“こんな時だからこそ”の写真展 楽しんでいます。

雨の夕暮れはいっそうの風情が増す西木屋町通、京町家のギャラリー「高瀬川四季AIR」、3月8日(火)までやっています。阪急京都河原町駅から徒歩7分です。

勘秀峰さんから本欄にお知らせがありましたように、3月1日から下記の写真展を二人でやっています。

 第3回「市電と昭和の京都」特集 下京区を走った京都市電

  3月1日(火)~8日(火) 期間中無休 11:00~18:00

  「高瀬川 四季・AIR」 京都市下京区西木屋町仏光寺下る

一昨年、昨年と続いて開催し、ことし3回目の開催となる今回は、ギャラリーが所在する京都市下京区にスポットを当てた写真・資料展です。貴重な写真・資料や最新取材も交えて、懐かしい市電ワールドをご堪能いただけます。

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈10〉

2月11日(金) 最終日は大糸線へ立ち寄り

新津 5:43→直江津 9:19  330レ  オハ35 2560

直江津 10:23→糸魚川 11:14  621レ  オハフ33 2189

糸魚川 13:12→小滝 13:41 132D キハ52 116

小滝 14:52→糸魚川 15:14 129D  キハ52 116

糸魚川 15:35→京都 21:16  急「立山3号」  クモハ475-46

10日間、東北均一周遊券で回った旅も本日が最終日、新津駅の待合室で寝たあと、直江津、糸魚川で駅撮りして、日中に一往復大糸線を走っているC56の牽く貨物を写すため、大糸線小滝駅にやって来た。ここへは、昨年の同じころに北海道からの帰りに寄っていて、良い天気に恵まれて、残雪の山々がたいへん印象的だった。もう一度、その感動を味わいたいと再訪問となったが、どうしたことか、今年は、雨が降っていて、周りも煙っていて、最悪の状況、おまけに、夜行、駅寝の連続で、眠くてフラフラ、ついに戦意喪失、駅近の鉄橋で一枚だけ撮って、そそくさと逃げるようにして去り、その日のうちの帰宅となった。

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈9〉

夜行列車に乗って東北を一気に南下、米沢から米坂線に入って9600の牽く客貨列車を撮る。あれほど見かけた9600だが、この年には200両余りに減っていた。活躍場所は、動力近代化の遅れた北海道、九州に集中していて、本州では米坂線を受け持っていた米沢・坂町機関区の9600ぐらいだった。長い貨物を牽いて、手ノ子を発車する59661

2月10日(木)米坂線でキューロク三昧

米沢 5:38→羽前沼沢 7:31  121D  キハ55 28

羽前沼沢 10:52→手ノ子 11:08  126D  キハ55 140

手ノ子 19:07→今泉 19:25  132D  キハ58 97

今泉 19:41→坂町 21:05  急「あさひ2号」  キハ58 628

坂町 23:46→新津 0:36  急「鳥海3号」

(新津駅待合室でネ)

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈8〉

 

宿泊した向山から、ひと駅先の三沢へ。発着する十和田観光電鉄へ。駅から巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。いかにも電車らしい電車で、塗装がまたいい。東北地方初の全金製である。東急ステンレス車に置き換えられたあとも3401だけはオリジナル塗装のままイベント用として残っていた。平成24年に十和田観光は廃止になったが、いまでも七百駅跡に残っていると言う。

2月9日(水) 二年前のリベンジへ?

向山 6:30→三沢 6:36 533レ  スハフ42 2247

三沢 7:55→野辺地 8:19 急「十和田3号」

野辺地 9:15→青森 10:15  535レ  スハ32 2618

青森 10:21→弘前 11:26  442レ  オハ35 2176

弘前 12:54→大館 13:37  急「きたぐに」  スハ43 2231

大館 14:40→鷹ノ巣 15:08 444レ  オハフ61 2293

鷹ノ巣 15:10→上杉 15:38  231D  キハ20 261

上杉 17:24→鷹ノ巣 17:48  234D キハ11 110

鷹ノ巣 18:08→東能代 18:56  844レ  オハ61 2887

東能代 20:10→大館 20:51  急「しらゆき」「きたかみ」  キハ58 274

大館 21:23→米沢 4:38  急「津軽2号」  オハ47 2092

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈7〉

暖かくて快適な青森駅の連絡船待合室で一泊、と言っても4時過ぎに起き出してホームへ向かった。本日の見ものは、82系と583系の並び、82系は大阪行き「白鳥」、583系は「オリンピア」、この期間中、札幌では冬期オリンピックが開催中で、観客輸送のため、札幌~函館~青森~上野を結ぶ臨時特急が運転され、青森~上野は583系「オリンピア」が運転された。

2月8日(火) 八戸線を初乗車

青森 5:20→八戸 6:42  急「十和田1号」  オハ47 2242

八戸 7:11→本八戸 7:23  627D  キハ17 266

本八戸 9:51→久慈 11:38  631D  キハ17 270

久慈 11:46→種市 12:36  636D  キハ17 253

種市 13:01→陸中八木 13:15  633D  キハ17 267

陸中八木 14:43→陸奥湊 15:48  638D  キハ17 268

陸奥湊 16:41→八戸 16:58  640D  キハ17 265

八戸 17:06→向山 17:26  47レ  オハフ33 2564

(グリーンユースホステル宿泊 一泊二食640円)

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈6〉

深浦の旅館に泊まって、翌日は5:10に起床(手帳による)、始発の1725レに乗って鰺ヶ沢へ、10分停車ののち、7:22発車の同列車を撮影。化粧煙突のきれいな58666が牽引。

2月7日(月) 雪の五能線を堪能

深浦 5:50→鰺ヶ沢 7:12  1725レ  オハフ61 345

鰺ヶ沢 12:24→五所川原 12:57  1731D  キハ22 339

五所川原 13:16→鰺ヶ沢 13:53  1734D  キハ17 369

鰺ヶ沢 14:40→鳴沢 14:47  1735D  キハ11 104

鳴沢 16:11→川部 17:44  1739D  キハ11 103

川部 19:04→黒石 19:14  143D  キハ22 155

黒石 19:28→川部 19:38  144D  キハ22 155

川部 20:06→青森 20:40  急「むつ2号」  キハ28 502

(青森駅待合室 ネ)

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈5〉

弘前から乗った五能線の列車は雪原を走り続けた。例によって、交換があると、周りの迷惑も顧みず、窓を開けて写真を撮り続けた。藤崎で交換の混合1725レ 美しい弘前区の28683の牽引。

2月6日(日) 五能線へ乗り鉄・撮り鉄

青森 6:38→弘前 7:15急「しらゆき」「きたかみ」 キハ58 1532

弘前 8:07→深浦 11:43  1730レ  オハフ61 122

(深浦旅館に宿泊 1200円)

青森駅の待合室でゆっくり寝て、急行で弘前へ。弘南電鉄のホームへ行くと、待っていたのは、待望の阪和社型のモハ2025だった。

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈4〉

東北編④ 2月5日(土) 北上線、釜石線、山田線、田沢湖線を乗り鉄

(2/4)郡山 22:59→横手 4:40  急「津軽1号」(車中泊)

横手 5:20→北上 7:11  722D  キハ22 281

北上 7:32→花巻 7:43  急「いわて4号」  クハ455-8

花巻 9:16→釜石 11:49  633D  キハ51 11

釜石 12:25→盛岡 16:08  急「陸中」  キハ58 1521

盛岡 16:35→秋田 19:08  急「たざわ2号」

秋田 19:18→青森 22:12  急「しらゆき」  キハ28 389

(青森駅待合室 ネ)

「津軽1号」に乗って4:40横手に到着、北上線の始発列車722Dに乗車して早暁の雪原を走り、交換のため陸中川尻に停車 キハ22の2連。

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈3〉

東北編③ 2月4日(金) 冬の会津に浸る

会津柳津 6:37→会津坂下 6:54 急「いなわしろ1号」 キハ52 128

会津坂下 13:45→会津若松 14:34 430レ オハフ61 3044

会津若松 15:35→喜多方 16:01 231レ

喜多方 16:04→熱塩 16:41  623レ  オハフ61 2520

熱塩 16:51→喜多方 17:31  624レ  オハフ61 3044

喜多方 18:07→会津若松 18:21   急「あがの2号」

会津若松 18:17→郡山 21:10  232レ  オハ61 2914

郡山 22:59→横手 4:40  急「津軽1号」  ナハフ10 2002

(車中泊)

会津柳津を急行「いなわしろ1号」で出発する。と言ってもキハ52単行の遜色急行。 続きを読む

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈2〉

東北編① 2月3日(木) まずは只見線へ

(2/2)京都駅14:00→名古屋駅16:22 名神高速バス210便

名古屋駅17:00→東京駅22:40 東名高速バス124便

東京→上野

上野23:50→会津若松5:08(遅れ5:40着) 急「ばんだい5号」「ざおう3号」クモハ455-9

会津若松7:47→滝谷9:26 425レ オハフ61 2169

滝谷13:35→会津川口14:23 429D キハ45 505

会津川口14:27→会津柳津15:20 432D キハユニ26 41

(春江荘Y・H泊 一泊二食650円)

東京までは名神・東名の高速バス、均一周遊券で乗れる急行が、東海道線では「桜島」「高千穂」だけになり、高速バスは有効な移動手段だった。▲▲上野からの急行は30分以上遅れて会津若松に到着、すぐ接続の只見線列車に乗れず、ED77 1牽引222レなど写して時間調整。

只見線425レは会津坂下で8分の停車、車内から驚くほどの高校生が降りてきて、たちまち列車の前を埋め尽くした。坂下には、高校が3校あって、駅は時ならぬ高校生ラッシュ、これは現在も変わらず、最近も只見線へ向かわせる動機となった。

 

 

 

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈1〉

はじめに

「市電」はしばらく休んで、また「50年前」シリーズを続けます。今回は、「50年前のほぼ同月同日」シリーズとしました。50年前の昭和47年のことを振り返りますと、市電四条線などの廃止を見届けたあとは、学校の授業は、全学封鎖のお蔭ですべてなくなり、卒業試験は全部レポートに変わり、難なく卒業が決定、あとは入社式を待つのみと言う、趣味人生で最大のチャンスを迎えていました。もう出掛けるしかありません。同年の2・3月には、東北(2/2~2/10)、信州(2/18~2/24)、北海道(3/12~3/24)、ほか近隣へ、計31日に渡って撮影旅行を続けます。

この期間に使った均一周遊券、東北-15日間有効、6000円 信州-7日間有効、3300円 北海道-20日間有効、7040円(いずれも京都発着、北海道は冬期2割引き料金)。鉄道ピクトリアルの今号に均一周遊券の詳しい解説がされている。この時期の表紙には、地域の郷土玩具が描かれているのは知っていたが、バックの白抜きは「しんにょう」であり、これは「遊」の字をデザイン化したものと初めて知った。

当時の国鉄は、幹線ではほぼ無煙化が近づいていたものの、まだ蒸機は1601両(昭和46年4月)が残っていて、それに呼応して、空前の“SLブーム”が起きています。また一般の旅行も、万博後のDISCOVER JAPANの浸透で旅行客が急増、旅客需要もさらに拡大、ダイヤ改正ごとに、優等列車の新設、列車増発が続きます。趣味者にとっても国鉄にとっても、希望のあふれた時期でした。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦

四条京阪前 ②

「四条京阪前」で京阪電車と交差する。当時は遮断機もなく、交通信号と警手の笛だけで行き来していた。京阪電車のすぐ横を、歩行者が横断していった。

「四条京阪前」の北側には京阪電車四条駅、南側には南座があります。四条河原は、出雲の阿国が舞った踊り、つまり歌舞伎の発祥地と言われ、南座は、公認された踊りを舞う劇場として、その歴史をいまに伝えています。明治時代に北側にあった北座もなくなり、南座だけが、歌舞伎の発祥地に残った唯一の劇場です。昭和4年に由緒ある桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させて、京都の代表的な劇場として、多様な演目を採り上げて来ました。とりわけ歳末の吉例顔見世興行は、一度も絶えることなく続けられてきた京都の年中行事です。

そして眼前からは、警笛の音が聞こえて来ます。四条線と京阪電車が平面交差していて、四条線の開通は大正元年、京阪電車は最初に五条まで開通し、三条まで延長されたのが大正4年、以来、京阪電車と市電の平面交差が60年近く続けられて来ました。市電が消えて、京阪電車が地下に潜って、川端通が拡幅されて、すっかり付近の様相は変わったものの、改修された南座、菊水ビル、東華菜館など、また四条大橋から見る右岸の街並みなどには、50年前と変わらない風景があります。これも京都ならではと言えるでしょう。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑥

四条京阪前  ①

急行運転がはじまった午前7時過ぎ、街には朝陽が射し込み、そのなか、1系統の赤い系統板がいっそう映える。背後の四条京阪でも人の波が。

祇園を出て、四条線に入ると、そこは祇園の繁華街のど真ん中。一力茶屋の赤いべんがら色の土塀が続き、いまも四条通にその歴史を映しています。花見小路は石畳になり、無電柱化されて、風情のある通りに改修されましたが、当時は変哲もない通りで、馬券売り場へ向かう無彩色の集団が黙々と歩いている通りでした。繁華街はなおも続きますが、鴨川から西の四条通と明らかに違うのは、いかにも祇園らしい、伝統的な食材や小物を扱う店が多いことです。一昨年の冬まで、インバウンド観光客が押し寄せ車道まで人がはみ出すほどだった四条通ですが、先ごろの写真展で、一週間、朝晩、この付近を歩きましたが、信じられないほどの閑散ぶりで、いまとなっては、あの異様な混雑ぶりが懐かしくもあります。やがて市電は「四条京阪前」に到着です。一力茶屋のある花見小路通を過ぎて行く。▲▲門に「節分」の文字が見えるが、市電は節分を待つこと無く、1月22日に廃止されている(昭和47年)。早朝の四条通、人もクルマも少ない祇園を発車し四条京阪前へ向かう7系統。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑤

「ぎおん」の7系統ツーマンカー時代の1610号と20系統686号、この二枚、何が違うでしょうか。右上の電停看板に注目、昭和43年撮影(上)では「衹園」、昭和47年撮影(下)では「祇園」になっている。この違いはなぜ?

「衹」と「祇」

この交差点の名称は「ぎおん」に違いはありません。ただ行政地名では、祇園町北側と祇園町南側であり、「ぎおん」は通称地名と言えるでしょう。開業から戦前までは「衹園石段下」で、市バス停留所名も四条線時代は同様の名称でした。短縮して「石段下」が、通りも良かったように思いますが、最近はあまり聞かない表現です。市電停留場の表記は、右の写真のように「衹園」ですが、現在では、バス停留所をはじめ、地図上の地名表記も「祇園」になっています。

「祇」と「衹」、どちらでも正解ですが、意外なことに、新字の印象を受ける「衹」が旧字であり、新字は「祇」なのです。流れを見ると、戦後すぐ、国語審議会は当用漢字を決め、「しめすへん」はすべて「示」になります。昭和23年になって、活字の標準となる当用漢字字体表では「しめすへん」は「ネ」となります。市電停留場名も、これに従い、「衹園」にしました。ところが平成12年になって、印刷に用いる字体の拠りどころを示す表外漢字字体表が答申され、その際に「衹」は「祇」に変更され、新旧が逆転したような改訂となったのです。コンピューターのフォントの基準となるJIS規格コードも、平成16年に「祇」が標準字体となります。事実、昭和の地図では「衹園」が多いものの、平成の地図では「祇園」が圧倒的です。冒頭の看板の字体も、この流れのなかで変更されたようです。Vista以降のOSは、この変更規格に合わせて「祇」と出て、旧字体を思わせる「祇」が逆に主流になりました。ただし、手書きの拠りどころとなる楷書、行書の一部(祥南行書など)、またモリサワフォントの秀英書体は、いまでも「衹園」です。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線④

廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ②

では、50年前の四条線最終日、昭和47年1月22日(土)の様子、後半に参ります。四条河原町新京極から7系統に乗って、一気に九条大宮へ行きました。ここで定番の東寺五重塔バックの市電を撮ります。何度か撮っていたものの、大宮~九条の曲がるシーンは今日が最後です。歩きながら北上、高校生の下校、新幹線交差も狙って、四条大宮まで歩き、お好み焼きで遅めの昼食としました。食後、西南角のビルに上り、交差点付近を写します。当時は“京の新宿”と呼ばれた四条大宮から、明日には市電が全く消えてしまう衝撃が、胸を締め付けます。7号系統に乗って四条通を西へ。右手に大丸。

九条大宮で曲がる、本日最終の7号系統、700形の「7」は比較的珍しい。▲▲東寺前では洛南高校生が大量に乗車。▲▲▲島原口付近、多くの系統が輻輳する。▲▲▲▲新幹線との交差を何度も試したが、それも最後。

壬生車庫へ行ってみると、車庫内には、廃車の700形間接車、1000形が集められていました。聞くと、夕方までに、他車庫からの廃車予定を壬生車庫へ移送するとのこと。土曜の午後とあって、小中学生が異様に目立ちます。立ち入り禁止の車庫内を、職員が監視を続けています。あとこの写真も実は最終日、サラ金ばかりが入っているペンシルビルに勝手に上がって撮った。すぐ近くの郵便局長をされていた、ベテランのKさんに、写真展でこの写真を見せると「ワシも撮ったでぇ」と言われた。

で分かったことですが、この時、関係者のみのお別れ式が密かに行われていて、ヘッドマークも用意されていたとのこと。いったん家へ帰ってから、午後9時に祇園で藤本さんと合流、夜景を撮ります。1時間ほど撮影してから、再び壬生車庫前へ。ますます人が増えて、しかも「市電をまもる会」が抗議集会を行うなど、騒乱状態のなか、21号系統の最終が出て行きます。この時、初めて「さようなら四条・千本・大宮線」のヘッドマークが登場します。続いて、23時10分発(所定)の1号乙系統がヘッドマーク付きで発車、壬生車庫付近では撮れないと判断して、千本三条へ移動して、最終をバルブ撮影。そのあと、運よく四条大宮から7乙の最終に乗り、四条堺町で下車、ここでもDRFCのメンバーと会い、所定23時40分発の四条線東行き最終となる、「臨」錦林車庫行きを、四条繁栄会が見送り行事、続いて西行き最終となる、壬生車庫で見送った1号乙系統が所定23時50分に通過します。混雑で堺町では不可能と判断、四条烏丸まで走って、安全地帯によじ上り、1号乙系統最終を撮ったのが、前号のトップ写真となります。祇園では何度もバルブ撮影を試みた。

今日も写真展に来られた方から、「四条線は急に廃止になったから、他線に比べて写真が少ない」との声を聞きました。私も、廃止が決まった1週間前から、急に撮り始め、最終日も、朝から晩まで追い回していたこと、やっと50年後に理解をした次第です。

千本三条でクルマのすき間からやっと最終電車をバルブ撮影、この付近で、近くにお住いの紫の1863さんが撮影されていて、勘秀峰さんともニアミスをしていたことが判明した。当時は縁もゆかりもない、他人同士、50年後のいま、四条線を語り合う時、不思議な縁を感じる。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線③

廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ①

今日が四条・千本。大宮線の廃止から丸50年、廃止反対の世論の絶頂期で、他線の廃止とは様相の異なる最終日となった。「さよなら」のマークは、最終電車のみに取り付け、私は最後の1号乙系統を、四条烏丸西行きの安全地帯によじ上って迎えた。時に昭和46年1月22日23時50分だった。

50年前の様子は、見つかった日記からよみがえった。7時30分に起きて、自転車で祇園へ行き、四条通や一力茶屋を入れて撮影、市電は乗客で一杯で、果たして明日から代替バスで輸送できるのか案じられた。

今日も写真展受付のため、朝、四条通を急いでいると、当会の勘秀峰さんとばったり出会い、話しながら写真展会場に向かっていますと「四条線がなくなって、今日で丸50年ですよ」と聞きました。私も漠然とは意識していたのですが、今日がその日とは初めて知りました。しかも、50年前も同じ土曜日だったと聞き、巡り合わせにびっくりしました。二人で会場に着くと、もうお二人が写真を熱心に見学中です。“いよっ”と挨拶されたのは‥‥。

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写真展「Rail-その先の世界へ」19日(火)から開場です。

一部の皆さまには、予告していましたが、写真展「Rail-その先の世界へ」、19日(水)~25日(火)の一週間、開催の運びとなりました。相変わらずの場当たり進行で、記事を書いている現在も、必死になって準備を進めています。

今まで、私もたくさんの写真展を経験してきましたが、小さな写真展を除いては、人と組んでの共催でした。共催は、それはそれで大きな意義はあるのですが、どこか人に頼っていた甘えがあったのではと思っていました。一度、自分だけで好き勝手な写真展をやりたい、と以前から思っていたところ、写真展会場から思っても見ない好条件で話をもらったのは、昨年11月、急に進めざるを得ない状況となりました。それから、2ヵ月余り、外での活動は断って、準備に専念しました。“一人で好き勝手にやる”と言った以上、もう後には引けません。手助けの申し出も断って(幸か不幸か、申し出は一切ありませんでしたが)、何をするにも、すべてが一人、歳を取るということは、こうもドン臭くて、間違いが多いものと痛感した準備作業でした。手作り感、素人感いっぱいの写真展になりそうです。京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京阪「祇園四条」下車、東へ5分)でお待ちしています。  一昨年9月、緊急事態宣言が解除されて、ホント久しぶりに外出し、夕方に越美北線に乗った。列車の後部から見ると、レールの先の陰陽が面白く、思わずシャッターを押した。“コロナ禍の暗い世界から、未来の明るい光が見えるようや”とお知り合いがヨイショしてくださった。“これやっ”、先にプロモート写真が決まり、テーマは後付けとなった。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線②

祇園〈2〉 ブランドナンバー「1」

前回〈1〉で、四条線を走っていた1系統は、文字どおりのファーストナンバーと記しました。衹園-百万遍-千本今出川-四条大宮-衹園と市内中心部を循環する系統でした。ほかの都市を見ても、東京都電では、品川駅前と上野駅前を結び、銀座通を貫通する系統が1系統であり、大阪市電でも、阿部野橋から四つ橋筋を通り大阪駅前に至り、堺筋を通って阿部野橋へ戻る都心の循環系統もやはり1系統で、「1」は、都市を代表する系統とも言えるでしょう。しかも京都の場合、壬生車庫の系統板の地色は赤で、ほかの車庫の系統板ように、車体色に同化する色ではなく、ひと目でそれと分かる鮮やかな色は、なおさら存在感がありました。ただ私の場合、1系統の循環コースのほぼ中央に住まいしていたので、ふだんの生活のなかで乗車する機会は、ほとんどありませんでした。

今回は、1系統に限定して、しかも四条線の廃止で、消えてしまった車両を集めてみました。こうして見ると、車両だけでなく、並走するバス、撮影のジャマをしたクルマまでも、50年前ならではの価値があります。

1600形ワンマンカーに改造されずに残った、戦前製の600形が4両いたが、四条線の廃止で廃車となった。最後は錦林車庫だったが、撮影時は壬生車庫で、「1」を付けて祇園石段下を曲がっていくのは、須田寬さんも絶賛された“青電”の雰囲気をよく伝えていた(以下、昭和43年5月)。

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 島秀雄賞受賞の陰に クローバー会の協力が!

昨晩、いつもお世話になっている、編集者のMさんからメールが入りました。「クローバー会でお世話になった号が受賞しましたでぇ~」。何のことか、最初は意味不明でしたが、よくよく聞いてみると、Mさんが手がけられている「レイル」116号の“まるごと北野線特集号”が、鉄道友の会の2021年島秀雄記念優秀著作賞(定期刊行物部門)を受賞したと言うもの。いゃ~、びっくりするやら、嬉しいやら。受賞はあくまで「著作」対象のため、116号の根幹記事となる、重要文化財に指定されたN電2号の調査・研究を行った4名の方への授賞ですが、表紙から始まって、巻頭のグラフページなどに、クローバー会の協力・連携が遺憾なく発揮された結果なのです。まず、重文指定のN電2号ですが、全廃以前に廃車となっているため、写真が見つかりません。それを、デジ青の掲示板に、米手さんが載せられた、お知り合いのN電2号の写真を発見、この写真が無ければ、本の完成も無かったと、Mさんも述懐されています。さらに表紙カラーや巻頭のグラフページは、大西友三郎さんのご遺族から預かった鮮明な写真で構成することができ、さらに不詳私も、キャプション作成や原稿の考証、写真提供などの協力をすることができました。「レイル」発行の雑誌社のブログにも、さっそく報告された。

これが探し出された「N電2号」、デジ青に米手さんが載せられた1枚の写真が、クローバー会の連携・協力によって受賞雑誌の巻頭を飾り、今回の栄誉につながった。なお撮影者の中村さんは、この本の完成を見届けられたあと、昨年7月に亡くなられている。ご冥福をお祈りする次第である。