京王帝都電鉄(現京王電鉄)井の頭線3000系は昭和37年(1962年)から昭和63年(1988年)にかけて29編成145両が東急車両で製造されたステンレス車両である。平成3年(1991年)に事故廃車3722の代替車が登場しているので最終的には平成3年まで製造が続いたとも言える。正面は当時流行した湘南窓であり非貫通である。ステンレス車両の単調さを補う意味なのか編成ごとに色を変えたFRPが特徴でステンプラカーと言われたこともあり、昭和38年(1973年)にローレル賞を受賞している。アメリカバッド社の技術指導で製造され、車内には英語の銘板がついていたが、譲渡先の会社でこれを付けた車両を見たような記憶がある。製造が長きに渡り、いろいろなタイプの車両が生まれた。大きく分けて最初の2編成は幅2744mmの狭幅車で片開き扉、第3編成以降は2844mmの広幅裾絞車で両開き扉である。車体長も後者が若干長い18.5m車。出力は100KWであったが、第10編成から120KWである。当初4連であったが広幅裾絞3100を投入して5連化。狭幅車5連は編成美を乱していた。当初抵抗制御車であったが第10編成からチョッパ制御車となる。冷房装置は当時なかったが第14編成から新造時に分散式を採用、その後集約分散式、集中式となど試行錯誤してきたのは京王線5000系と同じ。東急7000系、南海6000系とともにステンレス三羽烏と言われたかどうか分からないが、この車両のもう一つの大きな特長はパイオニアⅢと呼ばれた台車で、ビビり振動等で評判が悪く、途中から軸バネ式台車に交換された。正面の湘南窓も後年拡げられ印象が変わった。また、スカートを取り付けたり、一部にシングルアームが採用されたが2011年に全車姿を消した。しかし、かなりの車両が地方私鉄に譲渡され今なお主力車両として活躍している。譲渡車両は新旧対比で別途報告したい。 返信 ↓
米手作市様 最初の2編成が狭幅車でドアが片開きでした。この先頭車4両は幸運にも今でも北陸鉄道浅野川線に健在です。日本よりも圧倒的に海外の撮影時間が多いぶんしゅう旅日記さんが昨年珍しく日本の北陸地方を私の友人達と荒らしまわった時にこの電車も撮影されデジ青にレポートされています。 返信 ↓
京王帝都電鉄(現京王電鉄)井の頭線3000系は昭和37年(1962年)から昭和63年(1988年)にかけて29編成145両が東急車両で製造されたステンレス車両である。平成3年(1991年)に事故廃車3722の代替車が登場しているので最終的には平成3年まで製造が続いたとも言える。正面は当時流行した湘南窓であり非貫通である。ステンレス車両の単調さを補う意味なのか編成ごとに色を変えたFRPが特徴でステンプラカーと言われたこともあり、昭和38年(1973年)にローレル賞を受賞している。アメリカバッド社の技術指導で製造され、車内には英語の銘板がついていたが、譲渡先の会社でこれを付けた車両を見たような記憶がある。製造が長きに渡り、いろいろなタイプの車両が生まれた。大きく分けて最初の2編成は幅2744mmの狭幅車で片開き扉、第3編成以降は2844mmの広幅裾絞車で両開き扉である。車体長も後者が若干長い18.5m車。出力は100KWであったが、第10編成から120KWである。当初4連であったが広幅裾絞3100を投入して5連化。狭幅車5連は編成美を乱していた。当初抵抗制御車であったが第10編成からチョッパ制御車となる。冷房装置は当時なかったが第14編成から新造時に分散式を採用、その後集約分散式、集中式となど試行錯誤してきたのは京王線5000系と同じ。東急7000系、南海6000系とともにステンレス三羽烏と言われたかどうか分からないが、この車両のもう一つの大きな特長はパイオニアⅢと呼ばれた台車で、ビビり振動等で評判が悪く、途中から軸バネ式台車に交換された。正面の湘南窓も後年拡げられ印象が変わった。また、スカートを取り付けたり、一部にシングルアームが採用されたが2011年に全車姿を消した。しかし、かなりの車両が地方私鉄に譲渡され今なお主力車両として活躍している。譲渡車両は新旧対比で別途報告したい。
準特急様、
このシリーズに、狭幅車両があったことはこの記事で知りました。
別途報告を楽しみにしております。
米手作市様
最初の2編成が狭幅車でドアが片開きでした。この先頭車4両は幸運にも今でも北陸鉄道浅野川線に健在です。日本よりも圧倒的に海外の撮影時間が多いぶんしゅう旅日記さんが昨年珍しく日本の北陸地方を私の友人達と荒らしまわった時にこの電車も撮影されデジ青にレポートされています。