◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑩ 

梅小路公園のチンチン電車
平成6(1994)年、京都建都千二百年記念事業がいろいろありました。その一つに、梅小路公園建設がありました。西端部では復元されたチンチン電車が走り出し、大変な人気者となりました。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑨

 京の七口を結んだ京電
京の七口に思いを巡らせてみました。平安京時代からある言葉なのだそうですが、太閤さんが京の町を守るために造らせた御土居によって、その位置が今もはっきりし、史跡として10ヵ所指定され地名となって残っているところもあります。京都電気鉄道(京電)が伏見へ向け走り出た地が竹田口、伸びて行った南禅寺橋近くに粟田口、その途中の木屋町松原は伏見口(五条大橋口)となります。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧

最近、当欄では音信不通になっている“た~ちゃん”が、病院帰りに訪ねて来られました。体力・気力の衰えから、投稿・コメントが滞っている理由を聞かせてもらったあと、“これなんやけど”と差し出されたのが右の写真の資料でした。聞けば、数年前に京都の染色業界向けの機関誌から原稿依頼を受けて、連載をしたものでした。《路面電車から街づくりを考える》のシリーズタイトルどおり、京都市電の歴史から、欧米のLRTまで、路面電車の蘊蓄が詰まった好個の読み物になっています。
“これを、ぜひデジ青に載せてくれ~。ワシの思いが詰まっているんや”。なるほど京都で生ま育った、電車が大好きな“た~ちゃん”ならではの内容です。“介護投稿”の一環として、しばらく本シリーズを綴ることにしました。来年80歳を迎える“た~ちゃん”、これが決して遺言状ではなく、これから一層の活動を願ったエールとして綴っていきます。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -17-

飯田線⑧ 中部天竜のバス
飯田線シリーズの最後は久しぶりのバスネタで締めくくります。前回紹介した中部天竜駅前から、たった2台という日本最小の路線バス会社が佐久間ダムの間を結んでいました。
終点「佐久間ダム」で発車を待つ共益バス、前身は長距離用に造られた国鉄バスで、国鉄時代のナンバーは641-7901、昭和42年製造のいすゞ製。共益バスはあと1台所有するだけの事業者で、手許にあった当時の日本バス協会「会員名簿」によると、ともに香川県の鬼ヶ島観光自動車、直島バスも路線バスが2台だったが、両者は貸切バスも保有しており、路線バス2台だけの共益バスが当時、日本最小のバス会社だった(昭和52年8月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -16-

飯田線⑦ 中部天竜

伊那路を抜け、天竜川の渓谷美を眺めながら、中央構造線を長大トンネルで抜けて、飯田線は中部天竜に至ります。ここには、中部天竜機関支区があって運輸上の要の駅になっていて、いつも、ひと電車遅らせて、区を訪問したものです。

中部天竜機関支区を横に見て発車する辰野行き1227M、クモハ52004+サハ75102+クハ47108+クモハ54119 “流電”の活躍は中部天竜以南が多く、辰野まで足を伸ばすのは1往復のみだった(昭和45年8月)

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -6-

久しぶりの“カラー版気動車シリーズ”、一般形、準急・急行形のつぎは、特急形の80系(キハ81系、キハ82系)の活躍を採り上げました。室蘭本線静狩~小幌(信)を行く「北斗2号」札幌発函館行き、トンネルを抜けて礼文華海岸沿いを疾走する。これから静狩の大カーブに掛かるところ。近くのジャンクションの長万部をも通過して、函館への道を急ぐ。もっとも、この列車に乗っても上野へ着くのは翌朝だが、まだ本州への移動は鉄路がメインの時代、82系は活躍の舞台を広げていた(昭和47年3月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -15-

飯田線⑥ 各駅で交換列車を撮る

飯田線は、私鉄が出自のため駅は多いが、交換不能な棒線駅もある。そこで、飯田線唯一の信号場、大沢信号場が、昭和41年、伊那田島~高遠原に設けられた。一線スルーを右側通行して行くED194の牽く下り貨物(昭和45年8月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -14-

飯田線⑤  G地点 上片桐~伊那大島
伊那大島は南アルプスの塩見岳、荒川岳、赤石岳への登山口であり、ホームにも案内の標柱が立っている。朝のホームに到着した電車、先頭クモハ51001から降りてきたのは、元祖山ガールの集団だった(昭和52年8月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -13-

飯田線④   F地点  飯島~伊那本郷

五万分の一の地形図を眺めていると、先述の田切~伊那福岡とウリふたつの地形が、3キロ南の飯島~伊那本郷にも存在することが分かります。地図上で等高線を赤線でなぞると、同じ田切地形と分かり、飯田線は急カーブで上流へ回り、与田切川を渡り、またもとに戻ります。前後のカーブは、こちらの方が開けていて、撮りやすい感じがします。鉄橋の長さは74m、長さも様式も田切~伊那福岡と同じですが、下路ガーダーが逆台形であること、橋台が一部煉瓦積みであることが違っています。
本掲示板の前項で“どですかでん”さんが、地図から推測して撮影区間を特定されていますが、私もよく似た田切~伊那福岡、飯島~伊那本郷は、手帳を見返しても、どちらで撮ったのかよく分かりません。地図と見比べて、ようやく判明しました。快晴のもと、与田切川を渡って行く1251レ、ED193が牽く

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -12-

飯田線③   E地点 伊那福岡~田切

飯田線、しばらく続けます。一昨日行われた三条京阪イベントに参加すると、1900生さんや、どですかでんさんから、飯田線への思いをたっぷり聞かせてもらいました。車両だけでなく、飯田線独特の車窓風景や線形が魅力を持った線区であることを改めて思いました。
今回は5万分の1地形図「赤穂」の最南端、伊那福岡~田切の撮影地を見て行きます。この区間は、例のオメガカーブの線形で、飯田線北部では、いちばん有名な撮影地でした。鉄道ファンの撮影地ガイドにも初期の号に紹介済みで、私も初めて訪問の時は、ファン掲載の地図を自分で書き写して持参しました。
オメガカーブの頂点、中田切川を渡るED195の牽く貨物列車。建設費が安い短い鉄橋で済むよう、上流にさかのぼって川を渡り、また元に戻る。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -11-

飯田線②   B・C地点:宮田~大田切  D地点:駒ケ根駅
五万分の一の地形図「赤穂」を見直して興味深いのは、三州街道(伊那街道)と飯田線がほぼ完全に並行していることです。旧街道沿いに鉄道が敷設されることはよくありますが、たとえば例のΩカーブでも、旧街道がちゃんと寄り添っていて、ここまで完全並行は珍しいことです。あくまで地形に忠実に敷設された、明治期の私鉄らしいところです。そもそも開通当時の伊那電気軌道の辰野~伊那松島は、三州街道上にレールを敷いてポール電車が走る、まるで路面電車だったとのことで、大正12年になって現在の専用軌道となったと言いいます。
先の沢渡から2つ目、宮田(みやだ)も三州街道沿いの宿場町でした。最初は宮田村で、町制施行で町となり、そのあと合併で駒ヶ根市となり、2年後には分離独立して村に戻るという珍しい変遷があります。読みも昭和31年に「みやた」から行政名と同じ「みやだ」に変更されています。
  宮田駅は、大正2年の開業当時のままの駅舎、駒ケ根の近くで乗降は多い。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑦ 速報 ED38発見 

△ 送られてきた、ED38の旧称号1002号時代の写真、阪和電鉄時代のナンバーを付けたまま国鉄で使われている写真は大変珍しい(昭和27年撮影)。

つい先ほど、“た~ちゃん”から一通のスマートレターが届きました。開けると、またL判の写真の入ったアルバムが‥。表紙には「取り急ぎ河さんにED38の姿を頼みます」と書かれています。本シリーズの前回に、コメント回答としてED38は撮っていないと言っておられましたが、探してみると写真が出て来たとして、ED38の写真を所望された河さんに見せてほしいとのことでした。ED38については、米手さんからも救助の手が入り、鷹取工場で写された珍しい写真が掲載され、西村さんからは秩父鉄道時代のED38が報告されています。

アルバムを見てビックリです。なんとそれはED38ではなく、阪和旧番号の1002のままの姿です。ご承知のようにED38は、阪和電鉄のロコ1000形として昭和5年に製造された大型の箱型機関車です。1001~1004の4両が阪和電鉄内の貨物などを牽引していました。戦後、国鉄阪和線となりますが、称号は1001~1004のまま、阪和線内で活躍します。そして、昭和27年になって、国鉄称号のED38が与えられます。撮られた写真は、その直前の姿であり、区名板もよく見ますと「鳳」のようです。撮影場所は不明ですが、昭和27年と言えば、た~ちゃんが急電乗りたさに和歌山まで行ったと述懐されている年と符合します。この写真はその時に撮られたものでしょうか。いずれにしろ貴重な写真です。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -10-

飯田線(1)   A地点:沢渡駅

地図シリーズ、今回は趣向を変えて、蒸機区間をやめて、電車・電機の走っていた飯田線に移ります。飯田線が前身の四つの私鉄をつないで全通してから80周年を迎えたとのこと、鉄道雑誌の記事特集を見て初めて知りました。飯田線はかつて旧型電機・国電の宝庫として注目されましたが、それが終わると、あまり顧みられない線区となりました。改めてチェックしてみると、私も過去4回、飯田線に行っていますが、“撮りっぱなし”の典型で、ほとんど振り返ることもなくネガは眠ったままでした。今回、80周年を迎えて、自分なりに過去の思い出を掘り返してみたいと思った次第です。辰野から乗って12番目の駅、沢渡で待望のED19の牽く貨物列車と交換した。キロポストは190を示すが、実際の営業距離は173.4キロ、たび重なる渓谷区間の路線改良・短縮に対応していないようだ。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑥和歌山の国鉄瞥見

“た~ちゃん”の和歌山の電車めぐりは、前回で終わりましたが、渡されたアルバムには、最後に国鉄の写真が貼られていました。電車めぐりの際に、和歌山周辺で写されたものです。ご本人は、“行きがけの駄賃”の撮影のつもりでしょうが、国鉄車両に興味を示す私の立場からは、電車もさることながら、アルバムの最終ページに大きな価値を見出しました。おもに写されたのは東和歌山(昭和43年に「和歌山」に改称)で、戦前から電化済みの阪和線(阪和電鉄)の終点であり、そこから続く紀勢西線は、全くの非電化区間であり、電機と蒸機が出会う駅でもありました。△国産初の大型電気機関車として名高いEF52のトップナンバー機が東和歌山駅に顔を見せる。特徴あるデッキが白く塗られて、さらに大きく見える。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑤野上電鉄 その後

昭和30年代の野上電鉄の訪問は、前回紹介どおりですが、一昨日、廃止直前の野上電鉄を写したL版アルバムが送られてきました。野上電鉄は、ご承知のように1994(平成6)年4月に廃止されていますが、“た~ちゃん”は、廃止前にも数回にわたって訪問しており、現役時代の野上との比較のために、ぜひ掲載してほしいと送られてきたのでした。
私も廃止前に訪れています。ところが、廃止をめぐって、労使の対立があったり、社員間でも考えの相違があったりして、現場には張り詰めた空気がありました。その矛先が撮影者に向けられ、駅でカメラを持っているだけで制止されたり、車内でカメラを取り出すと運転士が怒鳴りに来たりと、すさんだ空気が流れていて、私自身は野上への思い出は封印していました。しかしそこは、決して喧嘩をしない、人間のできた“た~ちゃん”、事務所の呼び出しにも誠実に対応し、沿線の子どもたちとは、野上廃止について、話し合い、友好的な訪問を果たします。ホントに電車が好きな“た~ちゃん”らしい、野上電鉄との別れ方でした。
△ 日方車庫に集結した廃止前の車両たち、これを撮っていたら、事務所から呼び出しが掛かった。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ④野上電鉄

和歌山紀行、続けます。“た~ちゃん”は現役時代、昭和32年12月、同35年3月の2回、和歌山を訪れています。2回とも、和歌山市内線を撮影・乗車のあと、市内線の終点 近くにある野上電鉄日方駅を訪れています。車庫も隣接していて、事務所を訪れると、30歳代の車両課長に応対してもらい、いろいろな話をしてもらったと述懐しています。中小私鉄ならではの悲哀も聞き、この時の会話が、全国の中小私鉄に目を向けるきっかけになったと言っています。
野上電鉄と言えば、廃止直前の姿しか知らない私など、阪神・富山地鉄から来た小型車という印象が強いのですが、それらが入線する以前で、10両の電車が在籍していました。

△ 和歌山市内線の「野上電車前」で下車、目指す野上電鉄の駅・車庫はすぐだった。

 

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 夏の思い出 2017-4  ある駅を訪ねる

8月もあと1日で終わります。私も、夏の思い出づくりに、ささやかな旅をして来ました。
以前、デジ青で海水浴の話題がありました。米手さんのコメント「満員の列車に揺られて、若狭・丹後へ海水浴に行ったもんや」で、思い出したことがありました。小学生の3、4年、昭和33、34年です。家族で海水浴へ行きました。米手さんのように乗った列車は超満員でした。小学校高学年になると臨海学校が開かれますが、その学年に達する前の齢で、初めての泊りがけの海水浴でした。泳ぎ疲れた夕方、民宿の開け放した窓の向こうを、DC列車が紫煙を上げて通り過ぎるのを、ぼんやり見ていました。
米手さんのコメントで、なぜか“その場所へ行ってみたい”と言う思いに駆られました。 そう思う理由は、もうひとつありました。その近くに、鉱山へ向かう専用線があって今も廃線跡が残っていると聞きます。二つの理由から、ある日、ある駅に降り立ちました。

          ▲ある駅に近づいて来た。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道

本シリーズ、前回は和歌山電気軌道の和歌山市内線をご覧いただきました。た~ちゃんが訪れた当時、和歌山電気軌道には、もうひとつ東和歌山(当時)~貴志の鉄道線がありました。昭和36年には、南海貴志川線となり、いまの“たま駅長”、“いちご電車”の和歌山電鐵です。
た~ちゃんの述懐を続けますと、最初に和歌山へ行ったのは、昭和27年、14歳の時で、関西急電の華モハ52に乗りたい一心で、一人でカメラも持たずに東和歌山へ日帰りで行ったそうです、構内にいた4輪車が琴参電鉄から来た電車とは全く知らず、次いで昭和32年には、今回発表する訪問となりました。その時には琴参電車は解体後で、あとで高橋弘さんから、もと琴参車の写真をいただいた感動が忘れられないとのこと、それを使って「関西の鉄道」で貴志川線の琴参電車を紹介したところ、編集長に召し上げられたと思い出しておられます。
△ 東和歌山から和歌山電気軌道の鉄道線に乗り、伊太祁曾の車庫を訪問しての帰りに、岡崎前で801+202と交換した。801は、もとガソリンカーで、ほかにも阪急・東急から来た中古車両ばかりで、新造した電車が1両もないことは、いまも変わらない。

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -5-

キハ58系

キハ58系は昭和36年から造られた急行形気動車です。われわれの現役世代、前回に紹介したキハ55系は、すでに準急・急行用の座から降りて、普通列車に混結されているのが大部分でしたが、今回のキハ58はバリバリの急行用で、派生形式も含めて、日本全国津々浦々の線区で急行用として走っていました。事実、キハ58の急行に乗ると、今までのDCとは明らかに違う客室設備であり、急行に乗った優越感に浸ったものでした。
宮津線由良川鉄橋を行く下り「丹後1号」、海水浴客で車内は混んでいるようだが、普通車はすべて非冷房で窓が開け放たれている。以前紹介の冷房付き寝台車の「はしだてビーチ」の人気ぶりが分かる(昭和44年7月)。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ②和歌山電気軌道

和歌山市内線は、和歌山市と海南市を結ぶ都市間連絡の使命も持つものの、国鉄紀勢本線と並行しているため、直通客は少なく、地域の生活路線的な色彩が強かったようです。また和歌山市の鉄道の成立から、和歌山市と東和歌山(当時)と二つのターミナルを持ち、両駅間の移動や、その中間に位置する官庁街・繁華街への往来と言った短距離輸送もかなりあったようです。それと和歌浦、紀三井寺へ向けて観光客輸送も特徴と言えます。とくに和歌浦は、万葉集にも歌われた古来からの名所でした。
老人が写された昭和30年代の半ばは、輸送の最盛期で、系統の重なる公園口~車庫前は本数が多く、ラッシュ時などは数珠繋ぎになって走っていたと言います。実は私は、この軌道線は見たことも乗ったこともありません。廃止が昭和46年ですので、行こうと思えば行けた年代でしたが、路面電車の撮影優先度は低かったのです。廃止の10年以上前の軌道線がいちばん充実していた時代に、2回に渡って貴重な記録を残された当時の老人の進取性には改めて敬服します。

△ 30形と60形が交換する。出自はどちらも創業時の1形だが、改造時期が違い、面相も異なる。撮影地は「車庫前」と判明。

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