どこかにマイルの旅 2023年 沖縄へ Part10 沖縄に走った鉄道

第7日目 1月28日 後編

② 石垣 14:15(JTA614)⇒15:10 那覇
③ 那覇空港 15:25(ゆいレール)⇒15:35 旭橋

15:10 珍しく那覇空港には早着でした。
戦前、沖縄県には馬車鉄道、路面電車、ナローゲージと鉄道がありましたが太平洋戦争で壊滅しました。今から沖縄県営鉄道の那覇駅の遺構、那覇市歴史博物館、那覇市 県立博物館を訪問します。

 

▲ 15:22 今日は1日乗車券を購入しました。発券時間から24時間使用できますのでとてもオトクな切符です。
▲ 15:25 最初はかつての沖縄県営鉄道の那覇駅があった遺構が残るゆいレールの旭橋駅です。ゆいレールの旭橋駅を降りて駅員にお聞きしますとこの下ですと案内してくださいました。

▲ 転車台周囲にはドイツ・ヘンシェル社製のB1型タンク機関車の模型展示、当時の貴重な写真や図面がレリーフにされて掲示されていました。

【 沖縄県営鉄道 ・与那原線開業】
沖縄本島には1914年(大正3年)12月1日から1945年(昭和20年)3月 頃まで約31年間、762mmゲージの鉄道が運行され、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていました。
最初に開業したのは沖縄北部太平洋岸から切り出された材木・木炭を那覇・首里へと運び、復路は生活物資を持ち帰りで賑わっていた山原船(やんばるせん)の寄港地与那原港を結ぶために那覇 ~与那原 9.4㌔が建設されましたが開業半月前の大雨で与那原途中で土砂崩れが発生したために手前の仮駅での開業でした。翌年1月20日 復旧完成で与那原本駅まで本開業しました。1917年(大正6年)7月1日 には那覇駅の構内側線として開業時から存在していた那覇~桟橋荷扱所 1.0㌔が、正式な貨物線、海陸連絡線として開業しました。県外への貨物は全て那覇港を経由するために貨物取扱量は嘉手納に次いで多かったそうです。その他臨時・団体列車、戦争末期には北満や内地からの兵員・兵器輸送に運行されました。

与那原線は沖縄初めての鉄道でしたので開業当初はお祭り騒ぎで満員の利用客・貨物がありましたがしばらくすると以前からの馬車輸送からの脱却は馴染めずとなりました。同区間を鉄道は中間2駅停車で28分前後で走るのに対して、客馬車は60分もかかり運賃も割高で競争力は圧倒的に鉄道有利だったのに関わらず住民通しの繋がりや助け合いの強い習慣で鉄道輸送への切り替えには1~2年を要したようです。
徐々に良さが浸透してきたのか大正4年には40万人台だった乗客数は翌5年には60万台へと増えて貨物も鉄道輸送へと切り替わっていきました。那覇からは1日9往復(最盛期には16往復、内ガソリン車は9往復)運行されました。

【 蒸気機関車 】
開業開業時の蒸気機関車はヘンシェル社製のB1型タンク機関車3両で後に増線に伴い7両が増備されました。

【 ガソリンカー 】
1993年昭和5年4月1日には松井製作所製の木造ガソリン車(40人乗り)2両(キハ1・2)が投入されました。試運転の際には中間駅無停車で脅威の12分で走破した快速運転が乗客に好評となり満員が続いたことから昭和7年12月には両端に荷台のある日本車輌製の半鋼製ガソリンカー(60人乗り)2両(キハ11・12)が増備され与那原線に投入され、客車の牽引も行われました。そのため定員が少ないキハ1・2は糸満線に転出しました。
その後昭和12年3月、昭和13年11月にも両端に荷台のある半鋼製ガソリンカーキハ21、3扉化したキハ31とガソリンカーの増備は続きました。

【 客車 】
客車は開業時7両で始まりましたが昭和19年には20両となり延べ34両が在籍しました。特筆されるのは1921年(大正10年)3月 欧州視察の折に皇太子殿下が来沖、与那原線に往復乗車されました。初運行のお召列車には新造真新しい日本車輌製のハ4が貴賓車に改装されて使用されていました。その後も皇室からの来沖はあり、その都度2回にわたってお召列車が運行されています。

【 貨車 】
貨車は開業時に19両が用意されましたが、昭和19年時には81両が在籍しましたが10月10日の空襲によって大半が被害を受け壊滅しています。

仙北軽便鉄道時代の写真です。

【 嘉手納線・糸満線の開業 】
与那原線開業に続いて着工予定だった糸満線は、第一次大戦の影響で借入金不足、資材の高騰で着工保留となりましたが県産業発展のために鉄道建設は不可欠と県中北部への嘉手納線の着工が可決されて1922年(大正11年)3月28日 嘉手納線( 古波蔵 ~ 嘉手納)が開業しました。終点の嘉手納には製糖工場があり側線が敷設されてサトウキビの搬入、製品の那覇港への輸送に活躍しました。中間点の内間にも側線が敷設されて原料搬入が行われました。
嘉手納線で使用されたイギリスのAvonside(エーボンサイド)社製製蒸気機関車4両(No.1~3は1911年、No.4は1913年製)と客車13両、貨車41両は、1912年(大正元年)10月に開業したばかりの宮城県仙北軽便鉄道(小牛田~石巻)が1,067㎜に拡幅改軌となったために不要となり一括に払い下げられた中古車両でした。
那覇からの混合列車が1日8往復(最盛期には16往復、内ガソリン車は10往復)、所要時間1時間33分で走破しました。

名護への延伸も検討されていましたが名護までの県道が開通したために見送られ、国庫からの支給は続いて保留されていた糸満線になり着工され、1923年(大正12年)7月11日には 糸満線(国場 ~糸満)が開業しています。こちらも1日8往復(最盛期には15往復、内ガソリン車は8往復)、所要時間1時間21分でした。

④ 旭橋 15:50⇒15:58 県庁前

16:10 次は 那覇市歴史博物館訪問です。県庁前で降りて、駅前のデパートリウボウ4階にあります博物館に入りました。
ゆいレールのパスを見せて入館料350円の2割引きの280円を支払って見ましたが純然たる町の歴史のオンパレードで求める鉄道関連の展示はありません。
▲ 唯一鉄道関係で掲示されていた日本の鉄道開業式式典に琉球の代表として招かれた維新慶賀使の姿が絵で紹介されていました。これはNHKで放映された日本の鉄道開業特集で見ました。ここの訪問はムダ金だったと、ぼやきながら次の候補地県立博物館へと向かいました。

⑤ 県庁前 16:45(ゆいレール)⇒16:53 おもろまち

駅から徒歩15分で県立博物館に到着しました。受付でお伺いしますと博物館常設展だけなら70歳以上は無料とのこと、身分証を見せて入場しました。県営だけあって市営とは比較にならないほど広い会場です。ただ展示物の撮影は前もっての申請許可制になっていましたのでお見せすることはできません。
軽便鉄道や路面電車の歴史は小さいながらもコーナーがあって貴重な動画も上映されていましたが写真は名護のネオランドや旭橋にあった那覇駅跡に掲示されていた写真と同じものが殆どです。改めて太平洋戦争での沖縄決戦で過去の写真も消滅したことを知りました。

⑦ おもろまち 19:25(ゆいレール)⇒19:29 牧志

【 チェックインでのトラブル発生 】
20:10 買い物をしてから予約してある「サンプラザホテル沖縄」にチェックインしましたがフロントマンの様子がおかしいのです。どうしたのか最初は分かりませんが、予約をしていたのは前日の27日で今日は予約は入っていないと言われました。前回24日にチェックアウトした際に28日に再度チェックインするので荷物を預かって欲しいと確認したうえで預けています。
間違っていないのか私もバウチャーを確認しましたが予約日は27日で私が間違っているのが分かりました。しかし前回荷物を預けた際に次の宿泊日を確認したのも事実ですと申し上げます。最悪昨日は無断キャンセルで今日は改めて宿泊料を支払うことを覚悟しましたが今夜はあいにく満室ですとの返答で困ってしまいました。近くのホテルを紹介して欲しいと申し上げると少しお待ちくださいの返答です。
しばらくしてから「実はダブルブッキング対策で特別な部屋を準備しています。許可が出ましたのでご案内します。追加料金は請求しません。全国旅行支援のクーポンは今日までですが発券できます。」と思いもかけない返答が返ってきました。
私の責任が大きかったのですが、ありがとうございます。
案内された部屋は最上階のツインベッドに和室6畳が付いた特別室でした。

夕食は地下にある居酒屋でと思いましたがあいにくとクーポンが使用できないそうで前回も利用した駅前の沖縄料理屋にしました。
お店のお嬢さんは前回来た時をよく覚えておられて熱烈歓迎です。
大好きな海ブドウは2皿注文、合計は3,520円、昨日もらったクーポンと合わせて余裕の支払いでした。
Part 11 へ続く

どこかにマイルの旅 2023年 沖縄へ Part10 沖縄に走った鉄道」への2件のフィードバック

    • 米手作市 様、貴重な新聞記事をいただきましてありがとうございました。この記事にある通りチンチン電車が走ったという遺構は殆どありません。戦後朝鮮戦争勃発で屑鉄が高騰し、埋もれていた残ったレールもかたっぱしに剥がされ持っていかれたそうです。国際通りに復活の話があるのですか、走ったら是非とも参りたいと思っております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください