道南を巡る旅(後編)

5.江差線跡

秘湯「銀婚湯」は今までに各地で泊まった秘湯旅館の中でも、屈指の名湯でした。たまたま泊り客も少なく、いくつもあるかけ流しの温泉は独り占め状態だったのは良いのですが、温度が高すぎて大きな浴槽に入るためには相当水を足さねばならず、結局湯船に入るのを諦めました。あとで旅館の人に聞くと、日によって泉温が異なるらしく、ジャンジャン水を入れてもらって良かったのにと言われました。家内も同じ経験をしたそうで、浸かれない温泉は初めてだねと、思い出に残る温泉でした。(混浴の露天風呂は適温でした)

そんな銀婚湯をあとに、日本海側の江差に向かいます。北前船とニシン漁で賑わった江差は歴史的建造物や榎本武揚艦長の開陽丸など見どころの多い町です。この地方は明治以降は檜山爾志郡に属し、その郡役所の建物が江差町郷土資料館として立派に保存され、道の有形文化財にもなっています。その1室が旧国鉄江差線関連の展示室になっていました。

令和5年6月10日 江差町郷土資料館にて

江差線は平成26年5月11日に木古内・江差間が廃止され、木古内・五稜郭間が道南いさりび鉄道として残るかたちになりました。手元に残る昭和50年2月の道内時刻表によると、函館発江差、松前行きの急行「えさし、松前」号が1本、江差、松前発函館行きが2本設定され、木古内で分割、併合されていました。所要時間は函館・江差間1時間51分でした。更に古い昭和36年6月号の時刻表では、何と準急「えさし」号は函館・江差間ノンストップで木古内も通過し、1時間48分で結んでいたことを知りました。

さて江差町内の史跡巡りの締めくくりは江差駅跡訪問です。町の高台にありました。鉄道用地跡は、公営住宅やその駐車場になっていました。

江差駅跡

駅名標の裏側が説明看板でした。

椴(とど)川橋梁跡

江差をあとに、次なる目的地松前に向かいます。すると町外れに橋脚だけではなく、橋桁もそのまま残されていて驚きました。河川敷に架かる橋桁は通行の妨げになるからか、撤去されていましたが、残りの3連の桁はそのまま残っていました。廃止から9年経ちますが撤去費用も捻出できず、放置されているのでしょう。実はこの手前にももう1ヶ所古い橋桁が残っているのを見ました。我々が知っている時代の江差、松前線の機関車は五稜郭機関区のC58だったと思います。こういう風景を見ていると、遠くから汽笛が聞こえてくるような気分になりました。江差線は海岸を離れて木古内へ向けて山中に分け入って行きますが、多分その廃線跡は原野に戻り、鉄橋などもそのまま残っているのでしょう。

6.松前線延長線跡

私たちは右に日本海を眺めながら海岸線を松前に向けて進みます。江差から松前に至る海岸沿いにはマンガン鉱山が点在していたようです。硬度の高い鋼を作り兵器を生産するにはマンガン鉱が不可欠なため、重要な軍事物資としてこのマンガン鉱搬出のための鉄道が計画されます。昭和15年に国策会社としての帝国鉱業開発会社が松前町に進出し、松前から江差にかけて点在していた鉱山を買収し、この地域をマンガン鉱の一大産地にしようとします。しかし、鉱石の輸送手段が問題で、船での輸送は貨物船の不足で難しく、昭和14年に木古内から碁盤坂駅(のちの千軒駅)で打ち切りとなっていた松前線(当時は福山線)を急遽延伸させることが国策として動き出します。そこからまたまた悲劇が始まります。鉱山開発と鉄道敷設工事に動員されたのは、朝鮮半島慶尚南道や慶尚北道などから強制連行されてきた朝鮮の人達でした。詳しい人数は判りませんが、1000人は超えていたと言われています。冬期の厳冬期も夏と同じ衣服しか与えられず、食料も乏しいなか「タコ部屋」で多くの人が犠牲になったと記録されています。一方、幹線としての函館本線五稜郭・森間は勾配区間のため輸送のネックとなっていたため、急遽砂原回りの平坦線建設が急がれることになり、この福山線延伸工事に動員されていた労働者は昭和18年10月にその多くが砂原線工事に移動させられます。その穴埋めとして18年夏からは早稲田大学学徒援労隊50名が松前に来て工事を続けたそうです。しかし物資も食料もない中、結局学徒による工事も1ケ月ほどで終了し、終戦を迎えることになります。木古内・松前間が開通したのは、随分あとの昭和28年11月のことでした。そして松前から先は、未成線となりました。

江差から松前に向けて単調な海岸線を走ると、江良と言う集落を通過します。この江良の現在消防署があるあたりが、松前線延長線の終点予定地だったそうです。

江良消防署前。松前線延長線の終点付近。

ここから左手の段丘に注意しながらクルマを進めると、小尽内(こつくしない)川橋梁跡があります。

小尽内川橋梁の橋台跡  左手の川の中のもう1本の橋脚は上半分が無かった。

ここからすぐのところに、大尽内(おおつくしない)橋梁の橋台の片割れが残っていました。

大尽内橋梁の橋台跡

地元の人たちはともかく、ここを通り過ぎる観光客たちの中で、これらの不思議な構造物が何なのか、誰がいつ、何のために作ったのかと気に留める人がどれくらいいるだろうかと、強風の中でこの橋脚や橋台を眺めていました。

7.松前線跡

松前は北海道唯一の藩が置かれていたことで知られています。松前城はじめ史跡も多く、特に桜の季節は最も賑わうようです。江差から夕方松前に着き、松前の宿で1泊しました。松前は司馬遼太郎先生に言わせれば、あまたあった藩の中で、搾取すること以外に何も生産的な業績を残さず、最北の藩であるにも拘わらず、江戸や京の文化を真似ることに意を注ぎ、風土に適合した寒冷地の生活文化を生み出すことのできなかった最悪の藩だったとこき下ろされています。短時間の滞在で、そのような深遠な風土文化を感じるのには無理がありましたが、交易にも便利な函館を本拠地とせず、敢えて背後に山が迫る松前に拘り続けたのは、アイヌなど先住民からの攻撃を恐れたからだという司馬先生の見方は妙に納得させるものがありました。

松前の史跡巡りを済ませて最後に松前駅跡に立寄りました。

令和5年6月11日 松前駅跡

松前線は昭和63年2月1日をもって廃止され、バスに転換されました。松前駅跡は江差駅跡と同様、公有地らしく花壇に囲まれた記念碑と説明看板だけが建てられていました。松前の市街地を抜けてしばらく行くと、2ヶ所に橋台跡が残っていました。

櫃ノ下橋梁跡

荒谷川橋梁跡

荒谷川橋梁跡の橋脚には、点検用の鉄製足場も朽ちた状態で残っていました。昭和28年に開通し、昭和63年に廃止され、約35年間の役目を終えてから35年経っても、まだここに立って日本海からの風に晒されている橋脚たちです。

8.青函トンネル記念館

松前町から函館方面に向かうと福島町に入ります。世紀の大工事、青函トンネルの北海道側の工事拠点となった有名な町です。そしてこの吉岡町にはもう一つの記念館があります。それは「横綱千代の山、千代の富士」記念館です。小さな町から2人の大横綱を輩出したということで、立派な記念館があります。青函トンネル記念館と2館の共通割引券は700円でした。ここではトンネル記念館のみのご紹介です。

青函トンネル記念館外観

多くの展示物の中で、目を引いたのが「吉岡海底駅」の駅名標でした。昭和63年3月から平成18年3月まで、吉岡海底駅と竜飛海底駅に下車することができたのでした。私も丁度24年前の平成11年6月にDRFCの仲間と函館 湯の川温泉に集まり、ED79牽く「吉岡2号」に乗って吉岡海底駅で下車したことがあることを思い出しました。今、両駅は「吉岡定点」「竜飛定点」として非常用施設として維持されていますが、もう訪ねることはできません。

吉岡海底駅の駅名標

平成11年6月13日 吉岡2号オハフ50の表示盤

吉岡海底駅に停車中のED79と狭いホーム

9.最後に

吉岡町から知内温泉で1泊し、翌日は函館市内を市電の1日乗車券を活用して巡りました。函館市電もかなり撮れましたが、なぜか同じ車番に何度も出くわし、多くを稼ぐことはできませんでした。最後にどうしても訪ねておきたかったのが、「新島襄先生海外渡航の地碑」です。

新島襄先生渡航地の碑

質素と言えば質素な石碑ですが、永く同志社にお世話になった身としては、少し離れた赤レンガ倉庫街の喧騒から外れて佇む石碑を眺めながら、先生へのご恩返しができたような気分に浸ることができました。

説明看板

梅雨が無い北海道と言われますが、旅の大半が雨模様でした。しかし、初めての訪問地はどこも新鮮で、得るものの多く、充実した6日間でした。新島先生の立たれたであろう海岸も訪ね、満足感一杯で帰路の飛行機に乗り込み、北海道をあとにしました。何だか廃線跡探訪記のようになりましたが、私としては充分目的を果たせたと思っています。

道南を巡る旅(後編)」への6件のフィードバック

  1. 西村雅幸様
    皆さんの投稿は私にとっては知らないことを教えていただくばかりで大変有難いと思っております。乗りつぶしの趣味があまりない私にとっては道内だけは一応全部乗ってきました。その時の江差駅です。1981.10.11のことです。ホームの風景からは荷物も随分運んでいたことがわかります。駅正面も撮ってありますが比較的新しいつくりです。江差は折り返しの間に高台から海を見ることもできました。銀婚湯は札幌から帰る時に一度行ったことがあります。翌日は野田生-落部の海辺撮影でした。この界隈ではニシンと千代の山は知っております。新島襄出向の地も行ったことがあります。

    • 準特急様
      江差駅のキハユニ25の貴重なカットのご紹介ありがとうございます。確かに相当な郵便物、荷物輸送があったことがわかりますね。銀婚湯含め、すべて貴殿は訪問されているそうで、さすがと脱帽です。今回短時間の訪問でしたが、江差線や松前線の日常風景の記録写真の展示を見ることがなく、廃止日のものばかりが目立ちました。走行写真も含め、地元の人たちはあまり記録していないのでしょうね。

  2. 西村雅幸様
    2005.7.7に撮った松前城です。最北に位置し、我が国最後の和式築城の遺構です。幕末の嘉永2(1849)年幕府の命により松前藩が翌年から起工したもので外国船来航の警備が主目的であった。昭和24年6月の火災で焼失したコンクリート造りの復元天守である。五稜郭は洋式でしたね。

  3. 西村雅幸様
    松前藩は慶長年間(1596~1615)この地に福山館(ふくやまのたて)と称するものをつくりアイヌと争ったり支配してきたが幕末になり北辺警備が重要となり幕府は嘉永2(1849)年松前崇広に改築を命じた。前掲の天守閣は復元であるが本丸御門と石垣はその時の遺構として残っている。写真は本丸御門2005.7.7

  4. 明るい未来の話題の非常に少ない北海道の鉄道のことを思うと胸が痛みます。
    江差線と松前線区間は学生時代の思い出で、トラピスト修道院に行った時に函館ー渡島当別間を利用した一度だけです。この区間はまだ木古内が新幹線接続の関係で残っています。

    北海道の話題でもっと知られて良いと思ったのは、東京駅を8時20分に出て途中、大宮、仙台、盛岡、新青森しか停まらない「はやぶさ7号」の韋駄天ぶりで上野も通過、終点の函館新北斗には12時17分到着、曜日によっては14分。862.5キロを4時間未満で平均速度は軽く200キロ/時を超える航空機のような弾丸列車で、私は偶然存在を知りました。
    明るい話題が無いと北海道になかなか鉄道好きは行かなくなっていると思いました。
    札幌到達のあかつきには人気が出て欲しい列車です。しかし函館本線の小樽以南の廃止等の動向が悪いイメージになっています。
    私はJR北は東の子会社化して一日も早い再建のスキームを組んで道民も旅行者も安心できる説得力が必要に思います。

  5. 江差線、松前線の現状を興味深く拝見しました。私は、両線とも乗ったことがないまま、今に至っています。唯一、撮ったのが、函館駅の写真です。以前のデジ青でも載せましたが、早朝の函館発上磯行きの751レで、C58が長編成の客車を牽いていました。折り返しの函館行きが通勤時間帯に当たり、客車編成となったのでしょう。

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