こんな時期ですが、また写真展 やってます。

9月に入っても周囲の状況は厳しいまま、活動も制限されて、無為に毎日が過ぎて行きます。老い先短い、やり直しのきかない高齢者にとっても辛い毎日です。こんななかでも、自分の“足跡”をしっかり残していくべきと感じるようになりました。

そんな思いを持って、また性懲りもなく写真展を行っています。「伝言板」では一端を伝えしましたが、「掲示板」読者の皆さまにも改めてお伝えする次第です。今までの写真展の経緯をご存じの方にとっては、“またかいな”と思われるテーマ・会場だと重々承知しています。

そこで、今回は、少しやり方を変えました。今までは自分の写真を中心に構成していましたが、クローバー会の先輩や、お知り合いから貴重な写真を使わせもらいました。写真の幅、とくに年代の幅が広がりました。写真を補足するキャプションは詳しく、またコラム記事も作成してトリビアな話を纏めるなど、文字情報にも配慮しました。そしてニューフェイスにも加わってもらいました。私もぞっこん惚れ込んだイラストレーター8590(ヤゴクレ)さんに「七条大橋」テーマで新作を描いてもらい、ほかの作品も展示、一段と華やかに賑やかな展示になったと思っています。

また実施に当たっては、私なりの“エコ”を実践したつもりです。写真については、新プリントを原則にしながらも、使えるものは再利用を心掛けました。額などの部材は、高価で重い金属・ガラスは一切使わず、リサイクルできる紙と木だけにして、持ち運びの軽量化も考えました。企画や前作業は、全くの一人で、老人にはハードな作業でしたが、その分、自分だけのカラーが出せたと思います。あえて統一感をなくし、ギッシリ感、ボリューム感を出しました。何とか乗り越えて、体力・気力がまだ残っていたことは高齢者にとっては収穫でした。

なお、このような時期のため、開場しているのは、週のうち(木)~(日)の4日のみで、(月)~(水)は休んでいます。ご注意ください。

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖

旭川区 C55  ①

やっと最終テーマの旭川区のC55に着きました。わらくろ屋さんから、“ぜひやってくれ”とリクエストがあってから数ヵ月が経ちました。やはり、C55そのものの魅力、走っている宗谷本線の魅力も加わって、私も渡道のたびに行きました。なかでも、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバー約10人で南稚内~抜海の中間地点まで行き、「利尻富士」の標柱の立つ海沿いの絶景地でバンザイ三唱したのは、DRFC時代の最大の思い出となりました。計4回の渡道で旭川区C55を撮っていますのでソコソコの点数があり、機号別に紹介します。

宗谷本線のC55と言えば、真っ先に浮かぶのが夜行急行「利尻」の牽引だ。下り稚内行きで迎える朝の車窓も格別だが、上り札幌行きが漆黒の宗谷本線を走り続けるのも、蒸機の良さをしみじみ感じさせてくれる。停車駅では、ほとんど列車交換があるため、たっぷり停車時間があって、夜間撮影にぴったりだ。眠い眼をこすりながら、三脚を抱えて夜のホームを右往左往したものだ。幌延 C55 43(昭和44年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉕

C58④ まとめ

今まで紹介できなかったC58をランダムに紹介していきます。準特急さんが記しておられるように、C57なら番号ごとのスタイルが気になるのに、C58に至っては、十把一絡げで、番号を意識することはありませんでした。北海道のC58をまとめていても、たしかに一両ずつの個体差を意識することは少ないものの、それだけ、中庸で、穏やかで、いかにも日本の風土に溶け込んだ蒸機だと改めて感じました。温暖で純日本的な風景の方が似合うかも知れませんが、北海道の厳しい自然のなかで、逞しく生き抜いたC58に、また新たな魅力を感じたものです。

昭和44年8月、青函連絡船で早朝の函館に着いて、カーブしたホームで最初に写したのが、函館発上磯行き751レを牽くC58 213〔五〕だった。上磯まではわずか27分で、わざわざ客車列車を仕立てるのは、折返しの函館行きが通勤時間帯に当たるため。江差・松前線の旅客はほぼDC化されていて、C58が牽く客車列車は2往復のみで、貨物も牽いていた。五稜郭区には、8両のC58が配置されていた(昭和44年8月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉔

C58③ 最果ての根室本線を行く

釧路区C58のもうひとつの舞台が、根室本線釧路~根室の客貨列車の牽引でした。釧網本線の車窓と似た風景ですが、海岸線を走る区間があるのが特徴です。人口はさらに希薄で、駅周辺だけにわずかな生活があって、ほかは全くの原野・湿原が広がり、さらに最果て感が増してきます。さらに、釧路~根室には、通しの普通列車6本のうち1本だけがC58の牽く客貨混合列車で、あとはDC列車でした。貨物列車も走っているとは言え、駅間距離は10キロ前後のところが多く、釧網本線に比べると、アプローチの難度は高いと言えるでしょう。

太平洋に切り立った海岸段丘のうえを行く釧路発根室行き447レ、釧路~根室で唯一の客貨列車だった。吹き下ろす風が強く、黒煙が編成を隠してしまった。いまや水平線まで望めるとして著名な撮影地となったが、懇切丁寧なガイドもない時代、車窓からの印象だけ頼りに、駅を降りて闇雲に雪原を歩いて到着した。別当賀~落石 (昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉓

C58② 原生花園の夏と冬

釧網本線へは、昭和43年に訪れてから、その後も何回か訪れて走行中を撮影しています。釧網本線の撮影地と言えば、やはり原生花園の付近でしょう。夏は花、冬は流氷がアクセントになります。今でこそ原生花園の駅がありますが、当時は乗降場扱いで、ごく短期間の停車でした。そのため北浜、または浜小清水から歩くことになりますが、その釧網本線で客貨を牽いていたのが、北見区とともに、釧路区のC58でした。前記のとおり、釧路にC58は28両もいて、日本一のC58配置区で、釧網本線。根室本線で客貨混合列車を牽いて、活躍していました。

夏の原生花園、と言っても、訪れたのが8月の終わりから9月上旬で、花の季節は過ぎていて、ほぼ草原が広がるだけだった。北浜、浜小清水からいずれも歩いて行けるが、とにかく、どこまで行っても同じ風景が続いているだけで、いくら本数が多くても、ワンパターンの写真で終わってしまう。貨物692レを牽くC58 408〔釧〕 客車(混合)列車だけでなく、このように純粋の貨物列車も少数ながら走っていた。北浜~浜小清水(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉒

C58① 釧網本線の旅

また北海道に戻って、《区名板》を続けます。C58は、D51、9600と並んで北海道には多くいた蒸機で、昭和40年代前半には、五稜郭、苗穂、鷲別、北見、釧路区に配置されていました。その本場は道東地方で、石北本線、釧網本線、根室本線では多くの客貨を牽いていました。石北本線・釧網本線の北見~網走~釧路は、両端にある釧路、北見区のC58が一体で運用されていて、釧路区は28両配置で、日本一のC58配置区であり、北見区も10両配置でした。まずは、石北本線、釧網本線のC58の活躍を見ていただきます。

初めて北海道を訪れた昭和43年、釧網本線のC58の牽く混合列車に乗って、ゆっくり車窓の旅を楽しんだ。当時は、列車本数も多く、ほとんどの駅では、列車交換があって、例によって“窓から写した”だけの撮影を続け、初秋の一日、たっぷり北海道の良さを感じたものだ。釧路原野のなかにある細岡で交換する、C58 127〔釧〕の牽く混合628レ (昭和43年9月、以下同じ) 続きを読む

 中止続々 でもコレだけはやります!

コロナの感染状況も、ほんと深刻な状態になりました。それに、この長雨、心が沈みそうになりますね。当地にも緊急時代宣言が発出されて、とくに官公庁からみの催事は中止・延期になっています。私も伏見区役所から依頼を受けて、龍谷大学で予定していたワークショップ「市電と深草の暮らし」も中止になりました。地元の小中学生からも参加希望をもらい、私も準備を進めていて、現地で今昔対比しようと思っていた矢先のことでした。残念ですが、仕方ありません。あと、京都市電関係の展示・講演が多く予定されていますが、これらも中止・延期の可能性もありますので、また本欄でお伝えしていきます。

さて、もうひとつ、私のほうで予定しています、写真展「思い出の七条大橋」は、誰の助けもなく、一人で勝手に行なうものですので、コレは、やります。ただし準備・実施は細心の注意を払ったうえで、日数を限定して行います。新しいポスターも作りました。写真だけでなく、新進のイラストレーターが描いた七条大橋も展示します。七条大橋に関係する市電・京阪の写真をお持ちでしたら、ぜひ提供してください。今からでも間に合います。

 私の好きな電気機関車たち   ⑰(終)

電機の似合う駅

電機シリーズもこれで最終とします。“電機のいちばん似合う駅は?”と考えることがあります。私個人としては、京都駅1番ホーム(現・0番)の西端から見る、上り列車の入線シーンも大好きです。当時、二本あった中線を“ダダッダー”と交差音を残して、外へ編成を振りながら、1番ホームで待つ乗客の前に進んで行きます。その先頭に立つ電機の迫力に惚れ惚れしました。

しかし全国的に見れば、やはり上野駅にとどめを刺すのではないでしょうか。東北地方への出発駅として電機の発着で賑わい、独特の終端駅の雰囲気を持ち、推進運転の入線・回送シーンも見られました。でも列車写真、編成写真として見れば、これほど写しにくい駅もありません。ここは、やはり人も絡めた終着駅としての雰囲気写真になるのでしょう。私も昭和の時代、上野駅は利用した口ですが、撮影はほとんどしていません。上野から出発する時は、座席のことが心配で、落ち着いて写すどころではなく、逆に戻って来た時は、ほとんどが夜行で疲労困憊の体で降りて、撮影意欲など湧くはずもなく、そそくさと去っていきました。

上野駅に似合う電機は、やはりEF57だろう。青森行き「津軽2号」を牽くEF57 5、8月も下旬になると、さすがに盆の頃の混雑はないが、出世列車として名高い「津軽」はよく混む。上野では、前へ行くほど空いているから、とにかく自由席車の一番前の車両に乗車、首尾良く右側窓寄りの席をゲット、編成調べをしてから、やっと落ち着いて牽引のEF575を観察できた。22時22分、“ピーィ”という甲高いホイッスルを残して上野を発車。1両目だから貫通扉の向こうにEF57のデッキがユラユラしているのが見える。気分は、もう東北・北海道だった(昭和46年8月)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑯

幻のEB10

当時愛読していた「機関車ガイドブツク」などを見ると、電機の項で最初に出てくるのがEB10でした。国鉄の制式電機では唯一のEB電機、しかも買収電機ではなく、蓄電池機関車AB10を電機に改造した純粋の国鉄機で、端部はRが付いた、好ましいスタイルの凸電です。最初に憧れたのは、やはり模型の時代でした。ED電機に熱を上げていた中学生時代、天賞堂から発売されたのが、EB10でした。    愛読していた「鉄道ピクトリアル」にもEB10発売の広告が。

「ディテール豊かなプラスティック車体に、ダイカスト製の丈夫な台車」と説明され、いかにも天賞堂らしく、ほかのED電機の仕上りとは一線を画しています。ただ、値段が完成品1990円(東京売価)で、EBのくせに、ほかのED電機より500円以上高くて、中学生にとっては高嶺の花となりました。

DRFCに入るようになって、せめて写真だけでも撮りたい思いが募り、昭和46年2月、東京は王子駅に降り立ちました。当時の数少ない情報では、わずか2両のEB10は田端機関区所属であるものの、普段は、王子から出ている日産化学などがある須賀貨物線で動いていること、本には、その当時には珍しく運用表まで載っていて、王子で待ち構えれば、間違いなくEB10が撮れると、期待感いっぱいの下車でした。鉄道雑誌の記事を手書きでノートに筆写して勇躍、東京へ向かった。

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 懲りずに またやります② 「思い出の七条大橋」

はい、「懲りずにやります」シリーズ、続きます。馴染みのギャラリー店主から、“空いてるさかい、なんかやってんか”と頼まれ、また写真展やります。この尻の軽さ、とりわけ高齢者にとっては大事なことだと痛切に感じます。店主は、近くに架かっている七条大橋の清掃・保守に尽力されていて、そのお蔭もあって、七条大橋は、国の登録有形文化財に指定されました。その地道な努力に応えるためにも、写真で応援しようとなりました。七条大橋で交差していた、市電、京阪の写真を、クローバー会の先輩や、お知り合いから集めました。“私が趣味活動を続けられたのも、皆さんのお蔭です”を示す意味もあります。今回は、写真だけでなく、新進気鋭の若手CGも展示(予定)、ただ古くさいだけの写真から、一歩抜け出す新味も加えています。

また、在廊日などお知らせします。なかなか外出・交流が難しい状況ですが、会場でお会いできればと思います。

 私の好きな電気機関車たち   ⑮

懐かしの電蒸運転

この言葉もすっかり“死語”になった感があります。非電化区間の電化工事が進み、まもなく営業開始という頃、電機の試運転と乗務員訓練を兼ねて、電機+蒸機が牽引する列車がありました。電化に当たっては、“オイラン車”という建築限界・車両限界を測定する特別な列車もありましたが、電蒸運転は定期列車で行われていたことが特徴で、また蒸機は非常時の牽引用で、通常はブラ下がっていただけで、協調運転ではありませんでした。当時は、特別な関心もなく、来たら撮っていただけでしたが、いまとなっては、昭和の時代に限られた線区、限られた時期だけに見られた貴重な記録だと思っています。呉線小屋浦を行く電蒸運転、呉線は昭和45年10月に電化が完成、9月に最後のC59・C62の撮影に行くと、盛んに電蒸運転が行われていた。624レを牽くEF58 44+C62 17(昭和45年9月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑭

長岡、直江津、糸魚川で見た電機たち

何十年も昔の数時間、今から見れば一瞬の出来事ですが、妙に記憶に残っていることがあります。否、それは正確な表現ではなく、記憶は消え去っているのに、撮った写真が引き金になって記憶が蘇って来るのです。これも写真の持つチカラだと思います。そんな経験を電機でもしたことがあります。昭和47年2月、東北旅行の最終日、長岡、直江津、糸魚川と駅撮りしました。疲労蓄積と気力低下で、ほんの数枚撮っただけで、覚えも何もないのですが、改めて写真を並べて見ると、さまざまな電機に囲まれていた記憶が蘇ったような気になりました。撮影順に並べて、電機に限らず電車も見ていただきます。前日は米坂線で撮影し、坂町から満員の「鳥海3号」に立ち詰めで揺られて深夜の新津に到着、駅で寝て、翌朝、新津5:43発330レに乗って7:03に長岡に着いた。330レを牽いていたのはEF58 110〔岡〕、ヒサシ付き、スノウプロウ付きと関西では余り馴染みのないゴハチだった。左は上野行きの724Mで、クモニ83002+クモユ141-4+115系11連、当時は、長岡発の上越線経由の上野行き普通が3本あり、うち1本は夜行だった(昭和47年2月、以下同じ)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑬

ED電機の宝庫 中央東線②

では中央東線に沿って、飯田線との接続駅、辰野へ参ります。みどり湖経由の短絡線がまだ開通していなかった時代、辰野は中央東線のすべての列車が発着し、「アルプス」などの急行は全停車、一部の特急「あずさ」も停車するなど、賑わっていました。ただ、周辺は電化しているものの、構内の入換にはC12が煙を上げていました。接続する飯田線へも乗換客が多く、貨物も多く設定されていました。飯田線北部の貨物牽引を当時担当していたのが、伊那電鉄出自のED26と、国産電機で優美なスタイルのED19でした。

辰野の構内で発車を待つED26 11、ED26は、もと伊那電気鉄道のデキ20、昭和4年、輸入機のED11、ED14を模して、国産で造られた。国鉄に買収後に、ED33となり、そのあとED26(2代目)11、12となった。PS13がより無骨さを感じさせている。(昭和45年8月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑫

ED電機の宝庫 中央東線①

ED電機は両数も少なく、使用線区も限定的でしたが、こと中央東線の沿線に関しては縁が深いものがありました。もともと中央東線には、昭和6年に浅川(現・高尾)~甲府の電化完成によって電機運転を開始した長い歴史があります。東京寄りから挙げると、立川では、青梅線、五日市線、南武線のED16が発着し、八王子まで行くと、勾配区間で使われる甲府区のED61が見られました。足を伸ばして辰野まで行くと、そこはED電機の本場、飯田線の始発駅で、ED19、ED26の活躍が見られ、さらに中央東線の実質的な終点である松本まで行くと、大糸線のED21、ED60も見られました。2回に分けて、中央東線沿いのED電機を見ていきます。奥多摩から産出される石灰岩を、青梅線、南武線経由で浜川崎にあるセメント工場まで運ぶのが、立川機関区のED16のおもな仕事だった。5187レ ED16 17  軍畑付近(昭和53年8月)

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