秋の北海道 鉄道ひとり旅 【7】

長万部13時16分発のキハ150-13単行の2943Dに乗車して、“ヤマ線”の乗車が始まります。最後にヤマ線に乗ったのが昭和47年3月なので、44年ぶりの乗車でした。発車時に乗車人数を数えると17人、意外に乗っているなと思った瞬間、次駅、二股は、データでは一日平均乗降数0人台なのに、なんと5人も下車、黒松内でも数人が下車して、車内は6、7人になりました。現在は、上下9本の普通列車が運転されています。44年前も普通列車は、上下12本の運転で本数はやや減った程度です。しかし、当時は、優等列車が上下10本も運転され、まだ幹線の面影を残していましたが、札幌~凾館の通し運転が、すべて室蘭線に移ってしまい、現在では皆無、完全なローカル線になってしまいました。そして、いよいよ、勾配区間に掛かり始め、高度を稼ぐために右に左にカーブして、後志の山々に挑みます。今回の旅行で、いちばん確かめたかった、いまは無き上目名駅跡に差し掛かります。

列車の前部に陣取って上目名駅跡を注視

20‰勾配を登り切り上目名に着いた列車、右手に駅舎があった。待合室にはC62の写真がベタベタ貼られ、ベンチには撮影者の大型キスリングが山と積まれていた。最初の時期は、下車客には駅からお茶のサービスもあり、みんな一息入れてから先の長い撮影地へ歩き始めたものだった。

上目名駅は大正2年に開設された。20‰勾配の頂点にあって、もともと人里離れたところに設置され、列車交換だけが目的の駅だった。よく訪れた昭和40年代も、駅前に国鉄官舎が数軒あるだけで、一般の民家は皆無だった。ただ、当時、北海道支社の中で、総局と青函局の境目にあたり、列車運転上の分岐にも当たり、上目名行きの列車もあった。その列車は7時52分に上目名に到着する列車で、折り返し7時57分に発車する。これは平日のみ運転で、上目名からの通学生が居たことの証左だろう。事実、廃止されたのも、国鉄官舎に住む高校生が卒業してしまい日常的に乗降する客が無くなったためとされている。
上目名を有名にしたのは、言うまでもなく、C62重連が20‰勾配に挑む姿を求めて、いまの高齢者世代が集まった、蒸機撮影の聖地としての駅だった。それも昭和46年までのこと、蒸機が走らなくなると、もう顧みられることもなく、C62世代にとっては伝説の駅とも言うべき、多くの逸話を残して、昭和59年に廃止されてしまった。交換する122列車と急行稚内行き「宗谷」、客車はオユ10で、青函連絡船で航送され本土へ送り込まれる。急行といえど、「宗谷」は函館から稚内まで、道内700キロ近くも走り通す時代、つくづく辛抱強い時代だった。
駅が廃止されて以来、32年が経過して、もうすっかり自然に還っているとは聞いていたが、この眼でどうしても確かめたく、キハ150の運転室の後ろに張り付いて、凝視していた。第2白井川トンネルの目名寄りにあった上目名駅跡には、シェルターだけが残っている(写真上)。これは、この地点がJR北海道の札幌本社管轄と函館支社の境界になっていて、保線車両や除雪車両の折り返し地になっている。シェルターはとくに冬季の車両を守るために設置されたと言う。左手には駅舎があったが、確かに自然に還っている。ただ、ひとつだけプレハブ小屋があるのが見て取れた。また、駅を過ぎて、蒸機時代にもあったスノーシェッドはそのままだった(写真下)。上目名の廃止により、熱郛~目名15.4キロがひと駅となり、約20分が無停車となり、北海道でも有数の長い駅間となった(写真は動画からの切り出し)。

D51193の牽く貨物列車が通過して行く。当時でも普通列車は上下合わせても9本で、昼間は5、6時間も開いた。以前、本欄に米手作市さんから、“ここはどこ?”として、写真の撮影地を当てるクイズが出され、この写真のように、カーブの具合や、周辺の地形がヒントになり、「上目名」を当てたことがある。

機関助士がタブレットを持って通過する。テンダーに書かれた文字は「安全無視の助士廃止反対」、そろそろ落書き列車が見られたが、まだ控えめだった。
上目名へ行った時は、単独行は一回目だけで、二回目以降は、いつもDRFCの仲間と一緒だったと記憶している。上りC62を写すために、10キロ以上も雪をラッセルしながら突き進んだこと、下りC62を写すために、真っ暗なカーブしたトンネル越えをしてこと、山科の人間国宝さんと偶然ホームで出会ったこともある。それだけに、上目名の思い出は、DRFCの仲間とともにある。

D51673が客車3両を牽いて、軽々と到着した。
C62の撮影を終えて駅に戻ると、土砂降りの雨になった。この時は単独行で、薄暗くなった山間の駅で待っている間、さすがに寂しくなり、暖かい車内に入って安堵した記憶がある。
目名方にあるスノーシェッドの前でD51286の牽く列車をやり過ごす。次位には回送中のオロネ10を連結している。
夕陽に照らされて輝くナメクジ。山間部のため、夏でも16時を過ぎると薄暗くなる。その直前のギラリタイムだった。

普通列車のうち、上下各3本はDCだった。キハ22の2連が標準編成

4 thoughts on “ 秋の北海道 鉄道ひとり旅 【7】

  1. 昭和44年の8月、クラブの夏季狂化合宿に参加して花輪線~奥羽線矢立峠、深夜の連絡船を経て総本家さまのご案内で上目名で初めてC62重連を撮ったときの感動は今でもはっきり覚えていますよ。数キロ先からのゴーッというジェット機のような轟音が近づいてくると、期待と興奮で体が震えるような気分になったものでした。
    小生は半年前の真冬にも北海道を訪れていましたが、吹雪と大雪に阻まれてその時は62の魅力を充分に感じることが出来なかったため、改めてその超弩級ともいえる重連にすっかり魅了されたものです。
    旧駅舎は最近まで(5~6年?或いは7~8年?前)まだ在りましたよ。上目名止まりのDCは仰るように国鉄職員の家族用でした。石北線常紋にも一時期同様のDCが存在していて平日のみ金華(ここも今や信号場)から延長されていました。
    山線には特に魅力を感じていたのでその後も幾度となく乗りましたが、今春のダイヤ改正からは更に減便されてしまい、昔の楽しい想い出や賑やかだった列車運行を知る者にとっては本当に寂しい想いがつのります。

  2. 1900生さま
    コメント、ありがとうございます。
    昭和44年8月のこと、私も覚えています。記念写真を見ますと、数人で行ったようです。上りは例の築堤になった151キロ地点まで歩き、下りはトンネルを越えて熱郛寄りのカーブへ行きました。今回の投稿でもその時の上目名駅の写真を載せています。上目名駅は廃止されてからも、駅舎が最近まで残っていたこと、初めて知りました。我々の時代、ヤマ線は凋落が始まったとは言え、まだ特急・急行が走り、元気でした。そして、何より、あのC62が重連で勾配に挑む姿を、この眼で見られたこと、幸せな時代でした。

    • そうですね、山科の人間国宝さまにはとても及びませんし、SL全盛期は過ぎていた(むしろ末期だった?)ものの、まだその片鱗を垣間見ることができた時代を経験できたことは有難いことだったとしみじみ思いますね。
      C623が復活した期間に何度か会社の同好者と追いかけましたが、毎夜の祝賀会(大半は実質残念会)で昔話を披露すると決まって羨ましがられました。彼らは当時受験を控えていてとても撮影旅行どころではなく、大学生になったときにはめぼしいSLは大半姿を消していたということでした。詮無い事と断りながらも、もう数年早く生まれておればとは何回聞いた言葉でしょうか。
      ところで皆さんが行かれた熱郛方へは小生はトンネル歩きがイヤで行かなかったと思います。同様に常紋の生田原方へのトンネルも怖くて通れませんでした。今思うと単独行ではなかったので、ご一緒してSLの雄姿を写しておくべきだったと悔やみますね。

      • 1900生さま
        コメント、ありがとうございます。“あと数年早く生まれていたら”は、どの世代からも聞く言葉ですね。私も以前は同様に思っていましたが、この齢になり、鉄道を取り巻く状況がすっかり変わってしまうと、数年の差なんか、どうでもいいと思うようになりました。今は“いちばんいい時期に生まれて来た”と思っています。
        熱郛方へのトンネル越えですが、かすかな記憶をたどると、上りは数人で行ったように思いますが、下り通過までの間に何人かが上目名を去ったように思います。下りを写すために、トンネル越えをしたいと駅に言うと、電灯を点けてもらいました。たぶん、あともう一人ぐらいと一緒に越えたのですが、白熱電灯では闇に吸い込まれて何の役にも立たず、しかもカーブしたトンネルのため、ずいぶん不安になったことを覚えています。

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