こんなん、出てきました。昭和43年の上田丸子電鉄時刻表

 お堀の電車でデジ青が盛り上がってますが、信州上田城のお堀を走っていた頃の時刻表があります。それは昭和43年4月1日一部改補と書かれた時刻表です。

なんで、この時刻表があるかというと高校のクラブで信州へ行った時に別所温泉に行ったからです。温泉に入浴するためでなく、ここには全国で1つしかない木造八角三重塔があるからです。そして長野県で最初に国宝になっています。(昭和27年に指定)ということで丸窓電車は乗りましたが、お堀電車は乗らなかったのです。

この時刻表はこんな感じでペラペラペラと長く開くのです。

路線図のところを拡大すると

この時は上田駅を中心に丸子線、別所線、真田・傍陽(そえひと読む。これは難読だ。)線があり、丸子線は上田駅でなく、上田東駅から丸子町へ伸びていたことがわかります。問題のお堀にあった駅は路線図には載っていません。そして真田・傍陽線の電車の時刻表をみると

上田から傍陽へ直通運転している電車があります。この電車は真田へも運転してます。分割併結している電車があったことがわかりました。

古い時刻表ですが、よく見ると興味がつきないものです。さて、真田・傍陽線で分割併合していたのは、どのような電車だったのでしょうか。

こんなん、出てきました。昭和43年の上田丸子電鉄時刻表」への4件のフィードバック

  1. どですかでん殿
    高校時代に上田へ行っておられましたか。今どきの高校生には地理・歴史好きの子はいないのでしょうか?クラブ活動の良いところは、高校生がなかなかひとりでは旅できない所へ、先生と一緒に旅をして現地で説明を聞けるというのが、今になって贅沢な旅だったとなつかしんでいます。また良き顧問の先生に恵まれたとも感謝しています。ましてや当時は地方私鉄もまだまだ元気で、しっかり鉄道をも楽しめたものです。貴重な資料のご披露ありがとうございました。上田丸子社長もさぞや喜んでおられることと思います。

    • コメントありがとうございます。この時は安中から横川の関所跡と軽井沢から中山道を歩いて岩村田まで行きました。安中は顧問の先生が新島研究をされていたので行ったのです。上田の前に小諸から布引観音に行ったのですが、布引観音の参道入口にホーム跡らしきものがあったのを覚えています。また、バスの窓から千曲川の中に橋脚らしきものがあったのも覚えています。あとでこれが布引電気鉄道の廃線跡と知りました。観音さんへは険しい山道を登って行くのですが、そこの観音堂は断崖に建てられたお堂です。なかなかの絶景です。お寺から下ってきてから茶店でジュースなど飲んでいると、トマトが穫れすぎて困っているので食べてくれないかということで、大勢で食べたので全部なくなり店の人は喜んでいました。真っ赤なトマトでそれは美味しいものでした。夏の暑さもそう感じたかもしれません。私の旅行での3大美味は佐渡で泊まったお寺で夕食にでたイカの刺身、五能線の車内でいただいたリンゴ、そしてこのトマトです。そして信州合宿の翌年は八重さんの生まれ故郷である会津でした。猪苗代湖をバスで1周したのが印象的でした。

      • どですかでん様
        いい旅をなさっていますね。私も高崎時代に布引観音の下までは行ったことがありますが、三朝の投入れ堂のような断崖にある観音堂まで登る気力がなく、引き返しました。ストリートビューで見ると橋脚もホーム跡もまだ残っているようですね。大正15年に開業し、昭和9年には廃止された短命の田舎電車ですから、歴史あるクローバー会とは言え、さすがに現認者はおられないでしょう。自分の旅の思い出の3大美味は何だろうとかと考え中です。

  2. 西村さん、最初のコメントで今どきの高校生は地理、歴史好きの子はいないのでしょうかと嘆いておられましたが、本屋で「RMモデルズ」という雑誌を立ち読みしていると地理・歴史部がNゲージのジオラマを作って賞をもらったことが書かれていました。ネットで検索してみると共立女子中学高等学校の地理歴史部が調べた地域を1/150の模型にしているそうです。そうです、Nゲージのジオラマです。鉄道がないところは鉄道があったとして想像してつくるそうです。なかなか、最近の女子は頼もしいではないですか。

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