「デジ青」誌上では、米手さんによる“介護”が相次いでいます。東にデジタル難民がいれば、湖畔のマンション13階まで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、尻を叩きに押しかけて叱咤激励し、暑さで体力・気力の落ちた老人会員に向けて、東奔西走の介護活動をされています。
おっと、私の住む乙訓地方にも難民がいました。以前はしょっちゅう投稿されて、デジ青の常連でしたが、最近は、とんと投稿がありません。聞いてみますと、周囲の環境が変わって、手足をもがれた状態になっていることが分かりました。こんな時こそ救援の手を差し出すべきと、先日、私も“訪問介護”して打ち合わせして来ました。
老人は電車少年として、小学校の時から京都市電、京阪に親しみ、DRFCの頃には全国の電車巡りに出掛けます。その中から、今まで未発表のものについて、代理投稿で報告するように指示がありました。なお、タイトルの「た~ちゃん」は老人の幼名です。今回は、昭和32年12月と、翌33年5月の2回に渡って訪れた和歌山地方の私鉄、第1回目として和歌山電気軌道をご覧ください。その後、中小私鉄の研究を始める契機となった、思い出に残る訪問だと述懐されています。
△ 終点の東和歌山駅前(現・和歌山)ではポール回しの光景も見られた。
△ 30形(30~39) 開業当時の1形の改造・改番、正面切妻の木造単車。
〈沿革〉和歌山市内線は、その経営母体が目まぐるしく交代したことで知られている。明治42年、和歌山水力電気が県庁前~和歌浦を開業し、順次、路線を延長する。大正11年に、京阪電鉄が軌道線のみを買収、同社の和歌山支店となるが、京阪は昭和5年に合同電気に譲渡して撤退、さらに昭和12年に東邦電力に吸収合併され、その和歌山支店となった。昭和15年には阪和電鉄(現・阪和線)と合併、軌道部門は分離されて和歌山電気軌道となる。さらに阪和電鉄は南海鉄道と合併し、軌道線は南海鉄道の傍系となった。そして昭和19年に南海と関西急行鉄道が合併し、近畿日本鉄道が設立されると、その傍系となって戦後を迎える。
昭和21年になって、近鉄から独立して和歌山電気軌道として発足、初めて独立した会社となったが、昭和30年には和歌山鉄道(現・和歌山電鐵)を吸収合併し、バス部門も加えると、和歌山県北部では、南海より大きな鉄道会社となった。京都から紅顔の大学生が2年続きで和歌山を訪れたのは、直後の昭和33年、34年であり、和歌山市内線が最も成熟した時期でもあった。
△ 60形(60~69) 30形と同じ1形の改造・改番だが、こちらは半鋼単車。
〈運転〉市駅~海南駅前13.4キロ、公園前~東和歌山1.6キロ、和歌浦口~新和歌浦1.0キロの計16.1キロが営業路線、うち9.3キロが併用軌道、全線複線、トンネルが一ヵ所あった(地図の太線が和歌山市内線、鉄道ピクトリアルより転載)。
△ 100形(100~104) 1925年製の木造単車、戸袋窓は楕円窓だったと言うが、のちに改造、扉も2枚折戸になった。
△ 2回目訪問と思われる、上と同じ100号、パンタ化されている。
△ 200形(200~206) 1930年製の同線初のボギー車。
△ 1000形(1001~1006) 戦後初となる半鋼製ボギー車で、前中扉の非対称形となり、初めてドアエンジンがついた。なお、背後の扇屋呉服店は、調べると今も扇屋ベビー用品店本店として盛業中で、東和歌山駅から少し市駅寄りに行った北側になる。
たーちゃんといわれるようになり74年が経過したようだ。その2年前に京阪電車に目覚めた。従兄が伏見の砲兵連隊に任官したことから月2回の面会日、叔母に当たる母親は重箱に田舎料理を詰め込み届ける時、たーちゃんは同行した。その時は三条京阪から深草まで京阪電車に乗った。その時、京阪電車は僕の電車と言ったらしく、京阪電車のたーちゃんと言われるようになったと、母親は言っていた。市電はその2年後、祖母は西本願寺に月参りしていたが、従兄が戦線に送られた後、孫を杖代わりに連れてお参りした。道中に京阪電車と交差する事に気がついて、市電下車後は七条通りを歩き、たーちゃんの京阪電車を見送ってから月参りを済ませることになった。敗戦の年に小学校入学となったが、その後も身内ではたーちゃんと呼ばれている。
乙訓の長老様
ご快癒おめでとうございます。
介護は他人の為ならず、と申しまして自らの健康のためにお節介を焼かせていただいておりますのでお気遣いなく!
長老様、こんないいモノを隠しておくのは身体にいけません。出来るだけ公開して下さい。私は懐かしい食パン電車に感動しました。
ところで西の要介護者である、前立線の肥大前駅付近に住まわれるED75さんはボケて居られるのか面倒くさいのか、時々刺激を与えないと動き出しません。介護人も疲れます。
2代目会長さん、コメント有難う御座います。特派員氏にプリントを渡した時に訪問年を間違ったようですので、ここで訂正です。ごめんなさい。和歌山市駅前、パンタ姿の100形、200形は1935年の撮影で、その他は1932年です。以後もこの思い違いがあると思われます。
実は老人、1942年に和歌山に行っております。察しよい方は流電に乗ったのだなと思われる思いますが、この年に従姉に双子が生まれ、居宅が吹田であったので田舎から応援指令が母親に出ました。そこで京都からわが子(たーちゃん)の手を引き吹田まで応援に何度か向かいました。その時は流電を見るだけで、それで満足でした。戦後、阪和線で急行で運行されていることを知り、中学2年の時に天王寺からぎゅうぎゅう詰めの中を和歌山まで乗りました。その時は南海電車で帰宅したので、市内線だけでなく郊外線もあるぞと、目をつけて居りました。
乙訓の長老様、
西暦と昭和をお取り違えではありませんか?1935年は昭和10年になります。1932年は昭和7年です。たぶん昭和35年と昭和32年のまちがいではないでしょうか?私もよくするまちがいですが。
(後にダットサンが走り、テレビの看板もあります)
米手昨市さん、ご指摘有難う御座います。ご指摘の通りです。総本家氏も老人の会話に振り回され、眼を白黒されているのではないかと思い、申し訳なく思っています。現象発生は3年ばかり前のことで、息子が親父の生誕祝いを「大井川鉄道」で身内だけでやってくれたころのことで、ボランティア先でも文書作成ではスカタンばかりやっていました。見るに見かねた乙訓の乙女は「しゃべらはったら文書化してアップしてあげる」と、デジタル青信号への投稿もしてくれました。ボランテアは本年3月に引退しました(当たり前)が、その後は自宅で転がって居りましたところ、総本家氏より古い写真ありませんか?となり、整理の付いたものから委ねることにしました。以後、同志社卒業前オンリイで、ボケ老人の青春の一部を披露させていただきたく、スカタン発生が生じることが頻発しそうですが、お許し願います。
乙訓の長老様
なんのご心配もご不要です。スカタン・勘違い大歓迎!
そのために訪問介護者がついているのです。
貴重な資料を会員達で共有出来ることに比べたら日時や場所のまちがいなど「へ」のようなモノ、と日時や場所で諸兄に迷惑を掛けている私が言うのですからまちがいありません!
さらなる「世にも不思議な」写真の公開を待っております。