吹雪をモノともせず、数キロも歩いて敢然と雪中撮影に挑まれる準特急さんは、そのいっぽうで、自らの足跡を趣味誌に寄稿されています。そのひとつが、「レイル」に掲載されている各地の河川を渡る鉄道橋の歴史・現況のレポートで、同誌82号では、高校時代までの居住地に近い武庫川を、tsurukameさんらの写真とともに紹介されています。続いて同誌では、別の寄稿者によって高梁川、紀ノ川が発表され、「レイル」の独自企画として育ちつつあります。そして、このたび発売された97号では、その提唱者たる準特急さんが、再び筆とカメラを持って、いま居住されている近くの多摩川を発表されました。
▲かつて川は、ヒトとモノを運んだ。いま、ヒトとモノは、その川を渡る鉄道によって運ばれる。縦糸と横糸を組み合わせた、たいへん興味深いこの企画、これぞ、鉄道趣味者らしい研究成果と言える。少し前の号では武庫川、今回は多摩川と、東西を代表する川を紹介できるのも、各地を転々とされた?準特急さんらしい成果だ。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
50年前の撮影地を歩く -10-
初の雪中撮影で米原へ <その2>
50年前の米原、初の雪中撮影記を続けます。午前中は、一面の鉛色の空だったものの、午後からは晴れ間も見えてきました。雪の反射を受けて、列車の下回りもきれいに出て、雪の撮影の良さを満喫します。今では人家も建って見通しが利きませんが、当時は、分岐して行く東海道線の上り線がよく見えて、両方を掛け持ちも出来ました。
▲交直接続の米原~田村が電化し、田村駅南に交直のデッドセクションが設けられたのが昭和37年で、その時に、浜松工場でEF553の機器を流用して交直両用の電気機関車ED301が製作された。短区間の米原~田村の折返用に特化した凸型のセンターキャブを採用、屋根が狭いため当時では珍しい下枠交差形パンタを載せた。それまで、蒸機で間接接続しかできなかった直流・交流区間を跨ぐ列車牽引を、初めて電機が担った。交直両用の471系と同じローズピンクの塗色が、雪のなかによく映えていた。
50年前の撮影地を歩く -9-
初めての雪中撮影で米原へ<その1>
50年前の数年間、冬になると決まって訪れたのが、北陸本線米原~坂田~田村の交直接続区間でした。この区間の魅力を知ったのも、シリーズ前回の加太と同じ「鉄道ファン」の撮影地ガイドでした。この区間の魅力は、時代によって様ざまな交直接続機が見られたこと、湖西線は開業前で、大阪、名古屋方面からの優等列車も、ボトルネックのように通ったこと、そして、冬季は、もっとも手近に本格的な雪中撮影が出来ることでした。当時の米原は近くて遠い駅、もうすっかり雪国の気分を味わえるところでした。
▲雪煙を巻き上げて、高速で走り去る「しらさぎ」。米原駅から国道を歩いて1キロ余り先の撮影地に着いた。この区間は、前年8月に初めて訪れているが、夏とはまったく違った様相を見せていた(撮影日すべて昭和41年1月23日)。
京都市電 余話 その4
市電蹴上線の痕跡を見る
前項で紹介した岡崎地域に、現在は鉄道は走っていない(地下鉄は、地域をかすめるように走ってはいるが)。しかし鉄道遺産と呼べるものがいくつか残っている。昨年夏にクローバー会の行事として、炎天下を全員で歩き通した京阪京津線の開業時の廃線跡もその一つ(遺構と呼べるものは無かったが)、そして平安神宮の神苑にはN電も保存公開されている。
さらに戦前まで岡崎地域を走っていたのが市電蹴上線で、その名残りとして、今でも架線柱跡が見られるのは、あまり知られていない。蹴上交差点から、仁王門通りに沿う琵琶湖疏水のインクラインの擁壁に、コンクリート製の台座が4基が見られる。これが、市電蹴上線の架線柱の台座の跡だ。市電蹴上線は昭和20年2月に廃止され、レール・架線柱などは、延長工事中の梅津線(右京区)に転用するために撤去されたが、台座のみが残された。
さて、蹴上線の由来だが、京都電鉄木屋町・鴨東線が、内国勧業博覧会への乗客輸送を目的に明治28年4月に開業している。木屋町通、二条通、冷泉通を経て、蹴上水利事務所前(南禅寺前)まで開通、のち明治40年に蹴上まで延長している。大正7年、市営電車が京電を買収、この鴨東線も市営に編入された。市では、大正15年、仁王門通(東山仁王門)~岡崎円勝寺町、約200mを新たに敷設、その際に、岡崎円勝寺町以西の京電路線を廃止、岡崎円勝寺町以東、終点の蹴上までは、広軌に改軌して、市電蹴上線とした。しかし、蹴上線は、前記のように、昭和20年2月に不要不急路線として休止となり、資材は延長工事中の梅津線に転用された。
琵琶湖疏水インクラインで保存されている台車の前に、1基目の台座跡がある▲
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京都市電 余話 その3
京都市電 余話 その2
稲荷線の開業年の謎
前回(その1)で、新聞社とのやり取りで議論になったことがある。市電稲荷線(勧進橋~稲荷)の開業年が二通りあると言う。鉄道線の開業年は、創設年や廃止年は、明確に記されており、原稿作成に当たっても複数の資料から裏付けを取るようにしているが、その後の新規開業や短区間の開業などについては、私自身もあまり意識せずに、原稿作成でも漫然と書籍・雑誌から転載しているだけだった。とくに稲荷線は、京都電鉄から市営に継承された路線だけに、京都電鉄時代の原資料はほとんどなく、勢い二次資料、三次資料を頼らざるを得ない。
記事掲載に当たって、新聞社も手持ち資料を当たってみたが、開業年に答えが見出せず、試しに、私も手持ちの資料を調べて見たが、確かに違う。 ひとつは明治37(1904)年8月4日
さらに、明治38(1905)年8月4日もある。
月日は合致している。年だけが、一年だけ違うが、気にはなってくる。
▲伏見・稲荷線の廃止に当たって、交通局では廃止パンフを大量に配布した。当局が廃止のパンフ゜を作成したのも、これが最後だった。これには、明治38年と記載されているが
京都市電 余話 その1
遅まきながら今年初めての投稿となりました。またもや京都市電ネタから始めることにしました。話は、昨年末の一本の電話から始まります。
稲荷線にあった踏切の協力者を探る
その電話主は、地元の新聞社からだった。新春の紙面で、昭和時代を生きてきた市井の人たちのその後を追ったシリーズ企画があり、市電伏見・稲荷線の廃止時のお別れ式で表彰された民間人3組みのうちの一人を探している、と言うものだった。その人は、15年に渡って稲荷線の踏切の遮断機を守り続けていたと言う。極めて局所的な問い掛けで、ほとんど記憶になかったものの、確かに伏見・稲荷線の最終日、昭和45年3月31日の深夜、京都駅前で、当時の京都市長、交通局長も列席して、お別れ式が行なわれたことは覚えているし、私も居合わせて写真も撮っている。かすかな記憶をたどっていくと、当時の新聞の切り抜きと、乙訓老人からもらった交通局の「軌道事業略史」に手掛かりが見つかった。これにより、「遮断機がクルマなどで破損するたびに無料修理を15年間引き受けてきた」こと、そして、踏切は「師団踏切」であることが分かった。
▲「あの日の京都へ Back to 1970」の記事 (クリックして拡大)
50年前の撮影地を歩く -8-
新しい年を迎えるというのに、古典ネタで恐縮です。アルパムを繰っていたところ、ちょうど50年前の昭和40年12月31日、加太へ初めて撮影に行ったことが分かりました。高校1年の時でした。その時の思い出で、今年を締めくくることにしました。
初の加太行き
列車で加太を通過したのは、記憶に残る限りでは、小学校の伊勢への修学旅行が初だった。京都の小学校の定番列車である“鳥羽快速”に乗って、草津、柘植を通り、加太を通過したはずだが、まるで覚えがなく、車内で撮った写真から乗ったのは背ずりが板張りのオハ61系だったことが分かるのみだ。時代が下って、昭和40年、「鉄道ファン」の撮影地ガイドに加太が載った。京都から数時間のところに、D51の咆哮が鈴鹿の峯にとどろいて…というフレーズを何度も読んで、イメージを膨らませたものだ。
加太行きを決意させた、もうひとつの理由がある。初めて一眼レフを手にしたのだ。ペンタプリズムのカメラは、憧れだった。それを持つだけで、上手い写真が撮れそうな気がした。機種は思い切ってニコンF、とも考えたが、家庭の経済環境も考慮して、アサヒペンタックスSVとなった。3万5千円ぐらいだったと記憶している。ところが、このアサヒペンタックスSV、露出計は内臓されておらず、軍艦部に取り付ける外付け露出計を買うことになる。そのため、一眼レフを特徴づける軍艦部が無愛想な露出計で隠れてしまい、カッコから入った私にとってはガッカリだった。
横道にそれたが、撮影地ガイドと、一眼レフを携えて、大晦日の加太行きとなった。うっすらと雪の積もった、寒い一日だった。
▲二十回近く通うことになる加太だが、蒸機廃止直前と違ったのは、特急が走っていたことだ。名古屋~東和歌山を一往復する「あすか」で、昭和40年3月改正で、紀勢本線の特急「くろしお」と同時に生まれた。この当時、準急「かすが」ですら区間短縮されていた時代で、特急需要など最初から見込みはなく、キハ80系が和歌山機関区に配置されたことで、その間合い利用を兼ねての運転だった。そのため、運転経路も名古屋~東和歌山となり、久宝寺からは阪和貨物線を経由して阪和線で東和歌山へ向かった。奈良を中心としたビジネス需要を狙った時間帯の設定ではあったが、乗車率は極端に低かった。改正半年後には、食堂車の営業休止、自由席などの合理化が図られたが、好転はしなかった。結局、わずか2年半走っただけで、昭和42年10月改正で廃止されてしまう。私も最終日は奈良駅で撮ったものの、走行中を撮ったのはこの一枚だけだった。
勝手にPR また写真展やってます -2-
▲ちょっと懐かしめの写真、市電・国鉄・京阪・京福・叡電を約100点展示します
今年もあとわずか、忙しい時期に恐縮ですが、自分勝手に新春のイベントを紹介させてもらいます。別記のように、京都駅前にある京都タワーホテル8・9階で、1月1日~3日限定で開かれる写真展です。テーマは「昭和時代の京都」で、もう辟易されるかも知れませんが京都市電、ホテルの立地柄として国鉄時代の京都駅および京都駅前、そしてホテル系列の関係会社として京阪・京福・叡電、以上の3分野で展示します。私だけの写真では十分なことは望めず、足りない部分は、クローバー会内外の諸先輩の写真もお借りして、何とか構成することができました。もちろん、単独の催事ではなく、ホテルの新春イベントの一環で、当該ホテルらしく、京都一高い展望台からの初詣や、雑煮食べ放題など、新年ならではの催事の余興としての開催です。
来場者のターゲットは、二世代、三世代の家族連れですので、専門的にならず、ひと目で“昭和”と分かる平易な写真でありながらも、企画・構成者として、こだわりの写真も選定したつもりですが、いかがでしょうか。また系列化の鉄道三社からは出展ブースもあり、ヘッドマークなどが展示されますが、京都市電は私のほうで系統板を集めたり、京都市電のDVD上映、また停留場標識のミニサイズ展示なども行ない、会場に花を添えることにしました。これらは、私自身には実績もノウハウもなく、さまざまな方から理解・協力をいただくことができました。
ただ有料の催事で、それも決して安くはない料金のため、決して見学を強要するものではありません。今年最後の活動報告の例としてのご連絡に留めておきます。 イベント全体のチラシ▲
往く秋を 八瀬で送る
趣味活動になかなか注力できない状態が続いていますが、こんな時こそ、近所で秋を感じるべきと、叡山電鉄の八瀬比叡山口へ出掛けてきました。ここへは、年に何回かは出掛けて、季節・時間帯を変えて、定点撮影を続けていますが、このたび、叡山本線の開業90周年を記念して、駅舎がレトロ調に改装されたり、開業当時の塗色に復刻された車両も走り始めました。ニュースとしては鮮度落ちですが、その見学も含めての八瀬比叡山口の訪問となりました。
▲大正14(1925)年、京都電燈によって、出町柳~八瀬 5.6キロの平坦線、続いて西塔橋~四明ケ嶽 1.3キロの鋼索線(現・京福電鉄)が開業した。叡山電鉄と京福電鉄は共同で、今年3月から「叡山本線・鋼索線開業90周年事業」として一年に渡ってイベント実施している。八瀬比叡山口に到着する電車から見ると、比叡山の手前で“もう、これ以上行けない!”と言うところに駅があるのが分かる。小さな駅舎、ドーム状の屋根、周囲の風景も、90年前とほとんど変わっていない。こんな環境のところへ、市内中心から15分ほどで行けるのも京都の魅力か。
福井鉄道モハ200を堪能する -2-
この福井鉄道モハ200、当会でも注目の電車のようです。今回のクローバー会写真展でも、大津の86さんが、いい光線下でとらえた福井市内の203編成の写真を出展され、ホームカミングデー第一部の集会でも、乙訓老人のスライド上映の説明役のINUBUSEさんから、福井鉄道の最新事情を聞かせてもらいました。 ▲ 福井駅前のホテルに泊まった翌日は、朝のラッシュ時の様子を撮るため、福井市内の市役所前~仁愛高校~田原町の併用区間へ向かった。ただ、日本一の自動車所有率の福井県のこと、絶え間ない自動車の群れに阻まれて、歩道側からの撮影は極めて難しい。おまけに、この季節、思いのほかのビル影で、陽の当たる区間は、さらに限られてしまう。朝のラッシュ時、大型車で運用される最混雑時の田原町行き3本のなかに、最後に入っていたのが203編成だった。以前に訪ねた時は、この3本に、201、202、203と番号順にモハ200がやって来て感激したことがあった。
福井鉄道 モハ200を堪能する -1-
福井鉄道モハ200形、あの元急行専用車、連接車、二枚窓、扉間クロスシートの電車が大好きでした。なかでもデビュー当時の急行塗色に戻された203編成(203-1+203-2)は、正面の「福鉄」マークも凛々しく、独自の塗色とあいまって、羨望の眼差しで見守っていました。ただ、この電車、最近は朝夕のラッシュ時に走る程度、日中に走ることはあっても、運用は不定とあって、今まで何度か通ったものの、じっくり撮る機会には恵まれませんでした。 ところが、最近、福井鉄道に異変が起こり、皮肉にも、203編成が大活躍することになったのでした。
▲10月15日、朝のラッシュ時に、福井鉄道の次世代型低床車両「FUKURAMU」ことF1000形第二編成が併用軌道内で脱線事故を起こし、同線は終日不通となった。同車は以前にも脱線し、原因は軌道だけでなく、車両にもあるとして、当面、2編成の使用を停止することになった。さらに運悪く、モハ200形の202編成も、故障で運用を離脱していたところで、大型編成が3編成も欠けて車両不足に陥り、ついに朝のラッシュ時の一本を運休せざるを得ない事態となった。訪れたのは、このような状態の時で、貴重な大型車となった203編成は、朝から晩まで、八面六臂の大活躍となった(泰澄の里~三十八社)。
私も 秋を愛でたい
KAWANAKAさんから始まって、西村さん、どですかでんさんと、本掲示板では、秋をテーマにしたシリーズが続いています。人生の峠を越えた?われわれ世代、秋の彩りに胸に迫るものがあるのでしょうか。私も近くのJR長岡京~山崎間で、何気に車窓を見ると、いっぱいのコスモス畑が広がっているのを見つけました。最近、よく見かける休耕田を利用したもののようですが、逆光に浮かび上がった色とりどりのコスモスは、絶好の被写体になるとして、さっそく快晴の翌日に、愛車のペダルを踏んで、午後のいっときをコスモス畑で過ごしました。
▲現地はウンと昔から足繁く通ってきたところだが、高速道路が横断したりして、周囲の光景が変わり、撮影地としてはご無沙汰だった。こんなコスモス畑があるとは全く知らなかった。着いてすぐに通過したのが貨物の5087列車、ラッキーなことに、牽引は、原色PF、EF652121だった。JR貨物のPFでは、2両しかない貴重な原色で、もとはJR西日本からの転属機、“ニイニイ”とか呼ばれているらしい。
第6回クローバー会写真展 開催
佐竹保雄さん写真展「山科の鉄道」 7日から開催
佐竹保雄さんの写真展「山科の鉄道」が、下記のように、10月7日から開催されます。
佐竹保雄写真展「山科の鉄道」
会期/10月7日(水)~14日(水)
会場/京都市 山科図書館(京阪・地下鉄・JR「山科」下車、外環状線沿いを南へ徒歩15分)
URL/http://www2.kyotocitylib.jp/?page_id=162
「200回近く山科へ行きました」とおっしゃる佐竹さん、蒸機の時代から、電機・電車特急の時代まで、克明に記録された写真は、質、量ともに、まさに圧倒的です。今回は、地元での開催にあたり、市民の方にも、60年以上の前の山科の鉄道の姿をぜひ見ていただきたいと、厳選に厳選を重ねた写真を展示されるとのこと。ぜひ、皆さんのご来場、お願いいたします。
なお、最終日には下記のように佐竹さんの講演会が催されます。
講演会「東海道線と山科の歴史」
日時/10月14日(水)18:00~19:00
会場/山科図書館内 絵本コーナー
▲山科の写真を見ながら説明される佐竹さん(2009年、交通科学博物館で開催の第2回クローバー会写真展で)。「徹夜で準備しました」とおっしゃりながらも、元気な声が電話口から聞こえてきた。
「船場鉄道フェス」へ行ってきました
奈良の駅名研究家さんからも本掲示板に投稿がありました「船場鉄道フェスティバル」に、どですかでんさんとともに行ってきましたので、手短かですがレポートします。
今年で4回目となるこの催しは、船場地区全体で行なわれる「船場まつり」の一環として、関西の大学の鉄道系サークルが集まって、おもに模型運転会が行なわれるもので、今年は、わが同志社大学鉄道同好会のほか、大阪市立大、大阪産業大、関西大学、関西学院大学の5校が参加して、10月2日から4日まで開催されました。当会は、唯一、初回から欠かさず参加していることを現役の会長から聞かせてもらい、当会の存在力を感じさせました。
会場となったのは、船場センタービルの6号館の2階、普段は空き店舗が続いて人通りもほとんどないスペースが、この日ばかりは家族連れで大賑わいとなりました。私もサラリーマン時代の約30年余り、船場地区にあった会社へ通っていただけに、都心空洞化の進む船場で、休日のシャッター通りが、こんな大賑わいの変身を見せたのは、正直、驚きでした。現役生の皆さんの、日頃の活動の賜物と思いました。
▲会場正面のドカンと貼られた当会の表示、おなじみマイテ運転時のヘッドマークも飾られている。現役生にとっては、生まれるずっと前の伝説のヘッドマークに映るだろう。▲家族連れで大賑わいの会場、模型はNゲージにプラレール、と言うのが、この時代を象徴している。一角では「青信号」も販売中、最新号は校正ができたところで、冊子はホームカミングデーには出来上がっていとのこと。
山崎を走った夏の臨時列車 -5-
波動時の臨時列車
今回までは、夏ならではの海水浴、リゾート行きの臨時列車が中心だったが、シリーズの最後は、夏の波動時の臨時列車を列挙してみよう。昭和末期は、帰省休暇も分散化されておらず、盆を中心にした一極集中の傾向があった時代だから、九州へ向かう臨時夜行列車も多く運転されていた。
▲東海道の老舗急行「銀河」にも、臨時が運転されていた。写真は「銀河83号」、14系座席車をEF65PFが牽いている(平成2年8月)。この時代、首都圏~関西は、夜行バスが台頭し始めていたものの、まだ列車需要が高かった時代で、年によっては、最ピーク時にもう一本運転されて、定期と合わせて3往復体制の時もあった。臨時「銀河」の歴史をたどると昭和45年頃から走り始めているようで、年によっては、品川発着になったり、大阪、京都と行き先が変わったりしながらも、臨時列車としては息長く運転されたが、結局、臨時「銀河」は、定期の廃止より前の平成10年限りで運転を止めている。