しなの鉄道をチラ見する 〈上〉

スカ色復刻の115系

しなの鉄道では、所有する115系電車を国鉄時代の車体色へ復刻化を進めています。開催中の「信州デスティネーションキャンペーン」の一環で、4月には「初代長野色」(白地に緑・赤)、5月に「湘南色」に塗り替え、このたび、3本目となる「横須賀色」(スカ色)の編成が登場しました。同社の115系S16編成3両編成を青15号、クリーム2号の横須賀色に戻したものです。初日の7月29日は、戸倉で出発式が行われたあと、戸倉~軽井沢で1往復が臨時電車として運転され、折り返し時間を利用して、軽井沢駅で撮影会を開催しました。中央東線のスカ色115系は姿を消しており、唯一となったスカ色115系を撮りに、初日、トンボ帰りで軽井沢へ行ってきました。

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 夏の思い出2017-3 「はしだてビーチ」

前掲の江若鉄道で行く湖水浴は、京都から近いものの、琵琶湖の水は、汚れ放題のうえ、ナマ温かく、砂浜も狭くて、とても快適な水泳場とは言えませんでした。やはり、海の魅力には勝てません。“水のきれいな日本海へ”の国鉄キャッチフレーズに誘われて、丹後・若狭の海へ行く客が増加していたのも、この頃で、大阪・京都からは、多数の臨時列車が運転されました。 そんな中で、昭和42年から、京都から宮津線天橋立へ向けて、寝台車を利用した冷房付きの臨時急行「はしだてビーチ」が走り始めました。本欄でも断片的には紹介しましたが、改めて「はしだてビーチ」の歴史をたどってみました。昭和42年7月21日から走り始めた「はしだてビーチ」、京都駅2番ホームから発車した。向日町からEF58に牽かれて駅東の引き上げ線で転線し、2番ホームに据え付け、福知山区のC57が連結された。

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 夏の思い出 2017-2  江若の水泳列車を撮る

前掲の朗読劇へ行くため湖西線の電車に乗ると、目は自然と窓外の江若の跡地を見ていました。廃止されて48年目の夏、思い出すのは水泳列車を撮りに行った時のことに行き着きます。撮影地は、決まって京阪石坂線南滋賀駅から湖岸へ5分ほど歩いた、江若の滋賀駅の南側でした。日影の全くない、カンカン照りのなか、田んぼのど真ん中で数時間、通過する水泳列車を写したものでした。自宅から1時間少々で行けるところで、水泳列車は、この場所以外では撮ったことがなく、私にとっては定番の撮影地でした。またまたの江若ネタですが、今まで発表したことも無い写真も含めて、昭和43・44年に滋賀駅付近で撮った水泳列車を総ざらえします。

滋賀駅の南、田んぼの中を行くDD1351+1900系客車4両の水泳列車。1900系客車は以前快速列車にも使用されていたが、快速はDCに置き換えられたため、活躍の場は年に数日の水泳列車のみだった(昭和43年8月4日)

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 江若鉄道“生みの親” 安原仁兵衛の思いを知る

少し前になりますが、7月9日、滋賀県高島市の藤樹の里文化芸術会館で行われた朗読劇「江若鉄道の生みの親 安原仁兵衛物語」に行ってきましたのでレポートします。これは、鉄道が無く不便な生活を強いられてきた湖西地方の悲願を達成するために、鉄道敷設に生涯を捧げた安原仁兵衛の生涯を語る朗読劇です。たまたまチラシに私の写真を使っていただいた縁で、招待券をいただき、日曜日の午後、湖西線に乗って安曇川まで行きました。同館は、以前にも江若鉄道展があり、クローバー会会員とともに観覧に行った場所でもありました。

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 50年前の撮影地を歩く -17-

国府津

50年前、御殿場線にはD52の牽く列車が走っていました。その始発駅が国府津であり、D52の基地である国府津機関区も駅の裏手にありました。D52と言えば幹線の貨物用であり、旅客列車も牽引していたのは、ここ国府津区のみでした。国府津は、東京から僅か80キロほどのところ、こんな近郊にD52が働いていたとは、その時代を知っている人間からしても、今から見るとにわかに信じられないことです。50年前の高校3年生の夏休み、関東方面に向かいました。一番の目的は、C62「ゆうづる」を撮ることにありましたが、夜行列車に乗って、真っ先に訪れたのが国府津でした。御殿場線の電化も翌年に迫っており、最後のD52の撮影をしました。
国府津駅5番ホームに停車するD52236の牽く御殿場線の旅客列車、右側のホームに放置されているのは、当時私が使っていた青色のリュックサック。
同地点の50年後、基本的な駅構造には変化はないから、車両が代わっただけで、当時の面影がまだ感じられる。古レールを使った支柱も健在。

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 夏の思い出 2017-1 祇園祭と京都市電

すっかり「デジ青」からご無沙汰の毎日ですが、外部の愛読者からは「最近、投稿が無いのは、身体でも悪いのか」と心配の連絡がありました。いえいえ元気にしていますよ、ご安心ください。“生きている証し”のためにも、せっせと投稿を続けます。
さて京都は祇園祭の時期を迎えました。DRFC時代なら、前期の試験も終わって“さぁ夏休み”の期間で、京都の学窓を巣立った人間にとっては、祇園祭は何とも言えない解放感・期待感が入り混じった、特別な祭りだったと思います。そんな祇園祭も、齢を重ねると、すっかり観光化した祭りに反発もあって関心が薄れ、この10年以上は行ったことがありませんでした。ちょうど埼玉県から京都へ戻った会員のSさんも、自身のブログで30数年ぶりに祇園祭へ行ったと述懐されています。
今年は、宵山の昨16日、趣味会合の帰りにホント久しぶりに、山鉾の立ち並ぶ烏丸通、四条通を歩き、しばし宵山の雰囲気に浸ることができました。若い世代が圧倒的に増えたこと、そして露店の数の多さにはびっくりしました。

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 「トレランス8号」 三陸鉄道を走る 〈下〉

釜石から戻りとなる「トレランス8号」は釜石18時10分発、移りゆく車窓は、次第に夕闇に包まれようとしていた。

往きの「トレランス8号」は15時25分に終点の釜石に到着しました。釜石と言えば、駅前に新日鉄釜石製鉄所があり、巨大な煙突から煙を吐き出していた40年前の印象が忘れられません。その後、高炉もなくなり、今では線材を生産するだけの一部門になり、工場は大幅に縮小されています。釜石駅周辺も津波被害がありましたが、ほとんど感じられないほどに復旧していました。この釜石駅ホームで本日のもう一つのイベントが行われようとしていました。

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 「トレランス8号」 三陸鉄道を走る 〈上〉

三陸鉄道南リアス線の恋し浜駅に停車する、佐竹さん貸切列車「トレランス8号」、レトロ調車両36-R形が充当された。時間を掛けた、ゆっくり旅で、まさにトレランス精神あふれる列車となった。
佐竹保雄さんの貸切列車「トレランス8号」が、6月11日に三陸鉄道南リアス線盛~釜石で運転されました。「トレランス」号は佐竹さんが皆さんを招待し展望車を連結した京都発京都行きの特別列車で、1989年に運転を開始して、ほぼ一年ごとに運転され、1996年の7号で完結を見ました。
その後、佐竹さんは、震災復興を願って毎年「東北展」を開催され、三陸鉄道の南リアス線全線開通時にも、自ら撮影に出掛けられるなど、とくに三陸鉄道とは強い絆が生まれ、20年ぶりに場所を変えて「トレランス号」の復活運転となったものです。クローバー会でも参加者を募ったところ、私と、西村さんご夫妻の計3名が参加することになり、本隊の約30名と現地で合流して乗車を果たしました。車中では、“震災の語り部”から当時の様子を聞いたり、そのあとはバスに乗り換えて、佐竹さん思い出の地や震災遺構を見学したりと、震災後6年目を迎えた現地でその思いを新たにしました。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -9-

西舞鶴の5両のC12は、西舞鶴、東舞鶴駅の入換のほか、勾配区間の補機、小浜線松尾寺にある日本板硝子の専用線の入換と、地味なC12としては、大活躍のシーンを見せていた。

D地点 〈東舞鶴〉
白鳥峠を越えると、舞鶴線、小浜線の分岐駅となる東舞鶴に到着します。東舞鶴駅は、切欠きホームも含めた二面四線の構造で、西舞鶴と似た構造です。側線が多いのも同じで、機関区こそありませんが、転車台、給水タンクもあり、変化のある駅風景を提供していました。東舞鶴は、軍港として発達したため物資輸送のため港へ向かって多くの引込線が伸びています。そのなかで、通称、中舞鶴線(正式には舞鶴線の支線扱い)は、兵員輸送もあって大正8年から旅客営業を行っていました。珍しいのは、東舞鶴を出ると、西舞鶴方の引上線に突っ込み、スイッチバックして中舞鶴方面に向かっていました。当時、旅客は5往復、C12の貨物が1往復ありましたが、昭和47年10月に廃止されます。昭和43年10月のお召運転時に初めて東舞鶴を訪れ、これから牽引するC58223〔豊〕+C5856〔西〕を写す。区への出入りは全く自由ながら、ロッドを揃えて公開するサービスはなかった。お召を撮影して、駅に戻ると、小浜線内を牽いてきたC58171〔敦一〕が日章旗も畳んで静かに休んでいた。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -8-

西舞鶴~東舞鶴での初撮影は、お召列車だった。東舞鶴で牽引機が交代したお召は、C58223〔豊〕+C5856〔西〕の重連で白鳥峠を越える。この日、お召は、若狭高浜から豊岡まで運転された。以前の本欄ではカラーを載せたので、今回は手持ちで連写したモノクロを(昭和43年10月)。

C地点〈西舞鶴~東舞鶴〉

舞鶴の市街地は、城下町・商港として発展した西舞鶴と、軍港として栄えた東舞鶴に分かれ、かつては舞鶴市、東舞鶴市と、別の市でした。二つの市街地を分けるところにあるのが白鳥峠で、距離は短いながらも、両方向から25‰勾配が続き、前補機、後補機など、蒸機の活躍が見られました。
以前のデジ青でも記しましたが、昭和43年10月の福井国体でお召列車が運転され、あわせて兵庫・京都北部の行幸もあって、同区間で運転されたものです。運転された当日は、同学年のM君ともに東舞鶴へ行き、駅構内で待機中のお召機を写した後、国道沿いを峠へ向かいました。予備知識もなく、適当に歩き出したのですが、やがて、国道と線路が平行し、築堤となった線路を見下ろす場所に行きつくことができました。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -7-

夕方の西舞鶴駅、盛大な煙を吐いて、重連の牽く列車が発車して行った。まだ暑さが残る。窓は全開だ(昭和45年8月)。
B地点〈西舞鶴〉
つぎの撮影地はB地点、と言っても駅間ではなく、西舞鶴の駅構内です。機関区の所在する西舞鶴へは高校生時代に訪れて以来、何回か行き、宮津線への乗換え時間に発着する列車も撮影してきました。駅は宮津線用の切り欠きホームも含む二面四線構造、西側に機関区、東側に広大な貨物側線があり、地方の中枢駅の典型的な駅構造でした。また地図を見ても分かるように、臨港線や工場の引込線が多くあり、貨車の出入りも活発でした。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -6-

“昼寝”している寝台車を活用した全車指定の海水浴列車、臨時急行「はしだてビーチ」。冷房付き客車はグリーン車、寝台車、食堂車に限られ、座席車では皆無だった時代、いちばん暑い時期に冷房付きの列車に乗れるのは画期的で、乗車率も高かった。舞鶴線内は福知山区のC57が牽いた(昭和44年8月)。

A地点 〈真倉付近〉
写真展も終わって二週間余り、まだ高揚感が覚めやらぬところですが、少し間の開いたデジ青投稿に集中することにします。「地図と撮影地」シリーズの第二回目は、京都からは日帰り圏内の舞鶴線真倉~西舞鶴~東舞鶴としました。高校生の時から機関区訪問で西舞鶴などに下車することはあっても、駅間の走行中を撮影に行ったのは、昭和44年の大学2年の時でした。添付の地図は、その後に購入の多色刷りですが、当時買った地図は、まだ右書きの一色刷りの旧版地図で、未知への土地へのイメージを大きく膨らませたものです。

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 写真展「鉄路輝く」 滞りなく終了

5月3日から開かれていた第7回クローバー会写真展「鉄路輝く」は、86さんから報告のように、5月9日、千秋楽を迎えました。この日も朝から熱心な来場客があり、会員とともに、あの話この話に盛り上がりを見せていました。そして午後4時、この日はこれで終了、即撤収で、つぎの設営が待ち受けているため、許された時間は30分、そこは結束力で鳴らしたクローバー会、某責任者の号令一下のもと、逆らう者もなく、てきぱきと作業をすすめ、30分後にぴったり作業を完了、“立鳥跡を濁さず”のごとく、10分後には写真展会場を出て現役生の新町ボックスへ額を戻し、ゲストの写真・額は私宅へ運び込み、午後6時には、撤収作業を完了しました。お世話になりました会員の皆さんに厚く御礼申し上げます。

黙々と、しかし効率的に作業を進める会員たち。静岡県や三重県から遠路駆け付けた会員もいて、一糸乱れぬ作業ぶりで、予定どおりに終了した。

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 クローバー会写真展 あと2日!

クローバー会第7回写真展「鉄路輝く」、5月3日(水)から開催し、連休期間も終わり、展示も一区切りを迎えました。連日、多くの皆さんに来場いただいて、会員との対話の輪があちこちで生まれています。ネットの世界では味わうことはできない、双方向の交流が続いています。連休も終わって展示も残すところ、あと2日、まだの方、もう一度、その感動を味わいたい方、ぜひこの2日間にお越しいただき、二度と見られない珠玉の写真をじっくりご覧ください。
  5月3日(水)~9日(火)11~19時(最終日9日は16時で終了)
  京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京つけもの「西利」祇園店3階)

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -3-

キハ20系(2)

キハ20系での派生形式として、寒冷地向けのキハ21・22と、機関2台の強力型のキハ52がありました。当時走っていた多くのDCのなかで、1900生さんはキハ20系、とりわけキハ52が好き、とコメントをもらいましたが、私はキハ22が大好きでした。ドアが車端に寄ったうえ、窓が小さく、控え目ですっきりした側面、乗り込んでも急行型に遜色のない設備で、東北の北部、北海道でしか見られない希少性も憧れとなりました。
最北端に近い、利尻島を望む宗谷本線南稚内~抜海の海岸沿いを行くキハ22 307の338D、後部の運転室から顔を出す人物一人、よ~く見ると、なんとなく1年先輩のTさんに見える。この時は、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバーの戦闘的な4人が、勝手に保線小屋に泊まり込んだのだったが、日和見会員(?)も日中には多くが参加して撮影会状態となったため、列車で移動を重ねていたのだった(昭和44年9月)。

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -2-

昭和30年前後、前述のキハ10系に続いて、改良が加えられた新系列のDCが続々投入されることになります。当時の軽量客車の技術を採り入れて、車体断面を拡大の一般車として登場したのがキハ49000(のちのキハ20)でした。走行機器はキハ10系を踏襲しましたが、座席の構造や間隔も大幅に改善されて居住性が格段に向上しました。前回、キハ10系が前に停まれば“ハズレ”でしたが、キハ20系はその逆で“アタリ”でした。昭和32年に登場以来、キハ20系は、一般形DCの主力として、最終、昭和41年までに1126両が製造されることになります。日本一の積雪量を記録したこともある豪雪地帯の飯山線森宮野原付近を行くキハ20系(昭和47年2月)。

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 明日から 新しい阪急・嵐電西院駅

京都の西大路四条交差点、西院で、阪急西院駅の新改札口2ヵ所が完成、嵐電西院駅もホームが移設され、明日25日から供用が開始されます。今まで西大路四条西南角にしか改札口の無かった阪急駅では、河原町方面ホーム東端に北改札口が新設され、四条通の北側に移設された嵐電駅の嵐山方面ホームに接続されます。また梅田方面ホーム東端にも、南改札口が新設され、嵐電駅の四条大宮方面ホームと接続されます。

これにより、交差点を渡って徒歩連絡を強いられていた阪急・嵐電接続が、梅田方面から嵐山方面へ、逆の嵐山方面から梅田方面への乗り換えが直結され、円滑に移動できるようになりました。
四条通の北側、ビルの壁面に移設された嵐電嵐山方面ホーム、このビル用地は、もともと嵐電のもので、マンション「ランフォート西院」を建設、地下部を改札口とした。

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -1-

最近はもっぱら家に引き籠って、第二の人生で最大の事業?と位置づける写真・資料のアーカイブス化に精を出しています。対象は、もっぱらモノクロネガが中心で、カラーフィルムには、なかなか手が回りません。理由のひとつは、とくにカラーポジの場合、初期のものは劣化が進行し、データ化しても手遅れ感もあって、優先度が低くなっていました。しかしスキャン・レタッチの技術もわずかながらも向上し、何とか見られるようになって来て、 少しずつカラーポジのスキャンも進めるようになりました。

始めてみると、国鉄ではDCを多く撮っていることに気づきました。なるほど、蒸機を撮りに行っても、蒸機はモノクロ中心になりますが、その合い間にやって来るDC列車はカラーで、となります。あくまで“ついで撮り”のカラーですが、集めてみると、案外、当時のDCの事情が伺えるかなと思い、カラーで撮った昭和の時代のDCを系列別に見ていくことにしました。
伯備線井倉~石蟹の高梁川に沿う鉄橋を渡って行くキハ17×3+キハ20の列車。伯備線のハイライト区間も路線変更で今は見られない(昭和46年9月)

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 50年前の撮影地を歩く -16-

米子(2)
米子機関区での撮影を終え、米子駅から東へ歩いて、最初の踏切を渡って南側へ行くと、民家に囲まれて日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅がありました。
法勝寺鉄道として大正13年に開業、米子市(当時・米子町)から法勝寺までと、途中から母里へ向かう支線がありました。社名を何度も変えながら、鳥取県でバス事業を行う日ノの丸自動車の電車部門となり、訪れた当時は、米子市~法勝寺12.4キロを16往復の電車が結んでいました。地方私鉄がどんどん廃止されていた時代、ご多分に漏れず、法勝寺線も廃止の申請が出されており、訪問した翌年、昭和42年5月に廃止されました。廃止時の車両は、電車4両(デハ201・203・205・207)、客車6両(フ50・51・52・53・55、フニ100)、貨車2両がすべてでした。 米子駅の裏側に隠れるようにしてあった日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅、当時はバス社が経営する鉄道だった。

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