湖西線 開業40周年 -2-

湖西線初乗りの日

西大津で発車式を撮ったあと、10時57分発の新快速3628Mに乗った。湖西線の新快速は、すべて堅田行きだが、シーズン中は近江今津まで延長運転されており、初日からさっそく実施されていた。ただ、新快速は153系6両の時代で、車内は満員、各列車とも次第に遅延してきた。比良で降りて、普通列車に乗り換え、北小松へ向かう。現在、新快速は近江舞子以北は各駅停車で、北小松にも停車するが、当時、新快速は北小松は通過していた。北小松にすべての新快速が停車するのは、平成8年の改正からだ。syuIMG_0009sy思い出の北小松に降り立つ。江若の北小松駅跡はまん前にあった。江若廃止後も駅舎などはしばらく残っていたが、いまは跡形もなく、道路の広場と化していた。5年前の同志社北小松学舎での宿泊合宿を思い出しながら、近江高島方面へ歩き、ヘッドマークつきの113系を待った。電車もさることながら、真新しい軌道が印象的だった。全線高架、踏切ゼロが謳い文句の湖西線だが、柵も何もなく、難なく線路端へ到達できた。

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比良駅に進入する113系、湖西線用に新造された113系700番代は、2M2Tの4両編成、その後の増備、4M2T6両編成も含めて84両が昭和51年までに造られた。高槻電車区に配置さ、一部は東海道本線でも運用された。前面シールドビームと前回に記したが、設備的には全車冷房がインパクトだった。本線筋の113系はまだ冷房化が緒についた段階で、とくに夏場の開業に完全冷房はセールスポイントとなった。

syuIMG_0010つぎは近江今津まで行ってみる。江若の駅とは、少し離れたところに建設されたとは聞いていたが、付近を歩いてみても駅跡を見つけることはできなかった。ちょうど駅前では祝賀パレードが行なわれており、たいへんな人出だった。看板に書かれている“堅田まで42分、京都まで73分”の文字が、端的に開業後の環境を表現している。ただ、この数字は普通列車のもので、新快速なら、京都まで58分と一時間を切る。近江今津までの新快速はまだ季節運転だったので、その表示は遠慮したのだろう。江若なら、京都へ京津線経由で120~130分。新快速なら実に半分以下の所要時間となり、湖西地方、とくに北部にとっては、まさに新幹線の出現に等しかった。

 

 

 

 湖西線 開業40周年 -2-」への3件のフィードバック

  1. ちょっとタイミングが遅れだが、古いことを良く覚えていると、誉められた。湖西線開通ではこんなことがあった。当時向日市学童保育保護者会の役員をしていた。夏休みの行事、みんなが楽しみにしている合宿は比叡山延暦寺の坂本にある宿坊を利用させて頂いていた。1975年4月の保護者会役員会で200人を越える児童、50人ばかりの指導員と保護者の坂本までの輸送手段が話題になった。例年は貸切バス利用であったが、低学年生のバス酔いに対応するため湖西線利用がお母さん中心に提案があった。学校に集まって向日町駅まで歩いて東海道線~湖西線利用との提案であった。前年の湖西線大混雑を知らないのである。「ちょっとまった!」と老人は手を上げた。「京阪電車で行こう、未だ時間あるから交渉してくる。」と言って、当時本線で助役をしていた当会「湖畔の暇人」に「三条から坂本へ貸切を走らせろ、なんとかしてくれ!」と交渉、彼の尽力で見事に受け入れられ、8月2、3日の土日に260型272+273の2連は子供達の歓声と共に、老人がマイクをにぎり沿線案内する中、坂本到着となった。帰路の車中はかぶと、げんじ、ぶんぶんが車中をと飛び回り、蝉の大合奏の中を三条京阪到着となった。四条~三条間は往復とも京阪特急乗車となったのは言うまでもない。この年の夏休みの作文は、ほとんどの子供が京阪特急の話であったとのこと。蛇足ながらこの時の団体乗車券は四条で渡さず、当時使用済み乗車券集めをしていた須磨の大人に進呈した。

  2. 乙訓のご老人様
    またしても40年も前の出来事が鮮やかに蘇ることに驚いております。1975年当時の京阪浜大津駅は現在と異なり、行き止まり型の浜大津駅と石坂線の東口駅があった時代です。三条発石山寺行は浜大津駅でスイッチバックして東口駅に向かうのですが、三条発坂本行きとなると、浜大津駅到着後 構内のダブルクロスを渡って東口駅へ逆行し、再度東口駅でスイッチバックして坂本に向かったのでしょうか?それとも子供たちを乗せたまま東口駅を通り過ぎて 公会堂横の渡り線を使ってスイッチバックし坂本に向かったのでしょうか。1970年8月にはパンタ化が済んでいますから、ポールの上げおろしの煩雑さはないものの、2度のスイッチバックをしなければ坂本には行けません。こんな経験をした子供たちがうらやましいですね。

  3. 乙訓老人さま
    西村雅幸さま
    湖西線ネタから、京津線貸切電車へと、楽しいやりとりを聞かせてもらいました。これぞ、火が点いたらどこへ飛び火するか分からない、デジ青の真骨頂だと思います。たしかに、湖西線の開業直後は、満員でした。とくに夏場は、まだ琵琶湖の水泳が盛んな時代、とくに子ども中心の団体の移動は苦労が多かったと思います。
    こんななか石坂線で坂本まで貸切という、いかにも老人らしいアイデアに、ちゃんと対応された現・湖畔のヒマ人さんも、さすがと思いました。これも、クローバー会の強い絆の表れでしょう。
    見事に走った三条発坂本行き貸切電車はさぞ楽しかったことでしょう。車内でマイクを握りしめ、得意の沿線案内をする老人の姿が目に浮かびます。
    西村さんも書かれていますが、浜大津での入出は興味がありますね。錦織への入出庫で、この例はあるでしょうが、三条から坂本まで、営業電車が走った例はどのぐらいあったのでしょうか。

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