東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②

明治5年の東海道線の開業に際しては、煉瓦造りの構造物が多く設けられます。そのうちのいくつかが、煉瓦を斜めにねじった「ねじりまんぽ」でした。以前、乙訓老人からも、この区間に煉瓦の構造物が残っていると聞いており、その存在は把握していましたが、いろいろと調べて見ると、外から中は見えず、うっかりすると見落としそうな、小さな水路に架かるアーチのようで、桂川橋梁方面に進むうち、見落としのないよう、気を付けながらの歩き出しました。その物件へは、意味ありげな小さな祠が目印。東海道線の北側の道を歩いていると、たしかに、それはあった。横には、コンクリート製の小さな暗渠が見えて、背をかがめて、その中に潜ってみると・・・。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ①

連休期間中、近くの東海道線 桂川~西大路~京都の鉄道遺跡を見て回りました。日本の鉄道は、明治5年の新橋~横浜の開業が始まりですが、トンネル・橋梁などの鉄道技術の源流となったのは、その次に開業した京阪神の鉄道でした。東京では、開業時の遺跡が残っていないのに比べて、京阪神では、140年を経ても現役で使われている構造物もあって、今なお都市間輸送を支えています。今回紹介する区間にも、その面影を伝える構造物が残っています。
ずっと以前に、乙訓の老人から「桂川の西に開業時の煉瓦積みが残っとるでぇ」と聞いていたことが、ずっと気になっていたことと、最近、本欄で井原さんが茨木市の鉄道道標を公開されたことも刺激になり、連休の一日、駅開業10周年を迎え、乗降客で賑わいを見せる桂川駅に降り立ちました。
表面は補強されているが、上り線には、開業時の煉瓦積みの橋台が残っていた。どこでも見られる架道橋だが、さらに近寄って銘板を見てみると・・・。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈5〉

昭和42年4月3日 佐世保

少し前に九州を回ってきました。JR九州の車両はすっかり様変わりしてしまい、興味が湧きません。もっぱら、かつての撮影地を再訪問することにしました。何ヵ所か訪れましたが、今回、採り上げた佐世保は、ちょうど50年ぶりの訪問となりました。

50年前の佐世保で興味深かったのは、特急・急行列車の運転でした。手前の早岐で進行が逆になるため牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて機回しの余裕もないため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発はこの逆の編成となりました。特急・急行でも蒸機が先頭に立ったり、車両基地が早岐にあるため各種の回送列車が設定されたと興味深い駅でした。
蒸機が先頭となる特急・急行の代表は、何と言っても「さくら」だろう。本来はDD51が先頭だが、早岐~佐世保ではC11が先頭に立った。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈4〉

昭和41年8月21日 広島駅

広島駅で下りブルトレが次々発着していた1番ホームの東端に行くと、切欠きホームとなった短い0番ホームがあり、そこで発車を待っていたのが、機械式のDC、キハ04でした。このホームは、広島の市街地を東縁に沿って宇品まで向かう宇品線の専用ホームで、ラッシュ時以外はキハ04が単行で運転されていました。しかし超赤字路線で、訪問した昭和41年の末には旅客営業を止めており、その直前の情景でした。
広島駅0番ホームで発車を待つ、宇品線531Dのキハ04 104〔中ヒロ〕、現在、この場所は埋められて、JRの駐車場になっている。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈3〉

昭和41年(1966年)3月19日 広島駅  その1

しばらく“デジ青”から遠のいていましたが、また復帰しました。「駅撮り」、3回目は広島駅にしました。広島駅は、高校一年生の昭和41年3月、初めての一人旅で夜行列車に乗って着いた駅でした。初めて見る列車・車両ばかりで、今でもその感動が心のなかに残っています。もちろん広島には新幹線もない時代、山陽本線には特急・急行列車がつぎつぎ発着し、全線電化が完成したはずなのに、C62の牽く列車まで顔を見せるなど、今とは全く別世界の様相でした。
朝の広島駅で、下りのブルートレインが続々と1番ホームに到着する。ブルトレは、当時関西で昼間見られるのは、「あかつき」だけで、東京発ブルトレは、定時運転している限り、関西では、明るいうちに見ることができない、憧れの列車だった。写真はブルトレ本家たる「あさかぜ」を、65Pトップが牽く、正調派のブルトレだった。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈2〉

札幌駅 昭和43年(1968年)9月10日の記録

つぎの駅は札幌です。撮影した昭和43年は、43-10ダイヤ改正に先立つ8月28日、小樽~札幌~滝川で、北海道初の交流2万Vの電化が完成し、営業運転が始まりました。真っ赤な交流電車711系が走り始めますが、絶対数が足りず、旅客列車は大部分が蒸機の牽く客車列車のまま残っていました。駅もまだ地平駅で、いまに見る札幌駅とは全く違っていました。この時は、釧路からの夜行鈍行424レに乗って、6時02分に札幌に着き、10時00分発の「ていね」に乗るまで、朝の札幌に発着する列車です。
1番ホームの東寄りには切欠きの0番ホームがあり、おもに千歳線の列車が発着していた。列車は定山渓行きの1761Dで、定山渓鉄道のキハ7002が、単独で東札幌から千歳線に乗り入れて札幌駅に顔を出した。定山渓の札幌乗り入れは、一日9往復あり、うち2往復は千歳線のDCに併結されていた。

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〈クローバー会活動報告〉 都電撮影会 行われる

本日、クローバー会の役員会が開催されました。その席上、優しい眼差しながらも、研ぎ澄ましたように鋭い発言をされる当会マルーン会長から「この前に実施した東京での撮影会・懇親会の報告がなされていない。これは由々しき問題である」との指摘がありました。なるほど、当欄で逐一活動報告もしていますが、今回に限っては、まだ報告がなされていません。“今さら”とは思いましたが、イラク派遣の日報が一年以上も経ってから発見され、当の大臣が謝罪する時代、わずか一ヵ月遅れぐらいでは、全く気にする必要はなく、クローバー会には隠蔽体質がないこと、すべてオープンにする会であることの証しとして報告することにします。以下、写真付きの報告のため、会員の顔写真も出てきますが、個別に承諾はとっていませんので了承お願いします。

▶スカイツリーをバック荒川線「荒川区役所前」を行く都電。15名が参加し、各所で下車して撮影した。好天気に恵まれ、収穫の多い撮影会だった。

 

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈1〉

秋田駅 1968(昭和43)年9月15日の記録
「駅」は、旅の出発点であり、鉄道撮影の原点でもありました。鉄道少年だった頃、乗客からの冷たい視線を背中に感じながら、恥ずかしそうに撮影した経験は誰でもあるはずです。長じて歳を重ねると、カネと時間を駆使して、駅からウンと離れたお立ち台で高級カメラと大型三脚を使って一日一本のネタ列車を追うようになります。それどころか、最近は、鉄道すら利用しない鉄道愛好家が多いと聞きます。駅から列車に乗り、鉄道に貢献してこその鉄道愛好家だと思うのは、年寄りのひがみでしょうか。

私は、昔から旅行した際、乗換時間を利用して駅に出入りする列車を撮ってきました。効率良く撮影するため、撮影用に特製の時刻表を自作したこともありました。駅そのものが撮影の目的地だったのです。それは車両の記録が主目的で、叙情の欠片もない、堅い堅い写真ですが、年月が経つと、貴重な時代の生き証人になって来ます。まさに“記録が記憶になる”です。これは、北海道へ行った際の帰りで、奥羽本線の普通列車で秋田に到着、羽越線経由の上野行き「羽黒」に乗り換えるまでの約2時間の記録です。

乗車列車の津軽新城発米沢行き442レが15時25分、秋田に到着、牽引機はD51548〔弘〕からC5768〔米〕に交替した。発駅の津軽新城とは聞き慣れない駅だが、この日は、東北本線青森電化の直前で、青森駅構内の工事のため丸一日、全列車が青森の発着を運休、東北本線は隣駅の浦町、奥羽本線はこの津軽新城から列車を特発し、青森からはバス連絡だった。

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 いとしのDD51 -5-

北海道を走ったDD51

DD51は、北海道から九州まで全国に配置され、軸重14t、丙線入線可能な特性を生かして、D51が入れなかった線区にも入線しました。最終製造機が出揃い、最大の642両の配置となった昭和56年の車両配置表を見ますと、道内には、釧路、旭川、北見、小樽築港、岩見沢第一、滝川、鷲別、五稜郭の各区に配置があり、合計すると217両ものDD51が北海道で活躍していました。北海道にはDF50の配置がなかった分、DD51が爆発的に増えていった経緯が分かります。実に、DD51全両数の三分の一が道内配置でした。過酷な大地で、客貨を牽いて活躍したDD51は、文句なしに北の鉄路の功労者だと改めて称えてやりたい気持ちです。ここでは、昭和40年代のDD51の記録をまとめてみました。
▲室蘭本線静狩~小幌の大築堤を行く、DD51の牽く貨物列車(昭和46年3月)。

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 いとしのDD51 -4-

お召列車を初めて牽引

つぎのDD51は、お召列車を牽いたDD51について触れてみます。これもちょうど50年前ですが、1968年(昭和43年)9月、北海道にお召列車が走りました。この年は、「北海道」と命名されてから百周年に当たり、札幌での記念祝典も含めた行幸に伴い、各線区でお召列車が運転されました。北海道ではまだ小樽~岩見沢が電化しているだけで、すべてDLが牽引しました。うち函館本線・千歳線・石北本線で牽いたのがDD51でした。これが、DD51にとっては最初のお召牽引となり、1号機新製後、7年目にしての栄誉となりました。
旭川~新旭川を行くDD51548〔旭〕牽引、旭川発上川行きのお召列車。以後、同機が単機でお召牽引に当たった(昭和43年9月3日)。

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 50年前の撮影地を歩く -25-

八瀬駅の今むかし

今からちょうど50年前の1968年(昭和43年)4月9日は土曜日でした。大学に入学した私は、入学時の手続きを終えて、キャンパスのオリエンテーションで、鉄道同好会の出店を見つけ、待望の鉄道同好会の一員となることができました。50年にわたって鉄道趣味を通じた交流の輪が続く原点となったことを思えば、私にとっては記念すべき一日でした。土曜日のため、午後からは用事がなく、入学早々にカメラ持参で来ていた私は、京福電鉄の出町柳駅から、終点の八瀬遊園へ向かいました。
現在の出町柳駅、ホームで待ち受ける人たちのカメラの放列のなか、デビューしたばかりの「ひえい」が到着した。先ごろ、全国ニュースでも紹介された「ひえい」のデビューだが、この眼で見るのは初めてだった。

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 いとしのDD51 -3-

優等列車を牽引する

DD51が最も似合っていたのは、やはり長編成の急行・特急列車を牽く姿でしょう。本欄でも、米手さん、準特急さんから、昭和40年代初頭、東北本線に投入直後に特急を牽く貴重な写真が寄せられています。以来、つい最近の「北斗星」や「カシオペア」まで、50年に渡って優等列車を牽引していました。同一形式が50年も同じ任に就いていたのは、DD51以外には見当たらないでしょう。今回は、昭和40年代、各地で急行・特急を牽いたDD51にスポットを当てました。
奥羽本線白沢付近を行くDD51牽引「日本海」。昭和43年10月改正で、日本海縦貫線に待望の寝台特急列車が新設され、列車名は、急行「日本海」からスライド命名された。急行は「きたぐに」に変更されて残存した。あたかも今年はヨンサントウ改正から50年、特急が各地で新設・増発されたことに当時のダイヤ改正のパワーを感じる(昭和44年9月)。

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 いとしのDD51 -2-

完全電化直前の東北本線

試作機DD511の実績を活かして、第二次車として2~4号が昭和38年に製造され、車体形状はやや変わりました。1号機とともに盛岡区に配属され、東北本線の旅客・貨物を牽きました。初期故障はあったものの致命的な欠陥もなく、さらに第三次車5~19号、第四次車20~27と製造が続き、昭和41年には重連総括制御の500番台501~520が製造されるなど、DD51は、量産に次ぐ量産に入っていきます。
43-10改正直前の東北本線奥中山駅、すでに架線が張り巡らされ、電機の試運転も行なわれていたが、主役はDD51の重連だった。61レ DD51 565〔盛〕+DD51 518〔盛〕牽引、最後部にD51912〔尻〕が付いていた(昭和43年8月)。

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 いとしのDD51 -1-

DD51、という機関車、長かった活躍もそろそろ終わりそうで、歴史を閉じようとしています。蒸機世代にとっては、DD51は、嫌われ者、憎まれ者以外に、形容する言葉がありませんでした。蒸機牽引とばかり思っていたところに、凸型の赤い車体が姿を現し、それこそ石でも投げつけてやりたいことが、一度や二度ではありませんでした。以来50年、ついでに撮ることはあっても、DD51目的で撮ることはありませんでした。でも、DD51が鉄道近代化に果たした功績を思い、活躍が終わろうとする今ごろになって、急にDD51が愛おしくなってきたから不思議です。蒸機撮影の片手間に撮ったDD51も、かなりの数になりました。本シリーズでは、蒸機と共存しながら増備を続けていた、DD51の昭和40年代の活躍を採り上げてみました。DD51の全製造数は649両だから、1号機は、それなりの価値があるだろう。おもに秋田区を根城に、羽越本線、奥羽本線で客貨を牽いていた。1号機狙いで行ったことではないが、意外に出会うことがあった。写真は、酒田で憩うDD511、試作的な要素があり、そのスタイルは独自のものがある(昭和44年8月)。

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 三江線 廃止に寄せて ③

浜原、石見川本駅を訪ねる

最初に訪れた昭和46年9月、当時はまだ三江南線と三江北線に分かれていて、江津から三江北線の終点、浜原へ向かいました。前項の第一江川橋梁で一日一往復の貨物列車を写したあと、再び浜原へ行くと、江津へ戻る貨物列車の入換えが行われていました。今回は、終点・浜原、途中の石見川本、2つの駅の新旧を紹介し、三江線の締めくくりとしました。
三江北線の貨物列車を牽いていたのは、浜田区のC56で、98、106、110、127の4両が、三江北線のほか、浜田などの入換用として使われていた。

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 三江線 廃止に寄せて ②

第一江川橋梁 今昔

三江線最終日、先ほどのニュースでも、最終列車が到着し、営業を終えたことを伝えています。さて、今から約50年前、昭和46年に三江北線を訪問したときは、浜田のユースホステルに泊まり、C56の牽く貨物を撮るため、江津から、当時の終点の浜原へ向かいました。選んだ撮影地は、第一江川橋梁、浜原のひとつ手前、粕淵の近くにあります。河原から見上げた橋梁は、なかなかの迫力でした。しかし、この10ヵ月後、集中豪雨に見舞われた三江線では、この第一橋梁が流され、長期間の不通を余儀なくされます。

◀現在の第一江川橋梁、架け替えられてから、40年余りが経ち、錆も出てきた。左側には歩道橋が併設されており、撮影には好都合。 続きを読む

 三江線 廃止に寄せて ①

式敷~口羽 開通式 (山科の人間国宝提供)

三江線も、いよいよ明日に最終日を迎えます。デジタル元祖青信号では、訪問記や新聞記事が掲載されて、私も関心を持って推移を見守ってきました。三江線最終日は、どこで迎えようかと、以前から思っていました。しかし、現地で立ち会うことは叶わず、静かに見守ることにしました。結局、私が三江線に行ったのは、三江北線時代の昭和46年と、昨年の9月の2回だけでした。一昨年春、当会の三江線ツアーにも参加できずで、今でも桜満開の潮駅で、江の川沿いを行く列車を、みんなで撮りたかった、と思っています。このように、三江線に対する思い出は乏しいのですが、その思い出を振り絞り、三江線に対する餞としたいと思います。
まずは、山科の人間国宝から貸してもらった写真の代理投稿。三江南線の式敷~口羽13.7kmが延長され、昭和38年6月20日に開通を迎えた。その当日、口羽で行われた開通式の様子だ。
実は、先の三江線ツアーがあった際に、人間国宝から、“参加の人たちに見せてあげてください”とネガを渡されました。それが昭和38年の式敷~口羽の開通式で、本来なら、私のほうで写真にして参加者に渡すべきでしたが、人間国宝のご厚意に応えられないまま、最後になっての寄稿をお許しください。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈5〉

平成に入ってから撮ったネガを眺めていると、撮影の記憶が全くないものも出てきます。以下の写真もその例で、この一枚しか撮っておらず、撮影日も、その前後の行動も不明です。平成も30年経てば、加齢もあって、記憶はますます薄れていきます。この点は、昭和の時代と変わらないと改めて思った次第ですが、何気に撮った一枚だけの写真でも、写真を仔細に観察すると、平成の歴史を感じ取ることができます。
平成に入ってすぐ、3月11日に実施されたJRダイヤ改正で、片町線の長尾~木津の電化が完成した。これにより片町線は全線電化となり、103系が全区間で走ることになった。写真は、木津駅1番ホームで写した快速の片町行き、木津発の「快速」は昼間40分ヘッド、同志社前発の快速と合わせて、快速は20分ヘッドでの運転だった。東西線の開業以前、学研都市線こと片町線が、めざましい躍進をする前で、線内完結していた時代である。木津駅も、蒸機時代のままの構内を残していた。撮影日も不明だが、調べると初日の3月11日は土曜日で、初日狙いで行ったのかもしれない。カメラを持った人間、腕章を巻いた指導乗務員も、いかにも初日のようにも見える

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈4〉

信楽高原鐵道に初乗車

平成に変わって初めての春に、信楽高原鐵道に乗車しました。昭和62年7月に、国鉄信楽線から第三セクターに転換され、1年半経ってからの初乗車です。信楽線は貴生川~信楽の14.7kmで、鉄道敷設法76条に「貴生川ヨリ加茂ニ至ル鉄道」として挙げられた区間の一部として、昭和8年に開通しました。戦時中は、不要不急の路線に指定され営業休止、戦後に運転を再開しました。国鉄再建法では、第一次廃止対象線区に指定され、昭和62年7月13日、第三セクターとして転換開業しました。

貴生川駅に到着した203号、開業時に201~203が登場した。当時、貴生川ではJR線とつながっており、ホーム番線もJRに準じた0番ホームになっている。(以下撮影、平成元年4月7日)。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈3〉

宮原の公開イベント

国鉄からJRになったのが昭和62(1987)年ですから、平成に入って、まだJRは2年目でした。私は、「ジェイアール」の横文字が気恥ずかしくて声に出せず、もと国鉄をなんと呼んでいいものやら悩んだ時代でもありました。この頃、JRではさまざまな誘客策が展開されていましたが、機関区など現業部門の公開イベントもその一つでした。国鉄時代からも公開イベントはあリましたが、およそサービスなどとは無縁の現業部門の人たちが、必死になって来場客と接している姿を見て、JRの変身ぶりを感じたものでした。
宮原操車場の公開へ初めて行った。新幹線から全体は見えるものの、“宮原”という駅もなく、どう行っていいのかも分からなかったが、阪急十三駅から歩いて行くと正門があった。車種は現在と特に変わったものではないが、パンタはきっちり上げて、ヘッドマークも寄せ集め的ながらも装備して、今より価値があるように思えた(以下撮影日、平成元年4月30日)。

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