出入りしていました。“ここは、もと山田やったでぇ”と車内から声が上がっていましたが、調べますと、昭和34年に山田機関区から伊勢機関区に名称変更されていました。