▲ 2014年末には世界第2位(第1位は上海)の18路線総延長527キロに達しようとする北京地下鉄、初めて開業なったのは1969年10月1日の国慶節、复兴门~建国门16.1キロでした。中国では初めての地下鉄の誕生で、その後延伸工事が行われ、私が初めて訪中した1985年には上記の路線39.7キロが完成していました。今は1日約870万人の利用客を誇り、2015年には1,000万人を突破するであろうと言われていますが、当時は1日約10万人とわずかでした。まだ車内や町中には人民服を着た人を多く見かけました。
※ この路線図は車内に掲示されていたものです。
仕事で視察に訪れた際に案内していただいた地鉄職員からいただきました。今となっては貴重なものになりました。
左は当時の車両です。
第13日目 8月21日
今日は今まで訪問しようと思っていましたが中々機会が取れずじまいとなっていた中国鉄路の父を称える「詹天佑記念館」を訪れます。
7:30 昨日チェックインした北京西站の南口(後站)直ぐの锦江之星北京西客站酒店を出発、地鉄站に向かいました。北京西站は1996年1月21日の開業でした。地鉄站は地下に出来上がっていて線路が延びるのを待つだけだったのですが建設は進みません。朝夕はいつ着くか分からないTaxiやバスには乗れず約1.2キロも離れている1号線の軍事博物館站から歩くしかなかったのでいつも苦労をしていました。
ようやく2012年12月30日に開業しましたが、高速鉄道が開業してからは西站利用者が激増してラッシュは人とぶつかるような混雑になっています。
▲ 7:50 ラッシュのホームにたどり着きましたがご覧の通り、到着する電車は超満員で乗れません。階段上のコンコースではホームへの入場制限も出ました。
2本を待ってようやく乗車できましたが車内は足の踏み場もないほどの混みようでした。
北京の地鉄は壊滅的な道路交通対策のために対キロ区間制から全線2元(約33円)均一運賃に変更されました。結果、車やバスからのシフトは進みましたが、予測以上で今度は地鉄の輸送能力が追い付かなくなり、このありさまになっています。この9号線は6両編成です。車両を増やせば良いのですが各線とも投入が遅れています。
▲ 8:55 国家图书馆で4号線(2009年9月28日全線開業)に乗換えて西直门で下車して北京北站にたどり着きました。国鉄駅ですが、ここから詹天佑記念館へと向かう北京市郊鉄S2線(北京北~延庆(沙城)、77キロ)が発着します。
▲ 9:00前後に列車があると思っていましたが、8:34に出た後です。地鉄も予想以上の時間がかかりました。想定が甘かったようです。しかし、これだけの客が待っているとは・・。前の列車が満員で乗れなったのではと思われます。平日ですが夏休みで子供連れが圧倒的です。
【北京市郊鉄S2線】
北京市では、都市計画でかつての城壁内中心部の胡同と呼ばれる庶民の住居地区の再開発が進められてきました。住居の郊外移転に伴う都市の拡大・ドーナツ現象化、また膨らむ近郊都市との交通アクセスのために対策整備の一環として、2008年8月6日から国鉄京包線を整備して運行されたのが北京市郊鉄S2線です。
北京オリンピックを控え沿線、万里の長城への観光客需要にも対応して観光列車「和諧長城号」4編成が新たに投入されました。
車両は両端がプッシュプルの動力集中方式内燃車で、中間客車7両が組み込まれたNDJ3型です。今後の計画に合わせて最高速度160km/h(当分は120km/h)、山岳33‰区間は最高速度45km/hの高性能で走行できます。車両編成には食堂車(厨房なし)や1等車も組み込まれました。シートはCRH2「はやて」からの座席技術のよる座席回転リクライニングシート、また大型窓を採用して明るく車窓が楽しめる堂々の観光列車になっています。全線1時間半前後、長城下車站の八達嶺へは1時間15分前後と渋滞する道路よりも短時間で到達します。
当然大人気になるだろうとの予測でしたが、運賃がバスよりも高かったために利用客が伸びません。2011年7月1日からの最高運賃は23元(約380円)から全車均一6元(約100円)にまで下げられての対応となりました。
しかしそれでも八達嶺站を降りてから長城へのアクセスがなく山道は徒歩では遠かったとのもう1つの問題は解消されずで、乗客数は伸びません。とうとう当初1時間ヘッドで1日16往復あった運行は半減となり、余剰となった一編成は瀋陽~撫順の城際列車用に転用されてしまいました。
問題点は見えていただけに残念です。もう少し辛抱があれば、駅から長城入口までラック式の鉄道を走らせるとかもう1歩の工夫があれば上手くいったろうと思いますが・・。
転出した瀋陽~撫順の城際列車ですが、以前に乗車報告しました通り、こちらはもっと目を覆うばかりの閑散状態でNDJ3型の腕が泣いています。
※ 瀋撫城際列車の投稿記事はこちらです。
▲ 10:08 朝食がまだだったので構内地下にある待合室食堂に下りて麺を食べてから戻ると長城からのS208次が到着していました。これが折り返します。
▲ 10:23 改札時間は早く40分前に開始されましたが、乗客する人民はダッシュで向かっていかれます。この列車は全車自由席ですので座れれば勝ちです。老体には走り競争は無理です。ドン尻を覚悟で諦めました。
切符ですが、S線は鉄道部と北京市政府との共同投资です。市政交通スマートカード(市政交通一卡通)と呼ばれるICカードが利用できます。
▲ 10:57 S209次は満員の乗客を乗せて発車しました。席は案の定、足が伸ばせる床席です。向かいに座ったお母さんも靴を脱いで美しいおみ足を惜しげもなく出して、寛ぎの食堂車車内でした。横におられるお嬢さんはお母さんのこういった姿を見ながらおおらかに育つのでしょうね。
▲ 11:04 タブレットを開いて走行地点を見ます。地図でご覧のようにこの辺りは大学が多い学園街です。日本人留学生も多く、駐在時には呼び出されて街角散歩をした思い出が蘇ります。
S2線は単線ですが、列車は相当なスピードで走行して行きます。
▲ 11:34 車内はご覧の通りの混みようです。中央ではお姉さんが万里の長城入場券も販売に来ています。こうやって見ていると、この「和諧長城号」もようやく市民権を得たように思えます。
▲ 11:48 33.7‰の急勾配と急カーブが続く山間区間に入りました。
列車スピードも33.5km/hと遅くなり、ゆっくりと登って行きます。万里の長城が車窓からも見えてきました。
▲ 12.09 やがて列車は、メインハイライトのスイッチバックに入っていきます。ただ、何の車内アナウンスもなく観光列車なのに寂しいところです。
列車は延庆まで行きますが殆どの客はここで降りられました。▲ 2008年新たな開業当時は1時間ヘッドで運行されていましたが今は7往復となった時刻表です。7月~9月の季節ダイヤです。10月からは11往復になっていますのでご注意ください。
運行ダイヤは頻繁に変わるようですのでこちらをご覧ください。
▲ 八达岭站は道路との狭い場所に設置されておりました。観光案内板などありません。はて、「詹天佑記念館」は何処にあるのか?、駅員にお聞きしてから向かいました。
▲ 12:37 坂道を歩くこと約7分、なぜかTaxiが1台止まっているひっそりとした道傍にありました。
▲ 入口を入ると雑談に夢中だったおばさんが出てきて入場券を探し出す始末です。よほど来館者が少ないようです。
【 詹天佑(Jeme Tien Yow) 】
1861年4月26日に广州で誕生、幼き頃より学業優秀で、11歳での1872年、清国初めて公費でのアメリカ留学を果します。アメリカでは小学校から大学までを過ごし、鉄道土木を専攻し学位を得ました。
帰国後は操船技術を学び教師となった後、1888年に中国鉄道公司に入社し、日本の鉄道建設にも携わったイギリス人クラウド・ウィリアム・キンダーの下で見習い技術者として学びます。
1890年、津榆鉄路(天津~榆関(山海関))建設にあたり責任者ともなり、英・日・独をもってしても解決できなかった難工事の橋梁建設に成功させた事が評価されて鉄路建設の主任技師として認められていきます。
(左は中国最初の1,435㎜の唐胥铁路です。山海関まで延伸されて津榆铁路になりました。
そして彼の存在が決定的となったのは、ここ京张铁路(北京~張家口、201.2キロ)の建設でした。当時の中国では鉄路建設は諸外国の利権により進められていましたが、国防上重要とされたこの路線建設は諸外国の資金なしの中国人だけで建設される事が決まり、詹天佑は鉄道総裁に命じられました。
万里の長城の燕山山脈を越える鉄路建設は八達嶺トンネル(1,092m)をはじめ多くのトンネル、急勾配(33.7‰)、スイッチバックと橋梁設置を必要とする難工事でしたが、4年の歳月をかけ1909年10月2日に中国人のみの力で見事完成させました。この偉業は内外からも称えられ、現在中国鉄路の父と呼ばれる所以となりました。
中国鉄路で使用されている1,435㎜ゲージ、自動連結器の採用は彼の提議でもあります。
その後多くの中国鉄路の建設に携わり、多くの栄誉を受けています。1919年4月24日、58歳の若さで病死するまで中国鉄路の建設発展に尽し、生涯をささげました。彼の遺体は妻と一緒に京張鉄路の清华园车站付近に埋葬され、その生涯の功績には栄誉を称えられて、詹天佑記念館に展示公開されています。
(※ 参考;Baidu百科”詹天佑“、写真は詹天佑記念館に展示を撮影)
京張鉄路の路線確定において詹天佑が測量したのは3路線でした。残りの2路線の1つは、彼の死後の1955年6月に丰沙铁路(豊沙線、121キロ)として建設開業されました。
また北京~張家口を結ぶ京張高速鉄道(174キロ)も2017年開通を目指して今年年内の着工となりました。詹天佑が掲げた人民の人民による人民のための鉄路は100年後余り、大きな変貌発展を遂げていきます。
▲ 京张铁路の難所越えに設置されたスイッチバックの青龙桥站のジオラマ。S線では停車するものの客扱いはしていないく、行きたかったのですが今回は残念ながら行く道が分からず断念しました。
青龙桥车站は、Google座標; 40.351003, 116.020146
【 京張鉄路に走った蒸気機関車たち 】
まだ当時の中国では蒸気機関車製造は出来なく、諸外国から各種が輸入されていました。
▲ 建設時に用いられたタンク式機関車。
▲ いかにもアメリカ的なカウキャッチャーのあるタンク式機関車。
▲ これはシェイ式なのか、ピストンロッドに連結したクランクシャフトから伸びたシャフトがハッキリと見えますのでギアードロコである事は間違いない。
▲ 1922年にはアメリカからのマレー式蒸気機関車も投入されています。動輪は8軸、こんな大型蒸気機関車が急勾配を登る光景を見たかった、撮りたったです。
13:20 展示は京張鉄路をメインに中国鉄路全般の現状にも触れられていました。約40分の見学を終えて八達嶺站に戻りました。
▲ 細長い駅舎内です。改札開始近しで既に乗客は並んで待っておられます。
▲ 珍しい掲示です。S線は山岳区間を運行するため乗車人数制限を設けています。同じ編成ですが200~320人とかなりのばらつきがあります。なぜなのでしょうか・・。
往路の列車も同じで、待合室にたくさんおられた客は多分、この掲示の乗車制限で次の列車になったのですね。
▲ 13:25 発車15分前に改札開始です。行きと同じく皆さんはダッシュで向かわれます。復路も同じく床席となりました。
▲ 15:00 北京北に到着です。今日は調べたいものがありましたので前門の鉄道博物館(京奉鉄路正陽門東車站)に寄ってのホテル戻りとなりました。
いよいよ明日は帰途への空港のある天津へと向かいます。今回もノービザ15日間の旅になりました。そろそろ家が恋しくなります。 Part14 へ続く
いやー!ここが駅かと信じられないたたずまいのホーム1本の寂れた北京北駅(西直門)しか見ていない私にとって、別の国に来たような現在の北駅です
集通鉄路最後の年の夏に降り立ったのが一番最近見た北駅です
あの時すでに地下鉄は開通し近代的な建物はありましたが、北駅から表通りに出る路地には上半身裸の力車の運ちゃんが客待ちしていました。
団長様、コメントをいただきまして、ありがとうございます。
私も初めて北京北駅を見た時はこれが首都の駅かと疑うほど閑散としたローカル駅でした。立派な北京駅とはあまりに違っていました。それがリニューアル工事が始まって2009年に全く違った現駅舎に生まれ変わった時は、またビックリさせられました。今も当時の跨線橋や駅舎は保存されていて、中国現役蒸気機関車が今尚残る平庄や阜新へと向かう中国鉄ちゃんが乗車する駅になっています。