投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
私の好きな電気機関車たち ⑪
ED電機への憧れ① 阪和線のED60
電気機関車シリーズに戻ります。これまではEF級の電機の思い出でしたが、私はED級の電機にも憧れがありました。思い返すと、小・中学校に頃の鉄道模型に行き着きます。当時、模型化されていた電機は、EF級もありましたが、高価なうえに脱線しやすい欠点もありました。小遣いの範囲で買えるのは小型、と言ってもEB58では、それこそ子供だましで、やはりED級の電機に行き着きます。当時の売れ筋は、ED14、ED16、ED17あたりで、少し経つとED11あたりの少数機も出て来ます。牽くのはやはり客車が相応しく、マツモト模型のオハ31系数両を牽くのが適任でしょうが、結局、私はED14+オハ31だけの編成で終わってしまいました。後年、鉄道写真を撮るようになると、大型のEF級電機が長編成を牽く姿にも惹かれますが、心の中では、客車数両を牽く、ED級の電機を撮ってみたいと言う気持ちがありました。▲たとえば仙山線でED14、ED17が客車を牽くシーンを思い浮かべるものの、結局は間に合わず、その後の新型、ED60でやっと実現した。場所は阪和線、その頃、定期の客車列車はなかったものの、紀勢本線沿いの海水浴場へ向かう臨時急行「きのくに」が夏休みに多く運転されていた。牽引はEF52が多かったが、ED60が牽く列車もあった。客車は冷房付きの12系になっていて、思い描いたシーンでは無いものの、初めてのEDが牽く客車列車となった。「きのくに53号」 山中渓~紀伊 (昭和47年8月)
保護中: 写真展「鉄輪の響き」に行って来ました
今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ③ 》
下ノ森の“お別れの会”
紫の1863さん、お待たせしました。下ノ森に特化した写真を、前回のHさんがしっかり記録されていました。この騒ぎ、7月30日に、北野天満宮の特設テント広場で、京都市主催の“お別れ式”が行われた時のもの、当時の高山義三京都市長ほか500人が参加して行われ、表彰式などのあと参会者が7両のN電に分譲して、京都駅前までパレードした時のもの、Hさんは、見事なアングルで、市民の表情や服装まで活写されていました。
▲下ノ森にズラリと並んだパレードのN電、取り巻く市民、窓に号車札を付けたN電7両が、“お別れ式”の参会者の乗車を待っているところ。一般の乗車は?と思うが、この時間帯は、北野~下ノ森を営業休止して、パレード用車両を留置し、北野車庫前から特発したのだろう。
今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ② 》
保護中: 須田寬さんら 京都市電シンポ まもなく受付開始
今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ① 》
N電を見送る
最近の京都市電に対する、展示、出版には目を見張るものがあります。京都市交通局の市電関係の簿冊が京都市有形登録文化財に指定されたこと、そして、今年がN電こと北野線が廃止されてから60周年と言うことも関係しているのでしょう。先ほど何気に考えたら、今日7月31日は、まさに京都市電北野線の最終日に当たり、あわてて投稿を立ち上げました。直前のデジ青欄でも、米手さんが撮られた、千中交差点の素晴らしい夜景が披露され、思わず、私もナマ写真を見せていただくよう、おねだりしたところです。
60年前と言うことは、N電廃止をしっかり体験しているのは、70歳台以上の世代でしょう。かく言う私も、辛うじて、自分の手で撮影ができた世代です。たった数枚ですが、いまも鉄道アルバムの最初のページにしっかり貼って、記憶に留めています。最終日の7月31日は、前にも書きましたが、小学校6年の臨海学校で若狭へ行っていて、最終日に立ち会えなかったのは、いまとなっても残念な思いに駆られています。ただ私は、先輩の皆さんから、N電関係の写真、ネガを譲り受けて保管しています。お蔭で、「レイル」のN電特集号でも、先般の関テレの報道番組でも、依頼があれば、写真を提供することができました。理解ある先輩に恵まれたと思いますし、これを大切に引き継いで、機会を見ては発表・発信していくのが、私の使命だと思っています。最近も、別の方から写真、ネガを貸していただきました。そこで、7月31日に当たり、まだ発表できていない写真の一部をご紹介します。最後の一週間、装飾を施した普段とは違う最終らしい写真で構成しました。▲中立売橋を渡る。最終日の一週間前から、ほとんどのN電がモールで飾られて、側面には廃止告知の横幕が掲げられた。中立売橋はいろいろな角度で撮られ、著名な方の名作も生まれている。この写真で興味深いのは、見物人のほとんどがカメラで写していること、カメラ・スマホ全盛の現在でも、あり得ないようなシーンだ。この時代になると、35ミリカメラが普及していることが分かるが、N電のすぐ右で、二眼レフを覗いている少年がいる。ちょうど私と同じ世代に見える。どこの家でも、使っていないオヤジの二眼レフが転がっていたものだ。少年も、この特別の日に、オヤジから使い方を聞いて、写しに来たのだろう(以下、神戸市Nさん撮影、昭和36年7月)。 続きを読む
街並みとともに ~京都のバス~ 〈13〉
受験生輸送を 同志社に見る
京都市バスならではの車窓風景や系統、街並みなどを紹介してきました。ここらでひと区切りと参ります。これから紹介する大学入試の際の受験生輸送も、ほかの都市ではなかなか見られない、ある時期、一年に数日間見られた、特色のある光景だと思います。普段の通学輸送も大切なことですが、受験の場合は、寄り道することなく、まっすぐ帰宅しますから、試験終了直後の集中ぶりは、たいへんなものになります。お膝元の同志社大学での光景を見てみます。
われわれの時代には、市電烏丸線がその輸送を担っていました。烏丸線が昭和49年に廃止され、その代替輸送は市バスへになります。昭和56年に地下鉄烏丸線が完成すると、当然地下鉄に移りますから、市バスの受験生輸送は7年間だけ見られた輸送形態でした。▲受験生が今出川キャンパスから続々と吐き出される。終了時刻に合わせて、市バスは烏丸通を南下して、西門前付近に集まって来る。試験を終えた受験生を満載して、四条烏丸、京都駅方面へと向かって行く。市電は廃止、地下鉄は未開業、市バスしか移送手段のない時代に見られた、京都の冬の風物詩だった。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈12〉
京都駅前、烏丸通で市バス全盛時代を見る
性懲りもなく、京都市バスの思い出を綴っていますが、ふと、市バスの全盛時代って、いつ頃だろうかと急に思いつき、交通局の資料を調べてみました。最近の市バス1日当たりの乗客数は、ここ数年、32~36万人で推移しています。内外の観光客でバスが異常に混んで、オーバーツーリズムが社会問題化していた時代、大型キャリーケースの持ち込み料金を徴収するべきとか、バスを市民用と観光客用を分けるべきとか、真剣に論議されました。みんながみんな、500円の1日乗車券を握りしめて、押し合いへし合いして乗り込んだ、わずか3年ほど前が、今となっては懐かしい気分です。その頃ですら乗客数は36万人程度、いまは、多少持ち直しているとは言え、24万人程度でしょうか。
市バスが最大を輸送したのは、最近ではなく、40年前の昭和55年度になります。1日当たり乗客数が59.8万人、最近の2倍以上を運んでいたのです。市電が昭和53年に全廃され、地下鉄烏丸線はまだ工事中、公共交通は市バスしかない時代でした。当時の1日走行距離11万4千km(現8万5千km)、車両数1061両(現822両)といずれも、昭和の時代が勝っていました。今回は、こんな市バス全盛時代を見ていきます。
▲朝、午前8時台の京都駅前、烏丸通を続々南下して来たバスが右折レーンを独占して信号待ち、黄信号で一斉に右折して行くのは壮観だった。地下鉄烏丸線の開業前で、市電が無くなったあとは、京都市の公共交通は市バスしかなかった(昭和56年、以下同じ)。
保護中: 8/1 “暑気払い”します!
街並みとともに ~京都のバス~ 〈11〉
四条烏丸にあったバスセンター
四条室町の南東角、四条烏丸西行バス停の前は、いまでは京都経済センターという新しいビルが建っています。昭和の時代には、おもに地元室町の繊維振興のための事務所などが入居していた京都産業会館があり、一階には「四条烏丸バスセンター」バス停があって、ここを起終点として、おもに多区間を走る市バスが発着していました。地下道からも直結して、3面の乗り場がありましたが、いつ行っても、閑散としていて、末期には照明もほとんどなく、およそ“バスセンター”のイメージとは無縁の陰気な雰囲気が漂っていました。結局、バス停としての「四条烏丸バスセンター」は平成元年に廃止され、発着は、四条通の「四条烏丸」に移され、操車場としての機能は残ったものの、これも建物の老朽化により取り壊されて、今の新しい建物には、その面影もありません。
▲京都産業会館一階の「四条烏丸バスセンター」から発車する23号系統の沓掛行き、多区間ワンマンカー、沓掛とは京都に似つかわしくないバス停名だが、昭和58年に廃止され、のちに「桂坂口」として復活した(昭和56年5月、以下同じ)。
保護中: 「大津電車」のこと載っています。
保護中: 近江鉄道に乗って 古民家カフェギャラリーへ
保護中: まだ 市電 いました。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈10〉
バスが集中した三条京阪前
私が市バスに興味を持ち始めたのは小学校高学年でした。銀行(三菱銀行だったと思う)のオマケとして、小型判の市電・市バスの系統図がありました。一系統ずつカラー印刷されていて、その径路をたどって行くのが楽しみでした。その図で、異様なまでに、バス径路が集中しているところがありました。それが「三条京阪前」でした。地図では、私の住んでいた丸太町通付近まで、三条京阪付近のラインが膨らんで来る始末でした。
これほど左様に、当時の三条京阪前にはバスが集中していて、当時は、市電は京都駅前、市バスは三条京阪前が、発着場のトップでした。三条京阪は、京阪線、京津線の結節点であり、繁華街にも近く、バスの発着場としては、好適地であることは言うまでもありませんが、市電の補完として空白地域へバス径路が伸びて、とくに市電の敷設が遅れた京都北部、東部に拡充されていった経緯や、バスが操車できる広大な土地が他に無かったことも挙げられると思います。
以下の撮影時期は、京阪は三条まで地下線の工事が本格化、出町柳までの鴨東線の工事も着手され、京津線は地上線の時代で、バスにとってはいちばん賑やかな時代でした。
▲三条大橋を続々と渡って、三条京阪前を目指す。交通結節点として三条京阪の地位がウンと低下してしまった現在では、こんなラッシュ風景は見られない。橋の上までの不法駐輪も今となっては懐かしい(昭和55、56年)。
23日(金) カンテレ「報道ランナー」にチラリと出ます
「チラリと出ます」と言っても、何も私が出る訳ではありませんょ。関西限定ですが、関西テレビ8チャンネルの夕方の番組に「報道ランナー」があります(月~金、16:45~19:00)。毎週金曜日のコーナーとして、【兵動大樹の今昔さんぽ】と言う、兵動大樹が昔の写真を手に、 関西の街の「今と昔」を比べながら散策するコーナーがあります。
明後23日(金)は「北野天満宮の鳥居」について放映があり、このなかで私の保管していた北野線の写真がネタとして登場するはずです。ネタ明かしは番組に譲りますが、写真には鳥居があるのに、現地に行ってみると鳥居がない‥‥、という展開になると思います。ほかにも伏見線の市電も登場があるかも知れません。このコーナーは、通常は18時20分過ぎから始まります。この日は、東国で、オリンピックの開会式とやらが行われるようですが、ホント関西は盛り下がる一方ですね。いっとき、60年前の写真で息抜きしてください。▲5月のコーナーでは、新幹線と群がる見学者を紹介していた。東海道新幹線が初めて新大阪まで試運転をした日、鴨川鉄橋東の本町陸橋付近で撮られたもの。私もこの試運転(上り)を京都駅近くの高倉陸橋で撮っただけに懐かしい思いだった。
保護中: 京都市電関係の講座 続々登場
保護中: こんな鉄道資料展 やってます 「城陽の鉄道物語」
街並みとともに ~京都のバス~ 〈9〉
こんな通りを走っていた(2) 本町通を走った16号系統
“こんな道を走っていた”市バス続けます。「16」のバスが昭和の時代には走っていました。よく知られているのは、「上賀茂神社前-稲荷・藤ノ森神社」の方向幕の時代です。京都の市街地を北から南まで縦断し、とてつも長い距離を走っていた系統でした。しかも狭隘区間があって、遅くまで中扉のみのツーマン車で残り、車掌を乗せて繁華街の四条通を行く姿は、市民からも怪訝な顔で見られていたものでした。▲正月の祇園石段下、右折する16号系統の稲荷・藤ノ森神社行き、ほとんどがワンマン化されていた時代、初詣客のなかへ、いきなり現れた古いツーマン車。16号系統は、上賀茂神社前から、千本通、四条通、東山通を通り、稲荷・藤ノ森神社方面に向かって行った。昭和45年8月に一部径路を46号系統と統合し、終端部の藤ノ森付近がさらに複雑な径路になった。師団街道を南下して、聖母女学院、京都教育大学の東側を半周して、藤ノ森神社前へ出て、帰りは本町通を北上して行き、ちょうど「8」の字に一方循環していった(昭和49年1月)。