あの日から5年 ≪鉄道版 その2≫

3・11の撮影記録を続けます。運命の時刻が近づいてきますが、実際は何も知らずに、いつもと変わらない時間が過ぎていきました。
syo110311_088▲13:17 京都 先ほど京都総合運転所の横を通った際に目撃した489系H1編成が、京都発能生行き9087Mとして京都駅0番ホームに到着する。前年の2010年3月改正で急行「能登」の不定期化により、489系ボンネットは定期運用がなくなり、廃車も進んでいた。残っていたのは、このH1編成のみで、首都圏、関西圏への臨時列車や、時おり定期特急の代走をこなしていた。本日の臨時列車の乗客は、修学旅行の高校生、京都旅行を終えて、北陸方面へ帰るところ、ただ席が埋まっているのは3両ほどで、あとは空席、ずいぶん贅沢な修学旅行電車だった。


syo110311_119syo110311_110▲13:40 京都 20分余り停車ののち、修学旅行生を乗せた「臨時」が発車、このあと、489系H1編成は、3月26日、27日に大阪~金沢で運転された「ありがとう489系の旅」で営業運転を終了。両端のボンネットは、クハ489-501が小松駅近くの公園で保存、クハ489-1は、旧松任工場(金沢総合車両所)で保存されたのち、京都鉄道博物館の展示車両として、再び京都へ戻ってきた。

このあと、しばらくは撮影対象もないので、近くのサテンでゆっくり休憩する。この間に大震災が起こったのだが、全く感じなかった。ただ新幹線京都駅の改札前を通ると、「地震点検のため列車抑止中」の案内が出ている。そのあとに乗った電車内の会話から、東北地方で大きな地震が起こり、沿岸に大津波警報が発令されていることまでは分かった。5年前とはいえ、まだスマホも普及していなかった時代で、外出中の情報収集も容易ではなかった。
sy110311_130▲15:45 高槻 新快速で新大阪へ向かう途中、高槻にはDD511192[宮]が停車中で、下車して撮影する。検査上がりなのか、きれいな車体だった。
sy110311_132▲16:05 新大阪 新大阪へ着いて乗換コンコースへ行くと、新幹線運転見合わせで足止めを食った乗客で超満員だった。そのなかで、「あと1日」と電光表示された九州新幹線の文字が躍っていた。翌日、数々の開業記念式が予定されていたが、すべて中止になった。
sy110311_146sy110311_158▲16:49 新大阪 新大阪発天橋立行き「文殊1号」クロハ183-801ほかB41編成、「文殊」の名も「こうのとり」に統合される。隣の空き地では、おおさか東線の新しいホームの工事が始まっている。右は「文殊1号」クハ183-710の車内、新大阪からの乗客はゼロ。
sy110311_159▲16:56 新大阪 18番ホームに掲げられた号車札、「北近畿」「文殊」「タンゴエクスプローラー」、すべてが本日でその名が消えてしまう。
sy110311_175▲17:43 京都 そして今日一日の仕上げとして、最終の「雷鳥33号」をどこで撮るか、始発の大阪駅も考えていたが、人が多そうなので、やはり京都駅でと思い直し、新幹線不通のため超満員の新快速に乗って京都まで戻ってきた。17時42分、最後の一本となった金沢行き「雷鳥」が到着した。クハ481-323ほかのA1編成で、子どもに囲まれて必死になって写した。思い返せば、昭和39年12月25日、運転初日の「雷鳥」をオリンパスペンEESで写したのも、この0番(旧1sy110311_169番)ホームだった。本来は東海道新幹線開業日の同年10月1日から運転予定だったが、481系電車の製造が遅れて、年末にズレ込んだのだ。その時も「雷鳥」は1往復だけだったが、その後、「雷鳥」は20往復余りにまで成長したが、後継の列車・車両に追われて、ついに1往復となり、この列車が本当の最後になってしまった。金沢行きの方向幕、赤とクリームのこだま色ともお別れ、乗務員扉から身を乗り出した乗務員が「ありがとうございました」と手を振るなか、5分遅れの「雷鳥」は薄暗くなった京都駅を離れていった。 

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