写真展「煙の記憶」レポート   ❸

山陰本線のC51・C54

「ヘッドマーク」から、第2章の「里を走り、川を渡って~山陰本線京都口の蒸機」に移ります。本展は4つのパートに分けて展示しましたが、それぞれ訴求対象が違います。「ヘッドマーク」は根っからの蒸機ファン向け、そして「里を走り、川を渡って」は、ご来場では最も多い地元、なかでも高齢の方々へ向けてのテーマでした。京都人の蒸機の思い出と言えば、やはり山陰本線だと、私も体感的に感じていました。さらに深耕するために、“二人展”のメリットを活かしました。すなわち、人間国宝さんが撮られた昭和30年代のC51・C54、私の撮った昭和40年代のC57と、異なる年代の二人展だからこそ、時代の幅が広がったのでした。山陰本線テーマは的中し、「保津峡へ来たら、窓を開けたり閉めたりしましたわ~」の感想が何度も聞かれました。会場へ入って、真正面に見える奥のコーナーから山陰本線を始めることになった。目立つところに、何を持ってくるか、やはりこれしかなかった。亀山区で最後まで残った原型C51として有名なC51 225だった。亀山区の印象が強い同機だが、昭和26年から10年間も梅小路区に配置されて、山陰本線の旅客を牽いていた。正面形式入りのナンバープレートは、同機ならではの魅力だ。

 

山科の人間国宝さんは、亀岡に親戚があったため、よく自転車に乗って、老ノ坂を越えて馬堀、亀岡で撮られていた。この時期、どの程度の蒸機の牽く旅客列車があったのか、手許の昭和34年時刻表で調べると、下りでは、京都~園部の区間列車4本、さらに綾部・福知山以遠が12本、計16本あった。いっぽう、配置の蒸機は、昭和35年動力車配置表で見ると、梅小路区にC51が7両、これは京都~園部の区間列車を中心に使用されていた。福知山区は、この時にはC51の配置はなく、C55が1両、C57が8両、そして全国でここだけのC54が7両あった。昭和40年代、C57しか知らない私のような世代には、夢のような列車本数、蒸機配置だった。C51のなかでも、原型のC51が多いのが特徴、と言うより、パイプ煙突などの改造は、この時期以降に施工された例が多く、この時代はほとんどが原型だったのだ。(上は未展示、昭和32年1月、亀岡)

 

 

昭和40年代まで残った最後のC51のうち一両が、このC51 124で、私も辛うじて撮っていたが、この時期から、パイプ煙突、大鉄式デフに改造されていた(昭和38年11月、亀岡)。この時期の山陰本線の特徴は、C54が走っていたことだろう。C51の改良型として製造され、より下級線区でも使えるよう、機関車重量、軸重とも、C51より軽量化されたが、逆にこれがアダとなった。空転しやすくて嫌われて、17両の製造に留まった。昭和34年の播但線生野トンネルで、乗務員が窒息したことによる列車脱線転覆事故も、C54の粘着力不足が原因と言われる。この時期、廃車が進み、福知山区6両のみの配置だった(上/昭和35年7月、並河付近)。

 

 写真展「煙の記憶」レポート   ❸」への12件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    地元の高齢者の私は、このテーマがいつ掲載されるのか、楽しみにしてました。嵯峨を出て最初のトンネルを越えると風景が一変し、冬場の早朝などは川霧に包まれて幻想的な雰囲気に包まれたことを思い出します。私の世代では終焉間近のC57を体験しただけですが、それさえも遠い昔のことになりました。
    どの作品も素晴らしいのですが、中でも佐竹さまが撮影された嵯峨―花園間の「はくと」に魅了されました。遠くに鯉のぼりが見えるアノ写真です。今この区間を乗車しても高架線で、蒸機時代の味わいなど微塵も感じられません。これと言った見どころもなく、平凡な区間だったのかもしれませんが、そんな風景が懐かしく感じます。
    C54は見たこともなく、印象の薄い形式です。模型で見ると二つのドームの間隔が狭く、スタイルも今一つと言った感がぬぐえませんでした。改めてじっくり観察すると、デフの高さも低かったのですね。上辺がナンバープレート付近までしかないとは気づきませんでした。

    • 紫の1863さま
      写真展、ご来場、ありがとうございました。はい、地元、高齢者の皆さんには、とくに山陰本線の写真を懐かしく見ていただきました。佐竹さんの「はくと」、精緻な記録を旨とされる佐竹さんにしては異色の写真だと思います。事実、ご本人も「こんな写真、撮ったこと知らん」といわれるほど、記憶から飛んでいたようです。9キロポストがありますから、嵯峨の少し花園寄りで撮られたものですが、今の家ビッシリ、電化高架線から想像もできないほど、自然豊かなところですね。

  2. C54は悔しい思いがあります。昭和35年8月に名古屋に行く時に宝塚から乗車したのが福知山区のC5410でした。その時はまだカメラを持っていませんでした。その後趣味誌を取り始めてC54が少数機で福知山から浜田に転属したことを知り、昭和39年3月に浜田に行きましたが後のまつりで廃車直後でした。もちろん保存機はありません。

      • 憎たらしい米手様
        やっぱり撮ってましたか。これ撮ってる人は山科の人間国宝に続く次期人間国宝です。こういう人はデジ青の常連自主投稿者であり模範的コメンテーターであるべきです。これからは隠さないで秘宝をお願いします。

        • 憎たらしいなら「様」は不要です。
          そこが準特急様が悪人になりきれない点ですね!

      • 米手様 C54も貴重ですが、後ろの客車は70系の荷物車でしょうか?また遠くの留置線にいるのはスロハ32? このようなお宝画像の登場を期待しております。

          • 米手様 早速ありがとうございます。ユニのようですね。手前はキハ04? こんな時代を経験したかったです。

          • 西村さん、
            同感ですね。
            乗り継ぎの間にホーム撮りした写真で、恥ずかしくて出せなかったのですが、あの準特急氏が「出せ、出せ」と言うもので、つい出してしまいました。
            スユニ72のようですね。

    • 準特急さま
      私もまさしく、同じ昭和35年8月でした。海水浴へ行くために、朝の京都駅へ行って列車に乗り、発車前に牽引機を見に行くと重連でした。次位を見ると「C54」のプレートをはっきり確認しました。まだ小学5年生でしたが、蒸機の形式はだいたい覚えていて、子ども心にも、珍しいカマだと分かりました。私の一度だけのC54との出会いでした。

      • 総本家さんはよっぽど鉄道が好きで目覚めが早かったです。小学生で大体の形式を覚えているとは驚きです。もっとも今の子供たちは教材も揃っているしうちの孫は電車の形式を覚えるのが早く鋭い質問をしてきます。銚子に連れて行った子です。将棋の藤井そうたは鉄ちゃんだそうだが生まれてしばらくしていろんなことを覚え込んだのかもしれない。

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