本シリーズ、前回は和歌山電気軌道の和歌山市内線をご覧いただきました。た~ちゃんが訪れた当時、和歌山電気軌道には、もうひとつ東和歌山(当時)~貴志の鉄道線がありました。昭和36年には、南海貴志川線となり、いまの“たま駅長”、“いちご電車”の和歌山電鐵です。
た~ちゃんの述懐を続けますと、最初に和歌山へ行ったのは、昭和27年、14歳の時で、関西急電の華モハ52に乗りたい一心で、一人でカメラも持たずに東和歌山へ日帰りで行ったそうです、構内にいた4輪車が琴参電鉄から来た電車とは全く知らず、次いで昭和32年には、今回発表する訪問となりました。その時には琴参電車は解体後で、あとで高橋弘さんから、もと琴参車の写真をいただいた感動が忘れられないとのこと、それを使って「関西の鉄道」で貴志川線の琴参電車を紹介したところ、編集長に召し上げられたと思い出しておられます。
△ 東和歌山から和歌山電気軌道の鉄道線に乗り、伊太祁曾の車庫を訪問しての帰りに、岡崎前で801+202と交換した。801は、もとガソリンカーで、ほかにも阪急・東急から来た中古車両ばかりで、新造した電車が1両もないことは、いまも変わらない。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
カラーで振り返る 昭和の気動車 -5-
キハ58系
キハ58系は昭和36年から造られた急行形気動車です。われわれの現役世代、前回に紹介したキハ55系は、すでに準急・急行用の座から降りて、普通列車に混結されているのが大部分でしたが、今回のキハ58はバリバリの急行用で、派生形式も含めて、日本全国津々浦々の線区で急行用として走っていました。事実、キハ58の急行に乗ると、今までのDCとは明らかに違う客室設備であり、急行に乗った優越感に浸ったものでした。
▲宮津線由良川鉄橋を行く下り「丹後1号」、海水浴客で車内は混んでいるようだが、普通車はすべて非冷房で窓が開け放たれている。以前紹介の冷房付き寝台車の「はしだてビーチ」の人気ぶりが分かる(昭和44年7月)。
◆ た~ちゃんの電車めぐり ②和歌山電気軌道
和歌山市内線は、和歌山市と海南市を結ぶ都市間連絡の使命も持つものの、国鉄紀勢本線と並行しているため、直通客は少なく、地域の生活路線的な色彩が強かったようです。また和歌山市の鉄道の成立から、和歌山市と東和歌山(当時)と二つのターミナルを持ち、両駅間の移動や、その中間に位置する官庁街・繁華街への往来と言った短距離輸送もかなりあったようです。それと和歌浦、紀三井寺へ向けて観光客輸送も特徴と言えます。とくに和歌浦は、万葉集にも歌われた古来からの名所でした。
老人が写された昭和30年代の半ばは、輸送の最盛期で、系統の重なる公園口~車庫前は本数が多く、ラッシュ時などは数珠繋ぎになって走っていたと言います。実は私は、この軌道線は見たことも乗ったこともありません。廃止が昭和46年ですので、行こうと思えば行けた年代でしたが、路面電車の撮影優先度は低かったのです。廃止の10年以上前の軌道線がいちばん充実していた時代に、2回に渡って貴重な記録を残された当時の老人の進取性には改めて敬服します。
△ 30形と60形が交換する。出自はどちらも創業時の1形だが、改造時期が違い、面相も異なる。撮影地は「車庫前」と判明。
◆ た~ちゃんの電車めぐり ①和歌山電気軌道
「デジ青」誌上では、米手さんによる“介護”が相次いでいます。東にデジタル難民がいれば、湖畔のマンション13階まで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、尻を叩きに押しかけて叱咤激励し、暑さで体力・気力の落ちた老人会員に向けて、東奔西走の介護活動をされています。
おっと、私の住む乙訓地方にも難民がいました。以前はしょっちゅう投稿されて、デジ青の常連でしたが、最近は、とんと投稿がありません。聞いてみますと、周囲の環境が変わって、手足をもがれた状態になっていることが分かりました。こんな時こそ救援の手を差し出すべきと、先日、私も“訪問介護”して打ち合わせして来ました。
老人は電車少年として、小学校の時から京都市電、京阪に親しみ、DRFCの頃には全国の電車巡りに出掛けます。その中から、今まで未発表のものについて、代理投稿で報告するように指示がありました。なお、タイトルの「た~ちゃん」は老人の幼名です。今回は、昭和32年12月と、翌33年5月の2回に渡って訪れた和歌山地方の私鉄、第1回目として和歌山電気軌道をご覧ください。その後、中小私鉄の研究を始める契機となった、思い出に残る訪問だと述懐されています。
△ 終点の東和歌山駅前(現・和歌山)ではポール回しの光景も見られた。
「心に響いた20選」見学・祝賀会レポート
8月6日、今夏の最高気温を記録した大阪は梅田、多くの人でにぎわう、華やかなグランフロント大阪、その一角で、周囲とはおそよ不似合いな、風采の上がらない地味~な老人集団が異彩を放っていました。その数20人、平均年齢は優に70歳を越していると思われますが、周りからの奇異な目線にも構わず、馴れ馴れしく大声で世間話をはじめ、やがて謎の集団は階下へと降りて行きます。そこには、写真の展示コーナーがあり、目的の1枚を見つけると、“ホンマかいなぁー”“すごい!”“賞品はなんや?”などの歓声が次つぎに上がります。
▲老人集団の見つめる先には?
カラーで振り返る 昭和の気動車 -4-
キハ55系
キハ55系は、昭和31年から造られた、当時の準急用気動車です。同年10月から上野~日光の座席指定の準急「日光」でデビューしました。それまでのキハ17(当時キハ45000)と比べると、幅・高さとも大きくなり、客車と同じ車内設備の第一号DCとなり、翌年からは量産車が登場します。なお当時はキハ44800形で、昭和32年4月に形式称号の改正で、機関2台、車体幅2.8mの区分によりキハ55となりました。基幹形式のキハ55のほか、キロ25、キロハ25、キハ26、キハ60、キロ60を加えた6形式からなるグループで、最終的に、キハ55系は昭和36年までに総勢489両が製造されました。
全国の非電化区間の準急として活躍したキハ55系ですが、その後に、急行型キハ58系が誕生すると、優等列車の主力の座を追われ、冷房化改造も見送られたため、昭和40年代は、むしろローカル線の普通列車で、一般型気動車とともに混成された形式と言う印象の強いキハ55です。
▲舞鶴線真倉付近を行く、すべてキハ55系で編成された普通列車。
50年前の撮影地を歩く -19-
最後のC62特急を撮りに四ツ倉へ
本シリーズの前々記事、御殿場線の訪問のあと、私は横浜港の氷川丸のなかにあるユースホステルに泊ったあと、翌日は神田の鉄道博物館などを見学し、上野22時23分発の常磐線経由の青森行き227列車に乗り込みました。当時の蒸機ファンの最大のターゲットだったC62特急「ゆうづる」撮影の御用達列車で、案の定、1両目の客車に乗ると、大半はカメラを持った人間ですが、それでもその数は十数人程度、大型三脚も脚立もなく、みんなカメラ一台だけ、ごく平和で、のんびりした車内光景でした。
▲上野駅の隣のホームでは下り「ゆうづる」が発車待ち。翌朝にC62の牽く上りを撮ることを思うと、それだけでワクワクしてきた。関西では見られなかった、ブルトレの座席車、2枚窓のナハフ2052から洩れる車内灯にも心ときめいた。
50年前の撮影地を歩く -18-
竜華操車場・竜華機関区・久宝寺駅
少し前の本稿で、東京の近くを走っていた50年前の御殿場線D52を紹介しましたが、その時期に残っていたD52のなかで、なんと大阪市内を走るD52もいました。それは、吹田第一区にいた2両のD52で、城東貨物線の吹田(操)~放出~竜華(操)の貨物列車を牽いており、同線の一部は大阪市内にも掛かっていたのです。50年前、あの超弩級のD52が、東京近辺や大阪市内を走っていたとは…。
さて城東貨物線の終点の竜華、今は八尾市の行政地名として残るのみですが、かつては竜華操車場、竜華機関区があって、国鉄の重要な拠点でした。その竜華操車場を挟むように、上下線別に離れて久宝寺駅もありました。日中は、普通列車も通過するほど、みすぼらしい無人駅でした。いま、全く姿を変えた久宝寺駅付近の変貌ぶりを見る時、改めて50年という年月の隔たりを感じます。
▲ED60と並んで竜華操車場の発車線に並ぶD5228の牽く城東貨物線の列車、左手に見えるのが、久宝寺駅の上り方ホーム、2、3両分しかない木造のホームだった。背後の高い煙突は帝国製糸のもので、河内地方で盛んだった木綿の生産拠点の名残り。
しなの鉄道をチラ見する 〈下〉
しなの鉄道をチラ見する 〈上〉
スカ色復刻の115系
しなの鉄道では、所有する115系電車を国鉄時代の車体色へ復刻化を進めています。開催中の「信州デスティネーションキャンペーン」の一環で、4月には「初代長野色」(白地に緑・赤)、5月に「湘南色」に塗り替え、このたび、3本目となる「横須賀色」(スカ色)の編成が登場しました。同社の115系S16編成3両編成を青15号、クリーム2号の横須賀色に戻したものです。初日の7月29日は、戸倉で出発式が行われたあと、戸倉~軽井沢で1往復が臨時電車として運転され、折り返し時間を利用して、軽井沢駅で撮影会を開催しました。中央東線のスカ色115系は姿を消しており、唯一となったスカ色115系を撮りに、初日、トンボ帰りで軽井沢へ行ってきました。
夏の思い出2017-3 「はしだてビーチ」
前掲の江若鉄道で行く湖水浴は、京都から近いものの、琵琶湖の水は、汚れ放題のうえ、ナマ温かく、砂浜も狭くて、とても快適な水泳場とは言えませんでした。やはり、海の魅力には勝てません。“水のきれいな日本海へ”の国鉄キャッチフレーズに誘われて、丹後・若狭の海へ行く客が増加していたのも、この頃で、大阪・京都からは、多数の臨時列車が運転されました。 そんな中で、昭和42年から、京都から宮津線天橋立へ向けて、寝台車を利用した冷房付きの臨時急行「はしだてビーチ」が走り始めました。本欄でも断片的には紹介しましたが、改めて「はしだてビーチ」の歴史をたどってみました。▲昭和42年7月21日から走り始めた「はしだてビーチ」、京都駅2番ホームから発車した。向日町からEF58に牽かれて駅東の引き上げ線で転線し、2番ホームに据え付け、福知山区のC57が連結された。
夏の思い出 2017-2 江若の水泳列車を撮る
前掲の朗読劇へ行くため湖西線の電車に乗ると、目は自然と窓外の江若の跡地を見ていました。廃止されて48年目の夏、思い出すのは水泳列車を撮りに行った時のことに行き着きます。撮影地は、決まって京阪石坂線南滋賀駅から湖岸へ5分ほど歩いた、江若の滋賀駅の南側でした。日影の全くない、カンカン照りのなか、田んぼのど真ん中で数時間、通過する水泳列車を写したものでした。自宅から1時間少々で行けるところで、水泳列車は、この場所以外では撮ったことがなく、私にとっては定番の撮影地でした。またまたの江若ネタですが、今まで発表したことも無い写真も含めて、昭和43・44年に滋賀駅付近で撮った水泳列車を総ざらえします。
▲滋賀駅の南、田んぼの中を行くDD1351+1900系客車4両の水泳列車。1900系客車は以前快速列車にも使用されていたが、快速はDCに置き換えられたため、活躍の場は年に数日の水泳列車のみだった(昭和43年8月4日)
江若鉄道“生みの親” 安原仁兵衛の思いを知る
50年前の撮影地を歩く -17-
国府津
50年前、御殿場線にはD52の牽く列車が走っていました。その始発駅が国府津であり、D52の基地である国府津機関区も駅の裏手にありました。D52と言えば幹線の貨物用であり、旅客列車も牽引していたのは、ここ国府津区のみでした。国府津は、東京から僅か80キロほどのところ、こんな近郊にD52が働いていたとは、その時代を知っている人間からしても、今から見るとにわかに信じられないことです。50年前の高校3年生の夏休み、関東方面に向かいました。一番の目的は、C62「ゆうづる」を撮ることにありましたが、夜行列車に乗って、真っ先に訪れたのが国府津でした。御殿場線の電化も翌年に迫っており、最後のD52の撮影をしました。
▲国府津駅5番ホームに停車するD52236の牽く御殿場線の旅客列車、右側のホームに放置されているのは、当時私が使っていた青色のリュックサック。
▲同地点の50年後、基本的な駅構造には変化はないから、車両が代わっただけで、当時の面影がまだ感じられる。古レールを使った支柱も健在。
夏の思い出 2017-1 祇園祭と京都市電
すっかり「デジ青」からご無沙汰の毎日ですが、外部の愛読者からは「最近、投稿が無いのは、身体でも悪いのか」と心配の連絡がありました。いえいえ元気にしていますよ、ご安心ください。“生きている証し”のためにも、せっせと投稿を続けます。
さて京都は祇園祭の時期を迎えました。DRFC時代なら、前期の試験も終わって“さぁ夏休み”の期間で、京都の学窓を巣立った人間にとっては、祇園祭は何とも言えない解放感・期待感が入り混じった、特別な祭りだったと思います。そんな祇園祭も、齢を重ねると、すっかり観光化した祭りに反発もあって関心が薄れ、この10年以上は行ったことがありませんでした。ちょうど埼玉県から京都へ戻った会員のSさんも、自身のブログで30数年ぶりに祇園祭へ行ったと述懐されています。
今年は、宵山の昨16日、趣味会合の帰りにホント久しぶりに、山鉾の立ち並ぶ烏丸通、四条通を歩き、しばし宵山の雰囲気に浸ることができました。若い世代が圧倒的に増えたこと、そして露店の数の多さにはびっくりしました。
「トレランス8号」 三陸鉄道を走る 〈下〉
▲釜石から戻りとなる「トレランス8号」は釜石18時10分発、移りゆく車窓は、次第に夕闇に包まれようとしていた。
往きの「トレランス8号」は15時25分に終点の釜石に到着しました。釜石と言えば、駅前に新日鉄釜石製鉄所があり、巨大な煙突から煙を吐き出していた40年前の印象が忘れられません。その後、高炉もなくなり、今では線材を生産するだけの一部門になり、工場は大幅に縮小されています。釜石駅周辺も津波被害がありましたが、ほとんど感じられないほどに復旧していました。この釜石駅ホームで本日のもう一つのイベントが行われようとしていました。
「トレランス8号」 三陸鉄道を走る 〈上〉
▲三陸鉄道南リアス線の恋し浜駅に停車する、佐竹さん貸切列車「トレランス8号」、レトロ調車両36-R形が充当された。時間を掛けた、ゆっくり旅で、まさにトレランス精神あふれる列車となった。
佐竹保雄さんの貸切列車「トレランス8号」が、6月11日に三陸鉄道南リアス線盛~釜石で運転されました。「トレランス」号は佐竹さんが皆さんを招待し展望車を連結した京都発京都行きの特別列車で、1989年に運転を開始して、ほぼ一年ごとに運転され、1996年の7号で完結を見ました。
その後、佐竹さんは、震災復興を願って毎年「東北展」を開催され、三陸鉄道の南リアス線全線開通時にも、自ら撮影に出掛けられるなど、とくに三陸鉄道とは強い絆が生まれ、20年ぶりに場所を変えて「トレランス号」の復活運転となったものです。クローバー会でも参加者を募ったところ、私と、西村さんご夫妻の計3名が参加することになり、本隊の約30名と現地で合流して乗車を果たしました。車中では、“震災の語り部”から当時の様子を聞いたり、そのあとはバスに乗り換えて、佐竹さん思い出の地や震災遺構を見学したりと、震災後6年目を迎えた現地でその思いを新たにしました。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -9-
▲西舞鶴の5両のC12は、西舞鶴、東舞鶴駅の入換のほか、勾配区間の補機、小浜線松尾寺にある日本板硝子の専用線の入換と、地味なC12としては、大活躍のシーンを見せていた。
D地点 〈東舞鶴〉
白鳥峠を越えると、舞鶴線、小浜線の分岐駅となる東舞鶴に到着します。東舞鶴駅は、切欠きホームも含めた二面四線の構造で、西舞鶴と似た構造です。側線が多いのも同じで、機関区こそありませんが、転車台、給水タンクもあり、変化のある駅風景を提供していました。東舞鶴は、軍港として発達したため物資輸送のため港へ向かって多くの引込線が伸びています。そのなかで、通称、中舞鶴線(正式には舞鶴線の支線扱い)は、兵員輸送もあって大正8年から旅客営業を行っていました。珍しいのは、東舞鶴を出ると、西舞鶴方の引上線に突っ込み、スイッチバックして中舞鶴方面に向かっていました。当時、旅客は5往復、C12の貨物が1往復ありましたが、昭和47年10月に廃止されます。▲昭和43年10月のお召運転時に初めて東舞鶴を訪れ、これから牽引するC58223〔豊〕+C5856〔西〕を写す。区への出入りは全く自由ながら、ロッドを揃えて公開するサービスはなかった。お召を撮影して、駅に戻ると、小浜線内を牽いてきたC58171〔敦一〕が日章旗も畳んで静かに休んでいた。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -8-
▲西舞鶴~東舞鶴での初撮影は、お召列車だった。東舞鶴で牽引機が交代したお召は、C58223〔豊〕+C5856〔西〕の重連で白鳥峠を越える。この日、お召は、若狭高浜から豊岡まで運転された。以前の本欄ではカラーを載せたので、今回は手持ちで連写したモノクロを(昭和43年10月)。
C地点〈西舞鶴~東舞鶴〉
舞鶴の市街地は、城下町・商港として発展した西舞鶴と、軍港として栄えた東舞鶴に分かれ、かつては舞鶴市、東舞鶴市と、別の市でした。二つの市街地を分けるところにあるのが白鳥峠で、距離は短いながらも、両方向から25‰勾配が続き、前補機、後補機など、蒸機の活躍が見られました。
以前のデジ青でも記しましたが、昭和43年10月の福井国体でお召列車が運転され、あわせて兵庫・京都北部の行幸もあって、同区間で運転されたものです。運転された当日は、同学年のM君ともに東舞鶴へ行き、駅構内で待機中のお召機を写した後、国道沿いを峠へ向かいました。予備知識もなく、適当に歩き出したのですが、やがて、国道と線路が平行し、築堤となった線路を見下ろす場所に行きつくことができました。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -7-
▲夕方の西舞鶴駅、盛大な煙を吐いて、重連の牽く列車が発車して行った。まだ暑さが残る。窓は全開だ(昭和45年8月)。
B地点〈西舞鶴〉
つぎの撮影地はB地点、と言っても駅間ではなく、西舞鶴の駅構内です。機関区の所在する西舞鶴へは高校生時代に訪れて以来、何回か行き、宮津線への乗換え時間に発着する列車も撮影してきました。駅は宮津線用の切り欠きホームも含む二面四線構造、西側に機関区、東側に広大な貨物側線があり、地方の中枢駅の典型的な駅構造でした。また地図を見ても分かるように、臨港線や工場の引込線が多くあり、貨車の出入りも活発でした。