なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈12〉

モノクロ版 昭和の南海駅 (1)岸里玉出

先日、行われたクローバー会のイベント、南海汐見橋線の乗り歩きは、コロナ禍後の久しぶりの会合となりました。汐見橋線には何度か行ったことがあるものの、乗るだけの“線”移動に留まっていましたが、今回は、勘秀峰さんの企画で、市営の渡船に乗ったり、ディープな商店街を歩いたりと、“面”のツアーとなり、見識をあらたにしました。終ってからの“餃子にビール”も、たまりませんでした。今回は、モノクロ版となり、看板に偽りありですが、50年前の付近を復習しました。

集合地は、南海の岸里玉出駅。勘秀峰さん作成のミニメモをもらい、概要の説明を受けます。皆さんからは、いろいろな疑問が飛び交います。「岸里玉出って、長い駅名やなぁ」「なんで地下通路がこんな長いねん」、果ては「駅前へタコ焼き買いに行ったけど、休んどったでぇ」とか、さまざまな言葉が飛び交いました。

昭和の時代の岸里玉出駅、当時の岸ノ里駅、難波方面から入線する本線の電車を見ている。勘秀峰さんのミニメモのように、南海本線は地上線、汐見橋線を含む高野線は高架線で、両者は、斜めに交差していてホームは別々にあった。ガードに書かれているように、当時は駅名に「ノ」が入っていた。市営地下鉄に「玉出」があり、その区別のため「ノ」入りとなったようだ(以下、昭和59年5月)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈11〉

最後の「びわこ」「びわこ」号こと京阪60型、天満橋~三条~浜大津という線路条件が全く異なる2線区の直通運転のため、数々の新機軸を盛り込んだ二車体連接車として、昭和9年にデビューした。われわれの世代、京津線での活躍は見ているが、私はほとんど記録がなく、旅客営業を止めたあと、末期によく運転されていた、趣味団体の貸切電車を写したに過ぎない。最後まで残った「びわこ」63号は、この年に廃車になった。御陵~京阪山科 昭和45年7月 

9月に行いました「思い出の七条大橋」写真展には、感染状況がきびしいなかにも係わらず、クローバー会はじめ、多くの皆さんにご来場いただき、対面で話ができることの楽しさを改めて感じました。今回の展示は、私の写真だけでなく、多くの先輩方の写真もお借りして、撮影年代の幅を広げるようにしましたが、なかでも皆さんが注目されたのは、京阪「びわこ」号が鴨川沿いを走るシーンではなかったかと思います。

 

ポールとパンタ、高低の側扉の両刀づかいを発揮したのが、浜大津発枚方公園行きの菊人形行きの臨時電車だった。運転されたのは季節限定のごく短い期間で、本線上の記録は極めて少ない。この写真は、須磨の人間国宝さんの撮影、会場には乙訓の国宝さんの写真も展示、クローバー会の先輩の貴重な記録に改めて思いを新たにした。

 

 

 

 

 

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈10〉

お召の機関士と“文通”

いまから53年前のちょうど今ごろ、昭和43年10月2日に越美北線にお召が走りました。福井国体の際に運転されたもので、DRFCメンバーとともに撮影に向かい、その様子については、“デジ青”にも記していますので省きますが、私はみんなと別れて、一人で越前花堂で下車しました。越前花堂~六条にある、北陸本線から離れて、左へカーブして山あいへ向かっていく区間へ向かいました。現地到着が13時ごろ、お召の通過まであと3時間近くあり、まだ撮影者も送迎の人たちも見当たらず、ゆっくり三脚を立てて、ひたすら待ちます。さっそく警察官が近寄って来て、持ち物検査、害のない人間と分かると、あとは、一緒にダベりながら過ごすと言う、のんびりした雰囲気でした。背後に踏切があって、徐々に近くの人たちが集まってきました。すると、そのなかから、一人のご婦人が近づいて来て声を掛けられます。お召列車の写真をあとで送ってもらえないかというご依頼。聞くと、ご主人のKさんは、お召牽引の次位機18651の機関士で、ぜひ主人の晴れ姿を記念に残したいと言うことです。たまたま、お召機関士の奥さんが近くおられたことの奇遇に驚き、快諾して、手帳に「足羽郡六条町‥‥」と住所を書いてもらいました。

秋晴れのもと目前を通過したのは88635+28651の牽く、越前大野発福井行きのお召列車、Kさんの乗っているのは次位の28651だった。

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 集まって 話したり 飲んだり いいですなぁ

やっと感染状況もピークアウトして、規制も解除されました。誰に遠慮することなく堂々と活動できます。ほんと嬉しいですね。昨日は、伝言板でもお伝えした、京都アスニーのシンポジウム「京都のまちと京都市電」に参加してきました。内容は、須田寬さんの記念講演、小野田滋さんの基調講演、次いでパメルディスカッションと、盛りだくさんの内容。会場では、無印不良品さん、ぶんしゅうさん、勘秀峰さんも、参加されて、ご挨拶することができました。またDRFCに3ヵ月だけ在籍したのち、いまも趣味界で大活躍の東京のSさんと偶然に再会、一瞬でしたが、ぶんしゅうさん、勘秀峰さんとも旧交を暖めることができました。

シンポは、京都市歴史資料館の「こんにちは京都市電」展の関連イベントとして開催されました。最初に登壇されたのが、ホームカミングデーで講演していただき、その後も写真展でお世話になっている須田寬さん、今回も須田トークが炸裂、京都市電全盛の基盤となった600形への“愛”にあふれた内容でした。最後は、狭い街路に路線を伸ばした京電にならって、現在の寺町通、木屋町通などに、自動車・自転車を締め出したLRTのトランジットモール化を提言、一時間近い講話を楽しみました。そのあとも、「ブラタモリ」出演の小野田滋さんや、私のお知り合いも列席されたパネルディスカッションがあって、久しぶりに開催の講演会は幕を閉じました。

須田さんの講演の様子。須田さんにはクローバー会の「会報」の寄稿もしていただいており、「出来上がりを楽しみにしています」と優しい声を掛けていただいた。

そのあとは、さっそく、同好の士とともに、“一献”、外で飲むビールはやっぱりいいですね。別に呑兵衛でもない私でも、そう感じるほど解放感に浸っていました。クローバー会でも、10月中旬以降、続々と行事を予定しています。もう“外出怖い”とは言わせません。ぜひ、積極的なご参加お待ちしています。

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉

キワ90の成れの果て

前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。

呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (29)

宗谷本線の貨物列車

もう終わったはずの“やっぱり”シリーズですが、あと一回だけ割り込みます。南稚内~抜海のカラー版を見ていただいた際に、廣瀬さん、紫の1863さんから、同区間で見られた貨物列車に対するコメントを頂戴し、貨車の形式や積載について、詳細な情報をいただきました。私も写真は撮っていたものの、あまり続けるのも、という思いでお蔵入りしていましたが、少しでも参考になればと思い、追加で載せることにしました。宗谷本線の貨物を牽いていたのは、南稚内にあった稚内機関区の9600で、“現地闘争”で行った昭和44年には12両の9600が配置されていました。また名寄機関区にも9600が15両配置され、名寄本線などと共通で運用されていました。南稚内~抜海で見られた昼間の貨物は2往復あり、11~12時に通過の396レ、391レと、13時30分ごろ通過の3371レ、15時30分ごろの1354レでした。

南稚内~抜海の原野を行く396レ、29607〔稚〕牽引。ランボード上に載った切り詰めデフ、2個ライトと、北海道ではスタンダードスタイルの9600、貨車のあとに続くのは、ンッ! Wルーフの客車が2両、昭和44年とは思えない光景が‥‥。

 

 

 

 

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈8〉

広島の路面電車

一ヵ月に渡って開催の写真展「思い出の七条大橋」も本日9月30日で幕となります。来場いただいた皆さまには、改めて御礼申し上げます。京都市電関係の写真展を、飽きもせず何度も続けて来ました。初回の写真展から数えると、もう10年以上昔になるでしょうか、来場の皆さんと話をしていると、“時代も変わった”と思わせることが多々あります。市電の写真を指して説明していると、「広島へ行ったら走っとるでぇ」とか「この前、広島へ行って子供と一緒に京都市電に乗って来ましたわ」と、特段に鉄道に詳しくないオッちゃん、オバちゃんから聞くことがよくあります。よく言われるように1900(900)型は、京都で約20年、広島では43年で、すっかり広島の電車になりました。いまや、“京都を走った京都市電”ではなく、“広島を走っている京都市電”ととらえる世代が多くなったことを痛切に感じます。

約50年前の広島駅前、まだ旧型車両が幅を利かせていた時代、左の700形701は、戦後の車両不足を補うため、被爆した旧京王の木造車500形の下回りを流用して、車体を新調した。中央扉もある大型の3扉車で、昭和55年までに廃車されている。現在の700形は二代目に当たる。右の900形907は、大阪市電2600形で、901~914の14両がいた。まだツーマン、非冷房の時代、そのあとワンマン、冷房化されて、一時は市内線の主力となったが、急に廃車が進み、いまは1両だけが残っているとか(以下、昭和45年)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈7〉

“抜海現地闘争”を総括する

北海道シリーズも、西村さんから私鉄の紹介をしていただき、さらに幅の広い「昭和の北海道」となりました。また「ていね」が脱線してマシ35に突っ込んだ結果、コメントの嵐で、“デジ青”ならでのコミュニケーションとなりました。私も先を急ぎます。「区名板で見る北海道の蒸機」(26)~(28)でも述べましたが、抜海での現地闘争の様子を偲ぶカラーも出て来ました。記述や写真内容に重複する箇所もありますが、再掲載します。宗谷本線南稚内~抜海は、駅間距離が12キロ近くあって、ちょうど中間付近に日本海沿いを走る区間がある。もちろん歩くよりほかに手段はなく、この最北の地が“抜海現地闘争”の結集地に選ばれた(以下、昭和44年9月)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈6〉

カラーでも撮っていたC62重連

また北海道の蒸機に戻りますが、その代表であるC62も、少しだけカラーで撮っていました。昭和43年に初渡道した時の装備は、モノクロ用にアサヒペンタックスSVに55mm、135mmレンズと、もうひとつ、カラー用として父親から借りたマミヤ光機の正体不明のEEカメラの二台態勢でした。時折、思い出したようにカラーで撮りましたが、黒い蒸機は高価なカラーで撮るだけの理由もなく、とくにC62重連は、思いのほか高速で通り過ぎることもあって、確実性を採ってモノクロの一発必中でした。しかし、条件が揃うと、ヘナヘナの三脚にカラー用のEEカメラを載せて撮ったものでした。お馴染みの上目名151キロポスト付近の上り「ていね」、この場所は前にも記したが、やや開けた斜面があって、珍しく熊笹の繁茂もなく、斜面を自由に上下できるのが特徴だった。C62重連の迫力を出すため、レール面より少し下で三脚付きのカラーを構え、ケーブルレリーズで接続、レール面から少し上でモノクロを構えて、高さを違えて二台態勢で撮影した。先頭C6244、真っ黒の流れた煙と、結果は最良ではなかったが、C62定番撮影地での一枚となった(昭和43年9月)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈5〉

最北のお召列車

初めて北海道を訪れた昭和43年9月は、明治2年に新政府が「北海道」と名付けてからちょうど百年に当たり、札幌で天皇・皇后の臨席のもと開道百周年の記念式典が行われました。そのあと道内各地でお召列車が運転され、私もC62重連と掛け持ちで撮影に励んだものです。事前には、蒸機を期待したものの、残念ながらDLによる運転で、数年後に各地で運転された蒸機お召に比べると、目立たないお召運転でしたが、いくつかの特徴がありました。

牽引機は、DD51 548〔旭〕、DE10 501・502〔名〕でしたが、それまでお召牽引の実績があるDLはDF50だけで、両形式とも、お召は今回が初めての牽引だったのです。さすがにDLだけでは不安があるのか、予備機のDL以外にも、“予備の予備”として、ピカピカに磨かれたC57を目撃しています。そして、もう一つの特徴は、最北の宗谷本線、天北線にも、お召が入線したこと、それまでの旭川までの最北の記録を塗り替えました。

宗谷本線音威子府~筬島、天塩川の対岸から、上川発豊富行きお召列車を撮る。DE10 501〔名〕+DE10 502〔名〕の牽引、製造番号から見てもSGなし500番代の1・2号車の重連となった。この時は、音威子府で下車、鉄鈍爺さん、ぶんしゅうさんの三人でヒッチハイクして現地に到着した。

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 叡電鞍馬線 不通区間 437日ぶりに開通

2020年7月8日の早朝に、豪雨で土砂崩れが発生し、長らく不通が続いていた叡山電鉄鞍馬線の市原~鞍馬が復旧工事を完了し、去る9月18日(土)初発から運転を再開しました。今朝、珍しく早起きして、散歩も兼ねて途中駅まで見に行ってきました。

叡電では、2018年9月に台風による倒木で不通となり、この時は一ヵ月半ほどで開通したものの、2年後に再び豪雨によって二ノ瀬~貴船口の線路脇の山が斜面崩壊して、叡電の線路に覆い被さり不通となり、市原~貴船口・鞍馬を京都バスで振替輸送を続けていました。  「きらら」には運転再開のステッカーが。

 

 

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈4〉

北海道の私鉄を巡る

北海道の私鉄も、ひと通りは巡っています。昭和40年代前半、電化私鉄は先述の定山渓鉄道と、少し前に米手さんが紹介された旭川電軌ぐらいで、あとはすべて運炭を目的に敷設された非電化鉄道で、簡易軌道もまだありました。寿都、美唄、真谷地、留萌、羽幌‥‥、と鉄道名を口にするだけでも、ワクワクするような魅力的な鉄道ばかりでした。ただ私にとっては、C62重連の息抜きのような感じで、あまり熱心に撮っていなかったのが悔やまれます。記念に乗車することもありましたが、ほとんど寝ていたのか、沿線風景も全く記憶に残っていません。

留萠本線の恵比島から分岐していた留萠鉄道、発車を待つ恵比島10時50分発の33D、車両はキハ1001、昭和30年製、当時流行の湘南型で、窓下の大きなヘッドライトは台車の動きと連動していた。留萠鉄道には5両のDCがいて、昭和46年の廃止後はすべて茨城交通に転じて、うち2両はいまでも車籍がある。留萠鉄道の子会社が、ロータリー式除雪用DLを開発し、その技術は昭和37年に日本除雪機製作所(現、NICHIJO)に継承され、除雪機、特殊車両等のメーカと成長した。同社の年史に写真を採用していただき、記念誌とキハ1001の模型をいただいたのも思い出(以下、昭和43年9月、一部「デジ青」掲載済み)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈3〉

定山渓鉄道のDC

先項では札幌駅前の様子を紹介しましたが、昭和の時代の札幌駅は、4代目となる地上駅で、ホームは10面もある大きな規模でした。改札を抜けると1番ホームで、その苗穂寄りに切り欠きホームの0番ホームがあって、千歳線のDC列車の発着に使われていました。その0番ホームに停車していたのが定山渓鉄道のDC、キハ7002で、定山渓鉄道の起点の千歳線東札幌から国鉄線に乗り入れて、単独または国鉄DC併結で、札幌まで乗り入れていました。もともと、定山渓鉄道は、国鉄千歳線東札幌~苗穂を直流電化して、苗穂まで電車が乗り入れていました。国鉄の列車が輻輳するようになると、電車の乗り入れ中止を求められ、定山渓は、札幌へ乗り入れできる専用のDCを新製、待望の札幌駅へ乗り入れを果たしたのでした。

札幌駅0番ホームで発車を待つ、札幌発定山渓行きの761Dキハ7002、キハ7000形は昭和32年製、7001~7003の3両がいた。札幌乗り入れ用として、電車を走らせていた定山渓鉄道が新製した。両運、湘南スタイル、駆動方式は国鉄DCに準じている。定山渓温泉が札幌の奥座敷として賑わっていた時代は行楽客で賑わったそうだが、この時代は車内にほとんど人影がなかった(昭和43年9月、写真は「デジ青」に掲載済み)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈2〉

北海道の路面電車

“なりゆきまかせ”、まずは前シリーズ「北海道の蒸機」に関連して、北海道の私鉄、路面電車、蒸機などを順に載せていきます。まず路面電車ですが、縮小されたとは言え、現在でも函館、札幌で元気な姿が見られるのは嬉しい限りです。人口が増加して循環線を延長した札幌は別として、人口が減少して路面電車の経営基盤を揺るがす函館が頑張っているのには拍手を送りたくなります。以下の写真を撮ったのは、昭和43年9月の初渡道のときで、五稜郭機関区で写したあと、五稜郭駅前に停車している函館市電600形を写したもの。函館には、いくつかの枝線が出ていて、本線の一部を成す路線が国鉄五稜郭駅前まで伸びていました。昭和53年1月に廃止されています。

函館市電600形、昭和29年製で601~605がいた。前面が変則二枚窓、前中後の三枚扉と、独特の番号書体と、ユニークなスタイルをしていた。扉は多客時を考慮したようだが、実際は中央扉は閉め切り扱いだった。昭和44年からワンマン化改造が始まったので、ツーマン時代の最後の撮影、しかし長持ちはせず、昭和48年には廃車されている。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈1〉

京阪七条駅の近くでやっています写真展の設営・応対も一段落しましたので、また“デジ青”に復帰します。写真展には“デジ青”読者の皆さまにも来ていただきました。ふだんは画面を通したやりとりですか、制約の多い時期に、顔を合わせてナマの話ができることの意義を感じました。“デジ青”投稿が、交流の輪をさらに広げてくれていることを実感しました。手を変え品を変えて、投稿を切らさずに継続して続けることが求められます。

さて、その投稿テーマですが、私もたくさんの鉄道写真を撮ってきました。記録媒体は、モノクロネガ、カラーポジ、カラーネガ、デジカメデータと変遷しています。重複している時期もありますが、媒体によって、保存・保管方法が異なるため横断的な検索ができず、モノクロネガ以外は、なかなか公開につながりません。たとえば、今まで発表してきた北海道の蒸機でも、三脚を並べて同じシーンをポジでも撮っていましたが、気が付かず、公開することはほとんどありませんでした。当時ポジは高価で、多くは撮れず、恣意的に撮らざるを得ず、撮影に連続性がありません。組み写真を旨とするデジ青にはなかなか載せにくい事情もありました。

なら単発でも良いではないか、むしろそれが投稿頻度を上げることにつながると思うようになりました。「思いつきOK、途中変更OK、とにかくやってみる」が私の“デジ青”姿勢です。何が出てくるか分かりませんが、昭和40、50年代に撮ったポジを片っ端からスキャンしてみました。

ポジフィルムは、50年たった今では、褪色、キズ、カビ、何でもありのヒドイ状態、いまも鮮明な画像を残しているコダクロームとは似て非なる、当時の国産ポジだった。ただ、最近の修整ソフトでいじくると、ソコソコになる。ただ書籍の印刷原稿としては問題外と思っていたところ、最近、ある鉄道雑誌に採用されるようになり、“いけるやん”となった。ためらって秘蔵しておくより、ダメ元で、どんどん発信していくべきと思うようになった。カラーポジは約300本あり、今回は、昭和40、50年代の、一駒一駒マウントしていたものを対象とした。

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (28)

旭川区 C55  ③  さよなら北海道の蒸機

しばらく続けていました区名板ごとに見る北海道の蒸機、少し積み残しもありますが、今回で最終としました。旭川区のC55、番号ごとに残ったC55を見ていきます。

初めて渡った北海道で最初に撮ったC55、夜行急行「利尻2号」に鉄鈍爺さんと一緒に乗って、6時41分に稚内に着いた。さすがに最北の駅は寒いぐらい。例によって線路に下りて見るとC55 50〔旭〕の牽引だった。初めての稚内は、予想よりウンと小さな駅で、島ホーム一本に側線が数本あるだけ、ごく平凡な駅だった。ただ、この日は稚内駅にとって特別な日で、開道百周年記念式に臨席の天皇・皇后が、この日の午後に初めて稚内駅まで来る歴史的な日だった。駅前はチリひとつなく、キレイに掃き清められていた。かつては、連絡船の発着場まで線路が伸びていたが、いまはあっけないほど線路がポツンと途絶えていた。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (27)

旭川区C55 ②   C55 47  322レの旅

前回に、宗谷本線のC55の華の運用は夜行急行「利尻」と書きましたが、もう一往復、昼間に全線を通して走る普通列車321レ、322レの牽引もありました。明るい時間帯ですから、車窓から見る最北の鉄路の絶景は欲しいまま、車内はガラガラ、交換のため途中駅の停車時間も長く、C55の撮影もゆっくりできる、まさに“乗ってよし、撮ってよし”の列車でした。この列車に乗車・撮影すると、なぜか同区のC55 47の遭遇率が高く、それだけ好調なカマだったのか、昭和48年の宗谷本線の完全DL化まで働いていました。

宗谷本線と言っても稚内~旭川は約250kmもあり、ほぼ南北に走っているので、気温や積雪量は各所で差があるが、3月ともになれば、南のほうへ行くほど、路盤の雪も消えて、すっかり春の装い。稚内発小樽行き322レを牽くC55 47〔旭〕+客車4両 音威子府~筬島 (昭和47年3月、以下同じ)

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