熊本市電 たったの4日で運転再開

熊本、大分両県の皆様、震災を心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早い復旧を祈念しています。

震災から1ヶ月が過ぎた今週、テレビで熊本市電が、壊れた路面などを直ちに修理し、震災からたったの4日で運転を復活させたと知りました。その上、全国から集まったボランティアを無賃で輸送したそうです。

そんな映像を見て、半世紀前のフィルムを取り出してみました。1963年当時の熊本市電と熊本市街の様子です。その後長崎電軌に移った171、172号機の在りし日の姿もありました。長崎電軌の171号機は先日INUBUSE氏から現況報告がありました。1963年、3回生の春休み3週間、九州を周遊し鉄道三昧の日々を過ごした時のフィルムです。
(系統、停留場などは当時の名前または表記のままです。)

▼熊本城前 ②系統・健軍線(熊本駅-健軍町間)(健軍町行き) 120型  1963.3.27  07202
軌道の向こう坪井川を越え、長塀と瀬戸口門が、その向こうに田子櫓など、左奥隅に天守閣が見えます。市電はこの先すぐで右折して、通町(とおりまち)筋に進みます。
【現在】Google Earth 3D で確認すると、現在もこの場所はほとんど変らずにお城が望めそうでした。
07202
▼熊本城前②系統・健軍線(熊本駅行き) 130型  1963.03.27         07201
07203

▼田崎橋-二本木口間 ①系統・子飼橋線(田崎橋-子飼橋)(子飼橋行き) 130型  07102
左手に二本木口駅の停留場が見えます。この区間は現在も単線です。07102
▼田崎橋-二本木口間 ①系統・子飼橋線(子飼橋行き)  350型       07103
月星ゴム工場脇の単線区間を通過、二本木口駅付近で複線になります。
【現在】月星ゴムの工場は撤去され、跡地は熊本地方合同庁舎、税務署、スーパーなどが建っています。
07103▼熊本駅近く、食堂街の前を田崎橋に向かう①系統・子飼橋線(田崎町行き)180型  07105
当時、全国各地の主要駅近辺にはこうした食堂、メシ屋が沢山立ち並んでいました。当時の言葉『日雇い食堂』、『一膳メシ屋』などは今日死語となった感があります。
【現在】グランドパレス熊本、東横イン熊本駅前、などのホテル街となった場所です。
07105
▼熊本駅前風景 ①系統の通過駅と、②系統・健軍線の始発駅でもありました。  07101
現在のJR熊本駅も、幾度か改修増築されたでしょうが、画像に見える様な当時の面影を今もはっきりと残しています。新幹線側とは反対の方向です。
07101▼熊本駅前 ①系統・子飼橋線(子飼橋行き) 190型        07100
どこからか煙が昇る、煙の多い街です。
07100▼春日町付近 ①系統・子飼橋線(子飼橋行き)  170型              07108
熊本駅前から北東方向斜めに古い町並みを進みます。この先を右折すれば祗園橋に近づきます。車両は二両しかない170型。172と共に長崎電軌に移る。長崎での活躍は先日のINUBUSE氏の報告の通りです。なお、172号の画像も後ほど出てきます。
07108
▼祇園橋を過ぎ、阿弥陀町、大工町付近を行く①系統(子飼橋行き) 150形        07112
位置的には熊本駅から近くの市中心部ながら、当時はまだ古い町並みでした。
【現在】古桶屋町、西阿弥陀町、古大工町の名前はそのまま残り、呉服町、魚屋町に続き、更にその先には、米屋町、紺屋町、万町などの町名が付き、現在もそのままです。
07112▼河原町 ⑦系統・川尻線(辛島-川尻町間、廃線)の10型単車群     07115
辛島方面に向かう二両は、右の単車が左を連結棒で牽引しているように見える。手前方向にカーブして、右方向に坂を上がり、長六橋に至ります。
【現在】Google Earth 3Dで確認、正面の民間会社のビルは今もそのままの姿で残っています。
07115▼河原町-迎町(むかえまち)間  ⑦系統・川尻線(辛島行き) 10型    07118
白川に架かるトラス・タイド・アーチ橋の長六橋の上です。
【現在】往時加藤清正が白川に架けたことからその名がある長六橋は、コンクリート橋に付け替えられアーチはなくなりました。今も残る後方のビルの位置から考えて、新しい橋はこの位置より少し白川の上流になったと想像されますが真偽の程は不明です。
07118▼河原町-慶徳校前間 ②系統・健軍線(熊本駅-健軍町、熊本駅行き) 200型 0712407124

▼慶徳校前 ②系統・健軍線(健軍町行き) 160型      07125
07125

▼辛島町 ⑦系統・川尻線川尻から辛島に到着した10型、ここで折り返す  07127
右手に進めば、白川の代継橋を渡り、南熊本方面に。左手上方向に進めば熊本城、市役所方面。左手下方向に進むと西辛島町、上熊本行きと熊本駅・田崎橋方面行きに分岐する。
【現在】映画館はビジネスホテルに変っているようで、銀行、辛島公園があるところです。
07127▼辛島町 ①系統(田崎町行き) 350型  07129
右手からカーブしてポイントを渡り直線部に入り、間もなく西辛島町の手前で左折し熊本駅方面に向かう。後方は産交バス本社とそのバスターミナル。
【現在】巨大なビル群となり、後方の金峰山などは全く見えなくなった。産交バスターミナルも
近年仮住まいに移転しているようです。
07129▼辛島町 ⑥系統・春竹(はるたけ)線(南熊本駅前-上熊本駅前、当時) 10型 07131
右手から直進して来た単車はそのまま、西辛島を直進し、上熊本駅前に向かう、⑥系統は当時は上熊本駅までだったが、その後段山(だにやま)町が終点に変っているようです。
07131▼辛島町電停前 ①系統・子飼橋線 170型171号  07133
【現在】後方の勧業館は取り壊され、新たなビルで熊本市産業文化会館になっています。
【追加情報】後輩読者から最新情報のご連絡がありました。産業文化会館は最近取り壊され、交通センター、県民百貨店と共に再開発が行われる予定だそうです。
07133
▼花畑町辺り ③系統・上熊本線(上熊本-体育館前)(上熊本行き) 180型  07134
07134
▼花畑町辺り ①系統(田島橋行き)  180型           07201
後方は貯金支局で【現在】は熊本市役所花畑別館となっています。
07201
▼水前寺体育館前 ④系統・広町線(体育館前-水道町-上熊本)(上熊本行き) 07205
車両は60型 車両後方に渡り線が施設されています。
07205
▼水前寺駅通 ③系統(体育館前行き) 170型172号        07207
先の171号と共に長崎電軌に移った車両です。
07207▼水前寺駅通 ④系統(体育館前行き) 70型(第二次)       07208
左後方の建物はよく判りません。
07208▼上熊本駅前 ⑥系統・春竹線の終点 70型(第二次)    07219
右手の停留場は④系統・広町線の終点・上熊本駅。
07219
▼上熊本駅付近 ⑥系統・新町経由春竹線(南熊本駅行き) 70型(第二次) 07220
左は広町線です。
07220▼上熊本駅前付近 ④系統広町線   60型                                           07221
右が上の画像の新町・春竹線です。
07221少したくさんの画像になりましたが、以上が1963年3月当時の熊本市電です。
最盛期の市電の車両群と、近代化以前の熊本市街でした。

熊本市電 たったの4日で運転再開」への3件のフィードバック

  1. 震災直後の投稿が不調法であった事を恥ずかしく思っています。tsurukame氏の熊本入りは1963年だとのことで、老人とは7年の差があったようです。この間、車両増備は188型延長の191型(188型と同じ)があり、次は新設計と言ってもほぼ同型200型10両となりました。そして350型6両は国民体育大会に向けての増備車でした。新造車は一旦これまでとなり、その後しばらく大阪市電900型(ぼて、腹ボテ)の中古車となりますが、最終400型はワンマンカー仕様となりました。この頃に郊外路線の廃止などがあり、ワンマン仕様となった車両は1000番台に番号変更となったようです。これについてはINUBUSE氏がコメントで紹介されております。日本で最初のVVVF車8200型は日本の路面電車が衰退の道を走り始めたときに新造されました。もう1度、街に路面電車を走らせよう!との熊本の提案でした。熊本城を町のシンボルとして再興した熊本のみなさんのガンバリに期待しております。

  2. tsurukame先輩 熊本市電拝見しました。懐かしい風景です。私は昭和57年~62年熊本勤務でした。毎日電車通勤でした。今回の地震発生直後訪問しました。丁度電車が動き出した2・3日後だったと思います。表面上は以前と変らないように見えますか、市民生活はまだまだ大変なようです。少しでも何かできればと思っています。ご投稿の内、産業文化会館は先日取り壊され交通センター、県民百貨店とともに再開発されるようです。これは地震発生以前に進められていることですが。
    河原町電停近くの半円形のビル、いまだにありますね。イデタ実業のビル、熊本では有名な会社です。
    だらだらと申し訳ありません。熊本への想いを記したまで・・・お許しください。

    • おとりん様

      コメント並びに新しい情報をありがとうございます。早速本文に最新追加情報として書き入れておきました。震災地域を訪問された由、実際に目で見ると、報道されている状況よりも、酷い惨状を目にされたのではないでしょうか。阪神大震災時の阪神地区の惨状を思い出します。それはそれは酷いものでした。

      あの半円形のビル、目立ちますね。フィルムの幾コマにも亘り登場しています。
      それと、もしご存知でしたら教えて下さい。そのビルの前、長六橋の位置ですが、アーチ橋の時と現橋の位置は同じでしょうか。それとも白川の少し上流に移動したのでしょうか。面倒なお願いでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください