凍える大地への旅 2016年 Part20 青春18きっぷの旅 稚内、北防波堤ドーム、稚泊鉄道連絡船

第11日目 12月19日 その3

15:50 稚内駅バスターミナルに戻り荷物を預けていたホテルにチェックインしてから待望の北防波堤ドーム稚内桟橋駅に向かいました。
初めて北海道に来たのは1968年(昭和43年)8月、まだ18歳の時で稚内にも参りました。その後訪問したことはなく今年で丁度50年ぶりになります。その時撮ったネガが見つかれば当時のことを詳しく紹介できるのですが現在行方不明なのが残念です。
鉄道雑誌で見たことはあっても実際見てみますと防波堤ドームの高さや長さに驚かせられました。ドームに入るとまだ蒸気機関車の煤煙の臭いが残っていたのだけはしっかりとした印象として覚えています。しかし半世紀が経過した今はすっかりと消えてしまっていました。
ここに列車が発着する様子を是非に見たかったと、また思いました。

▲ ドームの高さは13.6m、柱の内側から壁までが8m、長さ427m、70本のエンタシス状の柱列群は古代ギリシャ神殿のようでもあります。柱に沿ってホームが設置され、降りた客は右側の2階建て駅舎に入り乗船を待ったそうです。1階に乗船口や待合室・事務室、2階は日本食堂がありました。

【稚泊鉄道連絡船】
日本ロシア帝国との間で国境を確定するため1875年明治8年5月7日に締結された千島・樺太交換条約により、千島は日本領、樺太は全島がロシア領になりましたが、日露戦争勝利の結果の賠償として、北緯50度以南の南樺太1905年(明治38年)9月4日の日露講和条約(ポーツマス条約)調印により得ました
これにより軍事物資輸送、また民間人の旅客・貨物輸送のために1906年(明治39年)9月24日から鉄道の敷設が始まりました。当初は600㎜ゲージの軽便鉄道でしたが、1910年(明治43年)には内地と同様の1067㎜に改軌されています。

1922年(大正11年)11月1日に宗谷本線が稚内まで全通したのを契機に樺太の鉄路とをつなぐために翌年1923年(大正12年)5月1日に稚泊鉄道連絡船(稚内~大泊、159.3㌔?)が開設されました。船は関釜連絡船として使用されていた壱岐丸が転船就航され、6月からは対馬丸も同じく転船して2隻体制になりました。当初の乗船時間は8時間でしたが、夏は霧がよく発生、冬は流氷があって欠航や遅延が日常的になっていたそうです。大正13年の時刻表から見ると、2隻が毎日片道を運行していました。
稚内港発 10:30⇒18:30着 大泊港 発 10:00⇒18:00 着 稚内港

稚内からは他に樺太西線の本斗と結ぶ稚斗連絡船も翌年就航していました。こちらは鈴谷丸1隻の運用で、4月~11月は毎日1往復、冬季の12月~3月は隔日の1往復の運行でした。冬季は流氷もあって夜間の運行は避けていたのですね。
夏季;稚内港発 8:20⇒15:30 本斗港 22:00⇒5:00
冬季;(偶数日)稚内港発 8:20⇒15:10 本斗港 (奇数日)9:00⇒16:00

▲ 手持ちの時刻表は2年後の1925年4月号です。ご覧のように稚内音威子府から天北線(当時はこちらが宗谷本線)経由で1922年(大正11年)11月1日につながっていましたが、湧別側はまだ兜沼までが1924年(大正13年)6月25日に開業したばかりで、兜沼問寒別は未開業でした。

▲ 当時の時刻表、大正14年4月号です。

▲ 同じく樺太鉄道の時刻表、樺太本線(大泊~榮濱)時刻表、下が西海岸線(野田~本斗)です。

【 大正14年当時の上野から豊原までのダイヤ 】
上野22:00(急行)⇒15:15青森/青森港16:45(青函連絡船)⇒21:15函館港/函館22:24(急行)⇒8:18稚内/稚内港10:30(稚泊連絡船)⇒18:30大泊港/大泊19:05⇒20:00豊原 
上野
から日本最北の市、樺太庁のある豊原までの接続ダイヤです。2泊3日(46時間)を要しました。当時の最北の駅營濱までは豊原で一泊してから翌日の乗継となり、2時間25分を要します。

【 稚内・稚内港駅】
稚泊鉄道連絡船が就航した頃の稚内駅は現在の南稚内から約1㌔にあった頭端式ホームの駅でした。
▲ 1922年(大正11年)11月1日に開業した稚内駅です。旅客ホームは島式2本で構内には貨物ヤードもあって広い構内だったようです。右側には転車台と10線分の扇方車庫がありました。現在は痕跡もなく、構内の左隅は稚内港郵便局があるあたりと言われています。

しかしこの駅から稚泊鉄道連絡船が着船する場所までは約2㌔もあって乗船客は荷物を持つか荷車に乗せて、徒歩で向かうことを強いられました。荷物も結構あったでしょうから荷物を運ぶ赤帽がいたのでしょうね。
当初は急ごしらえの待合所でしたが、2年後の1924年(大正13年)11月10日には稚内連絡待合所が建設されました。

1926年(大正15年)9月25日に距離が短く勾配も少ない幌延経由の現在の宗谷本線が開通し、1930年(昭和5年)4月1日には線名が変更されてこちらが宗谷本線、以前からの路線は北見線(1961年(昭和36年)4月1日には天北線に再改称)と、改称されました。
▲ 稚内連絡待合所の位置は、現稚内駅の海側の岸壁あたりです。乗船客は待合所から曳船によるハシケ輸送で沖懸りの連絡船へ向かい、乗船していました。
1928年(昭和3年)12月26日には稚内駅から路線が延伸されて稚内連絡待合所を改修した稚内港駅が出来、乗船客の約2㌔の移動は解消しました。この際に稚内駅は頭端式ホーム駅であったために稚内港駅まで向かう列車は一旦稚内駅に入線した後、本線をバックしてスイッチバック方式で稚内港駅へと参りました。

北防波堤ドームの稚内桟橋駅 】
1905年(明治38年)9月4日、南樺太が日本領となってより稚内港の整備建設が開始されましたが、年中の強風高波に悩まされて工事の進捗は遅れていました。
そのため当時稚内築港事務所長だった平尾俊雄は、北海道帝国大学を卒業してわずか3年目の26歳の若き技士、土谷実に新たな防波堤の設計を命じました。当時はまだ難しいとされていたコンクリート技術を学んでいた
彼は、平尾からのスケッチを基に強度計算から模型製作、実験設計までをわずか2ケ月で乗り切りドーム型の防波堤に辿りつきます。

ドームは1931年(昭和6年)年から5年の歳月をかけて1936(昭和11)年に完成、1938年(昭和13年)10月1日には線路も敷設されて稚内桟橋駅 が開業しました。
12歳上の平尾と土谷の師弟関係は平尾が函館に移った時に土谷を連れて行ったり、海軍の依頼で海南島の築港工事を指揮する際には土谷を引き抜いて補佐役に据えています。平尾は土谷を高く評価し、土谷もまた新工法に先頭切って挑戦する平尾を心から尊敬していて師弟関係は長く続いたそうです。

▲ ドーム内ホームには乗船乗り場へと向かう跨線橋があったようです。詳しい駅図面があればいいのですが・・。

【 昭和19年当時の上野から豊原までのダイヤ 】
上野19:00(急行)⇒7:48青森/青森港(青函連絡船)時刻未掲載⇒函館港/函館13:20(急行)⇒6:06稚内桟橋/稚内港(稚泊連絡船)時刻未掲載⇒大泊港/大泊15:55⇒17:50豊原
大正14年当時とほぼ同じの2泊3日は変わらず、46時間50分の所要時間です。
 青函連絡船と稚泊連絡船のダイヤは戦時中であったためか時刻表には「省略」と記載されて公表されていません。所要時間は分っていますので多分この列車に乗り継ぐとの推測で計算しています。


【 終戦と鉄道 】
1945年(昭和20年)8月11日、ソ連軍が国境を越えて南樺太に進攻、大泊から稚内への緊急疎開輸送を開始。24日22時に大泊を出航した宗谷丸が最終便となり稚泊航路は消滅し、稚内桟橋駅も廃止となりました。

【 駅移転と駅名変更 】
稚内港駅は海側に駅舎があり 市街地側に不便だったのでは1938年(昭和13年)6月30日に木造平屋建ての駅舎が建設されて使用開始されました。この駅舎は1939年2月1日に旧稚内駅南稚内と改称された際に稚内港駅から稚内駅に改称されました。
また稚内市の都市計画により1952年(昭和27年)11月6日、南稚内駅は現在の場所に移転しています。

▲ 16:12 日没なった稚内港です。停泊するは平成28年10月27日に就航したばかりの巡視船「りしり」(三菱重工下関製造・1500㌧)です。

▲ 16:27 夕暮れを迎えた稚内駅です。クリスマスのデコレーションもありました。

▲ ホテルで紹介していただいた郷土料理屋「車屋・源氏」です。稚内の名物はタコしゃぶですが、一人で食べてもと思い「地物定食」2,100円にしました。

▲ 今回の旅での最後の宿はドーミーイン稚内です。部屋も広くて綺麗で中々快適です。最上階には天然温泉大浴場もあって旅の疲れを癒してくださいました。
明日はようやく愛妻の待つ自宅へと向かいます。「今回のあなたのいない12日間は今までで一番寂しかった、早く帰ってきて」といつもにない弱気なメッセージがラインで来ていました。 Part21へ続く

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