このまま廃止? 不通の続く根室本線 東鹿越を訪ねる

北海道へ行って、もうひとつ気になる区間がありました。平成28年8月の台風10号で被害を受け、不通が続いている根室本線東鹿越~新得です。一年半に渡って列車の運転を見合わせて、バス代行が続いています。この区間を含む根室本線富良野~新得は、JR北海道の「維持が困難な区間」に挙げられており、廃止を前提とした地元協議を行なう矢先のことで、行く末が案じられています。また、12月には、列車代行バスのルートが変更され、乗車料金を収受する代行バスでありながら、リゾートホテルの無料送迎バスも兼ねると言う興味深い運行が行われています。
富良野から乗って根室本線下り方5駅目の東鹿越、ここから新得まで不通区間が始まる。周囲に人家はなく乗降ゼロに近く、私もこの駅の存在は知らなかった。もともと2017年に廃止予定の駅だったが、列車・代行バスの接続駅として、皮肉にも生き延びることになった。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑰ 

ライトレール(LRT)とは

1997年12月、国連による地球温暖化防止会議が京都で開催され、路面電車見直しが取り上げられ、とても嬉しく思いました。街角で配布されたビラにロサンゼルス、パリ、ロンドンでも復活とありましたが、私の知る限りにおいて実情は異なります。三市の中央通り、京都での烏丸、四条通を路面電車が大手を振って走るものではありません。

昭和30年代の京都駅前、伏見線のりばは、大勢の初詣客で賑わう(故 羽村宏さんのカラーポジから)

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 さよなら 117系関西急電色 〈下〉

吹田総合車両所京都支所(近キト)には、117系が、T編成(8両編成)2本、S編成(6両編成)6本の計52両配置され、いまも湖西線、草津線で活躍しています。今回紹介するT1編成8両編成のみクリーム1号にぶどう色2号(マルーン)の帯を配した関西急電カラーの原色で残り、ほかの編成は地域色の抹茶一色に改められています。しかし、JR西日本の進める車両の地域カラー化で、T1編成も去る2月22日早朝に吹田工場へ入場し、地域色に改められました。
117系の新製以来、約40年にして、伝統の関西急電カラーの原色編成が姿を消した。

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 さよなら 117系関西急電色   

JRのダイヤ改正が来週3月17日に行われます。近年は列車の改廃もほとんどなく、以前のようなダイヤ改正前の高揚感がありません。ただ、車両面で見ると、改正を機に国鉄時代の車両を中心に淘汰・転用が進展しそうで、首都圏では、115系や189系、また351系に注目が集まっているようです。関西でも、あまり目立たないものの、JRでは車両の置き換えや変更が進んでいます。そのいくつかを報告しましょう。
クリーム1号にぶどう2号の帯を巻き、伝統の関西急電色に塗られた唯一の原色編成、近キト117系T1編成が、ダイヤ改正を待たず、吹田工場へ入場、地域色に塗り替えられた。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑯

市電の全廃
大村昆ちゃんのCM“ミゼット”が評判になったのは昭和30年代の後半の頃でした。政府の提唱する国民車構想が実を結んだのもその頃でした。日本はいよいよ自動車の時代に突入です。京都市電では、北野線を最初に、昭和45年、大阪万博の年に、日本最初の電車が走った伏見線を廃止にしました。以下、昭和47年四条・千本・大宮線、49年烏丸線、51年今出川・白川・丸太町線、52年河原町・七条線、最後まで残った外郭線は昭和53年9月いっぱいで廃止になりました。京電以来の83年7ヵ月の幕引きとなってしまったのです。昭和30年代の京都駅前、「いなり」の行き先幕の烏丸線市電が到着する。京都市電の全盛期のシーン(今回より、当会OBの故・羽村宏さん撮影のカラーを掲載します)

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 50年前の撮影地を歩く -24- 宗谷本線編

音威子府を出た列車は、天塩川に沿って北上を続け、やがてサロベツ原野のなかを突き進みます。途中の駅は、ほとんどが木組みの1両だけのホーム、少しマシになれば車掌車「ヨ」を利用した待合室がある程度で、周囲に人家は見られません。乗車人員もゼロ人台の駅が続きますが、意外なことに、途中の2、3駅では、明らかに土地の人と思われる乗車・下車が見られました。この区間、普通列車は一日3往復だけ、他人事ながら、行き・戻りの列車はどうするのか、列車が遅れた場合の連絡はあるのだろうか、運休した場合は、といろいろな心配をしてしまいます。でも、鉄道を信頼し、一人でも乗る人がいれば、この宗谷本線は存続すべきだと改めて思ったのです。

稚内から普通列車に乗って1時間あまり、幌延に到着した普通列車、みどりの窓口もある、昼間のみ有人駅、かつて羽幌線を分岐していた。

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 50年前の撮影地を歩く -23- 宗谷本線編

名寄を発車すると、宗谷本線はいよいよ北辺の地へと入って行きます。宗谷本線名寄~稚内の平成28年の輸送密度は364人キロ/日で、昭和50年の1878人キロ/日と比べて五分の一に減少しました。営業係数は618、宗谷本線の開業以来、百年以上の鉄橋など土木構造物が多数あるほか、冬期の除雪費用、また豪雨災害も発生し、維持管理に莫大な費用が掛かる区間です。駅に関しても、一日平均の乗者数がゼロ人台の駅が多く、雪に埋もれた駅周辺は、生活感の感じられない光景が続いていました。
恩根内を通過する札幌発稚内行き「宗谷」、約40分の遅れとなり、対向列車に乗っていて特急通過駅が変更になった。恩根内は交換可能駅ながら、一日平均乗客はゼロ人台、予定外の駅で通過待ちとなり、秘境駅の様子を観察できた。

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 50年前の撮影地を歩く -22- 宗谷本線編

名寄

旭川から快速列車に乗ると1時間30分程度で、宗谷本線の要衝である名寄に着きます。宗谷本線は、名寄で明確に区分され、名寄までは、旭川の近郊区間として、普通列車以外にも、主要駅のみ停車の快速“なよろ”も運転されています。以前は、名寄本線、深名線を分岐し、機関区もあって、文字どおり鉄道のまちとしても賑わいを見せていました。その後、両線も廃止されて、現業機関も無くなり、宗谷本線の中間駅となりました。市の人口も減少が著しく、いまや3万人を割り込む状況です。駅の乗車人員も宗谷本線のなかではいちばん多いものの、JR北海道が公開したデータでは442人/日に過ぎません。 急に冷え込んだ夜の名寄駅、上下の列車が交換する。稚内から走り通して来たキハ54の後部が、その苦闘ぶりを物語る。

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 50年前の撮影地を歩く -21- 宗谷本線編

塩狩

旭川を出ると、比布、蘭留、塩狩、和寒、士別、風連と好ましい響きの駅名が続きます。そのなかで、塩狩はいちばん再訪を望んでいた駅でした。塩狩峠の頂点にある駅で、50年前は、20‰勾配に挑むC55の力闘もさることながら、駅前徒歩1分にユースホステルがあり、ここに宿泊したことが最大の思い出でした。旅館に併設された民営ユースホステルで、なんと言っても温泉を引いた浴場が、ある意味で名物でした。残念ながら、その恩恵に預かることはできませんでしたが、泊まった翌朝、食事前の散歩を兼ねて、ユースのゲタを借りて駅周辺で撮影したことが思い出されます。50年ぶりの塩狩での下車、峠の駅だけあって、深雪に覆われ、物音ひとつ聞こえない、乗降客ゼロの静かな世界が広がっていた。

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 50年前の撮影地を歩く -20- 宗谷本線編

旭川

今年は、各地の積雪量が例年になく多いようですが、“こんな時にこそ”と北海道へ行ってきました。3月になってからの北海道は何度か行きましたが、厳冬期は初めてのことです。おもに訪れたのは宗谷本線、LCC利用客限定のフリー切符が発売中で、これを使っての訪問となりました。宗谷本線は、本欄でも何人かが記されていますが、DRFC時代には、多くの仲間と一緒に訪れた思い出の地ですが、それ以降、北海道へ行くことはあっても、この地を訪れることがないまま50年が経過しました。各駅で今昔対比もしながら、ゆっくり一人旅を楽しんで来ました。
始発の旭川で発車を待つ宗谷本線のキハ40、規模の大きな立派な駅構内には不似合いな単行列車の姿は、宗谷本線の現状を象徴していた。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -25-

羽越本線の要衝である酒田を出発した列車が北東に進路を変えると、前方には長く裾をひいた、独特の山容を見せる鳥海山が見えて来ます。吹浦付近で庄内平野は終わり、女鹿~小砂川で県境を越えて、秋田県に入ると、再び海岸線を走るようになりますが、笹川流れほどの厳しさはありません。有耶無耶の関の跡を見て、まもなく到着するのが象潟、芭蕉も立ち寄った、海に小島が点在する景観は、地震で隆起して陸化し、いまは水田のなかに森が散在しています。長かった羽越本線の旅も、まもなく終わります。日本海に夕陽が没する頃、一日の活動を締めくくるように、D51の牽く貨物が静かに通り過ぎた。女鹿~小砂川(昭和46年8月)

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -24-

笹川流れのほかにも羽越本線には優れた撮影地が多くあって、私も普通列車に乗りながら、何ヵ所か下車して撮りました。ここでは、笹川流れのほかの区間での撮影を南から順に紹介していきます。今回は、新潟・山形県です。C57の優美な姿をアウトカーブからとらえる。ここ西袋~余目は、陸羽西線とほぼ平行しており、同線のC58と掛け持ち撮影ができた。2048レ C57 103〔新〕(昭和46年8月)

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 ◆た~ちゃんの電車めぐり ⑮ 

青電スタイルで片側に扉が3ヵ所あった大型ボギー車、1000形も忘れられない電車です。昭和24年秋に登場した時、200人乗りと新聞で紹介されました。宝ヶ池競輪場へは元田中から叡電に乗り入れ直通運転をしました。チャンチャンの警鐘からパァーンの警笛に変わりました。動物園、植物園への遠足には子ども達を満載して走っていました。
汽車は貨物を運ぶために生まれましたが、電車は人を運ぶために生まれました。でも、それ以外の役割もしました。明治・大正期の都大路の大部分は未舗装で、乾燥した日は砂塵がもうもうと立ちこめます。そこで水撒き電車が造られ、堀川押小路では堀川、熊野神社下ル徳成橋畔では疏水から水を汲み上げていました。終戦直後まで夏場には水撒きする姿がありました。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -23-

最初に笹川流れを訪れた昭和44年8月、今川で下車して、午前中は桑川方で写したあと、午後からは、越後寒川方へ場所を移しました。ここには有名な蓬莱山があって、笹川流れの本場とも呼べる撮影地です。最近の写真を見ると、この蓬莱山を見下ろすことができる、恐ろしく危険な撮影地が存在するようですが、その当時には、その情報も無く、第一、そんな危険な目をしなくても、線路端から安全快適に撮れたものです。羽越本線の代表的な景観、蓬莱山をバックにナメクジ機が行く。真夏のカンカン照り、あまりの暑さについに降参、駅へと退散した。550レ D51 75〔酒〕

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -22-

今川で下車したあと、未舗装の国道を通って、海岸沿いを桑川方面に南下しました。
まもなく、“笹川流れ”の語源となった笹川を渡ります。川に沿って少し山手の小高い丘へ登ると、トンネルを抜けて、築堤に掛かる羽越本線が眼下に広がります。日本海の強風から守るためか、屋根に石を置いた民家や、藁葺き屋根の民家が混じり合った光景が見えました。 小さなトンネルが連続する桑川~今川、トンネルを飛び出た瞬間、家並みの向こうにチラリと見える、紺碧の日本海が印象的だった。C57 181〔酒〕牽引の客車回送列車(昭和44年8月)

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -21-

「地図シリーズ」、前回紹介の北陸本線糸魚川~直江津からもう少し北、羽越本線を採り上げました。北陸本線と同じく日本海縦貫線の一翼を担いますが、初めて訪れた昭和44年時点でも、全区間が非電化で蒸機が活躍し、旅客用にはC57が健在で、その後も何度か訪れたものでした。優れた撮影地が各地にありましたが、とくに断崖絶壁、奇岩の佇立する“笹川流れ”を中心に紹介します。
270キロもある羽越本線の始発駅は新津。その新津駅の待合室で一泊したあと、始発の列車に乗って新津を出発した。まもなく見渡す限りの稲田が広がり、これが越後平野だと納得した。新幹線以外では、当時、日本一長かった阿賀野川橋梁に掛かるころ、朝陽が列車に反射し、睡眠不足も吹き飛んで、撮影意欲が湧いてきた。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑭ 

市電最盛期に連結市電登場

広島の駅頭に立っていますと、電車が次々と折り返して行きます。赤地に白字の1の円い系統板を付けた青電がやって参りますと、懐かしい思いに駆り立てられます。この系統は、昔、壬生車庫から千本今出川へ、百万遍、祇園を経て、一周していました。四条通へ向かう反対回りもありました。反物を風呂敷にくるんで小脇に抱えた人、背に負った人も乗っていました。

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 今年も梅小路ライトアップへ行ってみた

厳しい寒さが続いて、家に引き籠もりの生活が続いていますが、それに“渇”を注入すべく、梅小路公園で開催の「京都 冬の光宴2018」へ行ってきました。毎年、2月に行われているイベントで、同公園内の京都鉄道博物館では、扇形庫の保存蒸機を夜間にライトアップ、公園内を走るN電も特別に夜間走行しました。またことし初めての試みとして、旧二条駅舎ではプロジェクションマッピングも行われました。
正月に頭出しされた蒸機がそのままの位置に置かれて、日没からライトアップされた。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -20-

廃止される郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、まさに“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月撮影)

能生で数時間撮影したあとは、列車に乗って、次の撮影地の名立、そして郷津へと移動しました。これから向かう能生の東寄り、直江津までの区間は、本格的な別線線増区間となり、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、なかでも筒石は頸城トンネルの中に地下駅として移設されます。続く有間川、谷浜は従来駅を利用するものの、有間川~谷浜は別線線増となります。谷浜~直江津も別線線増で、途中の郷津は唯一の廃止駅に。このほか、複線化により、木浦(浦本~能生)、百川(能生~筒石)、西名立(筒石~名立)の3信号場も廃止になるなど、完成を一ヵ月余り後に控えた同区間は、大きな転換期を迎えていました。 続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -19-

浦本~能生の海岸沿いを行くD51重連の長野発米原行き621レ D51 588〔糸〕+D51 178〔糸〕(昭和44年8月、以下同じ)

糸魚川~直江津の撮影では、下見の乗車をしたあと、糸魚川から折り返しの525レに乗って戻ります。糸魚川~梶屋敷~浦本は、現在線に腹付け線増されるため、梶屋敷、浦本の2駅は在来のままの改良で、架線も張り巡らされています。浦本からは、別線線増区間に入り、列車は架線のない単線区間に入って行きます。新線では、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、筒石は頸城トンネル内に地下駅で移設します。525レから、まず下車したのが能生でした。

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