関西の蒸機を巡る ~草津線~  ④

貴生川

草津線は、貴生川を境に様相が変わります。草津方は人家も多く、当時から京都方面への通勤圏に入っていて乗降も多く見られましたが、いっぽうの柘植方はローカル色が強くなり、勾配区間もあって蒸機の奮闘が見られました。街道の東海道も、貴生川までは並行するものの、水口から鈴鹿の山あいに入って行くため、草津線は貴生川~柘植の比較的平坦なルートを選択しました。

地図を見ると、貴生川付近の集落は杣川の対岸にあって、駅側にはほとんど人家が見られませんが、草津線が開業する前日の明治33年12月28日に、近江鉄道が彦根から伸びて来ました。昭和8年には信楽線も開業して、貴生川は乗換駅としての機能を持つようになります。朝から降り続く雨のなか、機体をホームに映して、D51 841の牽く4791レが貴生川に到着する。駅の配線はその後も大きな変化はないものの、駅舎は橋上化されている。  昭和47年6月

跨線橋から見下ろすと、上下の貨物がタブレットの授受を済ませて、白煙を残して、ゆっくり発車するのが見えた。1791レ D51 841 昭和47年6月

明治期の貴生川付近、中央に赤字の「きぶかは」が見える。左上から水口を通り、右下へ通じる道が東海道で、草津線とは次第に離れて行く。なお、「貴生川」の由来は、かつて合併した村から一文字ずつを取った合成地名。貴生川駅前で覚えていたのは、ボロボロになった貨車の廃車体があったこと、しっかりした記録など無かったが、いつも同行されていた藤本さんが、ちゃんとデジ青に載せられていた。

廃車体いろいろ | DRFC-OB デジタル青信号

貴生川で交換する、左:790レ、D51 614 右:733D、キハ35×2+キハ52 昭和44年2月爆煙を上げて、貴生川駅を発車する、726レ D51 882 右手に近江鉄道も見える。昭和47年5月 

貴生川を出ると、左右には田園が広がる。北側の小高いところに八坂神社があり、鳥居越しに781レを見る。神社には、鉄道開業時の様子を描いた鉄道絵馬が奉納されているという。貴生川~甲南 昭和47年9月神社から午後の草津線1793レを望む。実った田園が広がっていた。昭和47年9月信楽線で使用される亀山区のC58は、1往復の仕業を終えると、1792レの後部にブラ下って、亀山まで回送されて行った。昭和47年9月昭和47年10月改正で草津線から煙は消えた。記念の京都発亀山行き「サヨナラSL近江路号」が実りの田園の中を通り過ぎた。牽引機は紀伊田辺区から借用のD51だった。9728レ D51 442〔田〕 貴生川-甲南 昭和47年10月

 

 

 

 

 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ④」への12件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員殿
    草津線シリーズ、なつかしく拝見しています。草津線の写真を探していたら、こんな写真が出てきました。昭和44年5月3日 新入生歓迎旅行で加太に行く途中での貴生川駅前での1枚です。50年以上も前の写真なので、ボカシなどをせずそのまま掲載します。

    • 西村様
      よく残っていましたね。54年も前ですか、懐かしいなぁ。いまは、みんな老人になって、顔かたちは見る影もありませんが、いつも会っているせいか、持っている雰囲気は何も変わっていないと思います。この前の長良川鉄道参加者も多く見られますね。いちど、新旧対比したらどうでしょう。

  2. 西村さんの昭和44年5月3日の貴生川駅前の記念撮影を見て、当日のネガを確認すると、手原駅前でも記念撮影をしています。

    • 藤本様
      私ももう一度ベタ焼きを見てみました。たしかに手原で降りて朝の蒸機列車を撮り、そのあと貴生川へ行って、信楽線の貨物、草津線の貨物を撮ってから、亀山機関区へ行っていました。亀山区の記念写真は持っていますが、すごい数の参加者でした。

      • 手原駅でも撮っていたのですね。全然覚えていません。それにしても当時の国鉄は、貴生川駅も手原駅も祝日には日の丸を掲げていたのですね。国有鉄道だから当然かもしれませんが。JRになってからは駅に国旗が飾られていましたっけ?

  3. 貴生川でこんな写真を写しています。
    昭和56年5月の新歓旅行で赤目四十八滝に向かう行程で、私は京津線+石坂線、石山から国鉄で草津線、関西本線、伊賀上野から近鉄伊賀線に乗って向かっています。
    1980年代までくだんの有蓋貨車は残っておりました。

    • はい、はい、この写真です。信楽線のホームからも、よく見えていましたね。草津駅前の煉瓦庫と言い、さすがによく撮っておられますね。

  4. 雨の貴生川駅、いいですね。直立不動の姿勢で列車を見送る駅員、雨に濡れたレール、駅舎の屋根など、雨の日ならではの風情が漂っています。
    D51と一緒に写るキハ35も草津線に無くてはならない存在ですが、これを撮る発想はありませんでした。
    中国鉄道の貨車の廃車体が信楽線ホームのすぐそばにあったとは、まったく気付きませんでした。加太からの帰りに乗った気動車に、貴生川でキハ53を増結する作業を見ていたのですが・・・。
    貴生川駅の跨線橋では、私もたまたま撮っていました。昭和46年4月29日、信楽から降りてきたC58 267が中線に停まっていました。

    • 紫の1863さまが跨線橋から撮られた日も、雨の日でしたか。濡れずに全景が撮れますから、好都合ですね。中線のC58+ワフの俯瞰も面白いですし。長い貨物編成のなかで冷蔵車が見えるのも興味深いです。

  5. 総本家青信号特派員様
    草津線はあまり人気のある路線ではなかったように記述されていましたが、こうして春夏秋冬のいろいろな鉄道風景を発表していただくと大変すばらしくまた羨ましく思います。ある面ではワンパターンの山科よりも価値があるように思います。書籍にしたり写真展のテーマに充分成りえると思います。何度も通いあのシーン、このシーンを考えての作品と思いますが若い皆さんも自分なりに好きな路線に通い詰めてこのような発表をすることはできると思います。藤本さんのだるまさんはジャンルは違いますが、これまた立派な記録と思います。私は草津線は今後形を変えて乗ろうと思っています。桑名からの東海道徒歩旅行が残っています。

    • 準特急さま
      草津線は旅客、貨物とも蒸機が多かったものの、ほとんど平坦線のD51では、あまり撮る気にならず、いつも加太の行き帰りに寄る程度でした。D51が無くなる直前に集中的に行った程度です。ただその分、気負わず、失敗してもエエ、というぐらい気楽に撮ってきたのが良かったのかもしれません。準特急さんの東海道踏破は、桑名まで来られたのですか。あとは、かつての関西鉄道沿いに京へ向かうことになりますね。

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