西村雅幸さんが初めて沖縄を訪問された記事を読みました。事情は少し違いますが、私は、日本一規模の近鉄のなかで、養老線(現・養老鉄道)だけ乗ったことがありませんでした。離れ小島的で行きにくいのと、沿線にも目ぼしい名所もなく、何となく避けていた嫌いがありました。縁あって近鉄の本の編集を進めるにあたって、取材も兼ねて18きっぷを使っての大垣行きとなりました。一日フリー切符を手に、大垣から揖斐へ往復し、待っていた桑名行きに乗り換えます。濃尾平野のど真ん中を走り、眠気を誘うような車窓が続きますが、中間の要衝駅、養老でやっと目を覚ましました。▲養老鉄道 養老駅
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
18きっぷで東海道を巡る -4-
18きっぷで東海道を巡る -3-
18きっぷで東海道を巡る -2-
18きっぷで東海道を巡る -1-
今週末で今年夏の青春18きっぷのシーズンも終わります。JR各社からは、とりわけ老人向けの格安企画きっぷが出始めて、以前ほどの価値はなくなりましたが、それでも元祖格安きっぷの王者であることに変わりはありません。
18切符の使用途はいろいろですが、私の場合、東の京都へ行く場合でも、一日掛けて行くこともあり、昼間の東海道線を上下することが多くありました。誰でも考えることは同じで、18シーズンは老若男女で混み合い、決して快適な旅ではありません。でも、直行するだけではなく、たとえ一時間でも途中下車して、成果を求める。これは、乙訓の老人さま、準特急さんからの有り難い教えに他なりません。
やはり京と江戸を結んできた東海道、他にはない歴史の積み重なりがあり、鉄道、歴史、地理と絡めて、たいへん興味深い地域と言えましょう。東海道に挑戦する、と言えば準特急さんが有名ですが、不肖、私も京都から東京まで、鉄道で行き来する間に、散在する鉄道関係の遺構や現況を見聞してきました。過去、直近に渡って、紹介しましょう。 ▲ 目的地は興津駅下車、徒歩15分
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久々の投稿は、フィルムの話から
気がつけば、デジ青投稿を離れてから数か月も経ってしまいました。季節は巡り巡って、もう9月。出版の仕事にどっぷり漬かった数か月でした。“一体どうしたのか”と激励していただいた、会内外の約2名の方にも、ご心配をお掛けしました。
この間に思ったことは多々ありましたが、残された年月が限られてきた人間にとって、自分の足跡を各種の媒体に残していくことは、重大な使命だと思い知らされました。これからは、時間を見つけては、デジ青に自分の足跡を書き連ねて行きます。
京都鉄道博物館 いよいよオープン
京都鉄道博物館の開業まで、あと一週間余りとなりました。テレビ、新聞でも連日コマーシャルも流れて期待感が広がっています。米手作市さんから“まだ秘密やでぇ~”と見せてもらった構想図の段階から数年が経ち、あっという間の開館となりました。
梅小路蒸気機関車庫も含めた保存車両数は53両と、日本最大級の鉄道博物館が京都に誕生するのは、地元の鉄道ファンとしても格別な思いがあります。館では連日、内覧会が開かれていますが、私もひと足早く見学することができました。
普段なら鉄道のことには関心を寄せないであろう、背広姿のビジネスマンが同僚と鉄道の思い出話をしたり、スーツでビシッと決めたキャリアウーマンがスマホで写真を撮ったりと、そこかしこに微笑ましい光景が展開されていました。車両以外の展示も充実していて、平易な解説とともに、趣味者でなくても、鉄道への理解・関心が進むことでしょう。ただ大宮や名古屋と比べると、親会社にも似て、たいへん真面目な印象を受けました。もう少し遊び心があってもいいし、広くて明るい展示はいいのですが、もっと強弱、陰影があってもいいように思いました。 ともあれ、“京都”という、世界一の観光都市のブランドを背負って、近隣の施設とともに、目の離せない鉄道博物館となるでしょう。▲本館のエントランスには「JR西日本を代表する車両」として、489系のほか、583系、500系新幹線の3形式が選ばれた。きれいに整備されたその姿を上からジオラマモードで見ると、まるで模型の世界だった。
「大阪しなの」を送る -2-
先日、JR西日本線が乗り放題の「おとなびパス」が一日分余ったため、近郊の特急に乗ってきました。京都から外国人で満員の「はるか」に乗って新大阪へ、折り返し「しなの9号」に乗って京都へ戻り、「スーパーはくと」の先頭車の展望席を確保し、初めて智頭急行線に乗って倉吉まで向かいました。「しなの」は標準6両編成ですが、この日は10両編成。2両、4両の付属編成で弾力的な増結が可能となりましたが、まだ名残り乗車には日があるため、自由席の乗車効率は10%程度。いつも見慣れた車窓風景も、よく空いた特急の車内から眺めると、また違った光景に映りました。新大阪から京都まで、わずか20分あまりの乗車が、最初で最後の「大阪しなの」の乗車となりました。▲最後部10号車クモハ383-13の車内、右側に乗客が寄っているのは、単に陽射しを避けたいため ▲京都駅0番ホームの電光表示
▲そして本日、3月24日、最終日の1日前となる「(ワイドビュー)しなの9号」、おなじみ京都駅2番ホームから入線をとらえる。クロ383-7先頭の10両編成。
「大阪しなの」を送る -1-
今年のJRダイヤ改正が近づいてきました。ひと足早く「はまなす」「カシオペア」、はたまた「特別なトワイライトエクスプレス」は運転を終え、テレビを見ると、例によって孫子のような世代が「長い間、感動をありがとう」などと泣き叫んでいます。こちら関西でも、まもなく運転を終える特急があります。大阪~長野の特急「(ワイドビュー)しなの」1往復、通称「大阪しなの」は名古屋~大阪の運転を取り止めます。
この列車に対しては「在来線の最長距離昼行特急」とか「唯一のJR3社直通昼行特急」と評されているが、大阪、京都では、「(ワイドビュー)ひだ」とともに見られるJR東海の車両であり、同時に大垣まで乗り入れているJR西日本の普通電車、朝夕の3往復も取り止めとなり、「ひだ」を除いて、JR東海・西日本相互の乗り入れがなくなる。もともと関西から長野へは、経済的な繋がりは少なく、もっぱら観光客がおもな乗客だった。ただ新幹線+「名古屋しなの」と比べると、所要時間はもちろん、料金においても、新幹線乗継料金だと4660円(のぞみ指定)で、「しなの」直通の3430円(指定)と1000円ほどの差でしかなく、在来線を乗り通す意味はなくなった。「時間が掛かっても直通」を選好する層より「乗り換えを要してでも時間短縮」を望む最近の趨勢が、他社乗り入れを嫌うJR各社の思惑とも一致した形だ。加えて北陸新幹線の開業もあって長野方面への選択肢は広がった。そろそろ潮時なのだろう。
あの日から5年 ≪鉄道版 その2≫
3・11の撮影記録を続けます。運命の時刻が近づいてきますが、実際は何も知らずに、いつもと変わらない時間が過ぎていきました。
▲13:17 京都 先ほど京都総合運転所の横を通った際に目撃した489系H1編成が、京都発能生行き9087Mとして京都駅0番ホームに到着する。前年の2010年3月改正で急行「能登」の不定期化により、489系ボンネットは定期運用がなくなり、廃車も進んでいた。残っていたのは、このH1編成のみで、首都圏、関西圏への臨時列車や、時おり定期特急の代走をこなしていた。本日の臨時列車の乗客は、修学旅行の高校生、京都旅行を終えて、北陸方面へ帰るところ、ただ席が埋まっているのは3両ほどで、あとは空席、ずいぶん贅沢な修学旅行電車だった。
びわ湖大津館で鉄道写真展・模型運転会
会員の皆さんへはメールでご連絡していますが、本日11日(金)から、大津市柳が崎の「びわ湖大津館」で「湖西を走った昭和の鉄道写真展」が開催されています。
主催されているのは、滋賀鉄道模型愛好会(STMC)の皆さん、以前、スカイプラザ浜大津で行われた、江若鉄道模型運転会では、共同で模型運転会を行ない、クローバー会との友好関係が続いており、今回は、見学を中心とした支援をしようとなりました。「びわ湖大津館」と言えば、西村雅幸さんの江若鉄道の浜大津ジオラマが永久保存されていることは、ご承知のとおりですが、今回、西村さんは、江若車両を広島から持参して、レイアウト上を自走させます。また、昨年の大津市歴史博物館で開催された「思い出の江若鉄道」に展示された私の写真も展示していただけるそうです。
会員の皆さんへは、すでに連絡済みですが、あす12日(土)には、見学会も行います。どうぞ、期間中にお越しいただきますよう、ご案内します。
▲ STMC制作のポスター、びわ湖大津館へは湖西線大津京駅下車
あの日から5年 ≪ 鉄道版 その1 ≫
“あの日から5年”と言っても震災の記憶ではありません。あの日、2011年3月11日は、JRのダイヤ改正の前日でした。改正の目玉は九州新幹線の全線開業で、新大阪から鹿児島中央まで「みずほ」「さくら」が走り始めます。関西では、アーバン区間で、新快速の土日オール12連化・南草津の停車のほか、特急網では、「雷鳥」がなくなり、すべて「サンダーバード」化、山陰線・福知山線でも、愛称名統一で「北近畿」などがなくなり、車両も287系の新製投入、183系の撤退、381系の転属など、特急網にも大きな変化がありました。その日、“ネタ”列車も含めて、朝から京都・大阪で写し続けていました。5年たって記録を見返すと、ほとんどは現在では見られず、改めて5年の歳月を感じます。別の意味での3・11の記録として、記憶に残る一日を、朝から時系列で振り返ってみました。
▲8:37 京都 福知山行き「たんば1号」+東舞鶴行き「まいづる1号」が30番ホームに停車する。クハ183-851ほかのC33編成、新製された287系と交代するため、本日限りの183系だ。山陰本線の列車は、特急・普通とも、建物の下の薄暗い31~33番の山陰線ホームに停車するが、唯一この列車だけが「はるか」用の30番ホームから発車する。2番ホームから見ると、順光で、きれいな編成写真が撮れる。
福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔5〕
砂津で撮ったあと、小倉駅前へ戻ってきた。ふつう、大都市の駅前には路面電車の姿が欠かせないが、小倉駅前にはなく、300メートルほど離れた勝山通(国道199号)を通り過ぎるだけで、駅前に立ち寄ることはなかった。その後にできたモノレールも、今でこそ駅の内部まで乗り入れているが、開業当時は、この勝山通止まりで、徒歩連絡を強いられた。北九州線が駅前へ寄らなかった理由は、もともと合併する前の北九州5市の都市間の連絡が目的だったことと、以前の小倉駅は、現在とは違うところにあり、現在の小倉駅ができた当時、駅前はまだ未発達で、小倉の繁華街は、勝山通沿いにあったことに拠るのだろう。
▲北九州一の繁華街、銀天街と交差する「魚町」から西を見ている。バックの大きな建物は、井筒屋百貨店、ちょうど電光掲示は「さよなら電車展」の催事を案内している。北九州線の電車の塗装はよく変わったが、廃止前は、エンジに、前面に警戒色の黄の矢形と、暑苦しい色だった。
佐竹さん 明日から「東北展」
佐竹保雄さんが東北地方の震災復興を願って、毎年3月を中心に開かれてきた「東北を旅して」展は、ことしで8回目を数えることになり、明日3月4日(金)から開催されます。
「東北を旅して」 その8
3月4日(金)~11日(金)10~17時 5日(土)のみ21時まで開場
ひとまち交流館京都 1階展示コーナー(京都市下京区河原町通五条下る)
今年は震災から5年目、そしてチェルノブイリ事故から30年となります。過去に佐竹さんが関わってこられた、さまざまな活動を振り返るとともに、もうひとつの柱として、佐竹さんが、昭和30、40年代に東北で撮られた鉄道写真が多数展示されます。さらに、三陸鉄道の現役運転士が撮られた「SL銀河」などの写真展示、そして、我がクローバー会有志も、ささやかではありますが写真協力しました。今回は、いつになく展示数が多そうで、本日、会場で準備に当たる精鋭メンバーも大いに張り切っています。
▲「誰よりもたくさん東北へ行きました」と言われる佐竹さん、確かに預かったネガからは、初めて目にする珠玉の写真があふれていた。蒸機だけでなく、すべての鉄道車両をきっちり撮るのが佐竹流、写真は、仙山線作並駅に到着したED17+暖房車+客車、と言う模型のような編成。
福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔4〕
砂津
新幹線に乗ると、博多から小倉までは15分、ここにも、北九州市を横断するように西鉄北九州本線が平成12年まで走っていた。平成時代の廃止と言うと、つい最近のように思えるが、廃止になったのは、西端の黒崎駅前~折尾の5キロ余りで、代替バスの道路開通が遅れたため、ずれ込んだ。それ以前では、東端の門司~砂津間やほかの支線が昭和60年に廃止、そして小倉など中心部を走っていた砂津~黒崎駅前12.7キロは、平成4年に廃止になった。JR鹿児島本線が完全に並行していると言うのに、よく平成時代まで生き延びたものと思える。それでも小倉の街から路面電車が消えてから20年以上になる。廃止の年には、朝に黒崎から写し始めて、小倉までまる一日を全区間を歩き通して写した。
福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔3〕
西新
福岡市内線の今昔を撮影するなかで、もう一ヵ所、どうしても行きたいところがあって、高速バス発車までの約30分を利用して、急いで地下鉄で向かってみることにした。
▲その場所は、天神から地下鉄で西へ4駅目の「西新」である。市内線時代は、貫線から城南線を分岐していた結節点だった。気になったのは、背後の煉瓦建築だった。私は近代建築にも興味があったので、当時から車両と絡めて撮るようにしていた。と言っても予備知識は乏しいから、たまたま見つけた場合だけだ。当時、建物は無人の様子だったが、戦前は、市内線の前身となる福博電車の本社であり、昭和17年に多くの私鉄を統合してできた西日本鉄道の初代の本社としても引き続き使われていた、西鉄にとっては由緒ある建物だった。
福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔2〕
天神
博多駅前からブラブラ歩きながら、天神まで来た。商業施設が高度に集積した、九州最大の繁華街も、昭和50年までは、貫線・環状線が交差する福岡市内線の要衝だった。
▲当時の天神のシンボルが、背後に見える岩田屋百貨店で、その南隣は西鉄福岡駅と接していて、改札口と岩田屋2階がつながっていた。九州初のターミナルデパートだった。貫線の西新行きが天神交差点を渡って行くところ。その後、西鉄の天神ソラリア計画により、交差点から南下したソラリアターミナルビルのなかに福岡駅、バスターミナルが入り、この場所はパルコが入店した。いま見ると建物外装が違い、新築のように見えるが、中身は当時のままである。写真では、機動隊、パトカーに囲まれて行進するデモ隊が見える。昭和47年の浅間山荘事件後は、学生運動も下火になって、我々の現役時代と比べると、行進もずいぶんおとなしくなっていた。
福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔1〕
博多駅前
“つい最近”と思っていた出来事なのに、改めて思い返すと数十年も経っていたことに愕然とすることがあります。これも加齢現象のひとつでしょうか。少し前に九州を駆け足で回りましたが、そう言えば、西鉄福岡市内線が昭和54年に全廃にになってから37年、北九州市内線でも最終区間が平成12年に廃止になってから16年になることを改めて知りました。いずれも廃止前には、ほぼ全線を歩いて写しており、時代の隔たりを感じるとともに、感慨深いものを覚えました。「一人で今昔対比ができるのは高齢者のみである」は、準特急さんの至言ですが、生き永らえて地道に趣味活動を続けてきた者の特権として、福岡、北九州での今昔対比を試みようと、久しぶりに両市の中心部を歩いてみました。
▲博多駅前の西鉄福岡市内線、背後に見える博多駅は、昭和38年に完成した第3代目で、それまでの博多駅は別のところにあり、手狭になったため、移転・新設された。路面電車も同時に移設・延長された。駅は、ビル全体を博多ステーションビルと言い、百貨店の井筒屋がキーテナントとして入店していた(昭和51年8月)。
雨のなか 最後の青ガエルを見送る
年が開けて一ヵ月半、少しは自分の時間も持て、小旅行もできるようになりました。こんな時、熊本電鉄の“青ガエル”こと5101Aファイナル運転の報を聞き付け、久しぶりの九州入りとなりました。
かつては福島交通、長野電鉄、松本電鉄、上田交通、岳南鉄道でも、第二の人生を送っていた東急5000系ですが、現役として稼動していたのは熊本電鉄5101Aのみとなりました。両運転台化改造され、数年前に東急時代のグリーン一色に復刻されると注目を集めるようになりました。東京メトロから置換用として入線した01系が増備され、2月14日の運転・展示を最後に引退することになりました。
▲上熊本線と言われる上熊本~北熊本間3.4キロで、「青ガエル引退イベント」として1、2月の休日を中心に5101Aが終日運転された。訪れた2月13日は、青ガエルに相応しい土砂降りの雨、坪井川公園付近の築堤でズクズクになって写した。
「多摩川をめぐる鉄道風景」
吹雪をモノともせず、数キロも歩いて敢然と雪中撮影に挑まれる準特急さんは、そのいっぽうで、自らの足跡を趣味誌に寄稿されています。そのひとつが、「レイル」に掲載されている各地の河川を渡る鉄道橋の歴史・現況のレポートで、同誌82号では、高校時代までの居住地に近い武庫川を、tsurukameさんらの写真とともに紹介されています。続いて同誌では、別の寄稿者によって高梁川、紀ノ川が発表され、「レイル」の独自企画として育ちつつあります。そして、このたび発売された97号では、その提唱者たる準特急さんが、再び筆とカメラを持って、いま居住されている近くの多摩川を発表されました。
▲かつて川は、ヒトとモノを運んだ。いま、ヒトとモノは、その川を渡る鉄道によって運ばれる。縦糸と横糸を組み合わせた、たいへん興味深いこの企画、これぞ、鉄道趣味者らしい研究成果と言える。少し前の号では武庫川、今回は多摩川と、東西を代表する川を紹介できるのも、各地を転々とされた?準特急さんらしい成果だ。