◆最初で最後のC62 30を小樽築港区で撮る 昭和43年(1968)9月1日
上目名で撮って、倶知安YHでもう一泊した9月1日には、C62のネグラである小樽築港機関区へ撮影に行きました。小樽築港は、C62だけでなく、当時、非電化の札
幌周辺の客貨を受け持ち、9600、C57、D51など全部で55両が配置され、昭和43年車両配置表では、青森区に次ぐ、日本第二の蒸機配置区でした。さすがに訪問者が多いようで、事務所でノートに記帳すると、黄色のヘルメットが渡されるという用意周到ぶりでした。
▶ラウンドハウスの中は、煙が渦巻いていた。通常、扇形庫で、カマは顔を見せるが、東北・北海道の機関区では、防寒のためか、尻を向けるところが多く、小樽築港も同様で、庫に入ってしまうと撮りにくい。C62 30は、一ヵ月後のヨンサントオ改正による、C62運用の削減で、廃車されてしまう。配置のC62のなかでは、調子が良くなかったせいか、結局、同機を写せたのは、これが最初で最後となった。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
北のC62 全記録 〈3〉
◆上目名で上下の「ていね」を撮影 昭和43(1968)年8月31日
連投で失礼します。北海道へ渡って、真っ先に訪れたのが上目名でした。駅前には一件の民家すら見当たらない北海道の寒駅が、一躍“C62重連の聖地”として有名な撮影地になりますが、訪れた当時は、まだ撮影者も数人で、駅を降りると、駅員からお茶を出してもらい、一服してから撮影地に向かったものでした。上目名を有名にしたのは、「鉄道ファン」昭和41年7月号の北海道特集号のなかの黒岩保美さんのエッセイ「北の旅の魅力」でした。その文をノートに書き写して、イメージトレーニングを重ねて、上目名に降り立ちました。
▲前日、「ていね」に乗って倶知安に着き、YHで久しぶりにまともな食事・風呂が得られた。なにせ京都を出てから、夜行3泊&キャンプ2泊で、身体はヘロヘロだった。ゆっくりして、9時58分発の列車に乗って、上目名へ向かう。目指すは150キロ地点、黒岩さんも紹介された、上目名から1時間近く歩いたところ。たしかに連続20‰勾配で、右に左にカーブして、好適地に思えるが、一歩、線路から離れると、背丈以上の熊笹がびっしり繁茂し、完全にお手上げ状態、結局、犬走りからしか撮る余地がない。13時前、向こうのほうから、“ザワザワ”とした音が聞こえてくる。これが、あのC62重連のブラストなのだった。上り「ていね」C62 3+C62 44
北のC62 全記録 〈2〉
◆ “北のC62”に初対面&「ていね」乗車 昭和43(1968)年8月30日
この旅行は、同年8月23日から9月16日まで、北海道均一周遊券をフルに使った25日間の旅行でした。東北・北海道は全く初めての地で、さまざまなところへ行ったものです。当時の感覚では、C62以上に魅力的な対象がいくらでもありました。C62に費やしたのは、数日間にしか過ぎません。
▲花輪線龍ケ森での2泊の狂化合宿を終えて、東北本線奥中山で最後のD51三重連をDRFCメンバーとともに撮ったあと、いったん解散し、一人で青函連絡船「羊蹄丸」で津軽海峡を渡り、函館に0時45分に着いた。待合室でひと寝入りを目論むが、椅子はすでに占領されていて、床に寝るが、さすがに寒さを感じて北海道へ来たことを肌で感じた。5時48分、始発の松前行きに乗り、つぎの五稜郭で下車する。まもなく、通過するのが上り急行「たるまえ」、C62 32の牽引だった。「たるまえ」は、その一ヵ月後のヨンサントオ改正で「すずらん」に改称される、札幌発室蘭本線経由の函館行き夜行急行で、長万部~函館がC62の牽引だった。
北のC62 全記録 〈1〉
“盆休み”のためか、本欄も開店休業の状態が続いていましたが、急に涼しくなってきましたので、私もこのあたりで復帰することにしました。先日は、ベテラン蒸機ファンの集まりに、準特急さんとともに参加する機会がありました。歳を重ねても、蒸機や鉄道写真に、ハンパないほどの情熱を持った方ばかりで、口角泡を飛ばして話が交わされます。話題は、実にさまざまですが、われわれの年代のこと、今や伝説と化したC62重連の話がよく出ます。
世のなか、エポックメイキングな社会事象の体験の有無で、世代を区分することがあります。たとえば前回の東京オリンピックであり、関西では大阪万博、阪神大震災と言ったところでしょうか。鉄道趣味においても同様で、C62重連は、まさに鉄道趣味史を時代区分する、歴史的な事象だと思います。私が経験したのはC62の末期に過ぎませんが、C62の時代を共有できた人間としては、復活蒸機しか知らない、若いファンや熟年復活組とは違う、ひそかな誇りを感じています。
▲私が初めて北海道に渡ったのが、ちょうど50年前の昭和43年8月のことだった。ほかの蒸機や私鉄も健在で、C62だけ目当ての渡道ではなかったが、初めての北海道で対面したC62との感動は忘れられない。当時は、通勤列車も牽いており、以前雑誌で見た同じ光景を撮りたいと、夜行列車で大沼へ来て、大沼を発車して函館へ向かう列車を、駒ヶ岳バックで撮った。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈11〉
窓の開く客車
客車の魅力は、いろいろありますが、「窓が開く」のも、そのひとつでしょう。窓ガラスで遮られることなく、ナマの車窓風景をたのしむことができます。この季節なら、走るにしたがって涼風が入って来て、生き返った気持ちになります。最近聞くのは、小海線へ行っても、窓の開かない冷房付きの気動車ばかりで、窓を開けて高原の自然の風を入れたいと聞きます。とくに猛暑の今年、テレビでは「ためらわずに冷房を」と叫んでいますが、暑いときには暑く、涼しいときには涼しく感じる客車こそ、自然の摂理に合った乗り物だと思います。
「窓の開く」のは、自然が感じられるだけではなく、車内外で人と人との交流ができるのも、また客車の魅力です。車内から手を振って、外の人と一時の邂逅を楽しんだ幼い日の思い出は誰にでもあると思います。
▲クローバー会メンバーとともに、現地で前泊して、甲斐駒ヶ岳をバックにした小海線小淵沢の大カーブの先端にやって来た。イベント用として、C56の牽く混合列車が運転されていた。これは、定期の貨物列車に客車1両を連結したもので、列車番号も183レだった(昭和47年8月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈10〉
客車時代の食事
最近、車内で駅弁を食べるシーンを、ほとんど見かけなくなりました。私は、駅弁に限らず、車内で食べるのは、周囲から目が気になって、どうも苦手です。その点、昔の客車では、人目をはばからず食事、駅弁を食べたりしたものです。かの有名な富士フィルムの「50000人の写真展・鉄道のある風景」に、昨年「窓」で入選された米手さんの写真も、客車で駅弁を頬張るDRFCメンバーを写したものでした。今のように、明るく開放的な車内では、食事をする雰囲気にはありません。ボックスシート、暗い車内ならではです。食べると言っても、コンビニも無かった時代、駅弁か駅ソバに限られて、たいへん貴重な食材でした。
▲正月明けの宇都宮駅、夜行列車を降りた身に、寒さと空腹がこたえる。向かいのホームからは、見るからに暖かそうな駅ソバの湯気が上がっていて、たくさんの客が群がっている。右手には、スハフ32 2362の狭窓が見え、その前を、寒そうな母娘が、白い息を吐きながら、通り過ぎた。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈9〉
混合列車の魅力
客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
▲石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈8〉
夜の客車
今では死語に近くなりましたが、“夜汽車”という言葉があります。窓から洩れる室内灯、照らし出された乗客の姿、発車ベルが鳴り終わり、一瞬の静寂のあと、耳をつんざく汽笛、ゆっくりホームを離れていく列車…、これは、もう客車でしか演出し得ない、夜汽車のイメージではないでしょうか。
なにゆえ、夜の客車は、絵になるのでしょうか。やはり白熱灯の暖かい光があります。もちろん蛍光灯の客車もありましたが、客車は白熱灯に限ります。加えて一枚窓が連続して続く規則性、また、ブドウ2号の濃い塗装が、窓とのコントラストを出している。これらが相乗して、哀感さえ漂う夜汽車のムードを演出しているのではないでしょうか。
▲九州の名物夜行鈍行門司港~都城の1121レ、1122レ、早朝を走る1121に比べて、ずっと夜間の1122は、見どころは少ないが、時間調整もあって、とくに吉松~人吉の各駅では停車時間が長く、バルブ撮影に適している。ここ大畑は、周囲に一軒も家もなく、漆黒の世界がひろがるが、D51 1058の前照灯と客車から洩れる光だけが、“夜汽車”の雰囲気を演出していた(昭和45年9月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉
西鹿児島の団体列車
前項で、客車にまつわる話題として、デカンショさん、1900生さんから、「エキスポこだま」が採り上げられました。この列車、昭和45年、夏休みに万博に押し寄せた入場者の輸送手段として生まれたものでした。夏休みになって、万博の終了も22時30分まで延長されますが、輸送の大動脈を担っていた新幹線は最終が出たあと。そこで、苦肉の策として生まれたのが「エキスポこだま」でした。全国から一般客車をカキ集め、7月3日から最終日の9月13日まで、上りのみ、全車指定での運転でした。時刻は、大阪22:58発、新大阪、京都に停車して、三島には6:53着、始発の新幹線「こだま」(全車自由席)に乗り換えて三島7:05発、東京8:10着でした。「エキスポこだま」自体は臨時急行ですので、途中の駅までの利用も可能でしたが、割引もあって、一部区間とは言え冷房の入った新幹線に乗って東京へ戻れるのは魅力でした。列車は三島に着くと、すぐ回送でトンボ帰りして、その日の晩の運転に備えていました。
日本が高度成長の頂点に達した昭和45年に開催された、国家的一大イベントの日本万国博覧会、総入場者は6400万人で、その大移動を担ったのが鉄道で、日本全国から、万博会場を目指す、列車が数多く運転されました。たまたま訪れていた九州でも、その大輸送の一部を垣間見ました。
▲昭和45年8月の終わり、西鹿児島駅のホームの時計は16時55分を指している。なにやら5番ホームから楽団の演奏も聞こえてきて賑やかだ。大勢の見送りを受けて、雑型客車ばかりの列車が出発して行く。時刻表を見ても該当する列車はなく、どうやら団体列車のようだ。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈6〉
横サボを鑑賞する
客車らしさを演出する小道具として、車体に書かれた標記、取り付けられた表示板があります。なかでも車体の中央に下げられていた、引掛け式の行先方向板、通称“横サボ”は、その代表です。鉄道趣味のジャンルも構成していて、私はさほどの執拗さは持ち合わせていませんが、恰好の蒐集品対象にもなっているようです。以前の趣味誌に、“これによって旅客車に魂が入る”と書かれていましたが、まさにそのとおりで、サボが吊り下げられるだけで、生きた客車を感じて、サボの行き先を見ては、見知らぬ地への思いを馳せたものでした。なかでも、青地に白文字、琺瑯製のサボは、茶色に塗られた客車とは絶妙のバランスでした。
▲琺瑯製のサボのなかでも、毛筆体のものは、昭和30年代初頭まで製作されていたと言われ、昭和40年代後半でも、この写真のように、北海道や東北では見られた。達筆で書かれたサボは、昔の職人の技を感じたものだ。琺瑯は、金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの、今でも、JR北海道の柱部の駅名表示に使われる。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉
長大編成と最短編成
客車編成を前にして、よくやったのが、編成調べでした。少し前のコメントでも1900生さんから、編成調べの話を聞かせてもらいました。当会でも編成調べの権威が多くおられました。私にとって衝撃的だったのは、入会した時にもらった「青信号19号」でした。前年に行われた九州の狂化合宿の旅行記を、一年上のTさんが記していました。12日間の旅行で、たとえ一駅でも乗車した列車を、端から端まで全列車全車両を記しておられ、その几帳面さには脱帽でした。編成調べの醍醐味は、思いもよらない珍車や、全く別の配置区の客車が混じったりすることですが、端まで調べ上げて、初めて“何両編成”と分かり、感慨に浸るのも目的のひとつでした。今回は、そんな客車の編成両数です。
▲私が撮影した中で、一番の長大編成は、西鹿児島発東京行き「高千穂」の16両編成だった。客車急行の全盛時代、東海道・山陽線の主要な急行列車は、荷物・郵便車、区間の増結車両を含めて15両だった。寝台特急の20系固定編成も15両編成で、このあたりが、ホーム有効長、牽引定数などから限界のようだ。この写真は、それを上回る両数だが、真夏なのに1両目だけ窓が開いておらず、回送扱いと思われる。それにしても、二列車の併結ではなく、単独でこの長さ、さすが、この時代である(昭和40年9月)。
呉線小屋浦への思い
西日本の豪雨災害は、鉄道の被害が甚大で、復旧までには相当日数を要しそうです。馴染みのある線名や駅名が出てきて、とくに心が痛みます。なかでも、「坂町小屋浦から中継です」などと聞くと、思わずテレビに見入ってしまいます。そう、小屋浦と言えば、呉線にC59・C62が走っていた時代には、よく訪れた場所で、本欄でも、西村さんから小屋浦で写した客車が報告されています。改めて、ネガをひっぱり出して、昔日の穏やかだった光景に思いを馳せていました。
この地域で土砂災害を大きくしたのは、花崗岩が風化した真砂土が原因だと言われています。花崗岩は、とくに中央構造線の北側に多く分布していて、緑の山に、ところどころに白っぽい巨岩が露頭しているのは、関西以西ではよく見る光景です。この光景が、小屋浦で撮った写真にもあって、災害の要因が鉄道写真にも映り込んでいたことに、さらに思いを深くしたのでした。
▲山と海に挟まれた呉線は、短いトンネルを何度もくぐり抜けていた。朝、広島へ向けて、客車12両の列車が何本も通った(小屋浦~坂、昭和43年3月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈4〉
妻”の魅力
と言っても、客車の端部の“妻面”のことですが、気動車・電車編成の後部には運転室があって、それなりの顔つきですが、客車の場合、本来、編成の中間に隠れるはずの妻面が、たまたま編成の最後になって、場違いな姿を見せている、と言った感じです。前回紹介の貫通路も含めて、客車独特の角度でもあり、何か旅愁、哀愁と言った雰囲気を漂わせているのが、客車の妻面でした。
▲発車して行く荷物列車を見送る(柘植、昭和47年)。 続きを読む
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈3〉
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈2〉
五感で感じる客車
客車に乗ると、電車でも気動車でもない、客車独特の匂い(臭い?)を感じたものです。
優等客車にはなく、ハザ限定のものだったと思います。染み付いたタバコのヤニ臭、捨てられた食べ物や酒類の臭い、床を油引きしたときの薬品臭、はたまた開け放った窓から入ってくる煤や鉄粉、時には黄金水まで…、それらが入り交じって客車独特の匂いをつくっていたのでしょう。現在は、無臭の時代、鉄道車両も同様です。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐ、そして身体全体で感じたのは、客車の時代ならではでした。
▲この客車で上記のような匂いを感じたかどうか記憶にないが、いかにも客車の時代らしい写真だと思っている。羽越本線の三瀬から余目まで乗った普通列車で、妻面には、オハ60 1105と書かれている。デッキを仕切る扉はすべて開け放たれて、ずっと客車が連なっているのも分かる。背ずりは直角の木製、車端はロングシートに改造している。車端を見ると、DISCOVER JAPANのポスターがある。昭和45年の大阪万博後の誘客キャンペーンとして始まった、伝説のキャンペーンだった。このようなイメージポスターが、ローカル線の列車までに貼られた。駅には記念スタンプが置かれ、私もスタンプ押しに熱中した。昭和51年まで続けられ、国鉄が初めて横文字を使った旅行キャンペーンでもあった。右の鉄道地図も懐かしい。まだ情報不足の時代、乗った列車は、どこを走っているのか、時折、地図を見に行ったこともあったが、正尺ではないため、何となく信頼の置けない地図に映った(昭和46年9月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈1〉
先般の記事の「京阪鴨東線開業」で、大西顧問の思い出を書くときに、「青信号」のバックナンバーを見返していて、私が書いた記述を見つけました。ちょうどDRFC創立30周年に当たる57号で、それを祝う寄稿のなかの一文でした。
「鉄道同好会、この名を口にする時、懐かしさと安らぎを覚える。ちょうど、東北か北海道のローカル線、カマは何でもいい。とある山間の駅に停車して5分の交換待ち、オハ61かスハ32の窓をギシギシ開けると、ひんやりした空気とともに、カマの匂いと熱気を感じた時のような…」なんて書いていました。ウ~ン、自分でもなかなかの比喩だなと思いました。この記述には伏線があって、この号の発行年に、マイテを連結した「同志社号」が走り、みんなで旧型客車に乗って名古屋まで一周しました。この思い出が印象に残り、鉄道同好会と客車を重ね合わせて記述したものと思われます。
ことほど左様に、“客車”という車両には、今さらながら、格別の愛着と懐古の念が湧いてきます。もちろん、この季節でも冷房など全くない、窓は最上段まで開けっぱなし、時折、黄金水がミスト状になって降りかかる、あの客車です。当会でも、山科人間国宝を頂点に、米手さん、井原さんからも、客車について熱く語られています。私は客車の来歴については、とくに詳しくありませんが、忘れそうになっていたフィルムの一片から、客車の持つ魅力を語ってみたいと思います。
▲客車の魅力、そのひとつは、“客を乗せる車”だと思っている。乗客によって作り出された何気ないシーン、それは、季節や地域によっても違うが、今から見ると、なんとも素朴で、清々しい、幼い日を思い出すようなシーンが頭をよぎる。九州の12月、午前7時前でも真っ暗な高森線高森駅でも、一番列車に続々と高校生たちが乗り込む。C12の蒸気、客車の吐き出すスチーム、窓から洩れる室内灯で、影絵のようなシーンが表れた。セーラー服の女子高生が一人入っただけで、なんとも味わいのあるシーンが撮れたと思っている(昭和48年12月)。
“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈10〉
地下鉄梅田駅の狭いホームを記録する
大阪市営地下鉄の梅田駅の近くに、幻のトンネルがあると昔からささやかれていました。御堂筋線の梅田駅に隣接して、谷町線が乗り入れて、もうひとつ梅田駅を造る計画があって、一部のトンネルがそのまま残っていると言うものでした。それが、御堂筋線梅田駅の混雑緩和のために活用されることになり、一面二線の幅の狭いホームから、現在見られるような、幅の広い一面二線ホームに改良され、平成元年11月から供用を開始しました。
▲従来の旧ホームを、南改札口の階段から眺める。大阪の地下鉄に初めて乗った時(かどうかは知らないけれど)、ここから見下ろした、ホームの混雑ぶりを見て、“さすが大都会、大阪”と感じたものだ。
久大本線 1年ぶりに全線開通
このたびの平成30年7月豪雨では、多くの鉄道路線が被災し、長期の不通を強いられそうで心を痛めています。そのいっぽうで、昨年2017年の九州北部豪雨で、橋梁が流失して不通が続いていた、久大本線光岡~日田が復旧し、久大本線全線で運転を再開しました。本日、博多では、「ゆふいんの森」の出発式が行なわれ、全線復旧を祝ったとネットニュースで知りました。ことし4月、久大本線を訪れて、代行バスに乗ったり、出会った人たちと復旧への足取りを感じてきた私としては、西日本の鉄道状況を見れば、心から喜ぶことはできないものの、少しでも復旧の端緒になればと思っているところです。
▲筑後川の上流のダム湖をのぞむ久大本線の夜明駅、赤い橋、赤いツツジ、赤い気動車と、三つの赤が収まる。右手に分かれて行くのが、いまだ不通が続く日田彦山線。
“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈9〉
鴨東線の開業日に立ち会う
平成に入ってすぐ、京都では京阪電鉄鴨東線の三条~出町柳の開業がビッグニュースとなりました。鴨川左岸を出町柳へ至る新線計画は、大正時代からあり、三条までの地上線を、そのまま出町柳まで延伸するプランでしたが、昭和40年代後半になって、京阪、京福電鉄の共同出資によって鴨川電鉄が設立され、地下線で建設が進められ、平成元年10月5日、開業を迎えたのでした。
▲京阪は、同年の9月27日から鴨東線開業に対応したダイヤ改正を実施し、開業日当日は、慣例によって正午からの営業となった。まず開業一番電車を明るいところで撮影するために、東福寺の地下線出口付近に向かった。ちょうど、鉄道写真界の大御所のTさんや、知り合いの皆さんと一緒に、三洋化成前の踏切で待ち受けた。正午前は、三条行きのラストとなる急行、特急を撮って、出町柳12時01分発の一番電車を待ち受けた。車両は、もちろん鴨東線開業に備えて新造されたばかりの8000系第一編成だった。
“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈8〉
廃止予定の大社線に乗る
平成になってからの時代、一人で遠隔地へ行くことは不可能な時代でした。辛うじて、家族旅行の際に、乗り鉄を楽しむ程度でした。大社線に乗ったのも、そんな理由でした。大社線は出雲市~大社7.5キロの路線で、出雲大社への参詣線として、国鉄時代、運転時期は違うものの、東京から「出雲」、名古屋から「大社」、大阪から「だいせん」が直通で運転されていた由緒正しき名門路線です。ところが、JR化後、特定地方交通線の第三次廃止対象路線に指定され、平成2年4月に廃止されます。かつて直通列車があったのに、廃止されたのは大社線だけでした。その前年、平成元年8月の夏休みに訪れた時は、最後の賑わいを見せていました。
▲神社様式の堂々の木造駅舎、大正13年の二代目駅舎だが、大社線廃止後もそのまま保存され、国の重要文化財に指定されている。
