京津線蹴上の桜
平成の桜、阪急のつぎは京阪です。京阪の桜、と言えば、我々の世代では鴨川沿いの桜となりますが、これは、昭和の出来事、平成はすでに地下に潜っていますから、改めて時の流れの早さを感じます。平成時代の桜は、やはり京津線蹴上の桜でしょう。並行していた琵琶湖疏水のインクライン沿いに桜の並木が続いていました。この区間が廃止されて、市営地下鉄東西線に道を譲ったのが平成9年、もう20年以上前になります。この頃はカラーポジの全盛で、京津線と桜を絡めて、よく撮ったものです。ところが、私にとっては、もっと以前に廃止された鉄道にばかりに時間をとられ、京津線のことは、全く採り上げることはありませんでした。
▲京津線蹴上駅は、低床ホームが三条通にあり、電車の到着を待つ人びとの様子を、桜と重ねて狙ったものだ(以下すべて平成9年4月撮影)。
▲琵琶湖疏水のインクラインに沿って桜並木が続いていた。今年、このインクラインへ行ってみると、インバウント観光客を中心にした桜見物客であふれていた。▲西側から蹴上の電停を見ると、背後に桜並木が広がって見えた。桜の時期は、ちょうど付近の学校の新学期に当たり、桜見物客も重なって、ホームはいつも大混雑していた。
▲都ホテルの前を発車した80形の四宮行き。左は今年の同一地点、まだ咲き始めの時期ではあるが、桜の樹勢はやや弱っている感じがする。都ホテルも、今はウェスティン京都都ホテルと名前を変えたが、建物そのものは変わっていない。
▲各停用の80形は、昭和45~47年に、片運、2両固定化、のちに冷房化された。この年の京津線の廃止により、全車廃車となった。▲いっぽうの準急は、260・300形の車体を流用した600形、350・500形の車体を流用した700形が使われていた。蹴上は通過だから、“ファーン”というタイホンを鳴らし、渋滞する自動車をすべて止めて、九条山への勾配区間に入って行った。▲私も6年間だけ京津線ユーザーとして、ほぼ毎日、蹴上の前を往復していた。ちょうど30歳代の猛烈に忙しい時代で、車内から桜を愛でるような余裕も全くなかったし、ましてや桜の撮影で下車することもなかった。桜というものは、年代によって、受ける印象が違ってくるものだとつくづく思う。
総本家青信号特派員様
都ホテルも80形も蹴上の風景と共に頭の中に残っておりますが、3枚目の写真は見事ですね。蹴上が桜の名所と始めてわかりました。ここも東海道ですか。
僕が鉄道に興味を持って追い掛けるきっかけとなったのが、総本家青信号特派員さまが紹介された、まさに蹴上の桜風景の中を走る80形でした。さすが特派員さまです。電車が生き生きとした姿で捉えられておられますね。
少しでもいい写真を自分自身でも残そうと、平成元年の春から毎年この地に足を運んでいたことや、毎年桜の時季になったらソワソワしていたことを懐かしく思い出しました。まさに僕自身が高校生の時です。
京阪電車と言えば、多くのファンは京阪線に関心があるようですが、当時の大津線は路面電車としては少し大型の車両ながら、全車のスタイルが整っており、沿線は四季の変化に富んだ風景なのに、普段からあまり沿線で同業者を見掛けたことはなく、心行くまでカメラハイクをしていたのが懐かしいです。
僕にとって、一番の沿線区間とそこを主な活躍の場としていた80形が地下鉄乗り入れで廃止されてからは、まるで憑き物がとれたように興味や関心が薄れて、大津線を一利用者として見るくらいまでに冷静になってしまったことに自分自身が驚いている今日この頃です。
落研さま
コメント、ありがとうございます。いまはシナイセンで売り出し中の落研さんですが、かつては、京津線に並々ならぬ情熱を燃やされていたことを思い出します。ピクの記事からも、その情熱が伝わってきました。まだ高校生の時でしたか、ずいぶん時間が経過しました。私自身も記録を続けた気概がありますが、それ以前に廃止の京都市電や江若鉄道に忙しく、京津線の回顧することが出来ていません。また落ち着きましたら、本欄でも発表し、お互いに京津線の思い出に浸りたいと思います。
準特急さま、蹴上はまさに東海道上ですよ。
この辺りの三条通りは今は府道になりましたが、京津線が走っていた頃で昭和40年代は「国道1号線」で、電車とともにその道路標識が写り込んでいる写真を見たことがありますよ。
シナイセンの落研こと山本清治さま
ありがとうございます。東京日本橋から桑名の先、具体的には近鉄名古屋線伊勢朝日付近まで旧東海道を歩きました。途中、旧道がなくなったり、国道1号線と離れた所もあるようで適当に歩いてきました。しかし、近くを走る鉄道に目を奪われ、さらに最近は膝が痛くなり、この調子では三条大橋に辿り着けるのかどうか危惧をしております。
準特急様
京都付近の旧東海道ですが、いまの三条通であり、五十三次歩きの本の地図にも、そのように書かれていますが、正しくは、蹴上から三条大橋までは、いまも三条通の一筋南に残る細い道です。蹴上付近では、その後に出来た都ホテルの敷地に取り込まれて、一部は消滅しています。蹴上以西の三条通は、明治期になって新設され、そのあと、一部を京津線が敷設されたようです。ほかの地域でも、明瞭に旧道が残っているようですが、その後の変化で、歩くのが困難になっているところもあるのでしょうね。