◆た~ちゃんの電車めぐり ⑮ 

青電スタイルで片側に扉が3ヵ所あった大型ボギー車、1000形も忘れられない電車です。昭和24年秋に登場した時、200人乗りと新聞で紹介されました。宝ヶ池競輪場へは元田中から叡電に乗り入れ直通運転をしました。チャンチャンの警鐘からパァーンの警笛に変わりました。動物園、植物園への遠足には子ども達を満載して走っていました。
汽車は貨物を運ぶために生まれましたが、電車は人を運ぶために生まれました。でも、それ以外の役割もしました。明治・大正期の都大路の大部分は未舗装で、乾燥した日は砂塵がもうもうと立ちこめます。そこで水撒き電車が造られ、堀川押小路では堀川、熊野神社下ル徳成橋畔では疏水から水を汲み上げていました。終戦直後まで夏場には水撒きする姿がありました。

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -23-

最初に笹川流れを訪れた昭和44年8月、今川で下車して、午前中は桑川方で写したあと、午後からは、越後寒川方へ場所を移しました。ここには有名な蓬莱山があって、笹川流れの本場とも呼べる撮影地です。最近の写真を見ると、この蓬莱山を見下ろすことができる、恐ろしく危険な撮影地が存在するようですが、その当時には、その情報も無く、第一、そんな危険な目をしなくても、線路端から安全快適に撮れたものです。羽越本線の代表的な景観、蓬莱山をバックにナメクジ機が行く。真夏のカンカン照り、あまりの暑さについに降参、駅へと退散した。550レ D51 75〔酒〕

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -22-

今川で下車したあと、未舗装の国道を通って、海岸沿いを桑川方面に南下しました。
まもなく、“笹川流れ”の語源となった笹川を渡ります。川に沿って少し山手の小高い丘へ登ると、トンネルを抜けて、築堤に掛かる羽越本線が眼下に広がります。日本海の強風から守るためか、屋根に石を置いた民家や、藁葺き屋根の民家が混じり合った光景が見えました。 小さなトンネルが連続する桑川~今川、トンネルを飛び出た瞬間、家並みの向こうにチラリと見える、紺碧の日本海が印象的だった。C57 181〔酒〕牽引の客車回送列車(昭和44年8月)

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -21-

「地図シリーズ」、前回紹介の北陸本線糸魚川~直江津からもう少し北、羽越本線を採り上げました。北陸本線と同じく日本海縦貫線の一翼を担いますが、初めて訪れた昭和44年時点でも、全区間が非電化で蒸機が活躍し、旅客用にはC57が健在で、その後も何度か訪れたものでした。優れた撮影地が各地にありましたが、とくに断崖絶壁、奇岩の佇立する“笹川流れ”を中心に紹介します。
270キロもある羽越本線の始発駅は新津。その新津駅の待合室で一泊したあと、始発の列車に乗って新津を出発した。まもなく見渡す限りの稲田が広がり、これが越後平野だと納得した。新幹線以外では、当時、日本一長かった阿賀野川橋梁に掛かるころ、朝陽が列車に反射し、睡眠不足も吹き飛んで、撮影意欲が湧いてきた。

続きを読む

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑭ 

市電最盛期に連結市電登場

広島の駅頭に立っていますと、電車が次々と折り返して行きます。赤地に白字の1の円い系統板を付けた青電がやって参りますと、懐かしい思いに駆り立てられます。この系統は、昔、壬生車庫から千本今出川へ、百万遍、祇園を経て、一周していました。四条通へ向かう反対回りもありました。反物を風呂敷にくるんで小脇に抱えた人、背に負った人も乗っていました。

続きを読む

 今年も梅小路ライトアップへ行ってみた

厳しい寒さが続いて、家に引き籠もりの生活が続いていますが、それに“渇”を注入すべく、梅小路公園で開催の「京都 冬の光宴2018」へ行ってきました。毎年、2月に行われているイベントで、同公園内の京都鉄道博物館では、扇形庫の保存蒸機を夜間にライトアップ、公園内を走るN電も特別に夜間走行しました。またことし初めての試みとして、旧二条駅舎ではプロジェクションマッピングも行われました。
正月に頭出しされた蒸機がそのままの位置に置かれて、日没からライトアップされた。

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -20-

廃止される郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、まさに“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月撮影)

能生で数時間撮影したあとは、列車に乗って、次の撮影地の名立、そして郷津へと移動しました。これから向かう能生の東寄り、直江津までの区間は、本格的な別線線増区間となり、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、なかでも筒石は頸城トンネルの中に地下駅として移設されます。続く有間川、谷浜は従来駅を利用するものの、有間川~谷浜は別線線増となります。谷浜~直江津も別線線増で、途中の郷津は唯一の廃止駅に。このほか、複線化により、木浦(浦本~能生)、百川(能生~筒石)、西名立(筒石~名立)の3信号場も廃止になるなど、完成を一ヵ月余り後に控えた同区間は、大きな転換期を迎えていました。 続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -19-

浦本~能生の海岸沿いを行くD51重連の長野発米原行き621レ D51 588〔糸〕+D51 178〔糸〕(昭和44年8月、以下同じ)

糸魚川~直江津の撮影では、下見の乗車をしたあと、糸魚川から折り返しの525レに乗って戻ります。糸魚川~梶屋敷~浦本は、現在線に腹付け線増されるため、梶屋敷、浦本の2駅は在来のままの改良で、架線も張り巡らされています。浦本からは、別線線増区間に入り、列車は架線のない単線区間に入って行きます。新線では、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、筒石は頸城トンネル内に地下駅で移設します。525レから、まず下車したのが能生でした。

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -18- 

名立付近を行く列車。糸魚川~直江津は海岸沿いの急峻な地形が続いて、何度も地滑り災害に見舞われ、抜本的な線路改良が望まれていた(以下昭和44年8月撮影)

今回の「地図シリーズ」は、いま豪雪に見舞われている北陸本線の昭和40年代に飛びます。北陸本線の歴史をたどると、それは線路改良の歴史でもあると言ってもいいほど、数々の移設、改良、新線工事を繰り返してきました。それだけに急勾配区間や災害多発地域を抱えていたことにもなります。大きな改良区間としては、
・木ノ本~敦賀 柳ヶ瀬越え(のちの柳ヶ瀬線)の迂回新線・複線化
・敦賀~今庄 急勾配区間を日本最長の北陸トンネル貫通で短絡・複線化
・津幡~石動 倶利伽羅越えの改良・複線化
・市振~青海 親不知など日本海沿い災害多発区間を移設・短絡・複線化
が挙げられます。これらは、昭和40年代初頭までに工事は完了しており、私は旧線時代の記憶・記録はありません。そして最後に残った大規模な改良工事が、糸魚川~直江津の新線・複線電化工事でした。昭和44年10月ダイヤ改正から新線に移り、これによって昭和30年代から進められてきた北陸本線の全線複線・電化工事が完成しました。

続きを読む

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑬

人気者、青電600形
昭和10年前後に生まれた方、「青電」という電車が話題になりませんでしたか? 青電は、昭和12年に登場した600形という電車で、窓から上が濃いクリーム、下がグリーンに塗り分けられて、大きな窓と前部が5度傾斜した当時流行した流線型のスタイルでした。

続きを読む

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑫

市電、京電を買収

紆余曲折がありましたが、京都電鉄(京電)は、市に買収され市電の一員となりました。ここで問題が生じました。線路幅が違うのです。京電はJR並みの1067ミリ、市電は新幹線と同じ1435ミリです。ご年配の方なら覚えていらっしゃると思うのですが、四条堀川~四条西洞院のこと。レールが3本2組敷いてありました。京電の路線を引き継いだ北野線は外側の一本と内側の一本を使って走っていました。三線区間と言っていました。 四条西洞院で三線区間に入る北野線

続きを読む

 正月はやっぱり阪堺詣で ②

神ノ木で“ギラリ”を

住吉で阪堺電車をたっぷり写したあとは、神ノ木へ来ました。阪堺上町線の一つ天王寺駅前寄りにあって、南海高野線とオーバークロスしており、すぐ近くには高野線住吉東駅があります。停留場は本線との交差部近くの築堤上にあるため、かなり高い位置にあります。ちょうど、冬の時期は、夕陽が電車の真正面に射し、高い位置のため遮るものがなく、日没直前まで“ギラリ”撮影が楽しめます。

◀“堺トラム”1001形は現在3編成、ベース色は同じ白茶だが、アクセントカラーがそれぞれ違う。この1002編成は、その色から“紫おん”と呼ばれている。

 

続きを読む

 正月はやっぱり阪堺詣で ①

新しい年が明けました。微力ですが、ことしも“デジ青”活性化に尽力できればと願っています。さて、ことし最初の鉄活動は……と思いを巡らすと、足は自然と住吉大社の初詣客への阪堺電車の大輸送に向かいます。住吉で思い出すのは、新春の恒例行事として長年続けられていた乙訓老人のことです。めっきり足腰が弱った老人が、阪堺詣でを止めてから数年が経ちます。その老人の思いを引き継ぐつもりで、私も何回か行きましたが、もう4年も訪れていません。この間に、住吉~住吉公園が廃止になり、車両面でも、新しい連接車が増備されて、旧型車の活躍もさらに狭められるなどの動きが出ています。しかし、正月だけは別です。すべての車両を総動員して、押し寄せる初詣客の輸送に当たります。旧型車両のとの再会を楽しみにしての住吉入りでした。
4年ぶりの阪堺詣で目についたのは、“堺トラム”こと連接車1001形の活躍ぶりだ。グッドデザイン大賞受賞のプレートも誇らしく、3連接車体で大量輸送に当たっていた。

続きを読む

 18きっぷで東海道を巡る -7-

鶴見線大川支線を訪れるには、前項のように、分岐駅の武蔵白石にはホームがないため、ひとつ鶴見寄りの安善で乗り換える必要があります。訪れたのがちょうど冬至のとき、関東では、関西より20分は早い日の入りを迎え、16時30分になると、周囲はもう薄暗くなりました。決して優れた風景ではないものの、目障りなものも隠してくれて、あたりは暮色に包まれました。そんななかに、見掛けはごく当たり前の列車ながら、異色の列車が到着しました。
◀高圧線を併設した背の高い架線鉄柱も、最近はあまり見かけなくなった。暮色の安善に到着したのは……。

 

続きを読む

 18きっぷで東海道を巡る -6-

鶴見線の枝線を巡る ①

全JR路線のなかで、まだ相当残っている未乗車区間の踏破も、遅々としながらも継続中です。しかし、乗りこぼしの区間はアプローチ困難なところが多く、心して訪問しないと距離も伸びません。とくに関東地方には意外な未乗車区間が残っています。鶴見線もそのひとつです。過去に、ひと駅だけ乗ったものの、未乗車区間として残ったままでした。南武線の尻手から浜川崎へ向かい、鶴見線の踏破をスタート。尻手~浜川崎は南武支線と呼ばれ、貨物線として敷設され、のちに旅客営業をするようになった。3番ホームが南武支線の専用ホームで、終端部は行き止まりになっている。車両は205系の2両編成のワンマンカー、本日はクモハ205 1001+クハ204 1001

続きを読む

◆ た~ちゃんの電車めぐり  ⑪

平安京の都大路の幅は広く、朱雀大路は84mもあったとか、戦国時代や度重なる大火で、京の街路は幅が狭くなっていました。明治維新後、中心のひとつであった三条東洞院で東西の道幅を測ってみますと、6.5mぐらいです。京都電鉄(京電)が線路を敷く時に選んだルートが川筋を中心としたのは、そのためでありました。西洞院通は、川を暗渠化して道幅を確保しました。

続きを読む

◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑩ 

梅小路公園のチンチン電車
平成6(1994)年、京都建都千二百年記念事業がいろいろありました。その一つに、梅小路公園建設がありました。西端部では復元されたチンチン電車が走り出し、大変な人気者となりました。

続きを読む

◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑨

 京の七口を結んだ京電
京の七口に思いを巡らせてみました。平安京時代からある言葉なのだそうですが、太閤さんが京の町を守るために造らせた御土居によって、その位置が今もはっきりし、史跡として10ヵ所指定され地名となって残っているところもあります。京都電気鉄道(京電)が伏見へ向け走り出た地が竹田口、伸びて行った南禅寺橋近くに粟田口、その途中の木屋町松原は伏見口(五条大橋口)となります。

続きを読む

◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧

最近、当欄では音信不通になっている“た~ちゃん”が、病院帰りに訪ねて来られました。体力・気力の衰えから、投稿・コメントが滞っている理由を聞かせてもらったあと、“これなんやけど”と差し出されたのが右の写真の資料でした。聞けば、数年前に京都の染色業界向けの機関誌から原稿依頼を受けて、連載をしたものでした。《路面電車から街づくりを考える》のシリーズタイトルどおり、京都市電の歴史から、欧米のLRTまで、路面電車の蘊蓄が詰まった好個の読み物になっています。
“これを、ぜひデジ青に載せてくれ~。ワシの思いが詰まっているんや”。なるほど京都で生ま育った、電車が大好きな“た~ちゃん”ならではの内容です。“介護投稿”の一環として、しばらく本シリーズを綴ることにしました。来年80歳を迎える“た~ちゃん”、これが決して遺言状ではなく、これから一層の活動を願ったエールとして綴っていきます。

続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -17-

飯田線⑧ 中部天竜のバス
飯田線シリーズの最後は久しぶりのバスネタで締めくくります。前回紹介した中部天竜駅前から、たった2台という日本最小の路線バス会社が佐久間ダムの間を結んでいました。
終点「佐久間ダム」で発車を待つ共益バス、前身は長距離用に造られた国鉄バスで、国鉄時代のナンバーは641-7901、昭和42年製造のいすゞ製。共益バスはあと1台所有するだけの事業者で、手許にあった当時の日本バス協会「会員名簿」によると、ともに香川県の鬼ヶ島観光自動車、直島バスも路線バスが2台だったが、両者は貸切バスも保有しており、路線バス2台だけの共益バスが当時、日本最小のバス会社だった(昭和52年8月)。

続きを読む