フィルムを手巻きをするカメラが4台ある。一番古いのは「KONICAⅡ」である。このカメラは1951年に発売したカメラで、私の生まれたのが1951年である。当時はかなり高価なカメラであったようである。それを知ったのは富山で単身赴任中に福岡町にある「ミュゼふくおかカメラ館」に展示されていてその説明文に書かれていた。どのようないきさつで購入したのか全く聞いていない。今となっては謎である。
上の写真にある左側が「KONICAⅡ」で右側が「ペンタックSP」である。今回復活したのは「ペンタックSP」の左隣の「コニカC35フラッシュマチック」である。使えるのだろうか?裏ブタを開けてみるとスポンジのようなものがボロボロになっていた。
ネットで調べてみると外側の光が内側に入らないようにしている遮光材でモルトプレーンというものだそうで、それが劣化しているので交換が必要である。交換する代用品として調べてみると100均で売っている黒のフェルトが安くていいようである。
このカメラはプログラムAEでシャッタースピードや絞りを設定しなくてもよい。しかし、AEを動かす電池は1.3VでH-C型で、今は手に入らないがLR44(1.5V )で代用できることがわかった。しかし、フィルムのISO設定通りにするとアンダー露出になるのでISO100のカラーフィルムでテストをしてみた。結果は下の写真のようになった。これから見るとフィルムのISO感度の設定でも問題ないようだ。
フィルムが24枚撮りであったので身近にある信貴電を撮ってみる。
ここで生駒行と王寺行の交換である。
王寺行に乗っていた人が踏切を渡って改札口に向かう。レンズは38mm(F2.8)なのでトリミングをして拡大したが、画質に問題なくさすがに小西六のヘキサノンレンズである。
生駒行が出発した。フィルムカメラで撮ったっことがないという若干1名の同行者に説明して平群駅の改札口からパチリ
軒下のX形状は開業当初のままである。近鉄の施設なかでも歴史的な建物といえる。
ハーフサイズのオリンパスペンSより少し大きいがフルサイズでAE、ピントはファインダーを覗いて二重像を合致させて合わせることができる。調べてみると愛称名は「ジャーニーコニカ」。そういえばそのような名前だったことを思い出した。次は「ペンタックスSP」をテストしてみよう。
どですかでん様
小西六の響き、懐かしいですね!
カメラはKONICA、フィルムはサクラカラーでしたね。カメラに関しては何も分かりませんが、見事に見事に復活させるとは、何と凄いこと!何も出来ない私にとっては神業。
クラブに入ってオリンパスPENしか持っていなかった私。憧れの一眼レフ、親父に無理を言って買って貰ったのがのがPENTAX SP。今でもありますが・・どこにしまったかな? ストロボや安物の三脚やレンズのゴミを飛ばすゴム製掃除器?等を買いそろえて加太に行ったことを思い出しました。
平群の思い出。会社の同期生(能勢出身)が結婚を機に移り住んだのが平群。理由は六甲や北摂は地盤が弱い、特に六甲は風化花崗岩だから・・生駒山系は強い!彼は土木工学専攻。彼のお陰で「へぐり」と読むことを知りました。残念ながら彼は早逝。半月もするとお盆。合掌。
ちゃんとAEが動いたのでよかったのですが、これがつぶれていたら復活はダメだったと思います。オリンパスPEN-Sはシャッターの動きが悪いので整備してもらわないと駄目のようです。それ以外は大丈夫なようです。ところで早逝された同期の方はさすがに土木工学専攻ということで平群の地盤についてご存じだったのですね。なるほどというこんな経験がありました。阪神大震災の時、私の住んでいるところは少しばかり揺れただけでした。地盤がしっかりしていたようです。ちょうど発生した時は朝日放送の「毛利千代子のおはようパートナ」を聞いていたので大変な地震だったことがわかったのでびっくりしました。大阪市内の会社に行かないといけないので、近鉄生駒線で生駒へ行き、そこからハラハラドキドキしながら生駒トンネルを抜けて鶴橋まで行くことができました。環状線は動いていなかったので多くの通勤客は歩いて職場に向かっていました。そんなことを思い出します。