【96984】薩摩を旅して(前編)

NHKの「西郷どん」とは関係なく、薩摩半島の旅を楽しんできました。錦江湾に面した指宿など半島東側は以前訪ねたことがあったのですが、鹿児島交通(南薩鉄道)が走っていた半島西側に行く機会がありませんでした。鹿児島交通南薩線(伊集院・枕崎間)49.6Kmは昭和59年(1984年)3月に廃止されています。南薩線以外に知覧線、万世線もありましたので、今回はできるだけ多くの遺構を訪ねることにしました。鹿児島でレンタカーを借りて、まず知覧に向かいました。知覧は薩摩藩の城下町であるとともに、終戦直前に各地から集められた多くの学徒・少年飛行兵が数ヶ月という短期間に続々と特攻機で飛び立った地として有名で 見どころの多い町です。まず知覧駅跡を訪ねました。知覧線は昭和40年7月の水害で不通となり、同年11月に廃止され、廃止後52年を経過しています。駅跡は鹿児島交通のバス車庫やドラッグストアとなっていて、広い構内だったことがわかりました。

平成30年5月9日 知覧駅跡

ところどころに古い枕木や、鹿児島交通と彫られた境界標が残っていました。知覧の町に入る手前の麓川には石積みの橋台が草木に覆われて現存していました。

平成30年5月10日 麓川橋台跡

知覧から南下して枕崎方面に向かいました。JR指宿枕崎線は鹿児島中央から指宿・山川までは特急列車も含んで列車本数が多いのですが、その先、特に西頴娃・枕崎間は日に6往復と三江線並みで、走行写真を撮りづらく、枕崎駅での駅撮りでお茶を濁しました。

枕崎駅に停車中のキハ479077

かつての枕崎駅は鹿児島交通との接続駅でそれなりの駅だったのですが、現在は移転して 1本突っ込みの無人駅です。沖縄モノレールができるまでは、日本最南端駅は「西大山」駅でしたが、枕崎は「本土最南端 始発・終着駅」と言うそうです。今では最南端の枕崎から最北端の稚内までレールはつながっているのですが、南端も北端も1本突っ込みの駅というのは寂しい限りです。実は枕崎駅には思い出があります。中学生のときに初めて買ってもらった朝日新聞社刊「世界の鉄道1963年」を飽かず眺めては、最高地点が小海線野辺山駅とか最低地点が弥冨駅などと全国の「国鉄ベスト〇〇」が紹介されているのを見ては、どんなところだろうと夢をふくらませていたものでした。入場券を集め始めていたこともあったので、大胆にも枕崎駅に「入場券を送ってください」と手紙を出したのです。すると南薩鉄道の封筒で使用済みの枕崎駅入場券などが送られてきたのです。

南薩鉄道の封筒

宛先は当時当時住んでいた五条坂で、高橋写真店の斜め向かいあたりでした。高橋弘氏から誘われて鉄道友の会にも入っていました。送られてきたのは入場券だけでなく南薩鉄道の乗車券も3枚ありました。今となってはこちらの方が貴重かもしれません。

枕崎から届いた切符

これら4枚の切符はすべて日付けが39-5-29となっていて、封筒に書かれた日付も同じ昭和39年5月29日です。多分切符だけが送られてきたのではなく、何か簡単な手紙でも同封されていたのでしょうが、手紙は残っていません。54年前の5月29日に枕崎駅の出札係の駅員さんが たまたまその日に集札した切符の中から4枚を選び、「無効」印を押して京都の中学生に送ってくれたのでしょう。そんな思い出のある枕崎に 半世紀を経て初めて訪れたわけです。

枕崎から北上すると加世田ですが、加世田の西側に 知覧と同様に戦争末期に砂丘上に急ごしらえの滑走路の万世飛行場が作られ、特攻機が砂塵を巻き上げて飛び立ったそうです。その跡地には記念館もあり 知覧と同様慰霊の町になっています。加世田から分岐していた万世線の薩摩万世駅跡にも行ってみました。

平成30年5月10日 旧薩摩万世駅跡

万世線は加世田から分岐してひと駅の短い支線でした。軍の施設との関係もあってか貨物扱いもありました。南薩線より3年早い昭和37年に廃止されています。駅跡周辺には料理旅館が2軒あり、現在も盛業中です。

薩摩万世駅跡の説明看板

裏側

万世駅跡から加世田に向かいました。かつて機関庫もあって賑わった加世田駅跡は鹿児島交通のバスターミナルになっています。

加世田駅跡の説明板

広い構内のまんなかに4号機とDD1201が保存されています。

平成30年5月11日 加世田駅跡の4号機

4号機は昭和元年 日本車両製で昭和38年に廃車されています。雨ざらしとは言え傷みは少なく、良い状態です。知覧や万世飛行場があったため空襲にさらされ、4号機の屋根にはグラマンの機銃掃射の跡(穴)が残っています。

DD1201

DD1201は昭和36年 三菱三原製(製番1131)で、この機関車に会うのも今回の旅の目的のひとつでした。4枚あったナンバープレートは1枚を残して外されており、社紋やメーカーズプレートもないのが残念ですが、4号機と同様、良好な状態なのはうれしい限りです。竣工当時の写真を添付します。

竣工当時のDD1201

現在は朱色に塗られていますが、竣工時はもっと薄い色だったように見えます。

DD1201

薩摩半島の西側 吹上浜に沿って走る南薩鉄道には平坦地が多いのだろうという思い込みがあったのですが、沿線を車で走ってみると随分起伏のある路線であることが判りました。このDD1201はDMH17エンジン2基、250PS×2なのですが、勾配区間が多く貨物量もあって非力なため よくオーバーヒートしたようです。そこで自社で補助ラジエターを増設するとともに、ラジエターに冷却水を垂らすことで冷却効果を挙げたそうです。そのための水タンクが運転室前の円筒状のタンクです。

さて加世田構内には他にも1号機、2号機、DD1202、キハ103が保存されているのですが非公開の倉庫内であり、残念ながら見ることはできませんでした。車両とともに自社工場内にあったプレーナー、シェーパー、フライス盤などとともに車輪旋盤が屋外展示されています。とりわけイギリス マンチェスター クレイブン・ブラザーズ社製の車輪旋盤は1907年(明治40年)製で日本機械学会の記念物に指定されており、貴重な産業遺産です。

貴重な大型車輪旋盤

このほかにも石造りの倉庫が鉄道記念館となっているのですが、開館時間の関係でパスしました。加世田をあとにして、北上を続けました。

北多夫施駅跡の説明看板

上記の切符の中に「南多夫施駅」発行のものがありましたが、この駅の隣駅です。このように廃線跡の各駅には丁寧な解説板があり、いずれもきれいな状態であるのには感心しました。

永吉川に残る橋台

石積みの橋台の断面は上流側に向かった舟形です。廃線時に後日の水害を想定して橋桁は撤去されたようです。

更に北上すると伊集院に着く手前で山地を越えます。ここに上日置駅があり、駅跡が残っています。

上日置駅跡

ここには石積みの給水塔跡が残っています。この駅は交換可能駅でしたが、待避線は行き止まりとなっていて、スイッチバック式でした。写真の右手にあるホーム跡が待避線で、現在は草むらと化していて右手奥にカーブして行き止まりです。

上日置駅跡の説明看板

廃止されてから34年を経過している南薩線ですが、以上のように多くの施設が丁寧に保存、管理されていたのは全く驚きでした。

旅の後半は稿を改めてご紹介します。

薩摩を旅して(前編)” への4件のコメント

  1. 西村様、
    お疲れ様です。
    数年前になりますが、BS-3の火野正平“こころ旅”でこの線路跡を走っていました。永吉川橋梁跡でカワセミが止まっていたのを見事に撮影していました。
    続きを楽しみにしています。

    • 米手作市様
      早速のコメントありがとうございます。「こころ旅」は極力見ているつもりですが、永吉川のシーンは見落としたようです。あの番組ではよく廃線跡が出てくるので、それも魅力のひとつです。

  2. 西村様
    詳細なレポート、ありがとうございます。南薩線跡が、こんなに大事に保存されているのですね。私は一度、現役時代に加世田へ行ったことがあります。とにかく車両がボロボロで、周りの施設も廃屋のような荒れようでした。あまりにも荒涼とした風景がトラウマとなって、もう行くことがありませんでした。その変貌ぶりに驚きました。
    送ってもらった切符の思い出も懐かしく拝見しました。私も、中学・高校時代、直接、鉄道会社に郵便で問い合わせしたりしました。どこも、ちゃんと回答してくれて、一人前の大人扱いをしてもらったことが嬉しかったです。
    タカハシ写真店さんも、先ごろ解体されました。私もよく店へ行って、大先達と一時間も二時間も話し込んだことを思い出します。

    • 特派員様
      現役時代に加世田に行かれていたのですね。私は湯口氏の写真集で木造客車や蒸機の時代を見てイメージをふくらませて現地へ行ってきました。郵便問い合わせはおっしゃる通りです。宛先などどのように調べて送ったのだろうと、自分でも不思議です。タカハシ写真館が解体されたのは知りませんでした。もっとも私が暮らしていた場所にも大きなビルが建っていますから、昭和は遠くなりにけりです。

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