豊橋市内線の支線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑰

豊橋鉄道 柳生橋支線

路面電車に関わる小ネタをしばらく綴っていきます。先般行われた豊橋ツアー、もう一ヵ月が過ぎての後出し投稿で失礼します。丹羽さんからは、本欄でも貴重な豊橋市内線を紹介していただき、旭川電軌や三重交通神都線から来た貴重な車両を紹介していただきましたが、私も、過去に一度だけ、豊橋市内線の車両を撮っていました。かつての柳生橋支線を走っていた3700形です。

現在、豊橋の市内線は、先日みんなで乗った駅前~赤岩口・運動公園前の東田本線だけですが、以前は駅前~市民病院前、新川~柳生橋の2支線がありました。駅前~市民病院前は昭和44年に休止・廃止、もう一方の新川~柳生橋0.9kmの柳生橋支線は、昭和51年廃止で、私も直前に短時間撮りに行きました。そこで走っていたのが、日本最初の半鋼製電車と言われる3700形でした。柳生橋支線の廃止後も3702が生き残り、鉄道友の会「エバーグリーン賞」を受賞、平成19年まで「レトロ電車」として活躍し、廃車後は豊橋市こども未来館に保存展示されていることが、丹羽さんの原稿にも書かれています。

豊橋の駅前大通りをまっすぐ進んだ東田本線は、新川で左へ曲がり北へ向かう(写真の上方向)。その新川から分岐していたのが、手前の柳生橋線で、専用に走っていたのが細面のモ3700形(昭和50年6月撮影)。

3700形は名古屋市電から移って来た。名古屋市電時代は1200形で、昭和2年に製造された日本初の半鋼製ボギー車で、1201~1210の10両製造、4両が豊橋鉄道に移って来た。当初はモハ700形で701~ 704となり、昭和43年の形式改定でモ3700形に変わり、3701~ 3704に変更された。その後も生き残った3702、3704がワンマン化され、柳生橋支線の専用車となり、クリーム色に赤帯の「新豊鉄色」に変わった。柳生橋支線は昭和35年からワンマン運転が実施されていた。広い道路の上を、単線の短区間を1両がピストン輸送した。1kmに満たない距離で、すぐ終点の柳生橋に着いてしまう。柳生橋線の終点近くには豊橋鉄道渥美線(鉄道線)の柳生橋駅があり、豊橋駅を経由せずショートカットできて鉄道~軌道の乗換客には便利だったが、写真のように東田本線の停留所は別のところにあり、乗換えは不便だった。目立った反対もなく、昭和51年3月に廃止された。もう1両の3704号は、たまたま新川の東田本線を曲がって行くところを目撃した。柳生橋線の専用ではなく、ラッシュ時には東田本線も走っていたようだ。戻りの「駅前」で見た、女子高生のラッシュは、しっかり撮っておいた。ここは「豊橋駅前」ではなく、開業当時から「駅前」で、奈良の駅名研究家さん「駅名喫茶店63「駅」を含む駅名」によると、駅・停留場で、ただの「駅前」を名乗るのは、全国で豊橋だけだ。

 

 豊橋市内線の支線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑰」への4件のフィードバック

  1. 1967年、単車のモハ500形置換えのため、モ3702とモ3704がワンマン改造され、同年12月6日より使用開始しました。
    中扉は、両開きのままでしたが、1972年8月頃片開きに改造されました。
    1970年3月9日、新川、中扉改造前のモ3702です。

  2. 総本家青信号特派員様

    最近は、皆様のご投稿で自身の名前を拝見することが多くなり大変感激しております。

    仰せの通り、「駅前」という停留場名は豊橋だけですね。地元に密着した鉄道ですから、シンプルな呼称で十分だと思います。また、起点駅でもあるので遠方からお越しの方にも問題なしです。

    https://drfc-ob.com/wp/archives/144454

    • 奈良の駅研さま
      なるほど、逆転の発想ですね。駅名は原則、重複はなく、唯一ですから、「駅前」を名乗ってしまえば、ほかのところでは名乗ることはできません。「学校前」「役場前」などはバス停ではよく見かけますが、駅名ではありましたでしょうか。四国には「教会前」の駅名がありましたね。

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