江若鉄道の思い出 -高島展- 開催中 

今春、大津市歴史博物館で開催された「江若鉄道の思い出」展は好評のうちに幕を閉じましたが、このたび、江若鉄道のもう一つの地元である高島市に会場を移し、「江若鉄道の思い出-高島展-」が、高島市安曇川町の「藤樹の里文化芸術会館」で開かれています。会期はわずか8日間のみ、忘れないよう、ぜひ足を運んでください。

江若鉄道の思い出ー高島展ー
   会期 9月5日(土)~13日(日) 9~17時 7日(月)は休館
   会場 藤樹の里文化芸術会館(JR湖西線安曇川駅下車、東へ徒歩15分)

今回の展示は、大津市歴史博物館の展示の中から、高島市内の写真を中心に再構成し、さらに新しい写真も追加しています。もちろん西村さんの高島町、白鬚のジオラマも再展示、クローバー会有志は、開催初日の9月5日(土)、見学に向かいました。
sP1090894 sP1090871午前10時前、JR湖西線安曇川駅に集まった7人は、クルマに分乗して会場へ。想像していたより広くて明るい会場、充実した展示に目を見張った。天井も高く、ゆったりした気分で見学することができた。当時、鉄道と言えば江若しかなかった高島市のこと、江若への思いは、さらに強いものがあるだろう。三々五々、来場された方々は、食い入るように写真の一点一点を観覧されていた。さて、新しく展示されたなかで、注目は本会会員の大阪通信員さんの撮影になる「近江今津の風景」だ。全点カラー撮影である点が特徴で、車両の塗色や、駅前に並ぶバスやクルマまでもがカラーでよみがえり、終着駅の雰囲気を伝えている。当時から財を成し贅を尽くされた大阪通信員さんらしい写真展となった。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -4-

「ムーンライト」の数々

「ムーンライト」とは、春・夏・年末年始に運転される臨時夜行快速の愛称である。初めて愛称として使われたのは、国鉄時代、昭和61年の新宿~新潟の団体快速と言われる。その翌年からは「ムーンライト」の愛称で定期の快速列車となり、のちに「ムーンライトえちご」となった。以後、臨時夜行快速の愛称として「ムーンライト」は各地で設定され、とくに京都・大阪から中国、九州、四国へ向かう「ムーンライト」が多数設定された。
平成8年には、“大垣夜行”と呼ばれていた東京~大垣の夜行普通列車に指定席を設けることになり、マルスで列車識別の必要性から「ムーンライトながら」の愛称となった。その後も、中央東線に「ムーンライト信州」、「ムーンライト仙台・ムーンライト東京」などの新しい列車も設定された。
しかし現在では、JR西日本に発着する「ムーンライト」はなく、設定日が年々短縮された「ムーンライトながら」「ムーンライトえちご」が辛うじて走るのみとなり、指定券だけで乗れる青春18きっぷ御用達列車もずいぶん寂しい状況となった。臨時列車 (7)ムーン九州H2山崎を走った「ムーンライト」の代表、「ムーンライト九州」、EF65PFがリゾート用14系座席車を牽く(平成2年8月)。平成元年の「ふるさとライナー九州」運転がルーツで、翌2年には、京都~博多の「ムーンライト九州」(年末年始のみ「ふるさとライナー九州」で残る)となり、おもに青春18きっぷ有効期間に合わて運転された。客車は14系座席車で、夏のみスキー臨用のシュプール色が使われ、それ以外は14系一般車、波動の大きい年末年始は12系も動員された。平成14年には年末年始も含めて「ムーンライト九州」に統一された。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -3-

短期間で終わったリゾート列車

避暑・登山などの臨時列車「リゾート」は、同じ夏臨の「ビーチ・マリン」に比べると、その歴史は浅い。大阪・京都発で見ると、国鉄時代に避暑・登山の専用臨はなく、JR化以降、昭和63年の白馬・信越方面へ直通列車「リゾート白馬」「リゾート信越」が運転されたのが初めてだった。その後、軽井沢方面へ余剰気味の583系を使用した夜行「シャレー軽井沢」、485系の昼行「スーパー雷鳥 信越」などが運転され、拡大を見せる。平成に入ってからは、平成2年に富山地方鉄道乗り入れの「リゾート立山」「リゾート宇奈月」を新設。「シャレー軽井沢」も二段寝台化されるなど、平成4年度は「リゾート」利用者数が最高の4万人を記録したと言う。しかし、その後の景気減退や阪神大震災の影響もあって、需要の微減が続く。平成7年には、女性専用の寝台車を連結した「リゾート白馬」を新設したが、運転直前に大糸線が豪雨で不通になり、一回も運転されないまま全面運休になる不運も重なった。結局、平成10年までに、JR西日本の「リゾート」はほぼ消滅してしまった。臨時列車 (19)スパ雷・立山・信越

定期の特急「スーパー雷鳥(サンダーバード)1号」を夏季に区間延長してリゾート地へ向かう臨時列車を運転した。これは、クロ481-2001先頭の「スーパー雷鳥 立山・信越(サンダーバード)」と長ったらしい愛称。平成元年の「スーパー雷鳥 信越(サンダーバード)」が始まりで、富山行きの「スーパー雷鳥(サンダーバード)1号」を延長運転する形で、信越線経由の長野行きとして運転された。この撮影時の平成4年には、付属編成を富山地方鉄道乗り入れの立山行き「スーパー雷鳥 立山(サンダーバード)」として運転・併結したため、この愛称の誕生となった(平成4年8月)。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -2-

その後の海水浴臨時列車

山崎を走る海水浴列車は、平成2年(1990年)に顔ぶれが変わる。まず海水浴臨の愛称が「ビーチ」から「マリン」に変更された。また、JR西日本の年史によれば、その前年、鉄道本部に企画推進部が設置され、鉄道営業機能の拡充を図ることになった。同年開催の「花と緑の博覧会」も控え、臨時列車も目的別にターゲットを絞り、旅行需要の発掘をめざした。新たに南紀方面に「マリンくろしお」や近郊地の「サマーびわ湖」なども新設されている。経路なども見直し、若狭方面へは従来の綾部・西舞鶴経由に加えて、今までにはなかった湖西線・敦賀経由の列車も新設された。なおJR西日本では、これら臨時列車を「営業施策列車」と呼び、その内訳は「シュプール」「ビーチ・マリン」「リゾート」「味めぐり」「ホリデー」に分けられている。臨時列車 (20)マリン若狭H4「マリン」に変更された海水浴列車、その代表が「マリン若狭」、平成2年から大阪発で、湖西線・敦賀経由の小浜行きの臨時急行として設定され、初めて181系DCが使われた。同じ地域を走る特急「あさしお」もまだ181系であり、特急と同じ設備の臨時急行であった(平成4年8月)。

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 山崎を走った夏の臨時列車 -1-

先日の掲示板で山科を走った昭和40年の臨時列車を掲載しましたが、臨時列車の運転期間などを調べるにつれ、その記録が少ないことを痛感しました。昭和の時代、年末年始、夏季を中心に、多くの臨時の優等列車が運転され、定期列車には見られない趣味的にも興味深いものがありました。定期列車なら「列車名事典」「特急・急行のすべて」と言った書籍も出ていますが、臨時列車を扱った書籍は見たことがありません。列車研究の基礎となる時刻表においても、特発的な臨時などは支社・管理局単位で設定したりして、記載されていないものもあり、また私の場合、時刻表の保存は改正号に限定し、夏季旅行に使った時刻表は廃棄するのが通例で、ほとんど保存号がなく自ら調べる手掛かりもありません。
1980年代、居住地の近くの東海道線神足(当時)~山崎にも、この季節、多くの臨時列車が運転されて、よく撮影に行きました。時間帯が集中しているため、自転車でパッと行って、パッと帰ってくるパターンでした。地元を走った臨時列車は、地元の人間が記録しなければと思った次第です。夏の臨時列車(急行・快速)に限定して、断片的ですが、まとめてみました。
海水浴場へ向かう臨時列車
昭和40年代前半、若狭・丹後の日本海側の海水浴場へ向かう臨時列車は、すべて京都始発だった。そこへ大阪始発が加わったのは昭和42年から運転を開始した急行「わかさビーチ」である。当初はDCで、京都経由で小浜まで運転された。大阪湾岸の海水浴場が汚染で次つぎ閉鎖されたのと時を同じくしている。
続いて、大阪始発で日本海側海水浴場行きとして設定されたのが「丹後ビーチ」だった。この愛称は、もともと京都始発のDC急行として昭和43年に設定されたが、昭和49年から大阪発播但線経由の臨時となり、車両も12系客車に変更される。さらに東海道線・京都経由となり、山崎でも見られることになった(変更年不明)。
臨時列車 (4)丹後ビーチS59EF65PFが12系客車8両を牽く大阪発天橋立行き臨時急行「丹後ビーチ」(昭和59年8月)。天王山を望む、小泉川橋梁付近は、撮影スペースもあって、お気に入りの場所だった。現在は厳重な柵があって、立ち入りはできない。

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 丸善と京都市電

京都・河原町に書店の丸善が約10年ぶりに戻ってきました。「京都本店」と称するように丸善の旗艦店として、京都で最大級の書店デビューとなりました。先ごろ、乙訓老人にいただいた故・羽村宏さんの写真のなかから、かつての丸善が写り込んだ貴重な写真が出てきましたので、本日はそのご披露としましょう。
河原町蛸薬師「河原町蛸薬師」の前を行く京都市電。昭和30年夏の撮影と思われる。右手に見えるのが当時の丸善だ。京都における丸善の歴史は、明治5年に三条通で開店、梶井基次郎の小説「檸檬」で有名になったが、店は昭和15年に河原町蛸薬師に移転した。私もこの写真を見て、小さい頃の思い出が蘇ってきた。丸善の扱っていたのは、洋装品が中心で、書籍は洋書が多く、子どもは近づき難かった店だった。その後、昭和42年に6階建て、平成5年に8階建てを新築するが、平成17年に閉店してしまった。今回は、そこからやや北へ行った京都BALビルへ移転してオープンとなった。この写真は、京都市電の記録としても貴重で、900形907号はまだポール集電、昭和30年3月に901~915がデビューしているが、京都市電のビューゲル完了が同年末で、900形のポール時代はほんの数ヵ月の短い期間だった。後期の916~935は最初からビューゲルだった。そして河原町蛸薬師の電停、これは昭和38年に廃止されている。電停看板をも写し込んだ貴重な記録だ。

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 デジカメで遊んでみる -2-

車両を写してみた

デジカメの「ジオラマ」モード(または「ミニュチア」モード)は、画面に鉄道車両を入れることによって、さらに模型的、ジオラマ的に感じられます。今回は、車両を入れた「ジオラマ」モード撮影の一例を。 1332syo  “模型的”に見せる格好の車両は、やはり新幹線だろう。京都タワーの展望台から、京都駅を発車して鴨川に掛かるところを狙ってみた。ちょうど奈良線を越し、東海道線とも高低がある。車両の周囲により立体的に見える場所を選ぶのが、「ジオラマ」モード撮影のコツのようだ。

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 デジカメで遊んでみる -1-

駅を撮ってみた

最近のデジカメ機能の多様化には驚く限りです。キレイに撮るだけの基本性能は、とうに完成の域に達して、各社いかに独自の付加価値を加えるかに腐心しているようです。この付加価値、単なる“お遊び”では片付けられない興味深いものがあります。ここに採り上げる「ジオラマ」モード、または「ミニュチア」モードもそのひとつです。中央部だけピントを合わせて、周辺部はウンとボケを利かせ、実際の風景を、あたかもジオラマを撮ったような雰囲気に仕上げてくれます。以前は、撮った画像を、レタッチソフトで修整する必要があり、かなりの技量が求められましたが、いまはモードボタンひとつで簡単に撮れるようになりました。鉄道を撮ると、まさに9mmやHOのレイアウトを見る思いがします。P1060058syoトワイライトタイムの東京駅、東京中央郵便局を再生したKITTEの屋上庭園から、ライトアップされた丸の内南口を撮ってみた。復原されたドームを画面に入れて、駅前広場をボカした。自動車のライト、周囲のビルもぼかして、ジオラマの夜景風に仕上げた。

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 窓から写した駅・列車 -13-

道東-釧網本線・根室本線の窓から

窓から・北海道 (6)釧網本線川湯駅で交換する釧路発網走行き626レ、C58197〔釧〕+オハ6243+オハ6244+スユニ60301+貨車。列車以外にもいろいろな要素が写り込んでいる。まず駅舎は、昭和5年の駅開業のあと、同11年に完成したと言う。正面に白樺を使った三角形のファサードを持つログハウス風だ。近くに広大な御料地もあり、貴賓室も設けられた。いまは駅名が川湯温泉と改称されたが駅舎は健在で、数年前に訪れた時は、事務所はレストランとなり、足湯もあった。右手に見える山は、標高512mの硫黄山、駅から約3キロに位置して、硫黄の匂いが流れて来ることもある。現在も噴気活動をしている活火山が駅のこんな近くにあるのも驚きだ。そして右手にチラリと見えるのはスヤ393〔釧クシ〕、工事車のスヤ39は、マハネ29などの3軸ボギー客車を種車として、1~5、11、21、31の8両あり、この時代は5両が健在だった。宿泊可能な工事車で、工事があると、さまざまな駅に留め置かれていた(昭和43年9月)。

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 窓から写した駅・列車 -12-

北海道の旅から

しばらく休んでいた「窓から」シリーズ、再び続けます。座ったままで一歩も歩かず写した超安易な撮影ですが、車両だけでなく、何気ない周囲の光景が、雄弁に時代を語っています。夏にちなんで、涼しい北海道での一幕を。
窓から・北海道 (2)いま北海道の鉄道情報のひとつは、留萌線の廃止だろう。さらに苦しい状況に陥ったJR北海道が、留萌本線留萌~増毛間の鉄道事業廃止を発表した。同区間は大正10年に開業し、これにより留萌本線深川~増毛間が全通した。当時は留萌港からの石炭、木材、海産物の積み出しが盛んで、それらの物資の輸送で栄えたという。だが、石炭産業の衰退、沿線過疎化により鉄道需要が落ち込み、貨物輸送、急行列車も廃止となった。今回の留萌~増毛間はとくに利用が少ないと言う。さて、この写真は留萌線秩父別駅、今回は廃止を免れた深川-留萌にあり、列車は幌延発札幌行き急行「はぼろ」、キハ2716先頭の4連、当時、運転体系は深川-留萌-幌延と、留萌線、羽幌線が一体となっていた。時刻表も同様で、廃止される留萌~増毛は盲腸線扱いだった。まだ石狩沼田からは札沼線が、恵比島からは留萌鉄道が出ていた時代だ。「留萌」は、線名・駅名の表記は「留萠」だったが、平成9年から市名などに合わせて「留萌」に変更している(昭和43年9月)。

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 宇治へ「おとぎ電車」展を見に行く

今日は、つぎのイベントの打合せを京都駅前のホテルで行なったあと、懇意にしていただいている方から紹介された「おとぎ電車」のミニ写真展の見学に、JR宇治駅近くのサイトー写真館へ行ってきました。「おとぎ電車」は、京阪宇治駅から宇治川を2キロほど上流を起点にした延長3キロほどの610mm路線で、もとは工事用軌道でした。ダムの完成によって不要となり観光用に転換したのが昭和25年で、天ケ瀬駅から宇治川右岸を上流へ、途中に信号所をはさんで、終点、堰堤駅までの20分の乗車でした。しかし天ケ瀬ダムの建設工事が始まり、昭和35年5月限りで姿を消してしまいました。写真展では、高橋弘さん撮影の写真を中心に、地元の方が撮られた貴重な写真も交え、コンパクトながらも、地元ならではの見応えのある内容です。

ほとんど撮られていない「おとぎ電車」ですが、私がまだ仕事中に、ある外国人カメラマンの写真集の仕事をした時、コダクロームで撮られた鮮明なカラーを見た時の感動は忘れられません。また「青信号」に、どですかでんさんが書かれた「おとぎ電車」の記事がもとになって、「レイル」誌上でその全貌が解き明かされたのも、クローバー会員にとっては、忘れられない一件となっています。
1359syo宇治の老舗写真展で開かれている「おとぎ電車」展。貴重な写真が並ぶが、私としては、天ケ瀬ダムが工事中の際に撮られた写真の中に、はっきりと廃線跡が分かる小道が見られるのは初めての写真だ。いまでは廃線跡はほぼダムに沈んでいるため、貴重な写真だ。8月25日まで開催。

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 さよなら梅小路

150814_066syo_edited-1    ▲ラウンドハウスに掲げられた「梅小路蒸気機関車館」の表示も今月限り。
梅小路蒸気機関車館が、今月末で終了することになりました。しばらく休館のあと、施設や保存車両は、来年春にオープンする京都鉄道博物館に引き継がれますが、「梅小路」の名を冠しての営業は、あと10日あまりとなり、「さよなら梅小路」のイベントが行なわれています。昭和47年の開館以来、何度も訪れた館ですが、13日からはイベントのひとつ、蒸機の頭出しが行なわれており、たまたま来京された出版社のOさんと一緒に訪れて、最後の梅小路を感じ取ってきました。
150814_039syo頭出しのなかで、いちばん注目はC62の並びだろう。あのC62の1号機、2号機が顔を揃えた。生まれは同じものの、その後は、両機とも有為転変の人生を重ね、再び梅小路で顔を合わせた。京都鉄道博物館には、あと交通科学館から来たC6226も、博物館のプロムナードに置かれる。C62が3機も揃うと言う、なんとも贅沢な博物館だ。

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 50年前の撮影地を歩く -7-

丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (2)
「丹那トンネル」の名の響きは、それだけで少年時代に引き戻してくれる気がする。少年時代、鉄道図鑑でいつも見ていた鉄道トンネルの長さは、1位清水トンネル、2位丹那トンネルだった。そして、必ず添えられるのが、多くの犠牲者を出した丹那トンネルの難工事だった。「長さ7804m、大正7年に着工したものの、軟弱な地質や、大量の湧水によって工事は難航、67名の犠牲者も出して、昭和9年にようやく完成した」と書かれている。時代が過ぎると、まず北陸トンネルが開通して順位をひとつ下げ、そして新幹線が開業するや、次つぎ長大トンネルが開通して、順位を落とし、今ではいったい何位なのか分からないほどに陥落してしまった。そんな丹那トンネルの変転を感じながら、いつも熱海を通るたびに気になっていた場所へ50年ぶりに訪れた。丹那 トンネル (2)丹那 トンネル (1)50年前は、翌日も早起きして、丹那トンネルの真ん前で写した。丹那トンネルを出る宇野発東京行き急行「さぬき」、坑門の上部、扁額の両側には、2578、2594と数字が書かれている。これは、着工年と開通年を皇紀で示したもの。扁額とは別に、「丹那隧道」と書かれた木製の表示も、当時は掲げられていた。 続きを読む

50年前の撮影地を歩く -6-

今でも時折、東海道線を在来線で上下する身にとって、心ときめかせる車窓風景も多くあります。富士山はその代表ですが、晴れた冠雪のシーズンに限られ、何時でも見られるとは限りません。その点、長い丹那トンネルを抜けた瞬間、熱海の街がパッと眼下に広がる瞬間は、何にも代え難い、心をときめかせる車窓風景に映ります。とくに西から長い時間を掛けて来ると、箱根の山も越え、いよいよ東国に入ってきた思いが募り、見える景色も車内で交わされる言葉も違って、ちょっとした緊張感と、あと2時間足らずで上がりとなる安堵感にも包まれる瞬間です。
丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (1)
そんな、熱海へ50年前の昭和40年8月、家族旅行で行ったことがある。宿泊先が丹那トンネルに入る直前、伊東線来宮駅の左手の高台にあった円形のホテル、西熱海ホテルだった。元祖、トレインビューホテルのようなところで、部屋のベランダからは、前年に開業した新幹線を始め、東海道線、伊東線が収められた。ホテルは2006年に廃業し、その後も残骸が列車の窓から見えていたが、いまは建て替えられて、東急のリゾートマンション、ヴィラ熱海青翠になっている。
丹那トンネル (8)暮れるまでの間、さっそくカメラを携えて、線路端へ向かった。真下が来宮駅の構内で、まだ伊東線全線が単線の時代、列車の交換が見られた。構内の通行は線形の関係で、右側通行になっているのが特徴で、右は伊豆急下田発東京行き準急「おくいず」、まだ準急が幅を利かせている時代だった。左は熱海発伊豆急下田行き629M、伊豆急156号ほか7連。

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50年前の撮影地を歩く -5-余話

50年前の山科大築堤に対して、西村さんから「貨物列車も」とのリクエストをいただきました。なるほど、載せた写真は旅客列車ばかりで貨物列車は一枚もありません。ところが、撮影に行っても旅客列車だけで腹いっぱいになり、貨物列車はほとんど撮っていません。いまでこそ、貨物列車はすごい人気ですが、当時はほとんど顧られなかったような気がします。わずかな写真のなかから、50年前の貨物列車を偲んでみました。
山科50年前3この年に新形式のEF65が吹田第二機関区からデビューしている。EF60の三次車をベースに、歯車比の変更、新設計の制御器を積み、高速走行と牽引力の向上をはかった。その後、ブルトレ牽引のP型などの派生番台を生み、合計308両と言う電機の最大両数となるのだが、デビュー当時は、それまでのEF60と変わらない外観に、それほどの話題に上がらなかった。

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50年前の撮影地を歩く -5-

暑い毎日が続いています。私自身は、いままで関わってきた発表・イベントも一段落し、本ホームページへの投稿には絶好の機会となりましたが、構想だけはアタマを駆け巡るものの、この暑さではキーボードを打つ手が前へ進みません。でも、ここで一念発起、溜まった夏休みの宿題を一夜で片付けるべく投稿を続けます。

東海道新幹線開業後の山科大築堤
前回の「50年前-4-」では、東海道新幹線開業の前日、山科大築堤の様子をお伝えしたが、今回はその一年後、山科大築堤で定番の撮影ポイントに陣取った東海道新幹線開業後の記録を(いずれも昭和40年8月1日撮影、撮影順)。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業し、在来線も大きな節目を迎える。しかし、東京-大阪の電車特急こそ全廃されたものの、電車急行は多くが存置された。九州を結ぶ寝台特急・急行にも変動はなく、現在のような、新幹線開業によるドラスティックな変更は見られなかった。この時期、臨時列車も数多く運転されていて、まだ東海道線には、長距離列車が華やかに走っていた。        50年前9朝の光線を受けて山科を行く、東京発大阪行き急行「明星」、東京-大阪間の夜行急行(客車・電車)は、ほかにも「銀河」「金星」「月光」「いこま」があり、九州方面への夜行急行も加えると、10本が運転されて、夜行列車の全盛時代が続いていた。

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見学会&廃線巡り&大宴会 酷暑のなか行なわれる

夏真っ盛りの京都、最高気温38.5度を記録した8月1日、クローバー会の公式行事として、「電車王国」見学会、京津線廃線跡巡り、そして大宴会、と豪華3本立ての催しが行なわれました。その一端を手短に特派員レポートとします。

京都市岡崎のみやこめっせで行なわれている「電車王国」という大仰なネーミングの催し、タネを明かせば、乳幼児向けのNゲージやプラレールの運転ですが、その末席を当特派員制作の京都市電の写真展でお口直しをすることになりました。わざわざ来ていただくほどの値打ちはないものの、マルーン会長や86事務局長さんの肝いりで、公式行事として扱っていただくことになりました。15時、会場前に集まったのは16人、「視察」名目で入場料600円のところ、特別入場口から無料入場を果たすことができました。
P1090397s京都市電の写真展を見学をする面々、乳幼児とその親ばかりの会場に、突如、全員60歳以上の老齢者集団が会場に乱入したものだから、最初は、会場全体が凍りついたような雰囲気が漂ったが、そこは、すぐに溶け込めるクローバー会員、和やかななかにも、真摯な姿で写真展を見学をしていた。
約45分の見学ののち、次は近くの京津線廃線巡りに出発しました。もちろん廃線と言っても、地下化による地上線ではなく、開業時の迂回ルートの旧線を指しているところが、老練者集団らしいところ。東山三条東の古川町から出発しますが、もちろん現在では、ほとんどが宅地化されて痕跡らしいものはなく、道路を歩きながら、家の向きの違いを見つけては大喜びするという、まるで怪しい集団と化しましたが、一般市民からは通報されることもなく、炎天化の道を2キロ近く走破し、無事、ゴールの蹴上に到着しました。老人ばかりが炎天化を徘徊すれば、一人や二人の熱中症患者が出てもおかしくない状況でしたが、全員元気に到着できたのは何よりでした。そのあとは、競うようにして、一番の目的である宴会場へと向かい、ギンギンに冷えたビールで乾杯して、3本立ての締めくくりとなりました。

続 「勝手にPR また京都市電展やってます」

季節は巡って暑い夏になっても、相変わらずの無投稿状態が続いています。言い訳ばかりですが、一つのプロジェクトが終わっても、まだ余波が尾を引いて、なかなか本来の活動状態に戻れないのです。最近も、その余波の続編があって、また京都市電ネタの写真展の依頼を受け、準備作業に追われていました。「京都市電で何杯メシを食うんや」の声が聞こえてきそうですが、“頼まれごとは断らない”を信条とする身とあれば、逃げる訳には行きません。この場を借りて、みずからご案内、ご報告する次第です。P1100932syo

開場3日目にして「5000人目の入場で~す」のアナウンスが響き渡った会場。全体で2万人の入場目標とか。本日は、京都市主催のイベントもあって、とくに多かったようだ。折りから来訪した京都市長も「ようけ入ってますな~」とご満悦だった。

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勝手にPR また京都市電写真展やってます

掲示板に“これからは書きます!”と誓ったものの、舌の根の乾かないうちに無投稿状態が続いています。私の投稿を楽しみにしていただいている?ごく一部の方には、申し訳ない限りですが、決して鉄道趣味活動から疎遠になったのではなく、一つ二つのプロジェクトが終わっても、その余波がまだ尾を引いていて、なかなか本来の活動状態に戻れないのです。

その「余波1」として、またまた京都市電の写真展を開くことになり、もうすでに開場しています。皆様へご案内すらできていませんので、この場を借りまして、みずからご案内する次第です。同所での写真展はもう5回目であり、写真もほとんど変わり映えのしない内容で、皆さまの貴重な時間を費やすのも申し訳ない気持です。小耳に挟む程度でお願いいたします。

s-京都の市電 昭和を歩く 写真展はがき

「江若鉄道の思い出」 終了しました

P1080044s_edited-13月7日から大津市歴史博物館で開催されていた「江若鉄道の思い出」展は、4月12日にめでたく閉幕を迎えました。翌13日にはクローバー会員の応援も得て撤収作業を行ない、今回の展示は滞りなく終了しました。この期間、同展への準備、見学、聴講、撤収などで協力いただいたクローバー会の皆さんに感謝申し上げます。

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