“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈7〉

嵐山行き臨急を撮る
阪急「円明寺上一番踏切」で撮りたいテーマが、もう一つありました。春秋の行楽シーズンに運転される梅田~嵐山の臨時急行です。後年、「嵯峨野エクスプレス」という愛称が付きますが、この当時はまだ愛称がなく、単に「嵐山行きの臨急」、社内では「梅嵐急行」と呼ばれていたようです。現在でも、嵐山へは、シーズンに、梅田、河原町から快速特急、天下茶屋、高速神戸、宝塚から直通特急が運転されていますが、平成の初期は、午前中嵐山行き10本、午後梅田行き11本が15分ヘッドで運転される高頻度で、運転期間も3月下旬から5月連休期間までの日・祝運転と、現在よりスケールの大きな運転でした。嵐山線内はホームの有効長で6連のため、車両には制約があり、いちばんの目玉は、ふだんは普通運用に就いている2300系の非表示幕車が、特製の「急行」マークを付けて疾走することでした。

2300系非表示幕車の晴れ舞台、「梅田 急 嵐山」の特製ヘッドマークを掲げて、円明寺上一番踏切を行く。春・秋の日曜日の午後、天気がいいと、よく自転車に乗って向かったものだ。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈6〉

阪急 前パン電車を撮る
今般の大雨被害では、とくに広島・岡山県下の鉄道は壊滅状態で、心を痛めています。私も、土日に予定していた遠隔地のイベント参加、それに続く旅行もすべて中止し、空いた時間を使って、“デジ青”投稿に勤しむことにしました。
平成の思い出シリーズを続けます。私は、昭和58年に初めて阪急沿線で生活することになり、それまでほとんど撮ったことのない阪急電車にも、自転車に乗って近くへ撮影に行くことになります。平成に入ってから、お気に入りの撮影地を見つけました。長岡天神~大山崎のほぼ中間にある「円明寺上一番踏切」です。この踏切の鉄柵のすき間のローアングルから、100ミリ程度の望遠で、大阪方面行きの電車を狙います。とくに、当時の阪急電車の特徴でもある、先頭車二丁パンタ装備車は、より凜々しく引き締まって見え、阪急電車の魅力一杯です。今回は、平成になった直後の阪急電車の“前パン”の定点記録です。
当時、特急は6300系の天下、中でも6330F編成は唯一の前パン。昭和59年の建造で、7300系の界磁チョッパなどの編成は新技術が投入され、電動車ユニットを両端に置いたため、大阪方先頭6330が前パンとなった。

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 18きっぷで東海道を巡る -9-

最後の国鉄形特急185系「踊り子」を撮る②

185系は1981年に最初の0番台が誕生しました。当初の目的は、153系の急行「伊豆」の置き換えで、短期間ながらも急行として運転されました。そして1981年10月ダイヤ改正で、従来の特急「あまぎ」が「踊り子」と改称され、新製185系は、急行「伊豆」から格上げされた「踊り子」を担当することになりました。これで、伊豆急下田へ向かう優等列車は、すべて特急化され、一日10往復となりました。デビュー時は、デッキ付き車端2扉で、客室はリクライニングなしの転換クロスシートでした。ほぼ同じアコモで、同時期に関西に配置された新快速用の117系とよく比較されたものです。
別の日に改めて訪れたのが、早川~根府川の石橋橋梁だった。大昔からよく知られた撮影地で、新幹線に乗っていると、トンネルを出た一瞬に見える光景でも知られている。ところが、私には敷居が高く、今まで訪れたことがなかった。首都圏の著名な撮影地には、他人の庭に勝手に上がり込むような遠慮が働いたのかも知れない。185系「踊り子」は、最長15両編成で、スケールの大きな橋梁によく似合っている。15両は、国鉄時代から在来線昼行特急では編成両数第一位の座を保ち、A編成の10両編成中にグリーン車2両を組み込んだのも、いかにも東京から伊豆へ向かうリゾート特急らしさを感じる。

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 18きっぷで東海道を巡る -8-

最後の国鉄形特急185系「踊り子」を撮る①

国鉄時代に製造された185系で運転される特急「踊り子」の動向は、関西にいても気になる存在です。世代交代の激しい首都圏にあって、「踊り子」は登場から35年も経過しながら、ずっと185系で運転され、同時期に製造の117系と比べて、その健在ぶりは驚異的に映ります。ただ、後継車両も見えてきたようで、本腰を入れて記録しなければと思っているところでした。タイトルの“18きっぷ”のシーズンではありませんが、185系活躍の場である湘南・伊豆へ、あえて梅雨時を選んで行って来ました。
梅雨時とあれば、本欄でもよく紹介されている紫陽花に限る。改めて東国へ向かうと、線路端に多くの紫陽花が咲いている光景が見られる。もちろん関西でも見られるが、寺院の庭に限られているような感じで、線路沿いにも咲く光景は、新鮮に感じられた。

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 ◆ “た~ちゃん”の電車めぐり ⑲

全盛時代の京都市電600形を撮る (2)

ちょっと留守にしている間にも、宮崎様や米手さんから、京都市電の貴重な写真がアップされ、楽しんでいます。これに乗じて、た~ちゃん撮影の昭和30年代の600形をもう一度載せました。
95両が製造された600形ですが、更新・改造が多く行われ、600形のまま残ったのは僅かでした。これも、ある意味600形の特徴とも言えるでしょう。一次車601~685は、終戦後の酷使や、軽量車体による車体歪みなどが発生し車体更新が行われます。先欄のコメントでも話題になった、側面中央部の垂れ下がりの有無が、更新前後の見分けポイントです。
そのあとは、未更新車のなかから、2600形ワンマンカーへの徹底した改造に移ることになります。昭和39年から18両が改造され、新製された2000形とともに、京都初の連結市電として活躍することになります。その後は、1600形ワンマンカーの簡易改造へと移り、昭和41年から63両が改造されました。結局、600形のまま残った一次車は4両のみでした。なお、戦後製の二次車686~695は、大きな改造を受けることなく、最後までツーマン車として使用されました。
600形を先頭に、烏丸車庫前でズラリと発車を待つ市電群、すべて形式が異なる、市電全盛時代のシーン。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑱

全盛時代の京都市電600形を撮る (1)

本欄で大人気の京都市電600形、以前の米手さん投稿には、コメント数が36にも達して、急遽、別のスレッドを立てるという事態となりました。その米手さんとともに、“た~ちゃん”の介護投稿の資格認定を受けた私も、多数の600形のフィルムを預かっていました。以前にも「また投稿します」と宣言しておきながら、自分の投稿で忙しく、実施できませんでした。山陰から戻り、すぐ海外事情の視察(?)に向かわれた米手さんの留守中を見計らって、ご披露することにしました。
600形大好きの“た~ちゃん”は多くの写真を収めていた。学内の写真展「同志社をめぐる市電」でも紹介した、小雪舞う烏丸今出川を行く600形は、その代表的な写真。写真の撮影時期は、昭和35年前後で、まだ改造を受けず、95両全車が揃った全盛時代。昭和40年代、多くが改造されて、原型の600形は数両しか知らない私などには、羨望の時代に映る。

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 私もレポートします。 明知鉄道ツアーから (下)

国鉄時代、阿木でC12貨物を撮る

明知鉄道が国鉄明知線だった時代、一度だけ撮影に出向いたことがありました。昭和47年3月、DRFCで越後鹿渡での合宿が行われたとき、集合が夜の名古屋駅だったため、昼間はT君とともに明知線に向かったものでした。狙いは、2往復運転されていた貨物列車、一往復は、昼間のいい時間帯に走る、C12の牽く貨物列車でした。ずっとネガ・ベタ焼き状態のままでしたが、50年近く経って、初めてスキャンして、当時を偲ぶことができました。 当日は、飯羽間で下車し、阿木方面に歩いて、上下の貨物列車を撮影、最後は阿木でDCの入線シーンを収めて、撮影は終わりました。 33‰勾配に挑むC12の牽く貨物列車、恵那方面行きは逆向運転となる。ドラフト音は勇ましいものの、さすがに速度は極端に落ちる(阿木~飯羽間 昭和47年3月(以下同じ))。

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 私もレポートします。 明知鉄道ツアーから (上)

岩村で日本一の農村風景に浸る

明知鉄道ツアーから一週間が経ち、楽しかったシーンを思い出しています。さすが百戦錬磨(?)のクローバー会の面々、直行・直行では満足せず、前後のコースには独自色を出して、さまざまな立ち寄りレポートが本欄にも寄せられています。かく言う私も、集合前には準特急さんと中央西線で撮影し、明智で解散したあとは、暗くなるまで明知鉄道を撮影しました。下車したのは岩村で、一緒に下車した、どですかでんさんと岩村電気軌道の廃線跡を探訪したあと、一人で撮影地に向かいました。岩村を撮影地に選んだのは、農村景観日本一に選ばれた付近の田園で撮影するのと、交換列車のシーンを撮ることでした。農村景観日本一にふさわしい、穏やかで心和む風景が続く岩村付近。
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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ⑥

東海道線の開業時巡りは、旧線に平行していた塩小路通を東へ、堀川通りを横断して京都駅近くに入って来ました。塩小路通は、平安京の八条坊門小路に当たる古道で、別名を、付近の史跡から三哲通とも呼ばれました。市バス車庫名にその名をとどめるものの、あまり聞かれなくなりました。開業時の東海道線は、塩小路通の南に平行して、単線の線路が敷かれていたことになります。塩小路通の道幅は、堀川以西は古道と同じ狭い幅であり、堀川以東のように拡幅されるのは、大正3年、東海道線が南に移設され用地が払い下げられた結果、現在見られるような道幅となりました。
京都駅周辺は、駅ビル新築時の前後に、周辺も大幅に再開発され、開業時を偲ぶ遺跡は何も残っていない。このオムロン本社の裏手の写真からも、何ら手掛かりもないように見える。しかし「ブラタモリ」の言葉ではないが、微妙な凹凸地形を観察すると、土地の歴史が浮かんで来るように、ここから140年前の東海道線の面影が見て取れる。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ⑤ 

桂川駅から西大路駅近くまで、歩いて巡った東海道線開業時の面影巡り、ここから先の京都駅方面へは、2008年ごろの旧掲示板から新掲示板への移行時期に、「京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ」として本欄で紹介しました。ところが、見返してみると、旧掲示板は「おっと失礼」で、見ることができなくなっていました。ちょうど10年が経過していますので、その後の変化も含めて、改めて西大路~京都の開業時の遺跡を探索することにしました。

前回の「超低い恐怖のトンネル」がある御前通を過ぎると、まもなく京都鉄道博物館が見えてきます。米手さんご紹介の地図からも分かるように、ここまでの区間は、開業時の路線と、現在の上り線とが一致していますが、ここから開業時路線は、徐々に現在線の北側へ振るようになります。ご承知のように開業時の京都駅は、現在の駅前広場にあって、その延長線上に、開業時の東海道線があったことになります。ちょうど、京都鉄道博物館の梅小路機関庫・梅小路公園の芝生広場の直下に、開業時の路線があったことになります。
梅小路公園を走るN電、このすぐ南側を開業時の東海道線が走っていたことになる。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ④

桂川橋梁の探索を終えて、線路沿いを東へ歩きます。葛野大路通を越して、西日本JRバスの京都支店・営業所の前まで来ると、西小路通を越すところに橋梁があります。架道橋のように見えますが、銘板を見ると「長池川橋りょう」とあり、かつて、ここに川が流れていたことを偲ばせます。西小路通りは、北側のGSユアサ工場の横で屈曲しており、道路としては不自然な曲がり方で、この道路の下にいまも暗渠として残っているのかもしれません。橋梁は約11mの長さ、上り線の橋脚は、基礎部は切石積み、上部は煉瓦積みになっていて、明治9年の開業時のものと言われ、切石積みなどは、後年に改修されたと思われます。
煉瓦積みの橋台が残る、長池川橋梁の上り線。下り電車に乗ると西大路駅を出てすぐの直下にあり、開業時の煉瓦積みが、ひっそり残っていた。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都  ③

東海道本線開業時の面影巡り、続けます。桂川右岸の探索を終えて、左岸の西大路・京都方面に向かいます。ただ徒歩では川に阻まれて、桂橋まで3キロ近い迂回を強いられて、桂川橋梁の左岸側に到着しました。ここには、少し前の京都鉄道博物館で行われた企画展「鉄道遺産をたずねて」で、初めて知った周知の遺跡へまず向かいました。
桂川左岸の橋脚3基については開業時のものとも言われるが、これに疑問を呈する論文もあり、真相はよく分からない。ただ、上り線複線分の煉瓦橋脚は存在感が十分にある。下部にはアーチ状の切り欠きがあり、ここに興味深い刻印が・・

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②

明治5年の東海道線の開業に際しては、煉瓦造りの構造物が多く設けられます。そのうちのいくつかが、煉瓦を斜めにねじった「ねじりまんぽ」でした。以前、乙訓老人からも、この区間に煉瓦の構造物が残っていると聞いており、その存在は把握していましたが、いろいろと調べて見ると、外から中は見えず、うっかりすると見落としそうな、小さな水路に架かるアーチのようで、桂川橋梁方面に進むうち、見落としのないよう、気を付けながらの歩き出しました。その物件へは、意味ありげな小さな祠が目印。東海道線の北側の道を歩いていると、たしかに、それはあった。横には、コンクリート製の小さな暗渠が見えて、背をかがめて、その中に潜ってみると・・・。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ①

連休期間中、近くの東海道線 桂川~西大路~京都の鉄道遺跡を見て回りました。日本の鉄道は、明治5年の新橋~横浜の開業が始まりですが、トンネル・橋梁などの鉄道技術の源流となったのは、その次に開業した京阪神の鉄道でした。東京では、開業時の遺跡が残っていないのに比べて、京阪神では、140年を経ても現役で使われている構造物もあって、今なお都市間輸送を支えています。今回紹介する区間にも、その面影を伝える構造物が残っています。
ずっと以前に、乙訓の老人から「桂川の西に開業時の煉瓦積みが残っとるでぇ」と聞いていたことが、ずっと気になっていたことと、最近、本欄で井原さんが茨木市の鉄道道標を公開されたことも刺激になり、連休の一日、駅開業10周年を迎え、乗降客で賑わいを見せる桂川駅に降り立ちました。
表面は補強されているが、上り線には、開業時の煉瓦積みの橋台が残っていた。どこでも見られる架道橋だが、さらに近寄って銘板を見てみると・・・。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈5〉

昭和42年4月3日 佐世保

少し前に九州を回ってきました。JR九州の車両はすっかり様変わりしてしまい、興味が湧きません。もっぱら、かつての撮影地を再訪問することにしました。何ヵ所か訪れましたが、今回、採り上げた佐世保は、ちょうど50年ぶりの訪問となりました。

50年前の佐世保で興味深かったのは、特急・急行列車の運転でした。手前の早岐で進行が逆になるため牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて機回しの余裕もないため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発はこの逆の編成となりました。特急・急行でも蒸機が先頭に立ったり、車両基地が早岐にあるため各種の回送列車が設定されたと興味深い駅でした。
蒸機が先頭となる特急・急行の代表は、何と言っても「さくら」だろう。本来はDD51が先頭だが、早岐~佐世保ではC11が先頭に立った。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈4〉

昭和41年8月21日 広島駅

広島駅で下りブルトレが次々発着していた1番ホームの東端に行くと、切欠きホームとなった短い0番ホームがあり、そこで発車を待っていたのが、機械式のDC、キハ04でした。このホームは、広島の市街地を東縁に沿って宇品まで向かう宇品線の専用ホームで、ラッシュ時以外はキハ04が単行で運転されていました。しかし超赤字路線で、訪問した昭和41年の末には旅客営業を止めており、その直前の情景でした。
広島駅0番ホームで発車を待つ、宇品線531Dのキハ04 104〔中ヒロ〕、現在、この場所は埋められて、JRの駐車場になっている。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈3〉

昭和41年(1966年)3月19日 広島駅  その1

しばらく“デジ青”から遠のいていましたが、また復帰しました。「駅撮り」、3回目は広島駅にしました。広島駅は、高校一年生の昭和41年3月、初めての一人旅で夜行列車に乗って着いた駅でした。初めて見る列車・車両ばかりで、今でもその感動が心のなかに残っています。もちろん広島には新幹線もない時代、山陽本線には特急・急行列車がつぎつぎ発着し、全線電化が完成したはずなのに、C62の牽く列車まで顔を見せるなど、今とは全く別世界の様相でした。
朝の広島駅で、下りのブルートレインが続々と1番ホームに到着する。ブルトレは、当時関西で昼間見られるのは、「あかつき」だけで、東京発ブルトレは、定時運転している限り、関西では、明るいうちに見ることができない、憧れの列車だった。写真はブルトレ本家たる「あさかぜ」を、65Pトップが牽く、正調派のブルトレだった。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈2〉

札幌駅 昭和43年(1968年)9月10日の記録

つぎの駅は札幌です。撮影した昭和43年は、43-10ダイヤ改正に先立つ8月28日、小樽~札幌~滝川で、北海道初の交流2万Vの電化が完成し、営業運転が始まりました。真っ赤な交流電車711系が走り始めますが、絶対数が足りず、旅客列車は大部分が蒸機の牽く客車列車のまま残っていました。駅もまだ地平駅で、いまに見る札幌駅とは全く違っていました。この時は、釧路からの夜行鈍行424レに乗って、6時02分に札幌に着き、10時00分発の「ていね」に乗るまで、朝の札幌に発着する列車です。
1番ホームの東寄りには切欠きの0番ホームがあり、おもに千歳線の列車が発着していた。列車は定山渓行きの1761Dで、定山渓鉄道のキハ7002が、単独で東札幌から千歳線に乗り入れて札幌駅に顔を出した。定山渓の札幌乗り入れは、一日9往復あり、うち2往復は千歳線のDCに併結されていた。

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〈クローバー会活動報告〉 都電撮影会 行われる

本日、クローバー会の役員会が開催されました。その席上、優しい眼差しながらも、研ぎ澄ましたように鋭い発言をされる当会マルーン会長から「この前に実施した東京での撮影会・懇親会の報告がなされていない。これは由々しき問題である」との指摘がありました。なるほど、当欄で逐一活動報告もしていますが、今回に限っては、まだ報告がなされていません。“今さら”とは思いましたが、イラク派遣の日報が一年以上も経ってから発見され、当の大臣が謝罪する時代、わずか一ヵ月遅れぐらいでは、全く気にする必要はなく、クローバー会には隠蔽体質がないこと、すべてオープンにする会であることの証しとして報告することにします。以下、写真付きの報告のため、会員の顔写真も出てきますが、個別に承諾はとっていませんので了承お願いします。

スカイツリーをバック荒川線「荒川区役所前」を行く都電。15名が参加し、各所で下車して撮影した。好天気に恵まれ、収穫の多い撮影会だった。

 

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈1〉

秋田駅 1968(昭和43)年9月15日の記録
「駅」は、旅の出発点であり、鉄道撮影の原点でもありました。鉄道少年だった頃、乗客からの冷たい視線を背中に感じながら、恥ずかしそうに撮影した経験は誰でもあるはずです。長じて歳を重ねると、カネと時間を駆使して、駅からウンと離れたお立ち台で高級カメラと大型三脚を使って一日一本のネタ列車を追うようになります。それどころか、最近は、鉄道すら利用しない鉄道愛好家が多いと聞きます。駅から列車に乗り、鉄道に貢献してこその鉄道愛好家だと思うのは、年寄りのひがみでしょうか。

私は、昔から旅行した際、乗換時間を利用して駅に出入りする列車を撮ってきました。効率良く撮影するため、撮影用に特製の時刻表を自作したこともありました。駅そのものが撮影の目的地だったのです。それは車両の記録が主目的で、叙情の欠片もない、堅い堅い写真ですが、年月が経つと、貴重な時代の生き証人になって来ます。まさに“記録が記憶になる”です。これは、北海道へ行った際の帰りで、奥羽本線の普通列車で秋田に到着、羽越線経由の上野行き「羽黒」に乗り換えるまでの約2時間の記録です。

乗車列車の津軽新城発米沢行き442レが15時25分、秋田に到着、牽引機はD51548〔弘〕からC5768〔米〕に交替した。発駅の津軽新城とは聞き慣れない駅だが、この日は、東北本線青森電化の直前で、青森駅構内の工事のため丸一日、全列車が青森の発着を運休、東北本線は隣駅の浦町、奥羽本線はこの津軽新城から列車を特発し、青森からはバス連絡だった。

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