ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈9〉

夜行列車に乗って東北を一気に南下、米沢から米坂線に入って9600の牽く客貨列車を撮る。あれほど見かけた9600だが、この年には200両余りに減っていた。活躍場所は、動力近代化の遅れた北海道、九州に集中していて、本州では米坂線を受け持っていた米沢・坂町機関区の9600ぐらいだった。長い貨物を牽いて、手ノ子を発車する59661

2月10日(木)米坂線でキューロク三昧

米沢 5:38→羽前沼沢 7:31  121D  キハ55 28

羽前沼沢 10:52→手ノ子 11:08  126D  キハ55 140

手ノ子 19:07→今泉 19:25  132D  キハ58 97

今泉 19:41→坂町 21:05  急「あさひ2号」  キハ58 628

坂町 23:46→新津 0:36  急「鳥海3号」

(新津駅待合室でネ)

米沢から始発の米坂線DCに乗って羽前沼沢へ向かう。途中の羽前椿で交換の122レを待つ(左)。

▲▲交換時間も十分にあるので、122レの発車を写してからDCに乗車(下)。

羽前沼沢に到着、対向ホームには7160レが待ち受ける。坂町区の59661が牽引。

羽前沼沢から伊佐領寄りに歩く。勾配を下って来た、形式入りナンバーを付けた49681の牽く161レと出会う。

▲▲続いて162レが69677に牽かれて25‰勾配を上がって来る。

 

羽前沼沢10:52発のDCで手ノ子まで戻る。米坂線の旅客は、SL、DCが半々で、撮影地への移動にはDCを使うように計画、手ノ子から宇津峠に向けて歩いて、29622の牽く163レを撮影。手ノ子は、前年の冬にも来たことがあるので、沿線はだいたい知っていた。ゆるやかなカーブが続いて、山里のなかを峠に向かって行く。どこで撮っても絵になるところだった。49632の牽く125レ、貨車を後部に連結した混合列車だった。

夜行の疲れも出てきて、昼過ぎには駅に戻り、交換シーンを撮るため駅撮りに専念。まず、7165レが59661に牽かれて到着。

続いて128レが到着して、9600同士の交換シーンとなる。撮り方に迷ったが、手前に貨物をチラリと入れて、その向こうを旅客が過ぎる構図とした。形式入りの49681だった。

 

 

 

 

 

 

7165レの発車、ゆっくりした発車で、フィルムカメラでも数枚の連続シャッターが切れる。166レが到着、ケッタイな9600だと思ったら、煙突がえらく短い。かつて米坂線の9600は、独特の集煙装置を取り付けていた。それを撤去した際、短くカットした煙突のまま残ったようだ。

 

 

 

 

夕方近く、167レが盛大な煙を上げて発車。

 

 

 

 

 

 


16:48に130レが到着、こんな寒村にも、仕事帰りの数人が乗降して行った。“手ノ子”というのもケッタイな駅名だが、宿場町の荷負い人夫を“手ご”と言い、“手ごの町”が訛って“手ノ子”になったらしく、昔から峠の麓の宿場町として栄えたという。

129レが急行「あさひ2号」の通過待ち、通過の際に10秒露光、急行の光跡を背後に入れた。10秒露光では煙は流れるが、機関士はちゃんと止まっていることが確認できた。168レを牽いて来た29622を30秒でバルブ撮影、交換列車で賑わった手ノ子だが、この年の秋には貨物の扱いも廃止され、現在では交換設備もなく、一面一線の棒線駅になっているらしい。もちろん無人駅で、乗降者数も極めて少なくなっている。

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈9〉」への1件のフィードバック

  1. 米坂線の車窓が好きで、社会人1年目の夏休みの1983年夏の終わりと、人生に迷い始めた2002年の同じ頃に乗っています。
    2002年の米沢放浪の写真は、今見ても暗いので1983年の方を出しておきます。
    米坂線のキューロクの活躍は良かったですね。高速運用の要らないが中距離で、貨物もある路線だったので、老兵の働き場所にピッタリ。
    筑豊の9600の中に米坂線から来たカマは、異色だったのですぐに判りました。
    始発駅の米沢は、越後の名家上杉氏が徳川時代の初期に転封された苦難の場所ですが、ここには家臣の直江義続の足跡、墓所もあり「花の慶次」で魅せられた私は米沢に泊り、市内散策と米坂線の車窓を再び、楽しみました。
    あれから20年が経ち私も老境の入り口ですが、もう一度乗っておきたい路線の筆頭ですね。

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