昭和の電車 改訂版(34)ー京都市電N1型ー 投稿日時: 2019年12月19日 投稿者: 米手作市 これは自信を持って投稿できます。画に描かれている場所は七条西洞院を上がった、旧植柳小学校の南にある藪の内千家の前でしょう。西洞院通を走る北野線は、南北の通りでは西側に引き寄せて線路が引かれていました。そのため西側の家では飛び出すことは厳禁でした。中立売通では南側に寄っています。先日掲載された花巻電車と似ていました。 中村進一氏撮影 画とほぼ同じ付近と思われます。左のカゴのようなものは籐で作った乳母車。春の彼岸頃と思われる。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(139)ー南海電鉄モハ1251系ー 昭和の電車 改訂版(125)ー都電7000型8000型ー 昭和の電車 改訂版(76)ー仙台市電モハ300型ー 昭和の電車 改訂版(72)ー南海クハ2801型ー 昭和の電車 改訂版(69)ー名鉄モ400型ー 昭和の電車 改訂版(53)ー東急電鉄デハ3450型ー 昭和の電車 改訂版(29)ー京成電鉄1600型ー 昭和の電車 改訂版(18)ー奈良電クハボ600型ー
米手さまに、お尋ねします。関先生の元記事には、「堀川線」とありますが、米手さまは「北野線」と記されています。両者は、同じ意味でしょうか? それとも区間により、線名が異なる。或いは、正式名と通称とかなのか。御教示下さい。 返信 ↓
意表を突いたご質問にあわてました。 というのは、私は普通に「北野線」と言ってきましたからです。これは私だけでしょうか?「堀川線」も言ったことがあるような気もしますが、一般的には「北野線」が使われていたように思います。そこで手元にある「軌道事業略史・京都市交通局編」を探してみましたが、京都電気鉄道からの買収線の項に「北野堀川線」、昭和27年6月11日現在の営業線の項に「堀川線・北野から烏丸塩小路」とありますがほとんどは線名ではなく系統や区間表示となっており、交通局では線名はあまり重要視していなかったのではと思いました。廃止からすでに60年が過ぎますので記憶も曖昧になります。 そこでご覧の皆様で当時を知っている方はなんと呼んでいたか、どこかに何と書いてあったかを教えてください。 返信 ↓
どこに何て書いてあったかは全く存じませんが、「四条堀川」電停から100mくらいのところに住んでいた私はフツーに「北野線」と呼んでました。 「四条堀川」の次(北野方)は「堀川蛸薬師」でしたが、その前が母校堀川高校でした。その当時の堀川高校の校域は南は六条通くらい、北は二条通くらい(東は河原町通、西は千本通くらい)でしたから、日常的に北野線で通っていた同級生も沢山いました。 出入口がチェーンでしたから、満員の時 押されてチェーンが切れて堀川に落ちたヤツもいました。(今ならテレビ新聞ネタでしょうが、その頃の堀川は水深30~40㎝くらいでしたから、「あいつアホやなぁ、落ちよったでぇ~」でオシマイでした) 返信 ↓
取り敢えず手許にあった『鉄道省監督局調 地方鉄道軌道一覧 昭和七年十月一日現在』の「軌道」p.71によりますと、京都市電気局の1,067ミリ軌間として、 (西廻線)塩小路新高倉、京都駅前、堀川四條、堀川三條、堀川下立売 (北野線)堀川下立売、堀川中立売、下ノ森、北野 (出町線)河原町丸太町、出町 となっています。 返信 ↓
「北野線」と「堀川線」のどちらが正式な名称なのか? 公式な記録を見たことがありませんので、確かなことは言えませんが、鉄道愛好家の著書を見ると「北野線」ばかりです。その中で唯一、市電が全廃された昭和53年に刊行された「83年のあゆみ さよなら京都市電」は「堀川線」としています。 小生は「北野」の近くで育ちましたが、周囲の大人は「北野線」と呼んでおりました。戦前から昭和30年頃まで京都駅前へ通勤していた祖父は北野線のヘビーユーザーでしたが、「堀川線」と呼んだ記憶はありません。地元の身贔屓かもしれませんが、「堀川線」の名前を見たのは「さよなら京都市電」が初めてで、ヘンな感覚にとらわれました。ところが昨年のこと、中京区在住の70代女性から「堀川線」と聞き、地域によって呼び名が違うのかも知れないと思いました。 昭和36年7月18日付の廃止許可証には『京都駅前、北野間における軌道運輸事業の廃止については、許可する。』と記してありますが、路線名は見当たりません。そもそも正式な路線名があったのか疑問で、公的には区間の方が重要だったように思えます。 廃止前に運転された装飾電車には「サヨナラ北野線」と大きく書かれ、記念乗車券にも「北野線(日本最初)」とあることから、一般的には「北野線」で親しまれていたのではないでしょうか。 返信 ↓
狭軌線の呼称ですが、皆さんお書きのように「北野線」が圧倒的で、堀川線は京都の人間には馴染みがないですね。ただ、趣味誌を見ますと、局内の呼称では「堀川線」であったと書かれています。事実、下記の昭和27年発行「軌道事業略史」(乙訓の老人からいただいた冊子)を見ますと、はっきり「堀川線」と書かれています。では、「北野線」とは、何なのか‥‥となりますが、前身の京電が敷設した当時、堀川下立売までは堀川線、以降を北野線と呼んでおり、これは先日開催の「上京区電車物語」でも、勘秀峰さん作成の年表に記されています。市営に統合後でも、井原さんがお書きの昭和7年時点の記載と符号します。狭軌線は本来、二つの線名があったと思われます。その後、局では統合して「堀川線」としたのですが、一般的には、終点を示す北野線が分かり良いため「北野線」が定着していったのではと推察します。 返信 ↓
紫の1863さんが書かれていた、中京区の70歳代の方が「堀川線」と呼んでおられた証言は興味深いことです。本来の堀川線の区間である、堀川沿いの中京区の古老にとっては、堀川線のほうが馴染みがあったのかも知れません。廃止直前は、交通局の広報物でも「北野線」一色でしたが、一部に「堀川線」が残っていたことを証言する看板が京都駅前にありました。「日本最古」など表現が曖昧ですが、貴重な看板です。 返信 ↓
デジ青の皆様の素早い反応、そして関心の深さに、流石は地元の方々だと感心致しました。小生としては、単に細かいことが気になる程度の質問だったんですが、とんでもないことでした。御礼までに、小生のコレクションの中でも、最も古いN電の写真を貼っておきます。ガラス乾板で撮影されたものです。ダブルポールで、平仮名系統版ですので、戦前の記録と思うが、手元には乾板があるだけで、情報が一切ありません。御礼などと言いながら、実は「ここはどこ、わたしは誰?」状態になってしまい、恐縮ですが地元デジ青の皆様に教えて頂ければ、幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。 返信 ↓
宮崎繁幹様 系統が「あいうえお」になったのが昭和10年3月26日からで、昭和20年3月25日で終了しています。翌日27日からは「1.2.3.・・」の番号系統に改正されました。 この写真はその間の10年間に撮られたものです。 場所は無印不良品さんの母校・堀川高校前ではないでしょうか? 返信 ↓
左端に石垣が見えますので、堀川通り沿いが考えられます。そして、通りから校舎が見えるのは、米手様がおっしゃる通り『堀川高等女学校』の他にはありません。ネットで検索してみると、WポールのN電が三階建ての校舎を背景に走る画像が見つかりました。画面左端あたりが「堀川蛸薬師」の電停で、四条堀川のひとつ北になります。 撮影された時期は平仮名の系統板、Wポールから、米手様がおっしゃる通りです。 ところで、電車の番号はN128と読めますが、28に改番されて昭和36年の廃止まで生き残りました。烏丸通り沿いのビル内に保存され、今も見ることができるようです。 返信 ↓
米手さま、紫の1863さま、またも速やかに回答をお寄せ下さり、有難う存じました。場所の疑問は、地元の方々に伺うのが一番、と改めて認識しております。路線名問題も、一般的には「北野線」と云うことが、判りましたので、記念に判り易い一枚を貼らして頂きます。例によりDavis氏の記録です。右方向が終点側でしょうか。 返信 ↓
米手様の仰る通りです。線路は電車の右手方向に20~30メートルほど続いていたようです。この道を数百メートル北へ行った場所に、小生の家があり、天神さんは子供の頃の遊び場でした。昭和40年代初め頃には、皇太子時代の上皇様ご夫妻を乗せた車列を見たこともありました。電車が折り返していた場所は道幅が広く、今も当時の痕跡をとどめています。 Davis氏は昭和31年5月に西大路線の600形や嵐電を撮影されておりますので、同じ日に訪問されたのではないでしょうか。先月にアップされた『太陽ブロック』前で嵐電を撮影された場所も、すぐ近くにあります。昭和34年8月撮影の西行き20号系統の場所は、画面左手になります。 今も雰囲気はあまり変わってないように感じますが、大鳥居に「天満宮」の扁額が付き、大きな石灯篭は狛犬に変わりました。60年余りの月日が経つと、どことなく変化があるようです。 子供の頃を思い出す、懐かしい写真を見せていただき、ありがとうございます。 返信 ↓
電車は無くなっても、神社は変わっていないだろうと思いましたが、そんなことはないのですね。教えて頂き、有難う存じました。Davis氏もN電はたいへん気にいったらしく、他にもたくさん撮影しています。地元の方々を差し置き、小生ばかり投稿するのは、気が引けますが、乗りかかった船、ではない乗りかかったN電です。また日本の皆様に見て欲しいと云うことで預かったDavis氏の作品ですから、もう少し発表してみましょう。これは堀川を渡るところでしょうか、専用橋なのですね。 返信 ↓
堀川中立売ですね。この鉄橋が出来るまでは南から直進して中立売通りで終点だったようです。そこで西方向へ行く電車に乗り換えたのか、転車台で西へ向け変えたのか、そんな写真を見たことがあるような気がしますが自信がありません。 返信 ↓
東堀川通りから中立売通りに入るため、ターンテーブルで方向転換していたのですね。止まり切れずに民家に突っ込む事故があったとか…。その後、鉄橋に架け替えられましたが、Davis氏の写真からも解るように急カーブの鉄橋です。 返信 ↓
Davis氏の写真、電車の前方に白い杭のようなものが写っています。これは古レールで作られた転落防止用の柵です。昭和21年2月8日にノーブレーキで暴走した電車がカーブを曲がりきれず堀川に落ち、死傷者が多数でた事故を受けて作られたもののようです。この事故、上七軒のキャバレーで遊んで酔っぱらった米兵達が北野線の終電に乗り、女性運転手にちょっかいを出したか、無理やりスピードを出させたか、運転台の制御器を握って電車をハイジャックしたか…いずれにしても米兵による事故のようですが、占領下のこと、進駐軍のかかわる事故の真相は明かされていません。 ちなみに何故米兵が北野の花街「上七軒」にいたのか。それは「北野歌舞練場」が進駐軍に接収され進駐軍GI専用の「北野キャバレー」となっていたからで、同じく進駐軍宿舎として接収されていた京都駅前の今の関西電力京都支店ビルの「ラクヨーホテル」まで帰るのに北野線を利用していたようです。 写真はストリートビューから頂きましたが、西の方角に向かって見ています。、中央の歩道橋は単線、ターンテーブル時代の鉄橋跡に架かっています。左側に複線となってからのレンガ積みの橋台跡が見えています。 返信 ↓
昨日の日曜日、孫を連れて梅小路公園を散歩していたとき、孫が展示車両の市電935号に入りました。土日は解放して説明員がいるのです。京都駅前を出るN電の写真を見ていると「関電ビルと北野線です」と説明してくれたので『関電ビルの以前はラクヨーホテルでしたね』というと、「ホテルだったのですか!」と驚かれました。『進駐軍の接収でラクヨーホテルとなっていました』と逆にこちらが説明しました。 植物園に進駐軍宿舎だったこと、四条烏丸のCOCON(旧丸紅飯田ビル)が進駐軍司令部だったことなど、遙か昔のことになりました。 返信 ↓
「北野線」か「堀川線」か? 通称「北野線」で誰も異論はないでしょうが、交通局でさえ呼称が混在していたのは、この線が最初から一本の線として敷設されたからではないという歴史に由来するのではないでしょうか。 1895年 中立売線 府庁前-堀川下立売-堀川中立売開業 1900年 北野線 堀川中立売-下ノ森開業、北野車庫開設 1901年 堀川線 堀川下立売-堀川三条開業 1902年 堀川線 堀川三条-西四条(四条西洞院)開業 1904年 西洞院線 西四条-七条駅前開業、三哲車庫開設 1912年 北野線下ノ森-北野開業 1918年 京都市が京都電気鉄道を買収 返信 ↓
小生、今に成って昔を思い返すと、実はN電については、廃止間際になって急に興味を持った『にわかファン』に過ぎなかったと恥じ入っている次第です。 京都の予備校に通わざるを得なくなるまでN電とは縁が無く、加えて国電ファンの小生には『電車とは国電の事』との固定観念があったためと思われます。(笑) そんな私が、おこがましくも或る時N電について文章を纏める機会があって、得々と書き記した事がありました。 その時、北野線としか知らず堀川線の名は思いも付かぬまま書きすすめ、疑問はむしろ『何故1路線のみがNで残ったのか?』に引かれたものでした。 (その時記事に添付した写真を貼って置きます。) しかし、あの夏の『N電詣で』から約60年経った今も鮮明な記憶としてN電は『この身』に残っており、縦揺れ、横揺れに加えて単車特有のヨ―イング(台車を中心とした水平回転揺れ)の三つの揺れを体験をしたのも貴重な経験でした。 加えて最終日にはデッキの鎖際まで押込まれて、生きた心地がしなかった事も若き日の怖い思い出です。(笑) 返信 ↓
米手さまに、お尋ねします。関先生の元記事には、「堀川線」とありますが、米手さまは「北野線」と記されています。両者は、同じ意味でしょうか? それとも区間により、線名が異なる。或いは、正式名と通称とかなのか。御教示下さい。
意表を突いたご質問にあわてました。
というのは、私は普通に「北野線」と言ってきましたからです。これは私だけでしょうか?「堀川線」も言ったことがあるような気もしますが、一般的には「北野線」が使われていたように思います。そこで手元にある「軌道事業略史・京都市交通局編」を探してみましたが、京都電気鉄道からの買収線の項に「北野堀川線」、昭和27年6月11日現在の営業線の項に「堀川線・北野から烏丸塩小路」とありますがほとんどは線名ではなく系統や区間表示となっており、交通局では線名はあまり重要視していなかったのではと思いました。廃止からすでに60年が過ぎますので記憶も曖昧になります。
そこでご覧の皆様で当時を知っている方はなんと呼んでいたか、どこかに何と書いてあったかを教えてください。
どこに何て書いてあったかは全く存じませんが、「四条堀川」電停から100mくらいのところに住んでいた私はフツーに「北野線」と呼んでました。
「四条堀川」の次(北野方)は「堀川蛸薬師」でしたが、その前が母校堀川高校でした。その当時の堀川高校の校域は南は六条通くらい、北は二条通くらい(東は河原町通、西は千本通くらい)でしたから、日常的に北野線で通っていた同級生も沢山いました。
出入口がチェーンでしたから、満員の時 押されてチェーンが切れて堀川に落ちたヤツもいました。(今ならテレビ新聞ネタでしょうが、その頃の堀川は水深30~40㎝くらいでしたから、「あいつアホやなぁ、落ちよったでぇ~」でオシマイでした)
取り敢えず手許にあった『鉄道省監督局調 地方鉄道軌道一覧 昭和七年十月一日現在』の「軌道」p.71によりますと、京都市電気局の1,067ミリ軌間として、
(西廻線)塩小路新高倉、京都駅前、堀川四條、堀川三條、堀川下立売
(北野線)堀川下立売、堀川中立売、下ノ森、北野
(出町線)河原町丸太町、出町
となっています。
「北野線」と「堀川線」のどちらが正式な名称なのか?
公式な記録を見たことがありませんので、確かなことは言えませんが、鉄道愛好家の著書を見ると「北野線」ばかりです。その中で唯一、市電が全廃された昭和53年に刊行された「83年のあゆみ さよなら京都市電」は「堀川線」としています。
小生は「北野」の近くで育ちましたが、周囲の大人は「北野線」と呼んでおりました。戦前から昭和30年頃まで京都駅前へ通勤していた祖父は北野線のヘビーユーザーでしたが、「堀川線」と呼んだ記憶はありません。地元の身贔屓かもしれませんが、「堀川線」の名前を見たのは「さよなら京都市電」が初めてで、ヘンな感覚にとらわれました。ところが昨年のこと、中京区在住の70代女性から「堀川線」と聞き、地域によって呼び名が違うのかも知れないと思いました。
昭和36年7月18日付の廃止許可証には『京都駅前、北野間における軌道運輸事業の廃止については、許可する。』と記してありますが、路線名は見当たりません。そもそも正式な路線名があったのか疑問で、公的には区間の方が重要だったように思えます。
廃止前に運転された装飾電車には「サヨナラ北野線」と大きく書かれ、記念乗車券にも「北野線(日本最初)」とあることから、一般的には「北野線」で親しまれていたのではないでしょうか。
狭軌線の呼称ですが、皆さんお書きのように「北野線」が圧倒的で、堀川線は京都の人間には馴染みがないですね。ただ、趣味誌を見ますと、局内の呼称では「堀川線」であったと書かれています。事実、下記の昭和27年発行「軌道事業略史」(乙訓の老人からいただいた冊子)を見ますと、はっきり「堀川線」と書かれています。では、「北野線」とは、何なのか‥‥となりますが、前身の京電が敷設した当時、堀川下立売までは堀川線、以降を北野線と呼んでおり、これは先日開催の「上京区電車物語」でも、勘秀峰さん作成の年表に記されています。市営に統合後でも、井原さんがお書きの昭和7年時点の記載と符号します。狭軌線は本来、二つの線名があったと思われます。その後、局では統合して「堀川線」としたのですが、一般的には、終点を示す北野線が分かり良いため「北野線」が定着していったのではと推察します。
紫の1863さんが書かれていた、中京区の70歳代の方が「堀川線」と呼んでおられた証言は興味深いことです。本来の堀川線の区間である、堀川沿いの中京区の古老にとっては、堀川線のほうが馴染みがあったのかも知れません。廃止直前は、交通局の広報物でも「北野線」一色でしたが、一部に「堀川線」が残っていたことを証言する看板が京都駅前にありました。「日本最古」など表現が曖昧ですが、貴重な看板です。
デジ青の皆様の素早い反応、そして関心の深さに、流石は地元の方々だと感心致しました。小生としては、単に細かいことが気になる程度の質問だったんですが、とんでもないことでした。御礼までに、小生のコレクションの中でも、最も古いN電の写真を貼っておきます。ガラス乾板で撮影されたものです。ダブルポールで、平仮名系統版ですので、戦前の記録と思うが、手元には乾板があるだけで、情報が一切ありません。御礼などと言いながら、実は「ここはどこ、わたしは誰?」状態になってしまい、恐縮ですが地元デジ青の皆様に教えて頂ければ、幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。
宮崎繁幹様
系統が「あいうえお」になったのが昭和10年3月26日からで、昭和20年3月25日で終了しています。翌日27日からは「1.2.3.・・」の番号系統に改正されました。
この写真はその間の10年間に撮られたものです。
場所は無印不良品さんの母校・堀川高校前ではないでしょうか?
左端に石垣が見えますので、堀川通り沿いが考えられます。そして、通りから校舎が見えるのは、米手様がおっしゃる通り『堀川高等女学校』の他にはありません。ネットで検索してみると、WポールのN電が三階建ての校舎を背景に走る画像が見つかりました。画面左端あたりが「堀川蛸薬師」の電停で、四条堀川のひとつ北になります。
撮影された時期は平仮名の系統板、Wポールから、米手様がおっしゃる通りです。
ところで、電車の番号はN128と読めますが、28に改番されて昭和36年の廃止まで生き残りました。烏丸通り沿いのビル内に保存され、今も見ることができるようです。
米手さま、紫の1863さま、またも速やかに回答をお寄せ下さり、有難う存じました。場所の疑問は、地元の方々に伺うのが一番、と改めて認識しております。路線名問題も、一般的には「北野線」と云うことが、判りましたので、記念に判り易い一枚を貼らして頂きます。例によりDavis氏の記録です。右方向が終点側でしょうか。
宮崎繁幹様
仰せの通り、折り返して京都駅へ向かう北野線N電です。カメラ後方、線路と直角に左方向に嵐電「北野駅」がありました。
米手様の仰る通りです。線路は電車の右手方向に20~30メートルほど続いていたようです。この道を数百メートル北へ行った場所に、小生の家があり、天神さんは子供の頃の遊び場でした。昭和40年代初め頃には、皇太子時代の上皇様ご夫妻を乗せた車列を見たこともありました。電車が折り返していた場所は道幅が広く、今も当時の痕跡をとどめています。
Davis氏は昭和31年5月に西大路線の600形や嵐電を撮影されておりますので、同じ日に訪問されたのではないでしょうか。先月にアップされた『太陽ブロック』前で嵐電を撮影された場所も、すぐ近くにあります。昭和34年8月撮影の西行き20号系統の場所は、画面左手になります。
今も雰囲気はあまり変わってないように感じますが、大鳥居に「天満宮」の扁額が付き、大きな石灯篭は狛犬に変わりました。60年余りの月日が経つと、どことなく変化があるようです。
子供の頃を思い出す、懐かしい写真を見せていただき、ありがとうございます。
電車は無くなっても、神社は変わっていないだろうと思いましたが、そんなことはないのですね。教えて頂き、有難う存じました。Davis氏もN電はたいへん気にいったらしく、他にもたくさん撮影しています。地元の方々を差し置き、小生ばかり投稿するのは、気が引けますが、乗りかかった船、ではない乗りかかったN電です。また日本の皆様に見て欲しいと云うことで預かったDavis氏の作品ですから、もう少し発表してみましょう。これは堀川を渡るところでしょうか、専用橋なのですね。
堀川中立売ですね。この鉄橋が出来るまでは南から直進して中立売通りで終点だったようです。そこで西方向へ行く電車に乗り換えたのか、転車台で西へ向け変えたのか、そんな写真を見たことがあるような気がしますが自信がありません。
東堀川通りから中立売通りに入るため、ターンテーブルで方向転換していたのですね。止まり切れずに民家に突っ込む事故があったとか…。その後、鉄橋に架け替えられましたが、Davis氏の写真からも解るように急カーブの鉄橋です。
ターンテーブル時代の写真をもう一枚。
そうです!
この写真です。どこかの展示会で見たおぼえがあります。二枚目の写真の架線が面白かったのを記憶していました。
Davis氏の写真、電車の前方に白い杭のようなものが写っています。これは古レールで作られた転落防止用の柵です。昭和21年2月8日にノーブレーキで暴走した電車がカーブを曲がりきれず堀川に落ち、死傷者が多数でた事故を受けて作られたもののようです。この事故、上七軒のキャバレーで遊んで酔っぱらった米兵達が北野線の終電に乗り、女性運転手にちょっかいを出したか、無理やりスピードを出させたか、運転台の制御器を握って電車をハイジャックしたか…いずれにしても米兵による事故のようですが、占領下のこと、進駐軍のかかわる事故の真相は明かされていません。
ちなみに何故米兵が北野の花街「上七軒」にいたのか。それは「北野歌舞練場」が進駐軍に接収され進駐軍GI専用の「北野キャバレー」となっていたからで、同じく進駐軍宿舎として接収されていた京都駅前の今の関西電力京都支店ビルの「ラクヨーホテル」まで帰るのに北野線を利用していたようです。
写真はストリートビューから頂きましたが、西の方角に向かって見ています。、中央の歩道橋は単線、ターンテーブル時代の鉄橋跡に架かっています。左側に複線となってからのレンガ積みの橋台跡が見えています。
昨日の日曜日、孫を連れて梅小路公園を散歩していたとき、孫が展示車両の市電935号に入りました。土日は解放して説明員がいるのです。京都駅前を出るN電の写真を見ていると「関電ビルと北野線です」と説明してくれたので『関電ビルの以前はラクヨーホテルでしたね』というと、「ホテルだったのですか!」と驚かれました。『進駐軍の接収でラクヨーホテルとなっていました』と逆にこちらが説明しました。
植物園に進駐軍宿舎だったこと、四条烏丸のCOCON(旧丸紅飯田ビル)が進駐軍司令部だったことなど、遙か昔のことになりました。
「北野線」か「堀川線」か?
通称「北野線」で誰も異論はないでしょうが、交通局でさえ呼称が混在していたのは、この線が最初から一本の線として敷設されたからではないという歴史に由来するのではないでしょうか。
1895年 中立売線 府庁前-堀川下立売-堀川中立売開業
1900年 北野線 堀川中立売-下ノ森開業、北野車庫開設
1901年 堀川線 堀川下立売-堀川三条開業
1902年 堀川線 堀川三条-西四条(四条西洞院)開業
1904年 西洞院線 西四条-七条駅前開業、三哲車庫開設
1912年 北野線下ノ森-北野開業
1918年 京都市が京都電気鉄道を買収
小生、今に成って昔を思い返すと、実はN電については、廃止間際になって急に興味を持った『にわかファン』に過ぎなかったと恥じ入っている次第です。
京都の予備校に通わざるを得なくなるまでN電とは縁が無く、加えて国電ファンの小生には『電車とは国電の事』との固定観念があったためと思われます。(笑)
そんな私が、おこがましくも或る時N電について文章を纏める機会があって、得々と書き記した事がありました。
その時、北野線としか知らず堀川線の名は思いも付かぬまま書きすすめ、疑問はむしろ『何故1路線のみがNで残ったのか?』に引かれたものでした。
(その時記事に添付した写真を貼って置きます。)
しかし、あの夏の『N電詣で』から約60年経った今も鮮明な記憶としてN電は『この身』に残っており、縦揺れ、横揺れに加えて単車特有のヨ―イング(台車を中心とした水平回転揺れ)の三つの揺れを体験をしたのも貴重な経験でした。
加えて最終日にはデッキの鎖際まで押込まれて、生きた心地がしなかった事も若き日の怖い思い出です。(笑)
河 昭一郎さま、
お久しぶりのコメント、ありがとうございます。
これは四条西洞院の南西角を西へ曲がるN電ですね。
廃止間際のイベント塗装した姿です。