これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈下〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

多度津機関区・工場を撮影後、長老は土讃線琴平~塩入で走行中の列車を撮影されます。その写真を漫然と眺めていたのですが、よく見ると、線路のカーブ具合、背景の山容から、われわれが、琴平駅からタクシーに乗って行った撮影地と同じなのです。65年前の夏、長老はここまで歩いて来られたのでしょうか。改めて、その並外れた行動力に驚いた次第です(以下、昭和30年8月3日)。

C58 295〔知〕の牽く、高松桟橋発窪川行きの121レ、給水温め器や前梁に縁取りがあって、調べると昭和28年に四国国体でお召列車を牽いていた。左下で手を振る少女がアクセント。 ▲▲一週間前、琴平~塩入で撮影した上り「南風16号」、当日、一年ぶりに土讃線高知以東を走る2000系DC、ツアー列車「Remember2000」を撮るために、タクシー2台に分乗してやって来た。まさか、この場所が、山科の人間国宝さんが。昭和30年に撮られた場所と同じだったとは、知る由も無かった。

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 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈上〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

クローバー会の多度津・琴平ツアー、好天に恵まれて、マスク以外は何の制限もなく、みんなで思い切り楽しみました。お世話になったブギウギさん、77-タツさんには改めて御礼申し上げます。本欄でも、参加の皆さんから当日や前後の行動記録が綴られています。私は、この歳に相応しく、過去の思い出でもと思ったものの、四国には縁がなく、鉄道に接したのは、今世紀に入ってからという奥手です。そこで、一計を案じて、山科の人間国宝様にご登場いただくことにしました。長老は昭和20年代後半から何度も四国を巡っておられます。ほかの地域でも魅力的な車両がいっぱい見られた時代だけに、アクセスも不便だった四国には、地元のファン以外では、きっちりした記録を見かけません。並外れた長老の行動力には、改めて敬意を表します。われわれが訪れた多度津・琴平に限定して、その記録を特別に載せました。昭和30年8月3日、長老は多度津機関区を訪問、「せと」のヘッドマークを付けたC58 255〔多〕の晴れ姿。

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 駅撮り一時間 〈8〉

昭和40年10月3日 新大阪駅

昭和40年10月改正は、前項のように、交直両用の475系・481系の新製・増備、余剰となった151系の転用により、新幹線と接続する山陽筋の特急・急行は、さらに増発されます。そして、もう一つの目玉は、関西発着の寝台特急「あかつき」の新設です。あの憧れのブルートレイン、でも当時は東京発着だけで、明るいうちは京都、大阪で見ることができない列車でした。それが新大阪に到着するとあって、大阪駅の撮影を終えて、新大阪へ急ぎました。

 

新幹線開業1年後にして、初めて新大阪に降り立った。11:31に到着したのが、名古屋発熊本行「つばめ」、クハ481-14ほか481系11連、改正前は新幹線と接続する新大阪~博多の特急だった。151系のため、交流区間の九州では自走できず、ED73+サヤに牽かれていたが、481系になって自力で走れるようになった。運転区間も、東は名古屋まで延長され、新幹線に乗ることなく、山陽・九州へ直通できた。西は、この改正で電化が伸びた熊本まで、多目的な特急としての使命を帯びた。東海道線時代の「つばめ」と同じく、ヘッドサインにはグレー地が入り、ほかの特急とは一線を画していた。

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 駅撮り一時間 〈7〉

昭和40年10月3日 大阪駅

昭和39年10月、東海道新幹線の開業により、東海道本線を走っていた151系「こだま」型電車特急は、新大阪で新幹線と接続する山陽筋の特急として新たな活路を見い出します。京都駅では、一本も「こだま」型が見られないのに、大阪、新大阪へ行くと今までと変わらない、電車特急の華やかな姿を見ることができました。昭和40年10月改正では、交直両用の481系電車が走り始め、さらに特急の増発、運転区間の変更が行われました。再び「こだま」型に接するため、高校一年生は、「京都から大阪まで」金120円の切符を握りしめて、大阪駅に向かったのでした。大阪8:50発の宇野行き特急「うずしお」、クハ151-9ほか151系12連、西行きの列車ホーム3・4番ホームから、朝の時間帯には、特急、急行が10~15分ヘッドで発車して行く。 続きを読む

 駅撮り一時間 〈6〉

昭和40年9月26日 京都駅

京都駅を華やかに彩ったキハ82系特急のもう一本、「白鳥」が8:48に1番ホームに進入する。京都駅1番ホームと言えば、歴代の上り特急や、御召列車も発着した栄えあるホームだが、電車特急の撤退で、明るい時間帯に1番ホームに発着する特急は「白鳥」と「雷鳥」の2本だけだった。「白鳥」の行き先は、青森、上野行き、7両2ユニットが直江津で分割され、上野行きは、信越本線経由となった。ところが、この年、富山~糸魚川の親不知付近の土砂災害により富山までの運転のまま改正を迎える。非電化、旧線、海岸沿いの富山~糸魚川~直江津は災害多発区間で、「白鳥」は運転打ち切りが多かった。40-10改正からは、青森行きの単独運転、新潟経由となり、大阪~新潟は14両、以降は10両運転となる。

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 駅撮り一時間 〈5〉

最近、撮りためたネガを整理していますと、ショッキングなことがありました。以前にも書きましたが、昭和40年ごろのフィルムが劣化(ビネガーシンドローム)状態に陥り、悪臭・キズだらけのフィルムは修復不能になっていました。ただ健全なフィルムもあって、両者を分けて保管していました。ところが、改めて調べると、そこからも悪臭が立ち込め劣化が始まっているではありませんか。50年以上も、ちゃんと残っていたフィルムが、突然、劣化の始まると分かり愕然としました。これ以上放置すると、さらに劣化が進み、将来に持ち越すと、もう公開もできないと思い、軽微なうちから、昭和40年前後のフィルムを「駅撮り一時間」として、過去の連載の続きとしました。

昭和40年9月26日 京都駅

昭和40年前後の国鉄の大きな動きでは、昭和39年10月改正による、東海道新幹線の開業が知られていますが、全体で見れば、翌年の昭和40年10月改正の方が大規模なものでした。もちろん東京~新大阪の新幹線開業、それに伴う在来線の電車特急の撤退・転移は大きな改正ではありました。しかし「ひかり」は4時間運転の14往復、在来線の急行はそのまま残り、何とかオリンピックに間に合わせた暫定開業のような状態でした。所定の3時間10分運転にスピードアップし、「ひかり」「こだま」とも30分ヘッドになる昭和40年10月改正(新幹線のみ11月改正)が、本格開業と言えると思います。京都・大阪においても、同年の改正は大きな変動があり、その前後の変化を収めるべく、鉄道少年の私も、京都、大阪、新大阪で駅撮りをしたものでした。

電車特急151系が撤退したあと、京都駅がいちばん華やいだのは、朝の時間帯、京都始発の82系DC特急だろう。7:30発「まつかぜ」、8:00発「かもめ」、いずれも経由は異なるが、6番ホームから発車する博多行きであり、京都が西への優等列車の始発駅と位置づけられていた象徴だった。これに8:48発「白鳥」(上野・青森行き)も加えた、82系三羽烏が、朝の京都駅にまぶしく輝いていた(この写真のみ昭和40年10月3日撮影)。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑪

四条大宮

四条西洞院で北野線と合流した四条線の市電は、三線式軌道を西へ向かいます。四条堀川で、北野線は堀川通に分岐しますが、戦前までは四条線にも「四条堀川」の停留場があったものの廃止され、以降は、堀川通に曲がった北野線のみに四条堀川の電停がありました。四条線は、つぎの四条大宮までの600mに電停はありません。私は、この付近での撮影はなく、四条堀川にお住まいだった無印不良品さんが本欄に昔々のこと と題して、雪の日の写真を載せられています。市電は幅の広い堀川通を突き切って、まもなく四条大宮に到着です。市電は、ここで二手に分かれ、北西に千本線、南へ大宮線を分ける、変則の五叉路になっていました。嵐電四条大宮駅の前で、大宮通から四条通に曲がって行く7号系統(昭和47年1月、以下同じ)。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑩

四条西洞院

四条烏丸を発車して、市電は西へ向かいますが、祇園祭のとき、市電のすぐ横に函谷鉾が立っていました。市民でも鉾へ上がることができて、四条通のほぼ中央を見下ろす風景は、鉾ならでは独自の眺めでした。室町通を過ぎても、四条通りには、月鉾、郭巨山など、何基かの山鉾が立っていて、市電は鉾のすぐ横をすり抜けて行きます。付近は、繁華街から少しずつ離れ、商業施設に代わって、繊維関係の会社・店舗が見られるようになりました。京都の代表的な繊維街である「室町」近くを走ることを実感します。

「四条西洞院」の西行き電停から見た四条線、架線も片持ち式ではなくなり、電柱、看板が林立する雑然とした風景に。

▲▲左上の「住友生命」を定点に現在の同地点。電停跡からの定点対比は、現在では困難が伴うが、Googleのストリートビューがうまく叶えてくれた。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑨

四条烏丸

途中で中断したり、寄り道ばかりで、連載ものが続きませんが、また京都市電に戻ります。前回「四条堺町」を発車し、四条通りを西へ向かい、烏丸通が見えてくると、もう次の停留場「四条烏丸」に到着です。この間300m、市電でもっとも短い区間に属しています。電停は、西行きが烏丸通の手前、東行きが烏丸通の向こうに設けられていました。四条烏丸と言えば、当時よく言われたのが「京都の金融街」の形容だ。事実、交差点の四隅は銀行の建物が占めていた。写真の南東角が三菱銀行、右回りに住友信託銀行、三和銀行、三井銀行、すべて都市銀行の京都支店が占めていたのは、その形容に恥じない交差点の風景だった。しかもそれぞれが特徴ある建築様式で、建築学的に見ても興味深いものだった。当時の写真を見ると、その続きの四条通、烏丸通にも、今では見られない金融機関の看板がずらりと続いていた。

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 続・ユースで巡った鉄道旅 -5-

「南近畿周遊券」を使った本テーマの昭和46年7月の旅は、もう少し続きます。ただテーマであるユースの宿泊は、前項(4)で終わっていて打ち止めのはずでしたが、意外なな(?)紀勢本線への反応で、多くのコメントをいただました。そこで、ユース宿泊は無いもののの、この旅の最後まで載せることにしました。

前項の岩代付近の海岸沿いの撮影は、真夏のカンカン照りのなかの撮影、ノドの渇きと空腹で、途中で投げ出してしまい、早めに紀伊田辺へ。一服してから、紀伊田辺機関区へ向かった。準特急さんのコメントにも応答したが、機関区の背後に、住宅の建っている丘があり、そこから機関区全体が見下ろせる。庫は木造の貧相なもので、蒸機は、ほとんど扇形線に留置されている。車両基地を俯瞰で写せるのは珍しく、居並ぶC57・C58の集煙装置の構造もよく観察できた。

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 新緑の京都をめぐる (2)

嵐電を写すために嵐山まで来たついでに、山陰本線(嵯峨野線)にも寄ってみることにしました。嵯峨野の竹林のなかにある野々宮踏切へ、観光客に囲まれて向かいます。この踏切は、50年前にはC57を求めて通ったり、最近では、湘南色の113系が見られなくなるというので何度か訪れていましたが、それ以来の久しぶりの訪問となりました。竹林やそれに続く小倉山も新緑に映えている。通り過ぎる列車は、残念ながら無表情な車両ばかり。城崎温泉行き「きのさき9号」。

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 新緑の京都をめぐる (1)

“3年ぶりの行動制限のないGW”の惹句が、テレビに躍っています。高齢者にとっては、縁もゆかりもない、ただの5月上旬に過ぎないのですが、憚ることなく外へ出られるのは、やっぱり嬉しいものです。4月のサクラの季節もいいのですか、この時期、新緑もいいですね。撮影の時も、デジカメの設定で彩度をちょっと上げてやると、あざやかな新緑が誰にでも撮れます。天気も良く、新緑に誘われて、高齢者もカメラ一台下げて混雑する街へと出かけて行きました。 例によって敬老乗車証をしっかり手に握りしめて、地下鉄「太秦天神川」へ。東へ歩き出すと、最初にやって来た嵐電が、この電車。“ラッキー”と、さらに東へ歩を進めた。

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 続・ユースで巡った鉄道旅 -4-

昭和46年7月14日 日の岬ユースに泊まって、紀勢本線の海岸沿いへ

和歌山線でC58・C57を撮ったあと、和歌山経由で御坊へ、バスに乗って、本日の宿泊地、日の岬ユースホステルに向かいました。ここも公営のユースで、海にも近く、賑わいを見せていたと思いますが、内部の様子や、ユースの周りの光景など、全く覚えがありません。翌14日には、紀勢本線の海岸沿いに向かいました。紀勢本線の旅客は一部に蒸機が残っていたものの、早くからDL化が進み、蒸機は、もっぱら貨物の牽引でした。紀勢本線は、和歌山を出ると、冷水浦付近で初めて海岸沿いを走りますが、開けた場所も無く、製油所も目障りでパスして、つぎに海岸沿いを走る切目~岩代~南部は、開けていて撮影しやすく、代表的な撮影地でした。岩代で下車して、海岸沿いを行く複線を俯瞰できる高台に行き着きました。和歌山~新宮の電化完成は、昭和53年であり、当時はDF50、80系DCと“亜幹線”の代表が走っていたのです。海岸沿いにある紀勢本線の岩代で下車

紀勢本線切目~岩代の海岸沿いを行くD51 800[田]の牽く貨物1377レ、紀伊田辺区の所属で、どこでも見られたD51、集煙装置付きで、特段に食指が動く対象ではなかったが、真夏のカッとした快晴のもと、海岸沿いを行く列車は絵になった。現在でも、紀勢本線の代表的な撮影地となっている。

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 続・ユースで巡った鉄道旅 -3-

昭和46年7月13日 夜行鈍行に乗って和歌山線へ

参宮線、紀勢本線東部で撮影のあと、翌朝は和歌山線方面へワープします。それを可能にしたのは、当時走っていた夜行鈍行でした。南近畿均一周遊券の限られた自由周遊地域にも、ちゃんと夜行が走っていて、巧みな移動が可能で、昭和の国鉄ならではの特権でした。乗車したのは、名古屋発天王寺行921レ、紀勢本線全線、関西線、阪和線を経由して、紀伊半島を一周、名古屋~大阪を結ぶ夜行鈍行でした。

当時、紀勢本線の長距離鈍行には、下りで見ると、上記の921レのほか、草津6:11発、紀勢本線を一周して和歌山市20:51着の135レは、京都から日帰りで紀勢本線を一周できる列車として有名で、あと亀山11:04発和歌山市23:06着の137レもあり、紀勢本線全線の普通列車が3往復ありました。途中で別会社に分断されて、さらに列車は細分化された現在とは比べものにならないほどの律儀さが伺えます。

名松線で松阪へ出て、松阪18:04発の921レに乗車、紀勢本線を一周する夜行の旅となった。夏場のため、多気を過ぎた当たりでやっと薄暗くなった。初めて知る、名も無いような駅にも、必ず駅員がいて、わずかな乗降客のために奮闘していた。伊勢柏崎にて

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 続・ユースで巡った鉄道旅 -2-

昭和46年7月12日 参宮線、紀勢線、名松線を巡る

伊勢志摩ユースの館内の様子は全く印象に残っていませんが、ユースは高台にあって、海岸がよく見えたことだけは覚えています。朝食もそこそこに、早くにユースを出て、坂道を下って近鉄穴川駅へと急ぎます。ユースは、1992年に改築されて、いまも営業中、ホームページには、「日本で唯一の電車(5インチゲーシ)が走るユースホステル」との紹介があり、子どもが丸ノ内線の赤い電車の模型に乗っている写真が添えてありました。

近鉄志摩線穴川6:40発の白塚行きに乗車する。やって来たのは、6311+6317の編成、当時、近鉄の旧型電車にほとんど興味がなく、漫然と撮っただけだったが、あとで調べると関西急行電鉄(関急)名古屋線の急行用で、改軌された志摩線に移ってローカル輸送に励んでいた。車内の一部がクロスシートになっていたのが印象的だった。志摩線は、その前年の昭和45年に休止期間を経て、標準軌に改軌されたばかりで、軌道は、新線の雰囲気を残している。そのあと、志摩線の高架複線化により、駅も新設されて、この付近も様相は一変している。何気に撮った写真も、50年も経てば自然に訳ありになる一例だった。

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 続・ユースで巡った鉄道旅 -1-

いまから約10年前の本欄に、同名のシリーズを載せてきました。おもに学生時代、私はユースホステルに合計115泊しました。100泊記念にもらえる記念バッチも大事に持っています。前回の文末に「安価で健全で宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそ」旅行も続けられたと結んでいます。115泊のなかには、まだ書き漏らしたところが多くありました。

そんな時、過日の北条鉄道の乗車会で、「はい、これっ」とTさんから渡されたのが、写真の「ユースホステルハンドブック」1975年度版でした。当時600ヵ所あったユースの概要や連絡先が載っていて、これを見て、ユースへ往復ハガキで予約したもので、利用客にとっては必須の本でした。私も毎年、発売の頃になると、三条京阪にあったユースの事務所へ行って買い求めたものでしたが、年度が替わると、新版を買うため、手許には一冊も残っていませんでした。Tさんは、そのことを覚えてくれてプレゼントしてくれたのです。Tさんの厚意に応えるためにも、「続」として、ユースホステルを拠点に各地を巡った鉄道旅を、ハンドブック片手に思い返してみました。ユースの旅の必須アイテム、会員証とハンドブック

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 やっぱり桜 ことしも満喫  ④

 岩滝口は 待望の満開

岩滝口駅を発車した、京都丹後鉄道のKTR700形の703号、両側に枝ぶりの良い桜がゆったりと続く。2015年から、運行はWILLER TRAINSの京都丹後鉄道が担い、北近畿タンゴ鉄道は施設を保有する第三種鉄道事業者となった。

桜も散って新緑の季節になりましたが、私もあと一回だけ入れてください。私の“桜鉄”は、近郊の嵐電、叡電で恒例の撮影のあとは、京都丹後鉄道へと向かいました。以前、ぶんしゅうさんに連れて行ってもらった、京都丹後鉄道の岩滝口駅の桜が忘れられず、18きっぷでの再訪問となりました。当日は、地元の人も「今日がいちばんきれい」と言うほど、絶好の撮影日和に恵まれました。

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