魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その5) 馬路から田野へ

馬路温泉で1泊し、引き続き安田川に沿って南下します。さっそく県道脇にトンネルがありました。

⑰平瀬隧道 【重】 明治44年築造。他のトンネルと同じ構造で、全長70.6m。カーブしている。歩いて通り抜けられます。かつては道路として利用されていたのでしょうが、川沿いに広い道路が整備され、通る人はマニアだけでしょう。写真のように、南側坑口の山側には切石積みの立派な擁壁があります。

平瀬隧道南側坑口  令和5年12月4日撮影

この先には釜ケ谷(かまがたに)橋【重】と釜ケ谷桟道【重、近】があるのですが、整備された県道の下部構造になっていて、気付かないまま通過してしまいました。

⑱明神口橋 【重、近】 県道12号安田東洋線は拡幅整備が進んでいて、安田川に沿った曲がりくねっていた道もトンネルでショートカットされて、快適なドライブができます。つい新しいトンネルに吸い込まれそうになるのですが、敢えて旧道に入り、川に沿って走ります。前方に赤い鉄橋が見えてきました。明神口橋です。

明神口橋を望む

この橋は、開通当初ヒノキ材で作られた立派なトラス橋でしたが、機関車の導入に伴い、昭和4年に鉄製の下路式トラス橋に架け替えられました。それでもすでに94年を経過した鉄橋です。木橋時代の写真が残されています。今でこそ木材で高層ビルを建てるのも珍しくありませんが、このような木製トラス橋を設計、製作し架橋した明治時代の匠の技、技術力に頭が下がる思いです。

ヒノキ製の明神口橋 (舛本成行編「高知 魚梁瀬山の林鉄」より転載)

しっかり整備されていて安心して渡れます。但し路面はグレーチングなので水面まで見えます。

対岸から振り返ると。

渡り切るとゴツゴツした岩肌の切通しの向こうにすぐオオムカエ隧道が待っています。

⑲オオムカエ隧道 【重・近】 明神口橋の先にあるオオムカエ隧道は全長36.7mです。明治44年の築造です。

オオムカエ隧道 北坑口を望む

北坑口側は補修されている

北坑口もかつては石積みのアーチだったそうですが、落石などで損傷し、トンネル内面と併せて補修されています。従って重要文化財としての指定は、古い石積みアーチが残る南坑口から7mの区間だけに限定されています。旧線路跡はしばらくの間、現県道とは川をはさんだ対岸となります。この先を進むと同じく明治44年築造で重文指定の「バンダ島隧道」、「エヤ隧道」があります。軽自動車なら通れなくはなさそうですが、先の様子もわからないので、線路跡をクルマで辿るのは断念しました。バイクや徒歩なら大丈夫だったでしょう。

⑳安田不動 安田川が谷を抜けて平野に出て河口が近くなってきました。線路跡は大きく左にカーブして海岸に出て、田野貯木場に向かうのですが、かつて途中に安田不動という駅がありました。この駅の場所は確認できませんでしたが、駅名となっている安田不動はすぐに見つかりました。

安田不動

海岸を走る国道55号線からも参道があります。本堂の裏を登ると不動の滝があるそうです。常夜灯の手前の細い道路が線路跡です。

参道を横切る道路が田野貯木場に向かう線路跡

この先、海岸部の貯木場跡も探索したかったのですが、海岸部は津波対策を含め大きく変貌していることもあって痕跡は残っていないだろうと考え、廃線跡探訪をここで終えることにしました。2日かけて、観光も兼ねてではありましたが、奈半利線、魚梁瀬、馬路、安田川線に残された遺構をかなり見ることができ、まずまずの収穫でした。終始付き合ってくれた家内に感謝です。

感謝と言えば、更に感謝しなければならない方がおられます。故人ではありますが寺田正氏です。氏は明治38年に宮城県で生まれ、昭和3年に農林省に入り、高知営林局に奉職された方です。学生時代から写真を趣味とされていた氏は、営林局員時代も退職後も平成6年に89歳で亡くなられるまで身の回りの日常風景を中心に多彩な写真を撮影され、その数は8万点になるそうです。特に鉄道マニアだったわけではありませんが、この地域の生活に欠かせなかった森林鉄道と山に働く人たちの日常風景を数多く記録されています。⑱明神口橋の項で引用させてもらいましたが、高知市民図書館には寺田正写真文庫があり、公開されているようです。氏が愛着をもって撮り続けられた森林鉄道が廃止から60年を経て、こうして再現でき、日本遺産にも認定されたのだろうと思います。今回、寺田正写真集「林鉄」に加えて、多くの方々の著書の写真を引用させて頂きました。即ち 舛本成行氏著 RMライブラリNo.29「魚梁瀬森林鉄道」、同じく舛本成行編レイルロード発行「高知 魚梁瀬山の林鉄」、昭和56年朝日新聞高知支局編集、馬路村教育委員会発行「森林鉄道物語」です。これらの著書の中にも寺田正氏の写真が多数登場します。

元祖青信号特派員殿が体験的によく吐露されるように、半世紀を経て過去を振り返って貴重なのは車両中心の鉄道写真より、日常の何気ない、人の生活の匂いのする、その時代を反映した鉄道風景写真だということを私も今になって強く思います。そういう意味で寺田正氏の残された数多くの写真は時を経れば経るほど重みを増してくるものと思います。現地を訪ね、遠い昔を思い描きながらそのことを強く感じました。

なお田野、奈半利を起点とする魚梁瀬森林鉄道に加えて、かつて伊尾木を起点とする伊尾木森林鉄道もあって、安芸市内に鉄橋跡が残されているとのことで現地を訪ねましたが、見つけることができませんでした。

本廃線跡探訪記は今回をもって終了と致します。土佐くろしお鉄道ごめんなはり線と土佐電気鉄道については、別稿にてご紹介致します。

魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その5) 馬路から田野へ」への7件のフィードバック

  1. 西村さま
    今から20年位前は、道端のあちこちに廃車体が転がっていました。
    廃線跡が『産業遺産』として登録・整備され、片付けられたのでしょうね。
    先ずは見学者や観光客の安全確保が優先され、消滅か展示物となります。
    そんな変化に感傷的になる反面、後世への伝承がより良く行われるようにと願います。

    • やま様 コメントありがとうございます。客車の廃車体の写真は強烈ですね。今回参考にさせてもらった各誌の記事でも、沿線各地にこうした廃客車が放置ないしは倉庫などとして使われていたとありました。このような廃車体がまだ残っていた頃に行っておけばよかったと今にして思います。

  2. 西村雅幸様
    私の吐露した話をよく覚えていただき、恐縮です。私は、魚梁瀬森林について、かつて当欄で、沖中さんとぶんしゅうさんが訪問された記事は読んだことがあるものの、寺田正氏の記録も知らず、時折、廃線跡の写真をネットなどで散見した程度でした。西村さんは、相当綿密な調査をされて訪問された様子がよく分かりました。コメントされた、やまさんも調査をされた様子が分かりました。廃線跡巡りの醍醐味ですね。
    以前、当欄でも、克明な民俗記録をされた宮本常一氏を敬愛しているとお聞きしました。鉄道趣味に置き換えると、もちろん車両は中心であり、それを外すことはできませんが、2、3歩下がって、周囲の光景や生活の記録にも目を配ることが、鉄道写真の地位向上にも繋がると思います。

    • 総本家青信号特派員殿 かつて当欄に沖中氏とぶんしゅう氏の記事があったことは全く記憶にありませんでした。宮本常一氏の件、貴殿も良く覚えて下さっていて私も恐縮です。旅の楽しさは、半分は計画段階だと感じています。地図を広げ、とは言っても最近ではストリートビューという極めて便利な道具がありますが、知らない土地に想いを馳せるところから旅は始まっています。お仕着せのパックツアーはこの段階が無いので、今のところ利用しようとは思いませんが、あと10年もすれば利用するかも?コメントありがとうございました。

        • 特派員様 2011年投稿の記事を見ました。すでに12年も前に同じような記事や写真が紹介されていたとは知りませんでした。沖中氏のあの笑顔がなつかしいです。ありがとうございました。

  3. 西村さん、詳しいご紹介を有難うございました。続編の土佐電も楽しみです。
    写真記録の考え方は身に沁みました。私は専ら車両中心かつ動画でしたから、ケチ臭い話ですがかつてはフィルム代などからそういう生活風景を撮るという視点に欠けていたきらいがありました。また漫然とスチール写真とは視点が異なると思ってもいました。とはいえ鉄道遺産の一部として古い駅舎やスイッチバック式の駅・信号場での列車交換風景などは記録して来ました。皆様の写真を拝見してもう少し生活風景を撮っておけばと思いますがもう後の祭りです。

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